第8回 (6月6日)
 
近代教育内容の日米並行比較
「サンフランシスコと、明治初期日本との教育内容の比較」
 
 
1,前回までの考察
 〇日本の「近代教育史上」における国際性と独自性とをみてきた。「教育(制度)の性質」が表れていたのではないか。→欧米先進諸国の教育制度や教育方法・内容等を導入→→「日本化」「土着化」「皇国史観」「ナショナリズム」・・・そういう揺れ動きがある。
 
 〇コメニウスからデューイまでの変遷で大きな流れができた。日本でもそれを遅れて導入している。<批判→継承>の反応も同じであった。
 
 〇「学制」期小学校教育の内容→「学制」の条文には「国際性」が表されていた。さらに当時(当初)の教育の実質は助教法で行なわれることが考案されていたし、これを批判するカタチで前後してペスタロッチ主義が導入されるという点でも、世界史にもそったものであった。「近代教育」の国際性の一面である。
 
 今回から、また「比較」の考察方法で可能性を追ってみます。今日から「日米」の並行比較をします。いままでは「日本」一国のみの、時代比較でしたが、つまり一国の「近代」と「現代」とを比較してきましたが、そこには「国際性」があったと。とくに米国の影響があったと指摘してきました。それならば、その関わり深い米国と具体的にどう差異があるのかを比較してみようじゃないかと。そして、もし「翻訳移入」であったのなら、そのオリジンが米国ならば、その導入されたモデルは米国史のなかではどう位置づけるべきなのか、そういうところまで「比較」していきたいと思います。ですから、すごく細かい比較になります。
 
 基本的には次の四つの「カリキュラム」を比較します。




 
◆A◆「東京師範学校制定附属小学教則」1873年版(2月創定、及び5月改訂)
◆B◆「亜米利加合衆国プライメリースクール教則」(日時不明、原本不明)
◆C◆「亜米利加合衆国プライメリー グランマル学校教則」(下記英文の和訳版)
◆D◆“Rules and Regulations of the Public Schools of the City and County of San Francisco, 1871."(サンフランシスコのカリキュラム・1871年版)
 
 A「東京師範学校制定附属小学教則」は広く全国各府県へと普及したといわれるものでして、「学制」条文に示されたものと違って実際の影響力があったと思うのですね。ですから学制自体の性格が欧米の教育導入であったけれど、さらに実際に詳細に準備された教育はどうなのか、実際に行なわれた教育はどうだったのか、をみるのが一つの目的です。それで、BとCは、学習院大学図書館に所蔵される資料ですが、板倉聖宣氏という科学史家が発見して「学制期カリキュラムの原典では」というようなことを指摘されたのですね。Dは後から学習院図書館で発見されてCの原典であることが指摘されていました。
 しかし、これらの新資料が発見されたのに、活用されていないのです。もっというと間違いが間違ったまま認識されていた。著名・高名な研究者の記述があるからと、誰も追跡確認をしていないのですね。ここにも「固定観念」があった。
 例えば、さきに示すと、まずA「東京師範学校制定附属小学教則」は「学制と違って国民の実情にあうように附属小学校での実践をもとにつくられたものであった」といった理解がされていました。通史・定説にそう書いてある。
 比較的に新しい本でも「板倉氏の説(つまり米国の直訳的)もあるが・・・」としていて、基本的に定説とおりだと思います。板倉説後にDが著名人倉沢剛氏に発見されたにもかかわらず、「実態がほぼ直訳であった」とはされていないのです。
 これって、複雑なかかわりはあるのでしょうが、まずは「附属小学校」での「実践でつくられた」という間違いです。ちなみに官立師範学校の教員養成の授業すら1972年9月からだったのですね。そこで附属小学校がつくられてもいないのに、「実践」をもとにつくりえたのでしょうか。附属小学は1873(明治6)年4月の開校です。すると2月に創定されたものは開校前につくられていたものである。そしてそれが翻訳的で、その後に改訂された5月のが短いながら「実践」でなおされたというのならいい。でも実際にはあまり変わっていないのです。比較していきますが、翻訳が進む中で、テキストの刊行・準備にあわせてつけくわえられた的な性格だとみてとれます。
 
