第六回(5月23日)
 
 前回、今後も「比較」の考えをすすめていくといいました。それで、直接、「教育学」のことを書いているのではないけれども、おすすめの本を紹介します。
 苅谷剛彦という東京大学教授の書いた『知的複眼思考法』(講談社 1996年)という本です。大学時代に読んでおくべきおすすめの一冊です。私も学生時代にこんな本があればと思いました。著者・苅谷氏は、「固定観念」をふっとばせということから授業をはじめるのだそうです。「常識」として受け取っていて疑わないものを疑うというところから「学究」ははじまるというわけですね。例えば・・・、実は同じことをしようかとも思ったのですが、皆さんへミニレポートを返す時、ランダムに右角にA、B、C、Dと書いておく。「おやっ」と思わせるのです。自身のある解答だった人や多く書いた人が「D」とあって、となりの箇条書きの人のに「A」とあったら不信に思いますよね。それで質問や文句も出るかもしれない・・・。そうしたら先生は「A、B、C、Dの意味? 特に意味なく書いたたんなる記号だよ」というそうです。そして「A、B、C、D」はたんなるアルファベットであり、記号なのに、みなさんはそこに「成績評価」という意味があると受け取ってしまっていると・・・。それを常識として考えていると・・・。なぜ疑わないのかと、そういうのですね。それでそういう「単眼的」じゃなくて世の中のステレオタイプを「複眼的」に検証しようというふうにすすめるわけです。うまい気づかせだと思います。
 それで、他にも面白い部分が多いのでよかったらぜひ読んでみてください。で、この苅谷先生の一ファンでもある私は・・・、このかたは社会学専門なのですが、基本的に「比較教育学」を追い求める私にとっていいお手本なのです。苅谷先生の講座は「国際比較システム」論でして、現代の学歴社会や大衆教育社会のことを研究されていますが、私も時代こそ違え、基本的には「国際的観点のシステム比較」をやってきたつもりです。それがここ数回やってきたことでもあります。そういう方向性的に学ぶところ多い著書でした。
 
〇前回の復習・・・教育の本質の変容、あるいは不変の部分を、教育観・教育意見を点検してみて学ぶということを試みています。
 「学制」序文に記された「近代性」と限界、そしてその欧化風潮への批判文書である「教学聖旨」に表れた反動的な皇国史観のみられる意見。その結実とみられる「教育勅語」までをみてきました。ここまでは全文を読んできましたが、これからは資料としてあげますが一部を紹介するのみとします。しかし、こういう原典を読むことは重要です。哲学でもなんでも、原書講読の大切さは説かれますね。それと同じくこういう歴史的文書(もんじょ)も原書をみておくべきです。研究書の転記では誤謬も多いですし、解説書にもその翻訳書的性格からすればそのまま鵜呑みにするのには問題もあるかと思います。ということで、ぜひ、読んでみてください。
 
 ここで補助プリントとして教育学事典類からの関係項目のコピーを載せたものを見た。「近代学校」「学制」「教育令・改正教育令」「教育勅語」の部分を先ずみてもらった。先ず「教育の近代」とは日本でいえば「明治期からはじまって、戦後日本国憲法で国民の教育の権利が確定するまでの学校」のことを確認した。戦後のそれ以後が現代なわけですね。そしてこの数回に及ぶ「比較」もある意味では「近代」と「現代」との比較でもある。そこでの「反応」に注目しているわけです。
 「学制」については(寺崎昌男氏執筆部分)、「国民皆就学の方針」や「身分や性の差別から解放」し「個人の幸福実現」がめざされたこと。それらから「日本の近代公教育体制の理念と構造をあらわす画期的法令であった」ことが記されている。
 「教育令」(花井信氏執筆)は「自由教育令」が「学事衰退を招き」すぐに改正されたこと、「改正教育令」は修身の首位とともに「管理を強めた」ことが特徴であり、「教育の中央集権化の進行を示す」ものであり「政治的には自由民権運動への対応」であったことを確認した。財政上の問題もあった。
 「教育勅語」(佐藤秀夫氏執筆)については、「日本の教育の基本理念を定めたとされる勅語」であり、「戦前・戦時期には絶対的な神聖性をもって教育現場を支配した」という。「日本の教育を当時の支配体制である天皇制と一体不可分の関係に置こうとした宣言」であったという。のちには戊申詔書、國民精紳作興ニ關スル詔書、青少年学徒ニ賜ハリタル勅語が出ているが「新事態に応じた補完の詔勅」であったという。勅語は第二次世界大戦後にその性格が問題視され、排除処分となったが、しかしその後も「肯定論や尊重論」が特に「歴代保守政権のなかから時折噴出して、社会問題化することが少なくない」と記されている。これも前回までの比較検討に符合するといえましょう。
 
