<コラム>「サンボと他の格闘技(その1)」 2005年3月23日

 

・・・私は「レスリング」とからめて「サンボ」を考えていた。もっというと、私は「柔道」よりも「レスリング」の方がサンボに近い面もあるし、有効につかえる技があるというのが「主張」だったのだ。・・・

前回のコラムにこのようなことを書いた。私は「そのため」の技をやったのに、掲載されたとき「柔道のため」となった。それもここ10数年間でいいたかったことだ。一般の人が「書かれたことから判断してしまっているのではないか」という危機感はここからもきている。実際に「見ていました」「(雑誌を)まだ持っています」という人が何人もいるのだ。著述物なら訂正や改版、増補版がありえる。しかし雑誌にはそれは難しい。しかし影響は大きい。・・・だから、時間もたった今、私が考える「そのもの」を表明していこうと思った。

 

まずは「柔道」の影響について。もちろん「父」であるビクトル古賀もその著書の中に「柔道とサンボは、親戚という間柄で捉えるよりも兄弟と考えるべき」(『これがサンボだ!』ベースボール・マガジン社。10〜11ページ)と述べ、また具体的には「関節技をとるというのは極めて東洋的な発想は、いかにして生じたのであろうか。やはり、それについては柔道、柔術からの影響について考えなければならなくなる。」(『サンボ入門』サンボ・アカデミー。9ページ)とその影響について記している。もちろん「必ずしもほとんどが柔道より移入されたと考えるのは早計であるが」(同9ページ)とは書いていた。

以上は現在まで日本でのサンボの代表的なテキストに書いてあることだが、そもそも「サンボ」に関する日本最初の文献はその書名が『ソ連式柔道・サンボ』(山本斌:訳、逍遥書院、新体育学講座26。1963年)なのである。ちなみに続くのが道明弘章『サンボの技と訓練―ソ連の格闘技 柔道・相撲・レスリングへの応用―』(光和堂。1964年)。両著とも「ロシア」のサンボの本の同じ2冊を参考にした訳書的な性格も強くもっている(ハルランピエフとコロドニコフの本)。

しかし、なぜか翻訳的性格をもちながら、書かれた本にはタイトルのように「柔道」の影が強くみられる。もとネタの原著には「柔道」のことがそれほど多くかかれていないのにである(ロシアにしてみれば初期の「サンボ」の本なので、それを「柔道の兄弟」などとことさら大きく書くことはない)。なぜなのか・・・。

それは有名なエピソードである「サンボ初上陸! 日本柔道との対戦」がきっかけとなって書かれた本であったからだ。「サンボ」が初上陸して日本柔道へ挑戦したのがセンセーショナルであった。だからはじめて「サンボ」という情報が本として書かれる価値ができた。しかしその情報(サンボ)自体は著者自身が学んだものではない(日本には初上陸なのだ)。これは明治維新期の人間と同じく、翻訳を中心に導入をはかるしかないわけである。それで入手した本を訳した。・・・ロシア語の研究者はいたしロシア学については研究者がいた。しかし「サンボ」は初めてなのである。それで彼らなりの「理解」がそこに加わる。それが挑戦相手であった「柔道」という視点であったのだろう。もちろん東京五輪の時期ということもあり、「世界の強豪」への危機感や注目度があったわけである。オランダのヘーシンク旋風などから「外国=特にヨーロッパ」への注目はあった。柔道の第3回世界選手権(フランス:1961年)で外国人として初の王者になったのがヘーシンクであり、ちなみにソ連勢はその後のヨーロッパ柔道選手権(西ドイツ:1962年)に初出場し、個人無差別の1位・2位と入賞している。これが新勢力として注目をよんだのであろう(特に「ソ連」についての情報がない時代であったというのもある)。

ちなみに、初来日して、柔道と対決した「サンビスト」(サンボ選手)たちとは、軽量級のステパノフ、中量級のパンクラトフ、重量級のベリアシュビリと、シュリッツの4人であった。彼らはアマチュア・レスリングの選手団に伴って来日し、「柔道」との交流戦を各地で行なったのである。

この選手たちの善戦もあり、とくに「シュリッツ選手」が無敗(3勝1引き分け)であったために「サンボ」が注目されるようになった。「柔道の危機感」という視点からの構図で語られる原因となったのである。

 (続)

 


 

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