第三回(5月2日)
○近代以降の学校観、子ども観、教育観のゆれ動き
前回は「教育が必要な理由」について考えてみました。今回は続けて、仮に(2)とするならば「教育の本質(限界)」ということについてお話しをします。さきにやる内容を一言で言っておくとすれば「学校教育の性質」ですね。いろいろ問題がさけばれ、また改革も模索される。そういう「学校教育」の何が問題なのか。そういうことを知っておこうと。第一回で言った「工場での作業」のように「危険性」は知っておく必要があるのではないかと、そう考えます。それで単純にいうと、今の「日本の学校」というものは近代以降に海外から入ってきた情報です。だから「直訳的」なところがあるし、それがあわないと「修正されたか」かあるいはゆずれなかった「独自なもの」もある。そういう異質・対極な面にまず注目します。なぜならこれも第一回目に言ったように、「教育観」に例えば日米で交通路線のごとき違いが感じられると言いましたが、あれですね。同じ「教育」でもとらえ方が違うのではないか。これが違うと「教育の目的」も「方法」も「内容」も「効果」も変わってきます。今、話題になっている「教科書」問題もそうですね。微妙な問題だけれど「何を教えるのか」という問題と、しかも「国際的」な問題でもある。そういうのを考えていきます。
さて、前回の復習から入ります。アンケートに応えることから始めます。
「生理的早産」についてもうひとつ私の説明が不十分であった。ゆえに質問がいくつかありました。「教育の必要性」とのつながりですね。これは「生理的」とはどういう意味なのかという質問もありました。また「完全体(?)で生まれて来ないということでいいのでしょうか」ともご意見がありました。・・・そのとおりです。「完全ではない」というか誤解をおそれずいえば「未熟児」として生まれてきます。生まれたときの状態では「就巣性」という下等哺乳類の性質をもつともいえ弱く生まれてくるといえる。保護なしにはなかなか生きられません。「生理的」というのは「恒常的」とか「通常の状態として」という意味です。イレギュラーではなく、人間全体が「生まれてきた状態を他の哺乳類と比して」早産なのだということです。完全になる前に胎内から体外に出されるんだと考えていいわけで、その結果早くに外部と接触するので「かかわり」が重要な生き物なんだということですね。それで「社会的」生物なんだといわれます。また前回「馬」の例を出しましたがこれは「ピーク」の時期との関係(成長)としてどうなのかという疑問もいただきました。・・・ですから「寿命」の違いはありますね。動物の推定年齢というのですか、犬でも13年ぐらいが寿命ですが「人間にしたら何歳」というようにある意味では「成長がはやい」のですね。すぐにピークにいきつく。たしかに「ピークの時期」が寿命の中では長いのかもしれないけれども「教育とかでセルフ・コントロール」してやりがいをのばすとかがあるのではないでしょうね。野生と飼われているのとでは違うでしょうが。アニメの「ライオンキング」や「ジャングル大帝」のように「人生(?)」を考え冒険・向上するのなら別でしょうが、比較的にゆるやかだと思います。人間はその点「教育」が必要なんだし、それに「教育」で大きく変えられる可能性がある。そういうことですね。
「可塑性」のプラスチックという意味ですが、「粘土」でもいいのだけれど大きく変わるという意味です。それは前回言ったように身体的に変わるというのもある。「親と違った体形で生まれてくることと関係するのか」という疑問に対してはそうでもありますし、広い意味では変化(発達)の「可能性」と同じ意味でもつかわれています。ただし、前回のは迷信ではなく「生理的」にといいましたので、付け加えれば、「神経」で考えればわかるのですが「神経細胞」ですね(絵は略する)。「核」があって「樹状突起」があって「軸索」があって、シナプスと接続されていって化学物質分泌という化学反応で信号(微弱な電流)が流されてそれで「反応→運動」するんですね。単純にいえば「痛い」という信号が神経連接から伝わって中枢にいって「手をひっこめろ」と判断される。その指令が別の神経連接を通じて伝わって「手」がひっこめられる。