 さて、それでは資料をあげます。

★戊申詔書(明治四十一年十月十三日)
朕惟フニ方今人文日ニ就リ月ニ將ミ東西相倚リ彼此相済シ以テ其ノ福利ヲ共ニス朕ハ爰ニ益々國交ヲ修メ友義ヲ惇シ列國ト與ニ永ク其ノ慶ニ頼ラムコトヲ期ス顧ミルニ日進ノ大勢ニ伴ヒ文明ノ惠澤ヲ共ニセムトスル固ヨリ内國運ノ發展ニ須ツ戦後日尚浅ク庶政益々更張ヲ要ス宜ク上下心ヲ一ニシ忠實業ニ服シ勤儉産ヲ治メ惟レ信惟レ義醇厚俗ヲ成シ華ヲ去り實ニ就キ荒怠相誡メ自彊息マサルヘシ
抑々我力神紳聖ナル祖宗ノ遣訓ト我力光輝アル國史ノ成跡トハ炳トシテ日星ノ如シ寔ニ克ク恪守シ淬礦ノ誠ヲ諭サハ國運發展ノ本近ク斯ニ在リ朕ハ方今ノ世局ニ處シ我力忠良ナル臣民ノ協翼ニ倚藉シテ維新ノ皇猷ヲ恢弘シ祖宗ノ威徳ヲ對揚セムコトヲ庶幾フ爾臣民其レ克ク朕力旨ヲ體セヨ
 
 下線部分だけでも読めばその引き締め的性格、確認的性格がみてとれます。
 同じく次の資料もみてください。

★國民精紳作興ニ關スル詔書(大正十二年十一月十日)
朕惟フニ國家興隆ノ本ハ國民精神ノ剛健ニ在り之ヲ涵養シ之ヲ振作シテ以テ國本ヲ固クセサルヘカラス是ヲ以テ先帝意ヲ教育ニ留メサセラレ國體ニ基キ淵源ニ遡り皇祖皇宗ノ遺訓ヲ掲ケテ其ノ大綱ヲ昭示シタマヒ後又臣民ニ詔シテ忠實勤儉ヲ勤メ信義ノ訓ヲ申ネテ荒怠ノ誠ヲ垂レタマヘリ是レ皆道憶ヲ尊重シテ國民精神ヲ涵養振作スル所以ノ洪謨ニ非サルナシ爾來趨向一定シテ効果大ニ著レ以テ國家ノ興隆ヲ致セリ朕即位以來夙夜兢兢トシテ常ニ紹述ヲ思ヒシニ俄ニ災變ニ遭ヒテ憂悚交々至レリ
輓近学術益々開ケ人智日ニ進ム然レトモ浮華放縦ノ習漸ク萠シ軽佻詭激ノ風モ亦生ス今ニ及ヒテ時弊ヲ革メスムハ或ハ前緒ヲ失墜セムコトヲ恐ル況ヤ今次ノ災禍甚夕大ニシテ文化ノ紹復國カノ振興ハ皆國民ノ精神ニ待ツヲヤ是レ實ニ上下協戮振作更張ノ時ナリ振作更張ノ道ハ他ナシ先帝ノ聖訓ニ恪遵シテ其ノ實効ヲ擧クルニ在ルノミ宜ク教育ノ淵源ヲ崇ヒテ智徳ノ竝進ヲ努メ綱紀ヲ粛正シ風俗ヲ匡勵シ浮華放縦ヲ斥ケテ質實剛健ニ趨キ軽兆詭激ヲ矯メテ醇厚中正ニ帰シ人倫ヲ明ニシテ親和ヲ致シ公徳ヲ守リテ秩序ヲ保チ責任ヲ重シ節制尚ヒ忠孝義勇ノ美ヲ揚ケ博愛共存ノ誼ヲ篤クシ入リテハ恭儉勤敏業ニ服シ産ヲ治メ出テテハ一己ノ利害ニ偏セスシテカヲ公益世務ニ竭シ以テ國家ノ興隆ト民族ノ安榮社會ノ福祉トヲ圖ルヘシ朕ハ臣民ノ協翼ニ頼リテ彌々國本ヲ固クシ以テ大業ヲ恢弘セムコトヲ冀フ爾臣民其レ之ヲ勉メヨ
 
 以上の2つの詔勅が約20年のスパンでしめつけにつかわれたものであることは前回いいました。さらにここから約20年後には次の勅語があります。

★青少年学徒ニ賜ハリタル勅語(昭和十四年五月二十二日)
國本ニ培ヒ國カヲ養ヒ以テ國家隆昌ノ気運ヲ永世ニ維持セムトスル任クル極メテ重ク道クル甚ダ遠シ而シテ其ノ任實ニ繋リテ汝等青少年学徒ノ雙肩ニ在リ汝等其レ気節ヲ尚ビ廉恥ヲ重ンジ古今ノ史實ニ稽ヘ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ嚮フ所正ヲ謬ラズ各其ノ本分ヲ格守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質實剛健ノ気風ヲ振勵シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ
 
 国家をささえるべく青少年生徒への「国民」としての意識統制の重要さがみてとれますでしょうか。1941年の国民学校令を前にして、またその時に国定教科書も完全に全科目実施されるのですが、そういう戦時期・戦前の国民意識づくりがはかられたのだと考えます。
 
