●<コラム>「カミングアウト(その3)」 2005年3月22日
Monologue・・・ この「独白」のコラムも、いよいよ佳境を迎える。 前回、後から「そうきいた今、はじめて『そう見える』」はず、ということについて書いた。 他にもそういうことは書かれることはあるだろう。試合中に「意識喪失していた」と語られ、あとでビデオでふり返って「ここです、このシーン」などと解説されるとき。あるいは尊敬する柔術のナカイ選手は「バーリ・トゥード」の試合でゴルドー選手に目をつかれて視力を失うことになったといわれるが、その試合とビデオ。あるいは普通に試合で敗戦の理由として「実は負傷していた」と語られることも多々ある。私が書いたことも、それらに共通する部分もある。ただ、その時に語っているのではない。そう、すべてが「語れる」「語られている」ということはないと私は思うのだ。なぜなら、自分が語らない人間であるから、すべての人がすべてを語っている、すべての記事や情報は語り尽くされているなどとは信じられないのである。 さぁ、今回から「サンボ」の歴史的なことにも触れていきたい。 私は、過去に『格闘技通信』などに「サンボで強くなれ! 日本柔道」などの企画に登場してきたことがある。それがもう負傷していた大学院生のころだったろうか。「技術」を紹介する企画であって、「撮影に協力してくれ」と編集部のかたから頼まれて登場した。 しかし、今だから、いや、今こそ語っておきたいことがある。私は「柔道」のための技術を紹介したり、演舞したことはないのだ。正確には私が意図したことと、実際に掲載されたものとには誤差が生じている部分もある(もちろん、そんなことはどこでもありえる)。誤解されないようにゆっくり述べたい。・・・あれは「ビクトル古賀」の解説となっているが、私の演じた技についてはそうではない。ビクトル古賀氏がいて可能となり、その人脈から演舞者が選ばれたのが事実。しかし文面は違うのだ(この点は、ようするにビクトルさんが書いたと勘違いされる書き方ではあったということだ)。 もちろん、掲載前に本人がゲラを確認するとか、ビクトル氏の了承をもらうなどがあればいい。私が問題にしているのは「私」は「柔道」のための企画だと思って演じていなかったということである。「柔道用」の技ではないと言い換えてもいい。ここからが本題・・・。 私は「レスリング」とからめて「サンボ」を考えていた。もっというと、私は「柔道」よりも「レスリング」の方がサンボに近い面もあるし、有効につかえる技があるというのが「主張」だったのだ。もう一人の演舞担当者はちゃんとした柔道家であるから「柔道で勝つ!」という企画でいいのだ。しかし「私」はそういうつもりでやっていたのではないということだ。・・・しかし、世の中にはそれを熱心にみて、影響を受ける人だっている。 単刀直入に言いたい。「前転式ロールアップ」「後ろ帯捨て身」も「十字投げ」も「リフトアップ」も、そこに示した技術は実際にすべて「レスリング」でもつかっている。もちろんオーソドックスな「首刈り十字」などのサンボの技も「サンボ」の紹介としてやっている。しかもこれだってちゃんと試合でトライして、エフゲニー・エイシンという強い選手にもその体勢まではもちこんでもいる。実際に使っている技術なのだが、それを「柔道のため」とすると違和感が出てくるのだ。たしかにその時に「否定」や「注意」をしておきべきではあった。当時、私はこれらの雑誌を見向きもしていなかった(反省)。しかし、それはそれで「違う」のだ。 何と違うのか・・・。私の思いや理解がそこに示されたものではないということだ。あえて、私はここで明らかにしていきたい。「サンボ」は柔道の弟ではない。「サンボ」は「サンボ」である。むしろ「レスリング」の影響だって否定できないぐらい多くある。少なくとも、おそらく日本でもっとも早いうちにそれを考えていたのは私だと思うのだ。これのみが正しいとか、これが真理だというのではない。日本の「サンボ」の本には「柔道」の影響がたくさん書かれている。ただ、そうではないと自説をもつ私が出たものすら、「(さらにまた)そうではないもの」として表れてしまうのである。真実が語られにくいということが、ここまでの3回(4〜6)のコラムでわかっていただけたであろうか。 次回から、サンボの本質理解のために勉強していることを書いていきたい。レスリングと柔道。その2つとの関係から書いていこう。 |
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