第11回 (6月27日)
 
●前回の復習から・・・
 予定していたよりも、かなりこのお話しは長くなってしまいました。しかもわかりにくい。だからまた補足します。
 
  日米の並行比較
 
 上の順序だったのではないか。従来は「実際の授業」が行なわれて研究されたのだとみられていた。そこには「比較」の視点が欠けていたのですね。歴史研究の方法として不足していた。また1873年に採り入れられたものは当時のカリフォルニアでは最新のものだったわけです。しかしそれがどの程度の、どのようなものかが検討されてこなかった。
 
 米国内での位置づけが必要であると。object teachingとして、米国内ではどの程度のもので、それはどう位置づけられるのかということにも注目してみました。ノーマルスクール設立では10年程度しか日本と差がなかったことや、東部から人材を招いて(やってきて)それでトレーニングスクールをつくったり、テキストを配布したり・・・、そこらへんも日本と同じだったわけです。いや正確には「日本が」同じ道を歩んだ。
 
 
 
 伝達の方向が米国の「東部」→「西部」→「日本」であったわけです。ここで注目してもらいたいのは、常に供給され続けているのではないということです。交流が常にあるのではなく、各地域ごとにそれぞれ別個に歴史的な段階差があり、時差があるんですね。つまり日本と西部とのつながりは、そのままイコール東部と直結ではないのです。
 
 
◆米国のペスタロッチ運動
 ・・・質問がありました。「米国の中での位置づけ」とか「時差」がもうひとつわからないということでした。東部と西部との違いがもっとわかるように説明してほしいとのことでした。ごもっともです。
 そこで簡単にアメリカ合衆国のペスタロッチ主義教育運動の概説をします。
 〇マクリュア、ニーフによる導入の時代・・・実業家マクリュアがドイツのペスタロッチ学校からジョセフ・ニーフを招いて教師として迎え学校をつくったのが、米国のペスタロッチ教育導入のはじまりといわれます。
 〇ヨーロッパのペスタロッチ主義紹介の時代・・・教育系雑誌等にヨーロッパの学校教育が紹介され、最新の一斉教授法の例としてペスタロッチの教授法が紹介された時代です。情報が入ってきたのですね。
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 〇教科書、教科ごとの導入の時代・・・算術、地学、音楽等の科目ごとにそのノウハウは導入試行されはじめた時代です。だいたい1840年代がそうでしょうか。
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 〇ペスタロッチ式教員養成のはじまり・・・ノーマルスクールが設立され、ペスタロッチ主義教授法が中心となって研究される時代です。オーバニー、ブリッジウォーター、オスウィーゴー師範学校などが中心になりました。1950年代がここにあたります。助教制から一斉教授へと移り変わっていく時期でした。
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 〇オスウィーゴー運動の時代・・・1860年代以降です。形式的教育を批判して、開発教授が研究されました。オスウィーゴー師範学校はもとから先駆的でしたが、さらにカナダからペスタロッチ式教育の専門家を招いて「改革」を行ない「変わった」のです。
 
 日本がモデルとしたサンフランシスコとの「時差」はまさにここにあります。同校の卒業生は改革前の卒業生ではなかったでしょうか。同校では1860年代以前は「形式的」であったと批判していますが、「読方綴字、問答、道徳、習字、体操、カード」といった授業をしていたのだといいます。これはサンフランシスコや日本の教育と同じです。ちなみに「カード」とは教材ですが翻訳された「プライメリースクール教則」には読物に「牌」とありフリガナ(ルビ)で「カアツ」とありました。これらの教則がオスウィーゴー運動以前のものであったことがわかるわけです。ちなみに改革以降は「実物教授中心」になって上級になって書・読・体操を加えていくというカリキュラムになったのですね。これは同校で学んだ高嶺秀夫が帰国後に従来の師範学校教育を「形式的」と批判して改革したのといっしょなわけです。であるから発展形態・順序もいっしょなのですね。1871年のサンフランシスコの教育を導入したけれども、それは東部でいえば10年以上遅れたそれ以前の教育の方法であったのだということがわかるわけです。「同じルートを経て、そして時差がある」。そういうことがわかります。私のいう「時差」というのがわかっていただけたでしょうか。
 