 そして戦時期教育体制になり以下のとおり教育に関する特例が出されます。

★国民学校令等戦時特例(抄)(昭和十九年二月十六日勅令第八十号)
第一条 本令ハ大東亜戦争ニ際シ学校教育ニ付時局ニ即応スル措置ヲ講ズルヲ以テ目的トス    (・・・以下は略・・・)
附則
(二段目から)畏クモ宣戦ノ大詔渙発セラレテ茲ニ二年有半御稜威ノ下能ク東亜ノ要域ヲ確保大東亜ノ建設亦日ニ進ミツツアリト雖モ暴戻ナル敵ノ反抗ハ最近頓ニ熾烈ヲ加ヘ精鋭比ナキ皇軍ノ前ニ只管物力ヲ侍ミトシテ執拗ニ決戦ヲ挑ミ来ル正ニ皇国隆替ノ岐ルルトコロ未曾有ノ危局ナリト謂フヘシ国家非常ノ秋ニ方リ義勇公ニ奉スルハ光輝アル我カ伝統ナリ乃チ前線銃後ヲ貫キ国民即戦士ノ自覚ニ徹シ一億蹶起シテ戦闘配置ニ就ク就中学徒ハ曩ニ一部ノ勇躍出陣ヲ送リ決眦待望今日ニ及ヘルモ今ヤ中等学校程度以上ノ学徒ハ挙テ常時勤労其ノ他ノ非常任務ニ服スヘキ組織的態勢ノ下適時出動ノ機ヲ迎フ事固ヨリ決戦非常ノ措置ニ出ツト雖モ将来国家須要ノ人材タルヘキ学徒ヲシテ勤労其ノ他非常任務ニ従ハシム蓋シ我力教育史上空前ノコトト謂フヘシ

惟フニ行学ヲ一体トシ文武ヲ一如トシテ能ク皇国民ノ錬成ヲ効スハコレ我カ教学ノ本義ニシテ最近数次ニ亘ル教育改革ノ趣旨一ニ此ニ在リ這般ノ学徒出陣今次ノ学徒出動亦斉シク我カ教学精神ノ決戦下ニ於ケル具体的顕現ニ他ナラス宜シク実学ヲ重ンシ事上錬磨ヲ尚フ我カ国風ノ精髄ヲ味得シ現実ナル勤労其ノ他ノ諸活動ニ於テ教育ノ終局的ナル意義ト効果ノ発揚セラルル所以ヲ体認スヘキナリ特ニ学徒ノ勤労動員ハ其ノ体得セル教養訓練ト独自ノ組織力トヲ活用スルヲ以テ要諦トシ之ヲ以テ単ナル労務ノ提供トナスカ如キハ断シテ許サレサルトコロナリ乃チ教育ノ種類程度ニ適応セル作業ヲ選ヒ学校ト職場生活ト修練トヲ相即一体タラシムルニ力メ奉公勤公ノ皇国勤労観ニ徹セシムルト共ニ常ニ学徒タルノ矜持ヲ保チ自学求道ノ謙虚ナル態度ヲ持セシメ其ノ出動ニ方リテハ教職員ヲ中心トスル学校報国隊ノ組織編成ヲ以テシ整然タル規律節制ノ下溌刺タル意気ト力トヲ以テ精進事ニ当ラシメ力メテ専攻ノ学理力生産ノ実際ニ於テ如何ニ応用セラルルカヲ考察玩味セシムルヲ要ス斯クシテ学徒勤労動員ノ行ハルルトコロ自ラ一ノ風尚ヲ醸成シ延イテ現場ノ全体ニ清新ノ気ヲ横溢セシメ生産効率ノ上昇戦力ノ飛躍的増強期シテ侯ツヘク以テ挙国勤労態勢一新ノ契機タルヘシコレ国家焦眉ノ要請ニシテ学徒動労動員ノ真価此ニ発揮セラルルヲ銘記セサルヘカラス

更ニ之力指導ニ方リテ深ク叙上ノ趣旨ヲ究メテ万般ノ措置悉ク此ニ出ツヘキハ勿論特ニ学徒ノ心情ヲ確把シ其ノ純真ナル奉公心ヲ実践ノ上ニ遺憾ナク発揮セシムルヲ旨トシテ周到ナル注意ヲ払フト共ニ苟モ規矩ニ拘泥スルコトナク機ニ鑑ミ変ニ処シテ実情ニ即スル創意工夫ヲ回ラシ指導誘掖ノ適切ヲ期スルヲ肝要トス之ヲ要スルニ今次学徒動員ハ真ニ劃期的ナル国家施策ニシテ教育ノ効果ヲ発揚スヘキ機会今日ニ勝ルモノナシ変転極リナキ世界情勢ノ中ニ皇国ノ嚮フヘキトコロハ炳トシテ明カニシテ国家悠久ノ発展ニ学徒ノ荷フヘキ任務愈々重キヲ加フ決戦必勝ノ果ハ凡ユル苦難ヲ超克シ淬励ノ誠ヲ尽シテ然ル後始メテ之ヲ得ヘク一億蹶起ノ先駆タルヘキ学徒動員ノ意義倍々大ナリ職トシテ教育ニ携ハル者宜シク教育ノ重大性ニ思ヲ致スト共ニ学徒動員ノ趣旨ノ存スルトコロヲ諒得シ奮励精進以テ其ノ成果ノ発揚ニ渾身ノカヲ竭スヘシ
 