これがもっとたくさん「複雑につながっていく」、あたかも細胞が「増殖」したかのようになる状態、それが神経の「発達」ともいえますね。複雑になる。(絵は略する)モジュール構造になっていって、同時に様々な反射・判断が可能となっていく。・・・しかしこれは「増えた」のではなくて「複合的につながった」と考えてください。もっというと、夢もなにもなくなってしまうのだけれど、人間が生きている意味はいろいろいわれますが現実的には、あえて前回のようなあやふやじゃなくて科学的にいうのならば「遺伝子情報をあずかっている」だけです。人間・生物の一員としてその「遺伝子」であるというだけ。増殖とか子孫繁栄とかが絶対条件というのではないです。進化論的変化だってありえないわけではない。いろんな行為は本能として含まれるものであって、その反映ともいえる。いえるのは「ただ遺伝子をあずかってそこに生息しているだけ」です。かなしいですが・・・、その意味では、私には愛も夢もロマンもない。・・・そしてこの「遺伝子」とか「才能」でも「可能性」でもいいのですが、そこに「可塑性」の意味がある。細胞が「増えたのではない」といいましたが、実際にはすぐに細胞は代謝もそうですが「死滅」していくのです。心配ないのはそれでも人間が死ぬまで使い切ることはないぐらいある。脳細胞にしてもそうです。能力をつかいきることはないといわれる。それで、「死滅」と「可塑性」なのですが、単純にいえば人間(私)という「いれもの(容量)」の中に「A、B、C、D」という「才能」があったとする。そして現在のように成長した私は仮に「C」型だとする。「中肉中背」でもいい。これは実は生まれた時には「A、B、C、D」として例えば「長身」「肥満」「中肉中背」「小柄」という可能性と素質があったのですが、その激変前の時期に他の「A、B、D」という才能が「死滅」してしまったとします。「私」という人間の「容量」の4分の3がなくなってスカスカになる。でも実はそれによってスカスカの部分にむかって残った才能「C」が拡がっていったともいえます。植物モデル的でもある。インストゥールしたバッチファイルを起動してそのソフトを有効にするがごとく・・・。それによって、「死滅」によって私の才能は「発現した」とも考えられる。これが急激な可能性というか「可塑性」といえませんか。従来「遺伝」であるとかいわれていた。また「教育学」的には「性善説」「性悪説」あるいは「白紙説」などがいわれていましたが、いかにも「観念論」的です。哲学「的」であっても科学的ではない。本来はこういう「神経」等の細胞の「可塑性」のことではないでしょうか。続ければ「教育」での「環境」重要性とも関わります。私の高校時代の先輩で五輪に出場した二人の先輩がいた。一人は五輪に3回も出場した人で身長188cmで体重123kgです。もう一人は148cmで48kg、金メダリストです。二人とも名前を出せば知っている人もいる有名人です。で大きい先輩の弟は私の後輩でしたが189cm、やはり世界レベルの選手だった。お父様はボート(カッター)で五輪に出た筋肉質な人で184cmの堂々たる体躯。お母さんは173cmぐらいでやはり世代的には大きい女性です。失礼な発言だと思いますが。それでもう一方の金メダリスト(メダル紛失で有名な方です)のご家族は弟は148cm、お父さまも147cmぐらい、お母さまも140cmぐらいです。・・・これはすぐに皆さんは「遺伝だろう」と思われるでしょう。でも、例えばこう考えられませんか。大きい先輩は大きい父母のもとに生まれ、ただでさえ素質は大きかったでしょうが大きい親を観て大きい生活の空間(家)で大きい習慣(食事など)に囲まれてまさに「大きく」育ったと。小柄な先輩は逆に小柄な親のもとでそういった習慣で育てられ、とにかく二人はある時期に「A、B、C、D」の種別をして、そこの才能を伸ばしたんだと・・・。ついでにつけくわえれば「愛」も「ロマン」もあります。さきほどは「ない」といいましたが・・・。大きい先輩は「本〇多聞」さん。お父さんは「大三郎」、弟は「大」君です。「多聞」は仏像の「多聞天」で大きいイメージだし「大三郎」さんの息子です。「文字」にも「大きさ」があらわれている。小柄な先輩は「小林」さんです。これで「小さい」といったら差別的かもしれません。