 次の課題は日米の間だけなのかということです。日本だけなのか? これを比較していきます。関係比較という考え方を進めていきます。同じ関係性をもつものを複合的に比較していく。それによってなにかが見えてくるのですね。米国とその関係によって近代化に影響を受けたと思われる日本・中国・韓国とをとりあげて比較してみます。
 
 
  その前に・・・、少しまた違うことを考えてみましょう。
 
★「固定観念」をとばす!
 以前、苅谷剛彦さんの「知的複眼思考法」についてはお話しをしました。人間には「思い込み」があるし、「ステレオタイプ」とか「常識」といったもののみかたに依拠しやすいのだということを指摘されています。苅谷先生は「決まり文句」というふうにもいわれています。あるいは「マジックワード」。例えば「生きる力」とかの抽象的なスローガンがそれですね。批判のしようもないというか、検討のしようもないようなたぐいのもの。疑りにくく、そのままスルーされてしまうコトバ。そういうたぐいのものを「単眼的思考」と指摘し、それを明らかにしていくには、そういった概念にとらわれずに検討していくには「複眼的思考」が必要なんだというのです。
 前にいいましたね。レポートを返却してその右すみに「アリファベット」の記号を書いておく。赤ペンで・・・。すると何もいわないと「成績評価」だと感じ取ってしまうのですね。そこから気づかせる・・・。「なぜ、みなさんは返却されるプリントに記された単なるアルファベットを成績評価だととらえてしまうのか」と・・・。
 実はこれは私はカウンセリング関係の講義で試みています。それに前回やった「自己紹介」で「わかる」という「アタマの中の観念の世界」のエクササイズをやる時に同じ方法を使っています。
 先ず「出席カード」を配布する。必ず指示もしないのに「名前と番号」を書く学生がいます。それでこういう。「誰が書けといいましたか。これは今日は出席カードではないです」と。
 次にネームプレート・ケース(プラスチック)を配る。それで「さっきのカードの裏面に大きく名前のみ書いて、このケースに入れてください」と指示します。そこでカードのサイズがケースにピタリとあうことに気づきます。・・・しかし、たいてい、この中で指示以上のことを・・・、例えばつくったプレートを胸につける学生がいます。もちろん「誰が胸につけろと指示しましたか。それは抽選に使うものです。回収するので前にまわしてください」といいます。それで、抽選した複数の人物を組み合わせて、お互いにプレートをつけさせて自己紹介させます。その後、プレートを交換させて、相手になりきっての自己紹介をさせるわけです。
 ここから「論理療法」という一つのカウンセリングのカタチへとすすめていく導入にもなります。「論理療法」とは、人間には「思い込み」があるので、それでつらく苦しくひきこもる原因になるのだと考えてその「思い込み」を論駁するという形式のカウンセリング方法です。
 
 この「思い込み」が「固定観念」です。「物事」があって「結果」に結びつき、そして「悲しむ」。そういうのが従来の考え方ですが、「論理療法」では「物事」が「結果」に結びつくのではなく、「物事」に対してそれを「とらえる」自分がいて、そのとらえ方によって「結果」に行き着くと考えます。例えば「からかわれた、いたずらされた」から「不登校になった」、だから「もう駄目だとおちこんでいく」のではなくて、「からかわれた」時にそれを「いじめと同じだ、もう僕はここにはいられない、皆にいじめられる最低の人間なんだ、もう救われない」と思い込んだ(そう受け取った)自分がいて、その結果「不登校」になったと考えます。ですから自分で決めてしまった価値観(生活哲学)であることに対して「本当にいじめだったか」、あるいは「いじめられるということがなぜ最低なのか」、「すくわれないなんてことはない」とそのとらえ方を論駁するわけです。考え方をかえていく。それで楽になることも可能なわけです。
 
