<コラム>「カミングアウト(その2)」 2005年3月21日

 Monologue・・・

 「サンボ」について考えるこのホームページで、なぜ自分が過去に明かさないでいたことを書くのか。それはいろんな人のいろんな考えかたがあって、それはそれで素晴らしいのだけど、そこに「書かれたこと」や「言われた言葉」、あるいは「『自分で考えている』と思ったこと」が本当にそうなのかと、考え直すきっかけになってくれればいいと思ってのことだ。だから、基本的には余計なお世話なことであるので、軽く読みとばしてもらってかまわない。

 私は、大学卒業時に膝を壊し、現在のような「日常の歩行さえ不自由なときもある」ような状態になった。最初は高校時代に半月版を損傷し(内側)、続いて内足靱帯を損傷。その後、3回の手術とリハビリを経て、大学時代はなんとか選手としてもったというのが実感である。まぁ、今でもなるべく気づかれないように歩いているし、学校の講義では9階まで階段で昇り降りをしていたりはする。たぶん練習でも気づかない人もいるだろう。しかし、とにかく私の左足の膝下は、その左足の力だけでは曲げたり伸ばしたりがほとんどできないのが事実だ。大腿部の絞めつけまでは普通の力をだせる。しかし膝は曲げも伸ばしもできない。「曲げ伸ばし」しているようにみえるときは、両足をつかっているはずだ。

 「本当にそうなのか?」と思う人は、例えば、10年前に出ているシューティングのビデオをみればわかる。いや、「そうきいた今、はじめて『そう見える』」はずだ。・・・これが今回の主題である。

 僕は「試合の評価」欄に「変則的なバックキック」や「二段蹴り」を使うとかかれている。でも考えてみてほしい。これは「右足」だけしか攻撃につかっていないのだ。前蹴りもミドルも、膝を出しているときも、すべて「右足」。もちろん相手にわかってしまったら、そちらの蹴りが当たらなくなってしまうのでそのときは気づかれないようにしていた。でも「右足しか蹴れない」とは、どんな解説者やコメントを寄せた格闘家たちも気づいていない。いや、相手も気づいていないだろう。ちなみに、本来、私はスポーツでは左利き(サウスポー)。その左がすでに使えない状態で闘っていたということと、それを誰も気づかないでいたということだ。それが事実。

 マジックのトリックと同じく、同じ試合をみても「はじめて」わかること、あるいは「後から」立証されるということがあると実感できるのではないか。逆にいうと、謎や違和感さえも普通はなかなか感じとれないものだ。

 

 これは、やはり失礼な話しだろう。試合をした相手に失礼だと思う。だけど気にしないでいただきたい。右だけでもいい試合にはなるよう力を尽くすし、それなりに動いていたつもりでもある。正確にいうと、プロモーターの人には私は「怪我人で練習もできないでいる状態だ」とことわったはずだ。それでも「出てほしい」と懇請された。「試合出場選手が少ないから助けてほしい」・・・、これはいろんな試合に頼まれるときに共通していたセリフだ。何人かのプロモーターだけは知っていて出したはずだ。

 私としては、相手を、その流派をみていた面もある。満足な健康な強健な人間を出して競わせた方がいいはずだろう。ところが、そうではない。・・・試合が組めれば、そしておそらく名前はあっても強くない人間の方が好ましいはずだ。だいたい、そういう態度で「とにかく出てくれ」と言ってくる人は、試合のルールすらも満足に事前に教えてくれない。

 「総合格闘技」のイベントを今もやっている人に誘われた試合は空手家との試合。5分間に2回までしかテイクダウンはとってはいけないし、寝技も20秒間というルール。それで正拳で顔面あり。これが決まったのは当日だが、相手には数日前にそのルールがいっていて、「顔面を叩いていいです」とたきつけられていた。相手と後日、練習仲間となってわかったこと(この場合、「きいたこと」というべきか)。シューティングも試合当日に川口健次さんが「ルールきいてないんですか?」とあきれながら教えてくれた(感謝)。1戦目の前には3日間だけ練習しただけ。ラウンド時間にあわせて動いただけだが。なかなか好評で、2ヶ月後に次の試合が組まれた。この時は普通に練習をしていたがさすがに4ラウンドで足が立てなくなった。3戦目までは一度も練習をしていないし、そう言ったのだが試合は組まれ、私もまた出て闘った。私は私なりに、これで逃げるのが大嫌いなのだ。調整やマッチメイクにすら注文する「意識の高い」選手も増えてきた。「アマですから練習時間が足りない」と週に3回ぐらいしかできないなどと悲鳴が書かれる記事を読んで複雑な気持ちにもなった。それが事実や実感だとしたら、きっと「私とは違う」のだろう。だから、「わからない」のだ。

 「わからない」。2ラウンドまではお互いにみせあって、そのあと好きにやって、などのルールがあったと書かれたものを読んだことがある。これも一つなんだろう。しかし、それが全てではない。むしろ「立場」によるのだろう。組み合わせを知っている、ルールを知っている、リクエストやスケジュールを要望できる。「多様」なのだ。もちろん「結果」はでる。それも事実。しかし「書かれる」。それは誰かの主観や立場も加わる。選手たちは「自分で考える」。その時の立場や時代のなかで、考える。しかし、それは本当に「本質」なのだろうか。

 私がコラム1〜3のように、あるいは過去に書いた様々な論述のように、「なるべくシンプルな、基礎の部分を求めたほうがいいよ」とか「本当にそうかなぁ?」という立場で考えているのは、以上のような自分の生きてきた道からできたスタイルなのである。一つ一つの技や記事で、写真で、一喜一憂するというか、判断したらそれで結論として考えるのをストップするのは拙いのではないか。きっと、違った見方や、あとから変わる判断もありえますよ。・・・「サンボ」についても、できるだけ「根幹」と思われるものを追究して、その「立場」を明らかにしていきたい。私の見方は、それでも「ひとつのもの」にすぎないとはあえて言っておきます。

 


 

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