しかし「名は体をしめす」ではないけれどちょっと前まではこういうことは多かったのではないか。行っていた高校のバスケ部は全国レベルで大きい選手も多くて全日本メンバーもいた。2m以上の選手もいた。太田、大野、高木ですよ、これが。見事に「大型」の苗字でした。偶然なのか。しかし明治以降姓名を名乗ることがゆるされた時、武家以外で「姓」をもつ者は稀で、だから急遽つけられたものが多い。場所で決められたり、村落の名をとったり、林や谷や山などの地理的特長をつけたり。職業でつけたり、外見でつけた場合もあった。バカにできません。もし外見でついたなら、その再生産はありえる。下の名前だって一族の特長やあるいは願いでつけられることだってあるでしょう。ここに「愛」のベクトルがあります。本田先輩のお母さまはわりと大柄なステキな女性でして、自分より大きく堂々としたたくましいお父さまに好意を抱いても、その気持ちは理解できるような気がします。適材適所ではなく(これ失礼ですよね)「相性」だと思います。小林先輩のお父さまは比較的小柄であった。自分より小柄なステキな奥様に出会った。恋におちた・・・、としたらそれも理解できますね。そしてそのような「相性」的「愛」のベクトルという方向性も多くあったのではないでしょうか。ただし今はこれはもうないですかね。実際に小林先輩もバスケの選手であった長身の女性と結婚されています。いまはかなり世の中の考えかたも変わってきていると思います。これは本当に安易な例としてあげました。
とにかく、この乳幼児期から幼児期に「modeling」と「socialization」(社会性)で「パーソナリティの安定」がつくられる時期、「三つ子の魂、百までも」ではないけれどもこの時期に決定される「才能」の一面もあると思います。これが「可塑性」とそして「生理的早産」と環境の「教育」との関係をしめす一つの例ではないでしょうか。
さて、「可塑性」については他に「広義では馬や犬にもあるのでは」とのご意見もありました。あると思います。人間はそれが大きいというか、とにかく「社会」という「空間」で影響を与えることが多いと思います。動物を実験的に変化させたり、そういう外部からの刺激でそういう反応をみる試みがありまして、それは恣意的なものですが、変化対応がある点では生物にはそういう「可塑」能力があります。
「アヴェロンの野生児」についての疑問・質問ですが、「記録自体、存在自体」を疑っているのか、あるいは「狼に育てられた」ということを疑っているのかというものがいくつかありました。まず「アヴェロンの野生児」は「狼」に育てられたのとは別の話しなのですね。それで「アヴェロン」の方は約200年前のフランスの話で、森林の中で木の実を食べるなどして孤独に生活していた子どもの話しです。後にヴィクトールと名づけられる。人間社会から隔絶していた、ある種の孤独なストリートチルドレンというか文明から離れてサバイバル生活していたわけですね。シャツも着ていたという。4・5歳で捨てられたらしいとかいうエピソードがあったような気がします。とにかく野獣でもないし、村で人間を襲ったわけでもない。社会適応していない対人障害があることから視覚や触覚の感覚不調和がみられるなどの「適応障害」による感覚の障害という「生理学」的状態だと説明はできます。「狼に育てられた少女」はアマラとカマラの姉妹で、シング牧師というのが英領インドで狼の巣穴から保護したという。でも妹が2歳弱で姉が8〜9歳だったはずで、1〜2年弱狼に育てられたにしても姉は物心ついていたはずなんですけどね。少なくともそういう年齢まで妹を生んだ母がいたはずで(姉妹だという設定だったと思いますが)、あまり大きい子どもだと狼が口でくわえて運べないと思います。しかも複数ですと。言葉もそんなに話せないで死んだのだとすると証言から「姉妹であった」ときいたのですかね。それともターザンのごとく探している両親がいたとか、そういうストーリーがあったのでしょうか。実はよくおぼえていません。ただし私だけが「あやしい」と言っているのではなくて、今では動物学的にも、かなり怪しまれているし、とりあげないテキストもあります。まぁ、シング氏の記述だけで客観的証言がなかったはずなので怪しいと思います。ただし記述される内容はきわめて自閉症児や機能障害児の特長そのものです。