 難しいですかね。まぁ、この授業ではそういった心理学系の話をするべきではないのでしょうが、しかし共通しているのは「固定観念」なのです。前にもいった引きこもりの少年のアタマの中の世界には「周囲への不安」と「敵視」という「思い込み」がありました。少年が気持ちを記した「絵」にはおどろおどろしい「当時の気持ち」が描かれていた。「観念」の世界で、自分がそこに閉じこもって独りきりになってしまっていたのです。対人不信になるのもあたりまえで、対人理解ができなくなっていた状態。相手への「理解」があたるはずのない「思い込み」の劇場が繰り返されるその時、他者感覚がなくなって固定観念にとらわれた思考になっていくのです。被害妄想でもなんでもいいのですが、やはり単眼的になる。実はこれは苅谷先生のいう研究心としての複眼的思考法とも重なるのですね。私はそう理解しています。
 
 これは私が「過去の偉人」の研究をあらいなおさずそのまま受け取ってきていたことを批判して、見直そうとすすめているのと一致すると思います。皆、先行研究には「学ぶ」のですが、確認が不足しているのだと思います。いや「学んでしまう」のかもしれない。そのまま受け取ってしまうのです。疑う心をもたない。私はここを疑います。
 それで、今まで細かく比較考察してきたのです。ただ意味なく細かなことを考えているのではない。実は「固定観念を吹っ飛ばす」ということを習慣づけすることをこそ、目的としているのです。
 
 だって、普通の思考法しかもたないと自負する私でさえ、先行研究に学ぶとき、当然「疑問」に思うことがあるわけです。「これでこんなこといえるのかなぁ」とか「説得力ないなぁ」とか「いや、これはこうじゃないかなぁ」とか思うわけです。
 例えばどう考えてもおかしいのですよ。「明治6年に学校ができた」、その時ほぼ同時期につくられたカリキュラムが「そこでの実践研究をもとにつくった」、だから「実際の日本の現状にマッチするものがつくられ、その成果があって全国に普及した」との考え。そんなに短い時間で実践の成果がでるのでしょうか。教育の成果って、実はかなり長いスパンでないとあらわれないし、なかなか見えにくいのではないでしょうか。それがよりによってこんな初期の時期に・・・。おそらく附属よりも師範学校本校が前年から始まったからそこでの実践が生きたととらえたのでしょう。その意味で附属は「つくられた」という事実のみで判断(が強調)され、「附属とは実験校だ」という思い込みもあってか、そして「結果」として全国に普及したということがあってか、その説明の時に「歴史的考察」としては不確かになってしまったのだと思います。ちゃんと「比較」の視点があれば、そういう間違いはありえなかった。そして最大のあやまちは、後の研究者の多くが、この著名人の「成果」をそのままに「顕彰」して、まさに「検証」しなかったのですね。そういうおかしさがある。
 私の尊敬するお茶の水女子大の先生は、歴史研究の若手のスーパースターなのですが、「どんな研究信条をおもちですか」と訊いたところ、「ここまでやるか、というところまでやる、というあたりまえの方法」と教えていただきました。
 結局は労を惜しまず、あたりまえにちゃんと疑問を解明して手を抜かないことだと思うのです。「思考を止める」・・・そういう「固定観念」はたいていは「権威的」「権力的」なものだと思います。そういうのはやめてほしいものです。
 話が長くなりましたが、とにかく「固定観念」をとばすためにこういった「比較」の方法で考えていってるわけです。次回、予告どおりに複合的な関係比較の考察を行ないます。今回は最後に次の例をみてもらって、「固定観念」を疑うことを試してみたいと思います。
 
