第10回 (6月20日)
 
近代教育内容の日米並行比較(続)
「サンフランシスコと、明治初期日本との教育内容の比較」
 
 簡単な復習から・・・
 前回、みてきたところを図示すると次のようになります。
 
 
 ●学年構成・・・「第八級→第1級」とサンフランシスコ版と共通している。
 ●教科構成・・・日米でほぼ共通(地理・歴史学習は具体的な教え方が確定していなかったために読物・問答に加える形式となった→そう考えるとほぼ直訳)。
 ●内容・・・教材、教科書もほぼ指示されたものを採用。教え方も直訳であった。
 
結論・・・次のように展開したと考えられます。
サンフランシスコ版教則
の翻訳+
 
プライメリースクール
(試案?)


 
1873年2月
附属小学教則


 
教材の翻訳
(サンフランシスコ教則)・出版


 
1873年5月
附属小学教則


 
実際の授業
 
 さて、なぜ通説では「独自性」が強調されたのか。それは「歴史」を理解するのに「いまの視点」で考えたから間違えるということがありえたのではないでしょうか。つくりかえられる、附属学校というもの、・・・そういうものの「いまの意味」で当時の(当初)理解をしてしまうこと。そういう「感覚」があったのではないかと考えます。「はじめに授業ありき」ではないのですね。そういうものがなかったわけです。「そういうもの」がハンチントンがいうように「近代化」の一手法として導入されたのが「当時」であったわけです。「近代化」の枠組みの中にとりいれられた。そういう感覚をもっておきたいものです。ノーマライぜーションでも人種差別でもジェンダーでも女子教育でも、すべてそういうように「とりいれられた」のであり、「近代化された」というとらえ方で考えていくことも可能です。
 
 
5、当時のカリフォルニア州の教育(アメリカ合衆国教育史の中で)
 
 続いて、次に米国史上での位置づけを試みます。単に「影響を受けた」にとどまらず、それがどのような性格のものであったか、歴史的に確認してみる必要があるのですね。並行比較からさらにその意味を追って比較考察による相対化を試みていきます。
 
 「日米の比較」といっても「視点」が必要かと思います。何が「新しい」ものであったのか。「導入」されたものの特質ですね。その新しいものとして期待され、とりいれられたものが何であったのか。「問答」(=object teaching、あるいはOral Lessons)というものが新しい過去にないもので、これがペスタロッチ式教授法であったとはいいました。では、それが米国内ではどのようなものであったのか、そういうことも比較してみます。
 
 次の資料は、サンフランシスコ教則の中の一部分ですが、明らかにペスタロッチ主義教授法であったということが示されています。
 
(10) Each teacher shall be provided with a copy of Sheldon's Elementary Instructions, as an aid in Oral Lessons, and in Methods of Teaching.  (“Rules and Regulations"  p.36 )
 
 シェルドンというのは米国のペスタロッチ主義運動の中心となったオスウィーゴー運動(ニューヨークのオスウィーゴーノーマルスクール)の中核の人物です。オスウィーゴー・ノーマルスクール校長だったのですね。その人物のつくったマニュアルがサンフランシスコでも使われた。
 これは、ちょうど日本の中心的な(一校のみであったがセンターであった)師範学校(ノーマルスクール)校長の教授法書が全国に普及してその影響が波及していったのと同じですね。ノーマルスクールが教授法改革・教育改革の中心であった。
 ただし倉沢氏の研究ではここのみをあげて「最新のペスタロッチ主義がここを経由して日本に来た」というのですが、それも間違いです。倉沢氏は「時差」を考えていないのです。シェルドンのテキストが義務づけられたことで、そのまま最新の教授法が身についたはずがありません。もう少し当時の実態を考える必要があるのですね。
 
(11) Already several cities and many towns are taking steps preraratory to its lessons for several months. Among those thus activery interested, we may mention Syracuse, New York, Paterson, N.J., San Francisco, and might add a large number of smaller places.
        ( “American Journal of Education," 12,  p.644)以下AJE と略す
 