写真があったり、それでマスコミ的にさわいでいたとしたら、「見せ物」的に虐待していたとの可能性だってあります。もちろん皆さんのご意見の中に「学習にはそれが効果を発揮できる年齢的限界があるということを述べるため」のことでしょう。「環境の影響と人間形成」の関係を説くわけですね。そのとおりなのです。しかし、物語の「真偽」は不明であるし、しかもこの物語は「教育学」のためにつくられたのでしょうか。そうかもしれないし、たんなる話題づくり、作り話の類かもしれない。実際にコメニウスとかルソーの記述にも「狼」や「野生児」はある。ローマの伝説みたいに「狼は人を育てられる」という象徴があるんでしょうかね。その意味でツチノコやネッシーと同レベルではないかと思います。問題はそれを疑わずに「事実」のように受容している「教育学」の「原理」です。そんなことしないでも科学的にいえるというのに・・・。古いままなのです。「証明するには実験しかないか」との疑問もいただきました。完全な証明は「再現」しかないでしょうね。もちろん「教育の必要性」を「生物学」的なものしか「科学的じゃない」といったことに対して「思想史的根拠だってあるのでは」というご意見をいただきましたがそのとおりです。これは「重要」ですね。人間が何を必要と考えるようになっていって、何をつくりだしていったのか。そういう問題を考えていきます。
私は「社会科学」の研究をしていきたいのですが、その意味ではこれは厳密には「科学的じゃない」ですね。自然科学から比べればという話しです。心理学だって個人差というか「違い」があるわけで、「哲学・思想」だって「思考」をつきつめるけれども「現実」に即するのかという点で、また「社会学」だって統計的ではあっても限界はあります。ましてやそれらの領域上にかかる「教育学」はもっとそういわれたりします。しかし、そういう「観察だけ」からの「直感」からでも、人間相手の理解というのはあたらずとも遠からずというか、「洞察力」でよく「理解」することも可能だと信じています。実際にそういう自然科学にもせまれる知識・知見は蓄積されていると思いますし、「人間理解」の思考や思想については、あるいは感情や行動については「人文・社会科学」が考えてきたことであって、・・・というかもともと私がいいたいのは「生理学」や「科学」の発展の上にそういう人間の生きかたが拡大してきて社会も多様にグローバルにそして複雑なシステムになってきた。そこでつながっているんだということですから・・・。補完するということですね。それを「差異化」するために「迷信」や「ストーリー」はいらないということです。そういうのがあったということを受け止めてすすんでいくべきと思う。それと「元服」とか「義務教育年齢」とか「生理的発達」とかがほぼあっているのはどうしてか、「元服当時にどうして理解されていたのか」という疑問がありましたがこれが答えにもなりますかね。ちなみに私は動物占いでチータ、山手線占いで御徒町、牡牛座のA型で八白土星、昆虫占いでアゲハチョウだったかな。害虫占いでゴキブリ・・・。たしかそうだったような気がします。実は占いも好きで小学校のころから本を読みあさっていました。で、占いは「当たる」気がする。これは「そう読める」「そうわかる」ように書いてある文章ですね。「理解」というものはそういうものです。でもそれ以上に様々な占いが「似ている」というのもある。これは何か。・・・中国占星術でもマヤのカレンダーでもエジプトの石板でもそうですが、カレンダーや暦といって太陽の移動、星の移動と日記とかを記録していたことがある。長い間、記録され続けた。そこから占いはつくられた。これは統計学です。月の位置とかで満潮とか干潮とか、季節とか暑いとか寒いとか、そういうのに人間の生理も対応して適応して生きているわけで、そういう状況で育ったものがそういう習慣と生理的条件とをまさに継続して伝承し、あるいは同じように「はまって」いく。認識できる反応とか限られた反応というのがあるわけでして、あれはすごい「統計」なのです。人間の観察を極めた一つの賢智かなと思います。少なくとも人間の行動や性格は「社会」適応反応であるとすれば、ある程度の共通性・一般性・普遍性は「社会科学」的観察からも明らかにすることは可能だと考えます。正直にいって「哲学」や「社会学」が新しい方向にいきつつあって「神経哲学」になりつつあるのですが、これは「自然科学」性というかそういう「科学性」との「融合」なのか、あるいは自学の「限界」を感じての「離脱」なのか、そういうのが気になります。単純に他者を批判するだけのいたずらに新しいもの志向ではしかたないと思いますので。