  国家総動員体制ともいわれますが、戦時において「国民意識」と国家として戦争に臨む上での統制が確認されています。同年、次の法令も公布されました。

★学徒勤労令(抄)(昭和十九年八月二十三日勅令第五百十八号)
第一条 国家総動員法第五条ノ規定ニ基ク学徒(国民学校初等科及之ニ準ズベキモノノ児童並ニ青年学校ノ生徒ヲ除ク)ノ勤労協力及之ニ関連スル教職員ノ勤労協力(以下学徒勤労ト総称ス)ニ関スル命令並ニ同法第六条ノ規定ニ基ク学徒勤労ヲ為ス者ノ使用又ハ従業条件ニ関スル命令ニシテ学徒勤労ヲ受クル者ニ対スルモノニ付テハ当分ノ内本令ノ定ムル所ニ依ル
第ニ条 学徒勤労ハ教職員及学徒ヲ以テスル隊組織(以下学校報国隊ト称ス)ニ依ルモノトス但シ命令ヲ以テ定ムル特別ノ場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ学校報国隊ニ依ラザルコトヲ得
第三条 学徒勤労ニ当リテハ勤労即教育タラシムル様力ムルモノトス
第四条 学徒勤労ハ国、地方公共団体又ハ厚生大臣若ハ地方長官(東京都ニ在リテハ警視総監)ノ指定スル者ノ行フ命令ヲ以テ定ムル総動員業務ニ付之ヲ為サシムルモノトス
第五条 引続キ学徒勤労ヲ為サシムル期間ハ一年以内トス
第六条 学校報国隊ニ依ル学徒勤労ニ付其ノ出動ヲ求メントスル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ文部大臣又ハ地方長官ニ之ヲ請求又ハ申請スベシ学校ノ校地、校舎、設備等ヲ利用シテ為ス学校報国隊ニ依ル学徒勤労ニ付亦同ジ   (以下略)
 
 以上が、戦時期までの、日本の教育の考え方だったのですね。補助プリントに「戦時教育体制」の事典の記述を載せておきました(略)。
 
 これが戦後にガラリと変えられた。「日本国憲法」の精神に基づいて「教育基本法」が定められた。「民主主義」に基づく「教育」という方向へガラリと転換したのですね。そういうものが検討された、占領軍による指導や受け止める日本側の自主的な教育案は、後の「使節団報告書」や、あるいは機会があれば「教育刷新委員会・審議会」の議事録というのをみればですね、現在の「教育改革国民会議」の議事録のように、様々な意見・案がでてきたということがわかるし、そしてその結果どう反映されたのかもわかります。いずれ紹介します。
 とにかく各学校については次のような法令を定めました。
 

★学校教育法(昭和二十二年三月二十九日法律第二十六号)
第一章総則
第一条 この法律で、学校とは、小学校、中学校、高等学校、大学、盲学校、聾学校、養護学校及び幼稚園とする。
(中略)
第三章中学校
第三十五条 中学校は、小学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を施すことを目的とする。
第三十六条 中学校における教育については、前条の目的を実現するために、左の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一 小学校における教育の目標をなお充分に達成して、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。
三 学校内外における社会的活動を促進し、その感情を正しく導き、公正な判断力を養うこと。
(中略)
第四章高等学校
第四十一条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第四十二条 高等学校における教育については、前条の目的を実現するために、左の各号に掲げる目標の達成に努めなければならないい。
一 中学校における教育の成果をさらに発展拡充させて、国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会において果さなければならない使命の自覚に基き、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること。
三 社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること。
 
 個性や選択など、民主主義が重視されたものですね。これは戦前の教育理念とはガラリと変わったわけです。ちなみに「中等教育原論」の授業(読み替え)であるので、中学校・高等学校のところをみていただきました。いわゆる「一条校」のことも言いましたが、日本の教育の「公平」性という理念もここに記されてはいるかなと。
 この戦後の教育の方針は次の資料(1945年)にも明らかです。
 

★新日本建設ノ教育方針(昭和二十年九月十五日)
文部省デハ戦争終結ニ関スル大詔ノ御趣旨ヲ奉体シテ世界平和ト人類ノ福祉ニ貢献スベキ新日本ノ建設ニ資スルガ為メ従来ノ戦争遂行ノ要請ニ基ク教育施策ヲ一掃シテ文化国家、道義国家建設ノ根基ニ培フ文教諸施策ノ実行ニ努メテヰル

一 新教育ノ方針
大詔奉体ト同時二従来ノ教育方針ニ検討ヲ加へ新事態ニ即応スル教育方針ノ確立ニツキ鋭意努力中デ近ク成案ヲ得ル見込デアルガ今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシテ謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ科学的思考力ヲ養ヒ平和愛好ノ念ヲ篤クシ智徳ノ一般水準ヲ昂メテ世界ノ進運ニ貢献スルモノタラシメソトシテ居ル

二 教育ノ体勢
決戦教育ノ体勢タル学徒隊ノ組織ヲ廃シ戦時的教育訓練ヲ一掃シテ平常ノ教科教授ニ復帰スルト共ニ学校ニ於ケル軍事教育ハ之ヲ全廃シ尚戦争ニ直結シタル学科研究所等モ平和的ナモノニ改変シツツアル

三 教科書
教科書ハ新教育方針ニ即応シテ根本的改訂ヲ断行シナケレバナラナイガ差当リ訂正削除スベキ部分ヲ指示シテ教授上遺憾ナキヲ期スルコトトナツタ

四 教職員二対スル措置
教育者若ハ新事態ニ即応スル教育方針ヲ把握シテ学徒ノ教導ニ適進スルコトガ肝要デアル、之ガ為メ文部省ニ於テハ教職員ノ再教育ノ如キ計画ヲ策定中デアル、尚復員者並ニ産業界軍部等ヨリノ転入者ニ対シテモ同様ナ措置ヲ計画シテヰル