 
◆ 学制期の大学区
 
 次にあげるのは明治5年「学制」に示された「大学区」の構想です。その構想の内容を草案企画時と公布されたものとの比較も加えて考えてみると、従来の通史で考えられてきたものと違った見方ができると思います。
@学区「大中小学区」の区分・・・ 原案でも公布文でも「全国を一般行政区画とは異なる大学・中学・小学の学区に区分して各学区に学校1校を設立させ、全国に8大学、 256中学、53760 小学を実現させる」という計画である点に違いはありません。これは5、6章にも記されています。ちなみに「学区」は普通は就学のためと、さらに行政区画として学校設置単位としてといった性格をもちますね。その初期の方の構想ではありました。しかし、ここでみる「大学区」は「大学設置区域」的なものともいえます。そういう知識の中で大学を設置する拠点が決められた。そこを中心に中学・小学区が分布していくかのような構想ともいえますね。「大→中→小」という監督効果があったでしょうし、逆方向の進学関係があったのですね。
 次にその学校設置及び監督のために構想されたと思われる大学区を記してみます。
 
A 学制に定められた大学区  (○=大学本部)
第一大区
 ○東京府、神奈川県、埼玉県、入間県、木更津県、足柄県、印旛県、
  新治県、茨城県、群馬県、栃木県、宇都宮県、山梨県、静岡県
第二大区
 ○愛知県、額田県、浜松県、犬上県、岐阜県、三重県、度会県
第三大区
  ○石川県、七尾県、新川県、足羽県、敦賀県、筑摩県
第四大区
  ○大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、堺県、和歌山県、飾磨県、
   豊岡県、高知県、名東県、香川県、岡山県、滋賀県
第五大区
  ○広島県、鳥取県、島根県、北条県、神山県、山口県、浜田県
第六大区
  ○長崎県、佐賀県、八代県、白川県、美々津県、都城県、鹿児島県、
   小倉県、大分県、福岡県、三潴県
第七大区
  ○新潟県、柏崎県、置賜県、酒田県、若松県、長野県、相川県、
第八大区
  ○青森県、福島県、磐前県、水沢県、岩手県、秋田県、山形県、宮城県
 
 以上が大学区の構想でしたが、版籍奉還から廃藩置県へと続く地域整理・政策の混乱もあってか草案時と布告時では差異がみられるのですね。県名が違ったところもあったし、また第八区は草案では大学本部が「宮城県」となっていた、そういう違いもあった。それが布告では「青森県」になった理由はなんであろうか。また、そもそもこの大学本部はどのような府県が選ばれたのだろうか。そういうことに疑問をもちました。
 いや、通説では、あまりここを詳しく歴史的評価をした研究はないのですが、例えば「学校令」公布の時期に、明治中期(明治19から20年)になりますが、やはり「学区」が構想されて、そこでは全国に高等中学校がつくられることが構想されました。帝国大学への進学路線の確保でした。そしてこの府県が「没落士族階層を救うために構想された」と説明されるのですね。そういう旧城下町が選ばれたと。・・・そしてそれが「学制」の構想に近いものともいえたから・・・、「学制」時の大学区の構想も同じく士族のためなのだ、エリート層吸収のためだとかいわれるのですね。
 私はここに疑問をもちました。いや、中期のものはそうであったとしても、しかしそれが「学制」と同じなのでしょうか。「似ている」からといってそれだけで信じて解釈していいのでしょうか。
 では、士族階層の数や、少なくとも当時の人口比、年齢層等を調査した結果、それで二つの時期を比べて、それでなおというのならばいい。しかしそういう手続きはみたことがありません。中等教育の研究はすすんでいる。しかし、明治初期と中期では「違っている」点があるのではないかと思います。
 