 こういった間違いは、とにかく「日本には独自性や、主体的摂取の姿勢があった」といった思い込みがあるのでしょうか。あるいは、「附属学校」というのは「実験学校」であるという現代的な感覚で歴史をとらえているのではないでしょうか。
 実は大御所、倉沢氏でさえ、英文カリキュラムを部分的にしか読んでいないゆえの誤記・誤解があるのです。さらにいえば学習院図書館にこれを実際に確認にきた人があまりいないという事実です。私で10数年ぶりですといわれました。他人が書いたこと、特に権威ある者によって書かれたものをそのままうのみにして信じ込み、確認さえしないというおそろしさ・・・、これも「固定観念」です。そういうのを疑っていくのが私たち若い世代の研究者のやっていくことです。
 
 ちなみに、教育の原理というか理念を知るために比較・検討しまして、いかなる位置づけができるかをみていきます。さきに結果をいうと、本質がアメリカ合衆国におけるペスタロッチー主義運動の一系譜であることを明らかにします。
 
 その導入に尽力したと思われる師範学校最初のお雇い外国人マリオン M.スコットはカリフォルニア州での教育歴を持つことから、カリフォルニア(サンフランシスコ)及びアメリカ合衆国全体における当時の教育運動の流れを考察することも試みていきます。
 

 スコット(Marion McCarrell Scott, 1843-1922)は、1871( 明治4)年から1881( 明治14) 年までの約10年間、わが国においてお雇い外国人教師として活動したアメリカ人である。特に東京に設立された官立師範学校最初の教師として、日本に教員養成法及び近代教授方法を最初に導入した人物として知られている。

 
 「学制」のカリキュラムについてはもうみていただいたのですが、「尊皇開国」路線の維新政府の教育政策でしたから、当然教育も「開国」されて、したがって輸入摂取という形態ではありましたが「国際性」に富むものでした。その部分をあげると・・・。
 
○「学制」第二十七章 尋常小学ヲ分テ上下ニ等トス此ニ等ハ男女共必ス卒業スヘキモノ
トス教則別冊アリ
下等小学教科  一 綴字 読並盤上習字、二 習字 字形ヲ主トス、三 単語 読、 四 会話 読、
五 読本 解意、六 修身 解意、七 書牘 解意並盤上習字、八 文法 解意、九 算術 九々数位加減乗除但洋法ヲ用フ、十 養生法 講義、 十一 地学 大意、十二 理学 大意、十三 体術、十四 唱歌 当分之ヲ欠ク、
 「教則別冊アリ」というように、この条文の規定以外にカリキュラムを編成していたということがわかります。いくつか文部省版などがつくられますが、その中でみるのが先程の師範学校附属小学教則です。通説では、広く全国各府県へと普及したのは、「学制」や文部省制定のものより「より実情にあっていた」というのですね。これをまず疑います。「実情」とはなにを指すのかですね。どれでも新しいものとしては同じだったとも思えます。これは最初でしたから・・・。「普及」したのは「師範学校」が当時の唯一の教員養成機関であり、教科書編集機関・教材編集機関でもあったから、しかもモデルスクールでもあったのですね。ですからすべてがワンセットで採り入れられたというか、そうするしかなかったのだと考えます。本質的には直訳的であった。
 なぜなら米国のものの翻訳摂取だと思うからですね。それをみていこうと・・・。では、まず、「直訳的」という状況をみていきましょう。
 
2、当時の教授方法・内容(日本での教育の実際)
○師範学校における授業自体、ひじょうに「直訳的」でした。次の資料が語っています。
 
(1) 坪井の回想...「学科授業法は勿論、何でも洋風に机と腰掛で授業をするのでなければいけないといふので、わざわざ昌平校の畳を剥がして、穴だらけになった板の間を教場に用ゐた(略)」(坪井玄道「創業時代の師範教育」国民教育奨励会編纂『教育五十年史』民友社 1923年 p.18 )
 
(2) 辻の回想...「先づ教場は総て板の間にして机と腰掛を置いて、それからスコットの命ずる通りの黒板をこしらへ、それから教師が教鞭を持...(中略).此方の流儀でなく、彼の国の事をそっくり取ってやる...」 また掛図については「製へ方でも又大きさでも文字の大きさに至るまで彼の式の通り」にする。
    (辻 新次「師範学校の創立」茗渓会『教育』第344 号  p.28-29)
 