 上の資料(11)にあるように、米国は東部から中西部・西部へと文化が伝播したわけですね。交通の問題もありますが、文化伝播の「時差」があると私は考えています。たしかに伝わってはいた。しかし、それが最新の文化にかこまれた絶対的に数のある東部と、その情報が伝わった二次的な、いわば絶対数(理解者)の少ない「伝えられるサイド」である西部とをいっしょにしていいのかという問題です。それならば文化などはすぐに世界に伝わってどこも差がなくなるはずです。もっといえば「レベルの差」ですね。ちょっと不適当なことばかもしれませんが。まぁ、経路としては「東部→西部→太平洋・アジア」という伝播でした。
 
(12)The Institute met in San Francisco, on the 4th of May, and continued in session until the 9th. Four hundred and sixty-three registered members were present,and the daily sessions were attended by hundreds of others interested in public schools. A course of free public eveninglectures were delivered before the institute by the following lectures:
   By Prof. G.W.Minns, on “Physical Geography;" by Prof. Whitney, State Geologist, on “The Charactor of Alexander Humbold;"・・・ by Prof. S.J.C. ・・・ Swezey, on “Normal Schools" and “English Composition;"・・・ by H.P.Carlton, on “Object Teaching;" ・・・and by Alnira Holmes, on “The State Normal School."        .    ( AJE, 16  p.787)
 
 サンフランシスコでも教育に関する集会・大会・研修・研究が行なわれるようになり、そこでobject teachingに関してや、また州立師範学校についてなどが演題になっていたのですね。
 
(13) The foundation of the Public School System of California was laid in 1949.
  Ten years after, the Superintendent, Hon. Andrew J. Moulder, recommended among other measures of improvement, the establishment of a State Normal School. ・・・・・In 1862, the Legislature passed an act establishing a State Normal School in the city of San Francisco .
   The Normal School was opend in a class-room of the San Francisco High School building, on the 23d day of July, 1862,    ( AJE, 17  p.769)
 
 そして州立のノーマルスクールがサンフランシスコに1862年に設立された。これは実は日本の「学制」の10年前のことです。日本の師範学校設立から考えても10年程度しか差がないのですね。歴史的に差がそんなにないわけです。それがはたして全米最新のものであったのか・・・。
 
(14) The first state normal school in California was opened in San Francisco July 21. 1862,・・・  Andrew J. Moulder, state superintendent of public instruction, George Tait, city superintendent of San Francisco, and myself・・・
   The school in charge of Ahira Holmes, a graduate of the Massachusetts State Normal School at Bridgewater opened in San Francisco with six pupils, just the number with which the first Massachusetts State Normal School began. Its growth was slow on account of the generalindifference of the city school authorities and hostility of a majority of public school teachers. ( “Public Education in California," p.263)    “Public Education in California," は以下 PECと略す
 
 ノーマルスクールに関わった教員のうちホルムズは東部の先駆的なブリッジウォーター師範学校卒業生だったのですね。後に伊沢修二が留学した有名なペスタロッチ主義教員養成を行なっていた学校です。そこの卒業生が中心になったという。しかし、「一人」です。これを全体がそうなっている「東部」といっしょだと理解していいのでしょうか。
 
(15) A model or training school of two classes was soon opened in charge of Miss Helen Clark from the Oswego Normal School.  ( PEC,  p.264)
 
 ちなみにトレーニング・スクールもつくられたのだと、そしてその附属学校の教師となったクラーク女史はオスウィーゴー師範学校卒業生だというのですね。ちなみに高嶺秀夫が留学したのが同校です。伊沢と同時期に留学し、彼らが帰国後に本格的な教授法改革がすすめられたのです。・・・しかし、話しは戻ってここも「一人」です。それで本場ニューヨークのオスウィーゴー師範学校と同じ条件だといえるのでしょうか。
 
(16) One of the first teachers elected by this new board was James Denman (Dec, 17, 1851), a graduate of the State Normal School at Albany, New York.    In 1852 Ahira Holmes, a graduate of the Massachusetts State Normal School at Bridgewater,・・・ .      ( PEC,  p.107)
 