それと他にもありますが、皆さんの意見の中に「先生の主観はたくさんあったほうがいい。それで賛成するか批判するかこちらで考えて学んでいく」というのがいくつかありました。素晴らしいご意見だとそのスタンスに感銘します。実は「教職科目」だということで、あまりはずれないようにと考えていました。アマラとカマラにしても無視すればいいのですが、・・・ただテキストを読むだけのじゃ私がやる意味はないと思いましたので、それでテキストなしにしました。ちなみにアマラとカマラにしても、ちゃんと叢書とか教科書をはじから確認して統計調査をしています。いつからどこから入ったのかとか、誰が疑問をいいだして、しかしそれからも使っている人がその疑義の例をあげないのは無視か読んでいないのか、そういうのに世代は関係するのか・・・等々がなんとなくわかります。まだ全てのテキストを調査していないのであえていいきりません。あと輸入ということを考えて例えばアメリカ合衆国の教員養成でこのテキストはどうされているのかとかも調査をしてみようと準備中です。で、遠慮する心もあったのですが、しかし「生理学」的中心の教育のとらえ方はほとんどオリジナルに等しいです。まぁ調べを深めただけですが・・・。それよりも今日からは「主観的」というかどこかのテキストに書いてあるのとは少し違って「私はこう思う」ということもすすめていきます。まずは「歴史的」「比較教育学」的な考えかたで「日本の学校教育」の状態をみていきます。何回か続けて、徐々に深めていきます。
ちなみに「テキストにのっていないこと」といいつつも、皆さんから「これを読めば書いてある」というのも紹介してほしいというご意見もありました。「こういうことはこれを読むと参考になる」というのは適宜紹介させていただきます。
それでは、本日の内容に入っていきます。
(2)教育の本質 限界
@学校教育の性質
・日本の学校・・・近代以降に海外から移入
<国際性>と<独自性>に注目する。
次の表をみていただきます。またあわせて下の年表も参照してください。日本の学校教育の「教育内容・教科」の流れを概観してもらいながら、それによって近代以降の日本の「学校教育」はなにをどう教えようとしたのか。また何が問題であり、またどんなことが理由となって(何が批判されて)変容していくのかをみていただきます。すると「近代教育」ではある「周期」というか、あるリズムのようなものがあって「繰り返されている」変化がみられるのではないかと、そういうことがみてとれます。
さきにいいますと、「国際性」というか「直訳模倣」のものと、「独自性」というかきわめて「日本的」なものとの違いと、全体のパワーバランスの揺れ動きのようなものがみえてくると思います。
左端の江戸時代までの教育と、それ以降のものでは違いが大きいです。国民全体への教育であるという点が最大の違いです。もちろん私塾的な寺子屋では「読・書・算」という3R's(基礎的教養)が教えられることにはなっていましたが、単純なものでした。なお、表は上の科目から優先順位というか時間数が多いものから並んでいます。
それが「開国」後の欧風化(開化)政策によって変わります。1872年の学制では「綴字・習字・単語・会話・読本・書牘・文法」と国語科目が多くなりました。日本語を教えるにはちょっと違和感があります。これは米国のカリキュラムの忠実な翻訳だったのですね。仮に「アメリカ化」としておきます。それも実施してみて難しかったりしたのでしょう。7年して1879年には国語が「読書・習字」の2つにまとめられ、少し戻されたようにみえる。日本の実状にあうように考慮されたのでしょう。この「日本的に」というのはもっと強く出てか、翌年、「修身」という道徳の授業が最優先の科目にひきあげられています。これは学制改訂時に「最近の若い者は軟弱になった」的な意見があったことにもよります。