 それを明らかにするために地図で示してみましょう。こんなことすらされてこなかったのです。
 
B大学区の区分と大学本部 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 大学区は以上のようにみれば現在の関東・東北・近畿・東海・九州・北陸等の区分けにちかいことがわかる。そして大学本部(地域のセンター=中心)にも共通した特徴がみられる。各大区の中心であり放射状に指令を送りやすく、また管理しやすい位置にある。なにより港町であり当時の最高速の交通手段であり、東京を中心にしてネットワークをつなげようと考えられたと思う。宮城県から青森県に変化したのも北海道という開拓使省管轄区域を構想に加えてのことだと思える。きわめて国境的考えと中央集権的考えを加えたものといえよう。長州や薩摩ではなく、広島や長崎といった区分された大区の地理的中心地が選ばれたのである。
 以上のように考えると、学校設置区域であり通学区域である「学区」というよりは、きわめて(その実現のためでもあるが)行政の力の強い、統制的な地域構想であったことがわかる。これが日本の独自性を強め、国民性を広めた一因となっていたというか、その意図が表れていたとはいえないか。
 
 もう一度少し詳しくいいます(以下は資料のみ、口頭では説明していない)。原案と公布文とも「全国を一般行政区画とは異なる大学・中学・小学の学区に区分して各学区に学校1校を設立させ、全国に8大学、 256中学、53760 小学を実現させる」という計画である点に違いはない。だが大きく異なるのは「原案」には各県(大学区)に「石高」(例えば東京府は十五万石)が記されていたが、「公布文」には削除されていた。これは学制の基本精神たる受益者負担の原則からいえば府県の財力が関係ないとされたか、それとも翌年発布される「地租改正」による税制改革の影響であろうか。いずれにしても大蔵省は財政難に悩んでおり、この学制発布の財源についてももめて、具体的金額等は不定のまま発布されたのであった。(他に布告文第99章=原案 104章でも、府県委託金の具体的金額部分が墨塗りで削除されて公布されていた。例えば「人員男女共1萬人ニ付高十万石ニ付三千両ノ割」「金九十三万八千七百両 三府七十二県」等の下線部分が消されていた。石高が地租条例で農地収穫高から地税・金納に変えられ、財政の混乱があったためであろう。)
 また「県名」が原案と公布文との間に変化したものもある。第二大区の「名古屋縣」は公布時には「愛知縣」と変わっていたし同区「安濃津縣」も「三重縣」と変わった。同様に第五大区「深津縣」が「小田縣」、「宇和島縣」が「神山縣」に、第六大区の「伊万里縣」が「佐賀縣」、「熊本縣」が「白川縣」となった。「版籍奉還」から「廃藩置県」と旧地域制度の整備・変革が行われている時期であったことを示す。
 また所属管轄区(大学区)が変わった県もある。原案では第五大区にあった「高知縣」は公布時には第四大区に変わっていた。「高知」や「香川」「名東」は四国ながら第四大区へ、「神山」「石鉄」は同じ四国ながら第五大区にと分けられた。まるで地図上で直線(斜め)に線を引いたかのような区分である。ちなみに第一大区は今の「関東近県(一部東海及び甲州)」、第二大区は「東海地方〜中部」、第三大区は「北信、北越地方」、第四大区は「近畿・中国及び四国の一部」、第五大区は「中国・四国の一部」、第六大区は「九州」、第七大区は「越後〜北陸近辺」、第八大区は「東北地方・奥州」といえよう。 さて総計75府県(3府72県)であり、ほとんど旧藩がそのまま県となっているが、この学区に沖縄と北海道が入っていないことに気づくだろう。沖縄は「琉球藩」として鹿児島県に編入されたが、国家領土上の争いは絶えなかった。「沖縄県」として設置されたのは1879(明治12) 年のことである。北海道は「函館」「根室」「札幌」の3県があったが、この時期は開拓使省の管轄にあることもあってか削られた。蝦夷・アイヌ等様々な問題を含んでいた。第4章に、「北海道ハ当分第八大区ヨリ之ヲ管ス他日別ニ区分スヘシ」とあるごとく、先送りされたのであった。
 