 サンフランシスコの初期の教員であったデンマンもオーバニー師範学校出身だったというわけです。ホーレース・マンやページ校長で有名なやはりペスタロッチ主義をとりれた先駆的学校でした。そういうところの卒業生が来ていたと・・・「語られる」のですね。しかし、これで数的にはどうなのでしょうか。「東部」と同じ「最新」の地域であったと考えられますか。合計しても三人です。しかもホルムズやデンマンは1850年代に来ていたわけです。東部でも古い時代の教育を受けていた。・・・もちろん「その当時は最新」だったわけです。でも1870年現在の東部の教育は受けていないわけです。いまのようにテレビやメディアが発達していない時に、それがどういう「時差」をつくっていたのか、それを指摘したいのです。その意味で「シェルドンのテキストのコピーが配布された」から普及していたと考えるのは(きびしい言い方ですが)考えが足りないと思います。
 次の資料には注目してください。
 
(17) DEDICATION OF THE RINCON SCHOOLHOUSE
   The Rincon School had outgrown the rented building on Hampton Place. and in 1860 the board of education purchased a lot on Vassar Place. three blocks distant. and proceeded to build a schoolhouse. neither larger nor better than the old one.  It was a very plain two-story house with fourclassrooms on each floor. each room seating from forty to fifty pupils.
    On the upper floor the rooms were divided by large sliding doors. so that the four rooms could be thrown together on public occasions.
   The doors were partly made up of glass windowpanes. so that the principal could keep his eye on the assistant teachers.  Some years later I saw in the city of Philadelphia several antique schoolhouses on a similar plan, which had been erected when the Lancastrian system was in vogue.
    This poorly planned. cheap building was dedicated as if it had been a palace.・・・ .
 
 「各フロアーを四つに分け、その一つごとに40から50人程度の生徒が座る」のだというのですね。そして「ガラス窓付きドアで仕切り、教師は常に助教を視界における位置、つまり中央に位置する」のだという方式・・・。前に図解をした「助教法」ですね。その起源は「フィラデルフィアの学校」であるという。もちろん60年代のサンフランシスコの教育形態なのですが、一ついえることは「初期」にはこの形態が導入されるという点で日米とも一致していたわけです。日本の「教官教育所ノ定律」を考えると10数年遅れていたと考えられますね。これがサンフランシスコと日本の一面の「時差」です。師範学校設立に関しては10年の「時差」。しかしサンフランシスコと東部でもやっぱり「時差」はあったわけです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 それにしても、「反応」は同じであると。必然の過程とも考えられます。教育の現状、規模、経済的局面からみて、必ずこうなるというわけですね。
 
(18)  Thus ended the evolution of school laws for the first decade of common-school histry in
California.   It is evident from the preceding brief statement of school organization that the general plan resembled that of the state of New York rather than that of New England. Indeed, the great area and the sparse and scattered population rendered township organization impracticable
in California. ・・・ .
 
 サンフランシスコ(というかカリフォルニア州)の教育はニューイングランド(つまりマサチューセッツ州等)よりもニューヨークの影響を強く受けたというのがあり、たしかにシェルドンの教育等が中心的になってくるのだと思えます。しかし、このサンフランシスコ教則(1871年)当時に「ニューヨークと同じであった」わけがないのです。そういう「時差」「温度差」「文化差」という「違い」に注目しておく必要があります。
 大事なことは1871年の教則はニューヨークの1871年のものではなく、サンフランシスコという当時辺境に近い地域の1871年のものだという事実です。
 当時日本にこれを導入したスコットはおそらくサンフランシスコのカリキュラムをもとに教員養成を行なったと考えます。この「教則」こそ初期の教授の本質でもあった。当時としては革命的であったとは思いますが、しかし限界や問題を含むものです。児童の開発とはいえない記憶重視のものでしたし、その意味で「記憶」の対象が米国のものになっただけともいえます。個別指導から教室での一斉教授という形態の変化のみでした。質よりも量の変化だったともいえますね。そして、国民の水準に適していたというよりも、当時教育の中心(センター)であった師範学校のものだから普及したのだと考えます。
 わかりにくいでしょうか。また次回に補足します。