 (1)は師範学校で外人教師スコットの通訳を勤めた坪井の回想です。(2)の辻は初期の有名な文部官僚ですね。そういう二人が証言するように、従前の教育(寺子屋、藩校等)とは、教育形態・教室・教具・方法らを異 にする、アメリカ合衆国式のものへと変えられていったのです。その様子については、当のスコット自身が後に次のように記しています。
 
(3) スコット自身「“Yet the manner and matter were all changed. Text books were either made , or translated by competent men into Japanese.
   These books were made into a graded series, as with us; also chart and forms of all kinds for primary schools.  They have substituted our system of figures for theirs in all their schools."  」と語っている。 (Scott,M.M. “Education in Japan," The Hawaiian Monthly, Nov.1884,)
 
 その米国の直訳であったということに関して、後に米国留学から帰国して日本に本格的な教授法改革をもちこむ高嶺が、次のように論じています。
 
(4) 高嶺秀夫も、「学力優等のものを選びて助教(後に上等生と云ふ)とし、其の餘を 師範学校付小学生徒とし(後に下等生と云ふ)、教師は先上等生を以て仮に小学生徒と見做し、一切外国の小学科を授けて其の授業法を会得せしめ」て,上級生はこれを下級生に試みるという方法であったと述べている。(高嶺秀夫先生記念事業会『高嶺秀夫先生伝』培風館  p.66 )
 
 これは前回にも述べた「助教法」の方式であったのですね。初期の師範学校では計画どおりこの助教法の教育が行なわれたのでしょうか。そしてその方法は「外国の小学科」であったわけです。これも米国のものだったと考えますし、その模範となった「助教法」案もあとで出てきます。
 
○教授法書(師範学校卒業生・関係者の著述)
 次に実際に行なわれた授業はいかなるものであったのか。それを見たいのですが、当時の授業の記録は「模倣」であったがゆえに、あるいは「直訳的」であったがゆえにきわめて「形式的」でして、マニュアルが作成されてそれにのこっていると考えられます。
 当時の「マニュアル」として、教員用の「教授法書」をみてみます。
 
(5) 「小児ノ教育ハ、学術ヲ授クルニアリト雖モ、始メハ勉メテ、小児ノ感受力ヲ挑発シ、智力ヲ培養スルヲ以テ、第一トス、蓋シ智力ヲ培養スルハ、万物ニ就テ、其性質ヲ考究シ、用法ヲ思慮セシムルニアリ、就中、小児ハ、感覚鋭敏、思考迅速ニシテ、万事ニ遷リ易キモノナレバ、宜シク、此期ヲ過ルコトナカルベシ」
     (諸葛信澄『小学教師必携』緒言  1873年)
 
 編著者・諸葛は師範学校の初代校長であった人物です。日本の教育センター長だったわけです。この人自身にどれだけの教育論があったかはわかりませんが、この代表者の手によって(名において)「やるべき教育」が推進(広報)されたのですね。
 後にペスタロッチ主義として説明される「庶物指教」の名辞を使用していないものの、実物教授(実質的にペスタロッチ主義)の考えを示しているのです。「思考」とか「感受性」とか「感覚」とかの内発的なことも指摘されていた。ただ必ずしも 実物を教材として用うべきことを強調しておらず、掛図類を用いて授業を進めることとした点で形式的ではありました。そしてなによりも重要なのは、当時のこれ以降の(つまり明治初期の)多くの教授法書は、この諸葛信澄の著述に従って書かれているということです。例えば・・・
 
(6) 「是編ハ東京師範学校附属小学ニ於テ現今施行スル所ロノ教授ノ方法ヲ目撃... ..(中略)..此方法や明治七年満期校ヲ退キシ米国『コッペリヲル』『オハイヲ』ノ人『スコット』氏米国ニ行ハルル所ロノ小学教授法ヲ伝授シテ自ラ教場ノ規則ヲ条設シ自ラ教員ノ是非ヲ...(以下略)」(山下厳麗編『小学授業法』序文 1875年)
 