五 学徒ニ対スル措置
勤労動員、軍動員ニヨル学力不足ヲ補フ為メ適当ナル時期ニ特別教育ヲ施ス方針デアル、又転学、転科等モ一部認メルコトトシテ目下具体案ヲ考究中デアル、尚陸海軍諸学校ノ在学者及卒業者ニ対シテハ前項ノ再教育ヲ施シタル上文部省所管ノ各学校ニ夫々ノ程度ト本人ノ志望トニヨリ入学セシメ之ヲ教育スルコトニ決定シタ

六 科学教育
科学教育ノ振興ヲ期スルコトハ勿論デアルガ然シソノ期スル所ノ科学ハ単ナル功利的打算ヨリ出ヅルモノデナク悠遠ノ真理探求ニ根ザス純正ナ科学的思考力ヤ科学常識ヲ基盤トスルモノタラシメントシテヰル
(以下略)
 
 「戦前・戦時期」の教育を反省・批判して、こりかたまった固定観念をうえつけられる教育ではなく、科学的なそういう知識・思考法をそなえた人材育成のために教育はなくてはならないのだというのですね。「新」教育なのだというわけです。一新、刷新であるはずです。
 同年の次の資料には、その中でも「排外」的思想をうえつける科目(修身や日本歴史、日本地理)を廃止するのだと記されています。
 

★修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件(昭和二十年十二月三十一日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官第八号民間情報教育部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府宛覚書)
一 昭和二十年十二月十五日附指令第三号国家神道及ビ教義ニ対スル政府ノ保障ト支援ノ撤廃ニ関スル民間情報教育部ノ基本的指令ニ基キ且日本政府ガ軍国主義的及ビ極端ナ国家主義的観念ヲ或ル種ノ教科書ニ執拗ニ織込ンデ生徒ニ課シカカル観念ヲ生徒ノ頭脳ニ植込マソガ為メニ教育ヲ利用セルニ鑑ミ茲ニ左ノ如キ指令ヲ発スル

(イ)文部省ハ曩ニ官公私立学校ヲ含ム一切ノ教育施設ニ於イテ使用スベキ修身日本歴史及ビ地理ノ教科書及ビ教師用参考書ヲ発行シ又ハ認可セルモコレラ修身、日本歴史及ビ地理ノ総テノ課程ヲ直チニ中止シ司令部ノ許可アル迄再ビ開始セザルコト

(ロ)文部省ハ修身、日本歴史及ビ地理夫々特定ノ学科ノ教授法ヲ指令スル所ノ一切ノ法令、規則又ハ訓令ヲ直チニ停止スルコト

(ハ)文部省ハ本覚書附則(イ)ニ摘要セル方法ニ依リテ設置スル為メニ(一)(イ)ニ依リ影響ヲ受クベキアラユル課程及ビ教育機関ニ於テ用ヒル一切ノ教科書及ビ教師用参考書ヲ蒐集スルコト

(ニ)文部省ハ本覚書附則(ロ)ニ摘要セル措置ニ依リテ本覚書ニ依リ影響ヲ受クベキ課程ニ代リテ挿入セラルベキ代行計画案ヲ立テ之ヲ当司令部ニ提出スルコト之等代行計画ハ茲ニ停止セラレタル課程ノ再開ヲ当司令部ガ許可スル迄続イテ実施セラルベキコト

(ホ)文部省ハ本覚書附則(ハ)ニ摘要セル措置ニ依リ修身、日本歴史及ビ地理ニ用フベキ教科書ノ改訂案ヲ立テ当司令部ニ提出スベキコト

二 本指令ノ条項ニ依リ影響ヲ受クベキ日本政府ノ総テノ官吏、下僚、傭員及ビ公私立学校ノ総テノ教職員ハ本指令ノ条項ノ精神並ニ字句ヲ遵守スル責任ヲ自ラ負フベキコト

三 附則略
 
 これが戦後の「新教育」のスタートだったのですね。それがどう揺れ動いたかはこれまでも比較でみてきたのですが・・・。以前にアメリカナイズと授業では言っていますが、基本的には「連合国」に占領されていたわけで、どちらかというと西欧的民主化路線というべきかもしれません。事実上駐留したのは米国軍でしたし、これまでも条約の関係上そうなのですが、とにかくこの「戦後」の改革にも米国の思想・制度は欠かせないものであった。実際に「日本の教育をどうするか」というのが一つの課題になりましたし、日本側委員という日本人のグループと交流しながら、現在の教育の基本的な「かたち」はつくられてきたわけです。つまり「日米関係」そのものかもしれない。そういった話は置いておきまして、とにかく、米国の影響は大きく、そして米国も日本の教育を研究して考えた。
 