 私が大きく疑問を持ったことの一つです。大学本部(帝国大学の設立場所=地方教育行政のセンター)がどのようにして決定されたかということですね。原案では第八大区の本部は「宮城縣」であったが、これは改正され布告では「青森縣」となった。この変化はどこに理由があるのでしょうか。
 第一大区の「東京府」は行政の中心地である。第二大区の「愛知縣」も尾張家に代表される大藩であった。第三大区の「石川縣」は加賀百万石ともいわれた名藩で、第四大区「大阪府」も経済の中心地であり同区のかつての朝廷の本拠「京都府」が戦火で荒れたことからも選ばれたかもしれない。第五大区の「広島縣」も備後・安芸と呼ばれた名藩で、第六大区「長崎縣」が出島以来の開明の地であったことも理解できる。第七大区「新潟縣」も上杉家以来の強藩であった。第八大区の宮城から青森への入れ替わりも、幕府滅亡以前の東北雄藩会津が、敗退後に斗南藩として津軽に配置がえされたことに関係しているのかもしれない。佐竹藩もあった。松前藩も。このように、「大学本部」となった県のみを考えるとなんとなく納得はできる。しかし他県と比べてどのような理由で選ばれたかを考えると説得力のある答えを見出せないのです。
 逆の考え方をしてみます。権力のある県(旧藩)、大藩だった府県が「大学本部」となっていたといえるでしょうか。それでは何故最大最強の雄藩「薩摩・長州・土佐・肥前」の4つが「大学本部」とならなかったのでしょうか。
 「薩長土肥」4藩は藩閥を形成し中央政府の要職を占めていた。その4藩が何故、「大学本部」とならなかったのか。「薩摩藩」は「鹿児島縣」、「肥前藩」は「佐賀縣」、「土佐藩」は「高知縣」、「長州藩」は「山口縣」となったが「大学本部」とならなかった。これは学制起草者の意図があったのであろうか。しかし意図があったとしても実政職にあった4藩が修正すればすむのである。やはり4藩にも「大学本部」となる意志がそんなに強くはなかったと考えられるのではないでしょうか(もちろん当時内閣官僚こぞって岩倉使節団として海外を廻っており、留守政府であった西郷・大隈重信・板垣退助らの反官僚派が独断で「四民平等」「徴兵令」等の封建制を刷新する政策を行ったことが指摘されるが、「学制」の「学区」に不満があれば帰朝後に改正できたのではないか)。
 「薩長土肥」4藩は地方地元ではなく中央政権での権力・権威を目指したのであり、その地方との乖離から、後の西郷らによる内乱・西南戦争らが起こったと考えられます。政商から財閥等が4藩から登場しても、中央政権への進出をもくろむのです。そのようなことから4藩は「大学本部」とならなかったのではないか。かえって旧幕府系地域が「大学本部」となり、教育の地方における中心地となった。「薩長土肥」4藩は「東京」で日本の中心=「日本教育のセンター」を担えばことたりたのではなかったかと思うのです。
 このことの答えは、地図上でみると、「青森」を除いて他の本部は大学区地域の中心辺りに位置するという共通点があるとも考えられる。北海道との関係をみると「青森」も中心ともいえる。地理上の利点からではなかったろうか。区分け、地域区分自体が旧習からのものであるから、旧幕府系要地がそこに位置するのも当然であったといえるのですね。きわめて形式的なそして権力配置を構想した上での索であったと思えます。
 どうでしょうか。
 従来の研究では考えられなかったか、あるいは後の時代の解釈とあわせて、城下町が選ばれたのだということでした。長崎などは城下町ではないのですが、そういうのは「特例」かのように認める解説であったと思います。しかし、地図を書いてしめしてみれば、地勢学的、政治地理的にみれば、・・・多様な見方ができるのですね。もちろん北海道大学の文書館で当時の「地図」というか「国家観」を理解する文書類には目を通しています。その上で、当時の国際関係をも配慮した「学校制度実施のための」区分けであったと私はみるわけです。今後、また考察を重ねていきます。今日はここまでで終わります。