 この著者・山下の師範学校卒業生です。だから影響を受けている。「師範学校で行なわれていたものを紹介するのだ」といった姿勢であったのですね。スコットによって授業と、そして米国式カリキュラムが組まれたんだというわけです。
 また、当時の教授法書には例外なく「問答」の教授例が示され、表現の違いが多少あっても、その教授内容・教授方法が同じであることが示されています。またそれはスコットが伝えた教授法が、「問答」を主体とし掛図類を使用する Object teaching の方法であったことを示しているといえましょう。この Object teaching が「実物教授」であったわけです。
 
(7) 「此書原本ハ千八百七十一年鏤板米人何爾京氏著ス所ノ『ニュープライメリーヲブジュクトレススン』(物体教授ト訳ス)題セル泰西小学授業ノ方法ヲ載スル書ニシテ東京師範学校ノ創業ニ際シ此書ヲ以テ授業ノ範則ト為セリ 故ニ目今皇国小学普通ノ授業方ハ皆茲ニ基セリ..(以下略)」  (金子尚政訳 高橋敬十郎編『小学授業必携』 慶林堂 1875年)
 
 「米人何爾京氏」とは「米国人カルキンス」のことでして、ペスタロッチ主義教育を推進した人物の一人です。その人物の著作が輸入されて、それを師範学校で翻訳して、そのとおりに授業を行なったのだというのです。これが「最初」であったという証言です。米国の授業方法の模倣というか直訳的移入であった。
 そしてその特徴は「問答」であったのですが・・・。教義問答や禅問答というのが近代以前にもあったとして、それらとは違う「教育」の方法として形作られてきたものだというのをみていきます。
 
(8)  「問答」教授の方法 「人体ヲ問答スルニハ教師先ツ自己ノ身体中問答スヘキ部分ニ触レ生徒ヲシテ其名ヲ呼バシメ然ルノチ其功用ヲ問ヒ之ヲ文ニ綴リテ塗板上ニ記シ各生徒ニ読マシムヘシ、」という教示方法であり、さらに具体例をあげれば、「柿ト云フ物ハ,如何ナル物ナリヤ,○柿ノ木ニ熟スル実ナリ」「何ノ用タル物ナリヤ,○果物ノ一種ニシテ,食物トナルナリ」「如何ニシテ食スルヤ,○多ク生ニテ食シ,稀ニハ,乾シテ食スルモノナリ」(同上『小学授業必携』)
 
 以前にも当時の資料をコピーで配布しましたが、「指教法」であったわけですね。「庶物指教(示教)」ともいわれるもの。しかし、以上のように、生徒からの問いでなく、教師が問い、あらかじめ統一された答えを復唱させ、記憶させるという方法であったという限界(本質)はあります。学習が「記憶」であると考えられていたのですね。「知識」は「記憶」して「獲得」なのだとの考え。そういう限界はあった。
 
 さて、ここまでかなり時間をつかってしまいましたが、当時の教育の状況を証言をもとにみていただきました。そして米国の授業の模倣であり、そういう意味できわめて形式的な受容であったわけです。さらにそもそも米国でも授業が「記憶」(recitation)ととわえられていたということもあります。そういう表現もされていた。
 これから数回の講義で、具体的に少し細かく、米国のカリキュラムと日本のカリキュラムとの関係をみていきます。そして最終的には米国のそのカリキュラムがどのような性質のものなのかを比較考察していきます。今日はさいごに、日本側の師範学校附属小学のカリキュラムをみておきます。明治6年2月につくられたものと、その後5月に改正されたものが基本的に全国の多くの小学校で模範とされたものですし、この米国のカリキュラムの影響を受けたものとして比較する対象です。
 
○教科,教育内容   (師範学校制定 小学教則)

  明治6年2月創定下等小学教則

  明治6年5月改正下等小学教則

             第 八 級




 

五十音図ト濁音図ニテ仮名ノ音及ヒ呼
法ヲ教ヘ単語図第一ヨリ第八マデ
ヲ以テ単語ノ読方ト名物ヲ教ヘ或ハ
兼テ小学読本巻ノ一第一二回ヲ授ク

 (ほぼ同じ)
 単語図第一ヨリ第八マテト連語図第一ヨ
リ第八迄ヲ教ヘ ...... が加わっている。
 




 