★米国教育使節団報告書  (要旨)(昭和二十一年三月三十一日)
日本派遣米国教育使節団員・・・団長ジョージ・J・ストダードを含め27人。一か月間滞在し、その間連合国最高司令部民間情報教育部教育課の将校および日本の文部大臣の指名にかかる日本側教育者委員、および日本の学校および各種職域の代表者とも協議をとげた。
 「日本の教育の目的および内容高度に中央集権化された教育制度は、かりにそれが極端な国家主義と軍国主義の網の中に捕えられていないにしても、強固な官僚政治にともなう害悪を受けるおそれがある。教師各自が画一化されることなく適当な指導の下に、それぞれの職務を自由に発展させるためには、地方分権化が必要である。かくするとき教師は初めて、自由な日本国民を作りあげる上に、その役割をはたしうるであろう。この目的のためには、ただ一冊の認定教科書や参考書では得られぬ広い知識と、型通りの試験では試され得ぬ深い知識が、得られなくてはならない。カリキュラムは単に認容された一体の知識だけではなく、学習者の肉体的および精神的活動をも加えて構成されているものである。それには個々の生徒の異たる学習体験および能力の相違が考慮されるのである。それ故にそれは教師をふくめた協力活動によって作成され、生徒の経験を活用しその独創力を発揮させなくてはならないのである。
 日本の教育では独立した地位を占め、かつ従来は服従心の助長に向けられて来た修身は、今までとは異った解釈が下され、自由な国民生活の各分野に行きわたるようにしなくてはならぬ。平等を促す礼儀作法・民主政治の協調精神および日常生活における理想的技術精神、これらは、皆広義の修身である。これらは、民主的学校の各種の計画および諸活動の中に発展させ、かつ実行されなくてはならない。地理および歴史科の教科書は、神話は神話として認め、そうして従前より一そう客観的な見解が教科書や参考書の中に現われるよう、書き直す必要があろう。初級中級学校に対しては地方的資料を従来より一そう多く使用するようにし、上級学校においては優秀なる研究を、種々の方法により助成しなくてはならない。」(以下略)
 
 以上のような使節団が来たのですね。同使節団員は、ジョン・N・アンドルウス、ハロルド・ベンジャミン、ゴードン・T・ボウルス、レオン・カルノフスキー、ウイルソン・コムブトン、ジョージ・S・カウンツ、ロイ・J・デフェラリー、ジョージ・W・ディーマ 、カーミット・イービー、フランク・Nフリーマン、ヴァージニア・C・ギルダースリーヴ、ウィラード・E・ギヴンス、アーネスト・R・ヒルガード、フレデリック・G・ホックウォルロ、ミルドレッド・マカフィー・ホートン、チャールズ・N・ジョンソン、アイザック・L・カンデル、チャールズ・H・マックロイ、E・B・ノートン、T・V・スミス、ディヴィット・ハリソンステイーヴンス、ボール・B・スチュアート、アレクサンダー・J・ストダード、(団長)ジョージ・J・ストダード、W・クラーク・トロウ、パール・A・ワナメーカー、エミリー・ウッドワードでして、著名な教育学者たち中心でした。
 しかし、注目しておきたいのは、まさに「国」対「国」の関係が「教育」関係そのものではないかということです。いずれお話ししたいです。この使節団には第二陣もありました。
 

★第二次訪日アメリカ教育使節団報告書(要旨)(昭和二十五年九月二十二日)
第二次訪日アメリカ教育使節団員・・・団長ウイラード・E・ギヴンス含め5名。マッカーサー元帥の招請によってふたたび来朝し、一か月滞在。
 「二 建築の様式に対する研究。
a 独立的思考力・創意・および創造的経験を奨励する如き教育課程の必要を充たすこと。」
 
 この使節団員は、ハロルド・ベンジャミン、ジョージ・W・ディーマ、フレデリック・G・ホックウォルト、パール・A・ワナメーカー、(団長)ウイラード・E・ギヴンスでした。昭和二十五年八月二十七日に東京に到着。マッカーサー元帥の招請によって来朝、約一ケ月滞在して、昭和二十一年に提出していた勧告事項の進行と成果とを研究したのですね。
 「日本の将来は、公立学校教育制度の成否と緊密に連関している」として、「民主的教育計画の実質を真に確保するためには、改革はなお継続されなければならない」のだと言いました。そのために資金的(絶対無償、教科書学用品の無償配布をも含む)な面の改革が必須だとしました。とにかく民主主義確立のための制度的保証が必要だというわけです。ちなみに余談ですが団長で1次につづいて日本に来ているギブンスはハワイのハイスクール校長もやっていたのですが、そのハイスクールはハワイ一の進学校でさらに日系人や移民が多かったところです。日本人理解のある人だったともいえるし、彼以前の同校校長は明治初期に初代の師範学校外国人教師として近代教授法と教員養成法を導入したスコットという人物だったのです。そういう因縁めいた縁もありました。また別にお話しします。
 
 以上のような意見、流れを経て、「日本の教育」は戦前のものとは変えられたのです。「詔勅」のたぐいと全く違い、むしろその批判からはじまったことがわかっていただけるかと思います。
 しかし、「揺れ動き」があったのですね。やはり約10年で「統制」的面がでてくる。「学習指導要領」の「試案」という文字と性格が消され、「自由研究」も困難で学力低下といわれてか消え去る。官報掲示方式で「法制」的に強制性が強められ、1958年には「道徳」が復帰となりました。「道徳」が「足りない」「必要だ」と考えられたわけですね。そういう意見がでてきたのだと。
 ちょうど戦後の復興期を経て、高度経済成長といいましょうか、日本経済がアップしていくころ、つまり自信をとりもどしはじめるころ、同時に「反省」をもうすめさせてしまうというか、不遠慮・配慮欠如的考えがでてくるわけです。辞書の記述で「教育勅語」でみたところにもそういう考えが時々復活するとありましたね。
 先週の『プロジェクトX』というNHKの人気番組で、「霞が関高層ビル建設」の話が放送されました。それが「海外に負けない技術」で「元気になること」という。そのとおりだと思います。これがちょうどこの昭和40年前後なのです。
 新幹線も開通し、そして東京オリンピックや、万博などもあり、「日本人」がもりあがってきたころ・・・、悪気なく「ナショナリズム」が高揚したこのころ・・・、次のような「教育への期待」文書が物議を醸したのでした。工業化が進み、経済発展が進み、そして対外関係がかわるこのころ、「ふさわしい」とされる人材観、「こういう人間が育成されるべきだ」という期待感がかわりつつあったのか、あるいは批判や不満の反映なのか、次のような文書が出てきたわけです。
 