特に元田(天皇の持講)の教育に関する要請が大きかったのです。10年ぐらいで「日本的」な意見が強まる。ここから日本の戦前の教育体制が天皇制国家主義の方向に向かいます。明治19年あたりから大日本帝国憲法や内閣制度、そして教育勅語の発布とその勢いが増します。「日本地理」「日本歴史」などと「日本」にこだわることになる。1890年の小学校令でその体制が完成したといわれます。ここまで約20年ですね。それから10年ぐらいで「表」にはありませんが世界的に「新教育」運動がはやり、日本にも女子高等教育やあるいは革新的な新しい西洋の教育方法が部分的に入ってきます。しめつけへの反動というのもあるのか、そして20年後の大正期は一般に「デモクラシー」とか「自由教育」とよばれる風潮もあったわけですね。少し「国際性」に戻ったか。しかし一方で日清・日露戦争から第一次世界大戦があったりして、しだいに国家主義体制へと変化となっていった。それから10年〜20年の間に、1941年、戦時期の国民学校令では体錬科として武道もとりいれられました。日本は帝国主義戦争の道へと進み、世界大戦に参戦し、ご存知のとおり敗戦します。終戦後、連合国軍のダグラス・マッカーサーの指揮下、占領政策の中で、日本国憲法が制定され、教育基本法も定められます。これも第二の「開国」・アメリカ化といえないでしょうか。1947年の科目、「社会科」などはまさしく米国の翻訳でした。一番右端のが現在の教育内容です。
明治期の近代学校制度の重要項目・略年表 (※ 学校教育制度に関する法令・布告類には下線を付した。)
1868(慶応4) 年 維新政府、旧幕府の学問所を昌平学校と改称、開成学校の設置
(明治元)年 皇学所、漢学所の設置
1869 (明治2)年 小学校設立の奨励
1870 (明治3)年 「大学規則」「中小学規則」公布
1871 (明治4)年 文部省の設立(学校制度の監督、教科書類の編纂、教則の編成)
1872 (明治5)年 「学制」の制定。事前に、師範学校設立、教員養成を開始
1877 (明治10)年 東京大学(官立大学)
1879 (明治12)年 「教育令」公布(「学制」の廃止・自由教育令)
1880 (明治13)年 「教育令」の改正(改正教育令・第2次教育令・統制の強化)
1885 (明治18)年 「教育令」の再改正(再改正教育令・第3次教育令・経済対策)
森有礼、初代文部大臣に就任
1886 (明治19)年 「帝国大学令」「小学校令」「中学校令」「師範学校令」公布
「教科用図書検定条例」(教科書検定制度)
1890 (明治23)年 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布
1893 (明治26)年 祝日・大祭日儀式規定(天皇写真、国歌等の問題)
1894 (明治27)年 「高等学校令」公布
1899 (明治32)年 「私立学校令」公布
1903 (明治36)年 国定教科書制度の成立
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これをあわせてみれば、1872年の学制がアメリカ化ならば、約20年後に1890年の教育勅語で天皇制体制が確立したということがわかります。それへの反動も20年周期であった。結局は、国家主義になり帝国主義戦争に突入して敗戦した。リセットです。米国の占領政策の下、民主主義国家として再出発、リスタートした。第二の開国。
今、天皇制的な慣習(日の丸、君が代)が復帰傾向にあります。実はやはりリスタート後、戦後20年経過した昭和40年頃から復活してきているのです。1966年10月「期待される人間像」という中教審答申が出されました。当面の日本人の課題、日本人に特に期待されることが述べられた。愛国心教育ともいえるが、「天皇への敬愛」と結びつけた愛国心、宗教的情操の育成などが物議をかもした。これは、その後の道徳教育政策に引き継がれていく。宗教的情操自体は却下されましたが、神話を教えることが加わりました。さらにこの20年後ぐらいに再び道徳教育の重視が叫ばれました。次回、学習指導要領をみて戦後の動きももう少し詳しくみてみましょう。
今回は時間となりましたのでここまでとします。