数字図ト算用数字図ヲ以テ数字ノ読
方ト一ヨリ百マデノ書キ方位取リ並
ニ算盤ニテ物数ノ数ヘ方ヲ教ヘ加算
九九ヲ諳誦セシム

 (ほぼ同じ)


 




 

習字図ヲ以テ盤上ヘ片仮名ノ字形ヲ
記シ運筆ヲ数ヘテ石盤ヘ習ハシメ習
字本ニテ平仮名ヲ教ヘ筆ノ持チ方ヲ
教フ

 石盤ニテ片仮名ノ字形ヲ教ヘ次ニ習字本
ニテ仮名ヲ教ヘ筆ノ持チ方ヲ教フ
  (内容はほぼ同じ)
 



五十音並ニ単語ノ文字ヲ仮名ニ綴ラ
シム

 (ほぼ同じ)
 



 

単語図ヲ用ヰ食物ノ類ハ其味ヒ及ヒ
食シ方器財ハ組立テタル物質及ヒ用
ヰ方等ヲ問答ス

 単語図ヲ用ヰテ諸物ノ性質及用ヰ方等ヲ問
答ス
 



     /
    /

          /
         /



 

     /
    /

 

体操図ニ依テ授ク
  以下之ニ倣フ

 
 全体の教科配列では、第8級から1級まで、読物・算術・習字・書取(改正下等小学教則は、5級から作文)・問答・復読(1級は諸科復習)・体操、があげられている。
 
 通説ではこれが全国に普及したのは「より実情にあっていた」からで、それは教育のセンターで研究されたもの、モデルスクールたる附属小学での実践を経たものだからと考えられていたと思うのです。それを疑ってみるのが目的の一つだといいましたが、まず当初の授業自体が米国の模倣・直輸入であったというのを今日はみてきたわけです。細かな比較対照は次回にやります。
 ここで最後に言っておきたいのは、明治6年の2月にできたものが、すぐさま5月には改正された。実際の附属の授業がはじまったのがこの5月頃でした。果たしてこれを「実践」からつくられたものと評価していいのでしょうか。もちろん助教制での師範学校生相手の模擬授業はあったでしょう。それにしても・・・、いや、では2月と5月とで変わった部分はどこでしょうか。これは「第八級」のみの比較ですが、「問答」の内容がやや細かく具体的すぎたものから、少し大きなまとまりになったぐらいと、あと「体操」で教え方というか教材「体操図」が示されただけですね。刊行準備が整ったから入ったぐらいではないでしょうか。・・・もちろん前後とか全体で考えなければいけないですね。次回やっていきます。
 しかし、例えば米国版“Rules and Regulations"の REGULATION OF PRIMARY SCHOOLS .EIGHTH GRADE(八級)のArithmeticに、「Counting, reading and writing numbers to 100; lessons illustrated by the use of the numeral frame; Roman numerals in connection with the reading lessons; adding small numbers.」とあるのは、上の師範学校附属小学「算術」に「数字図ト算用数字図ヲ以テ数字ノ読方ト一ヨリ百マデノ書キ方位取リ並ニ算盤ニテ物数ノ数ヘ方ヲ教ヘ加算九九ヲ諳誦セシム」とあるのと一致するのではないでしょうか。こういった「翻訳」関係を明らかにしていきます。
 参考までに・・・
○“Rules and Regulations"
    REGULATION OF PRIMARY SCHOOLS . ・EIGHTH GRADE
Arithmetic ・・・Counting, reading and writing numbers to 100; lessons illustrated by the use of the numeral frame; Roman numerals in connection with the reading lessons; adding small numbers.
 
Reading and Spelling・・・ Charts from 1 to 6 ; First Reader; spelling from the charts and readers, orally.
Writing・・・ Script letters and easy capitals.
Oral lessons・・・The five senses, their organs and use; common objects; conversational lessons on domestic animals; primary and secondary colors.
Vocal Music・・・(略)“Mason's National Music Teacher" をテキストに使用。
        Time---at least ten minutes, daily.