★1966/10 中央教育審議会答申等 後期中等教育の拡充整備について (第20回答申(昭和41年10月31日)) 
「別 記」期待される人間像
  (部分部分省略しています)
ま え が き
「第1部 当面する日本人の課題」・「第2部 日本人にとくに期待されるもの」
第1部 当面する日本人の課題
1 現代文明の特色と第1の要請
2 今日の国際情勢と第2の要請
 以上は現代社会に共通する課題であるが,今日の日本人には特殊な事情が認められる。第2次世界大戦の結果,日本の国家と社会のあり方および日本人の思考法に重大な変革がもたらされた。戦後新しい理想が掲げられはしたものの,とかくそれは抽象論にとどまり,その理想実現のために配慮すべき具体的方策の検討はなおじゅうぶんではない。とくに敗戦の悲惨な事実は,過去の日本および日本人のあり方がことごとく誤ったものであったかのような錯覚を起こさせ,日本の歴史および日本人の国民性は無視されがちであった。そのため新しい理想が掲げられはしても,それが定着すべき日本人の精神的風土のもつ意義はそれほど留意されていないし,日本民族が持ち続けてきた特色さえ無視されがちである。
 日本および日本人の過去には改められるべき点も少なくない。しかし,そこには継承され,発展させられるべきすぐれた点も数多くある。もし日本人の欠点のみを指摘し,それを除去するのに急であって,その長所を伸ばす心がけがないならば,日本人の精神的風土にふさわしい形で新たな理想を実現することはできないであろう。われわれは日本人であることを忘れてはならない。
 今日の世界は文化的にも政治的にも一種の危機の状態にある。たとえば,平和ということばの異なった解釈,民主主義についての相対立する理解の並存にそれが示されている。
 戦後の日本人の目は世界に開かれたという。しかしその見るところは,とかく一方に偏しがちである。世界政治と世界経済の中におかれている今日の日本人は,じゅうぶんに目を世界に見開き,その複雑な情勢に対処することができなければならない。日本は西と東,北と南の対立の間にある。日本人は世界に通用する日本人となるべきである。しかしそのことは,日本を忘れた世界人であることを意味するのではない。日本の使命を自覚した世界人であることがたいせつなのである。真によき日本人であることによって,われわれは,はじめて真の世界人となることができる。単に抽象的,観念的な世界人というものは存在しない。(以下略)
 3 日本のあり方と第3の要請

 第2部 日本人にとくに期待されるもの
 第1章 個人として
 1 自由であること、 2 個性を伸ばすこと、 3 自己をたいせつにすること、 4 強い意志をもつこと、 5 畏(い)敬の念をもつこと

 第2章 家庭人として
 1 家庭を愛の場とすること、 2 家庭をいこいの場とすること、 3 家庭を教育の場とすること、 4 開かれた家庭とすること

 第3章 社会人として
 1 仕事に打ち込むこと、 2 社会福祉に寄与すること、 3 創造的であること、 4 社会規範を重んずること

 第4章 国民として
 1 正しい愛国心をもつこと
 今日世界において,国家を構成せず国家に所属しないいかなる個人もなく,民族もない。国家は世界において最も有機的であり,強力な集団である。個人の幸福も安全も国家によるところがきわめて大きい。世界人類の発展に寄与する道も国家を通じて開かれているのが普通である。国家を正しく愛することが国家に対する忠誠である。正しい愛国心は人類愛に通ずる。
 真の愛国心とは,自国の価値をいっそう高めようとする心がけであり,その努力である。自国の存在に無関心であり,その価値の向上に努めず,ましてその価値を無視しようとすることは,自国を憎むことともなろう。われわれは正しい愛国心をもたなければならない。

 2 象徴に敬愛の念をもつこと
 日本の歴史をふりかえるならば,天皇は日本国および日本国民統合の象徴として,ゆるがぬものをもっていたことが知られる。日本国憲法はそのことを,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」という表現で明確に規定したのである。もともと象徴とは象徴されるものが実体としてあってはじめて象徴としての意味をもつ。そしてこの際,象徴としての天皇の実体をなすものは,日本国および日本国民の統合ということである。しかも象徴するものは象徴されるものを表現する。もしそうであるならば,日本国を愛するものが,日本国の象徴を愛するということは,論理上当然である。
 天皇への敬愛の念をつきつめていけば,それは日本国への敬愛の念に通ずる。けだし日本国の象徴たる天皇を敬愛することは,その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである。このような天皇を日本の象徴として自国の上にいただいてきたところに,日本国の独自な姿がある。

 3 すぐれた国民性を伸ばすこと
 
 なぜ、物議を醸したかはわかりますね。戦後の改革時に否定されたもの、それとのあまりもの違いがでていると思います。ちなみに「中央教育審議会」は文部省の教育政策諮問機関ですね。そういうところで諮問されてでてきた答申がこれだったわけです。今の「教育改革国民会議」は性格が違うけれども、しかしはじめに「諮問ありき」というか、あれだって「教育基本法の改訂を検討」という政府側の意図がみえみえです。そういうものが求められ、いわば都合のいい答えが求められた。予定調和的ともいえますね。とにかく、ここでも「愛国心」と「天皇を中心とする国体」という「過去」を否定するなという、いやそういうものを大切にしようという「求め」があったのではないでしょうか。そういう不安と思いがあった。何もないところには何もでてこないわけですから。
 反動といいますか、前のプリントでみたサミュエル・ハンチントンの「文明」の土着化方面への進行とも同じですね。そういう反動的反応がある。
 そして、前回の元田の「教学聖旨」とも共通しています。そしてさらにこの「期待される人物像」と「教学聖旨」は、現在のナショナリズム的考え、例えば「新しい歴史教科書をつくる会」の皆さんの主張とも共通するところが多いと思います。韓国や中国からその内容にクレームが出されていて外交問題にもなっている「教科書検定」の結果の採用教科書の問題です。
 私は別に「新しい歴史教科書をつくる会」自体を、存在自体を批判する気はないです。しかし、もし私のいうとおりの構造で出ている意見なのだとすれば、それは「歴史的必然性」ある「反応」ともいえるけれど、かなしい「固定観念」にこりかたまった「かなしい」「反応」ではないかと思います。こんなこというと「うちは違う」とそのポリシーやコンセプトを説かれるかもしれません。それはそれでいいのですが、年代的反応として、対極反応がでているようにみえることは事実だし、その文脈の中にちょうどはまるのでそれがどう説明されるかは・・・、これは説明者である私自身がじっくりまとめて研究をすすめていって公開しようかと考えるところでございます。
 結局は「愛国心」ですね。辞書からコピーしたものを配布しました。明治以降の「権力と組織による教化・宣伝・操作」による「愛国心の涵養」が重視され、天皇制による中央集権国家確立によって「近代化」をなし遂げようとしたと。天皇を象徴する「日の丸・君が代」等によって神格化が推進され、「忠君愛国」の精神のもと「ファシズムの台頭とともに、自民族中心の排外主義に立つ好戦的で偏狭な愛国心」を生み出したとありました。 そしてこの「期待される人間像」の後、道徳教育の中心性は説かれ、1968年学習指導要領の改訂では「神話教育」が復活したなどは、以前にみたとおりです。その時期は「つめこみ量」の多かった時でもあり、その反動やいじめ不登校・暴力など「荒廃現象」への対策として次の改正では「ゆとり」がいわれますが、しかし本当の「ゆとり」へは行けなかったことはもう結果としては出ていますね。なぜならその後の改訂でも、つまり今回の改訂でも「ゆとり」や「心の教育」がいわれている、それなのに問題が減少どころか増えていたという事実。・・・そういうことではないでしょうか。
 そして前からいうように結局は「日の丸・君が代」法制化が通り、戯言と笑うにしても森発言や、奉仕義務化や自衛隊の集団的防衛権論議が方向性の中にあげられる。個人個人いった人は違うけれど、それはもしも「歴史的」なきまりきった「反応」の中にあって無意識で行なわれているのだとしたら・・・、まさに無意味です。まぁ、これは極端な話ですが、内容は今日はここまでにします。
 資料で配布した新聞の記事は、以前にお話ししたものです。

★朝日新聞。2001年5月3日。「天声人語」
外国からどう見られるか。日本人は、この問いにとりつかれている。そのことが、この国の最大の問題の一つだ。そう言って米タイム誌アジア版恒例なぜ、物議を醸したかはわかりますね。戦後の改革時に否定されたもの、それとのあまりもの違いがでていると思います。ちなみに「中央教育審議会」は文部省の教育政策諮問言われた特集も日本特集で、83年のことだった。このテーマでの蓄積はある▼で、日本人はなぜ外からの目を気にするか、だ。関東のイアン・ブルマ氏のエッセーを手がかりに考えてみよう。日本はいつも帝国の辺境にあって、文明の中心から離れていた。しかし、文明の摂取に熱心で、常に追いつき追い越せの衝動に駆られていた▼文明の中心が中国から欧米に移り、明治の熱狂的な「文明開化」が始まる。悲劇的なのは、日本人が文明化、欧化に懸命になればなるほど、当の欧米からは滑稽(こっけい)に見られたことだ。これには傷つく。常に反動もあった。日本の「独自性」を強調する運動で、その極限が戦前の国粋主義だった。ブルマ氏の議論を乱暴にまとめれば、そんなところだろうか▼別の言葉で言えば、わが国は「拝外」と「排外」との振り子運動を繰り返してきた。外から来たものをありがたがる風潮と、排斥する運動とが常にあった。この振幅が大きかった▼自信喪失と自信過剰との間を揺れてきたといってもいい。この思春期のような揺れはそろそろ卒業してもいいだろう。ほどほどの自信と謙虚さをもつ。憲法論議も、そのほどほどさのなかでしたい。
 
 どうでしょうか。そんなにここまでみてきた「揺れ動き」と変わらない見方ですよね。そして米国の研究者の(一部の)見方でもある。ちなみにこの新聞記事が出る一日前の5月2日の授業で、私と皆さんはこの問題にふれはじめたわけです。タイムリーというより一日はやいです。まぁ、これは数年前からやっていることなので、もっともっとはやいことなのですが、ここで先見性をほこってもしようがない。それよりもそんなに見方が間違っているわけではないというのを心のスミにおいてください。もう少し、ちょっと視点を変えつつも比較の方法で考えていきます。また来週頑張っていきましょう。