第五回(5月16日)
 
〇前回の復習
 書いてもらったミニレポートは次回返します。ただいくつかの疑問にはここでお応えしておきます。
 まず、前回のオリジナルの図表での説明について、「同感する」という人もいれば「今時の若者が天皇や国家を信じて戦争に行くとは思えない」という疑問をうったえる人もいた。そうですね。私もそんなに簡単に戦争になるなどとは考えていません。ただし、その意見でいうと「昔は信じたかもしれないが」となるのでしょうが、本当に「昔」は簡単に信じて盲目的に従ったのでしょうか。いやおそらく矛盾を感じた人もいたでしょうし、でもそうせざるをえない方向に動いていったというのが現実じゃないかと思うのです。
 で、「ゆれうごき」の分析に関する疑問もいただきましたが、あえていえばあの段階では単純な構図なのでいくらでも批判できます。しかし、批判の方法としては、例えば「この時代のカーブは国家主義だ」と言い切ったところに別の資料(事実)をもってきて「いや、そうとはいいきれない。十分に国際的だ」と反論しなくてはいけません。なぜなら「仮説」提示というか「構図」を批判するのですからその存在をくつがえさなければ・・・。
 でも、なんというんでしょう。単純な二分法をいってるのではないのです。分析モデルというか、そういうのを提示しただけです。今後数回やる各論もそこにあてはめて理解することもできます。
 人間、そんなに単純に二分ではないですよね。これはある「会議」のことを例にあげて説明しました。悪意や攻撃心がなくても、会議というのは「意見」への「同意者」が必要です。微妙な問題で意見が少ないときにこれでわかれめがくる。誰かの意見があたかも「同意」のように考えられとらえられるやあっというまにそちらの方向へ動いていくもの。集団心理における同調規制には恐ろしいものがあります。悪意なく、そんなのとは無関係にそういう合意が形成され動いていく。そしてお気楽にも解決後はそのときのストレスフルなことも忘れるというお気楽さ・・・。実際にそういうものが多いのではないでしょうか。
 とにかく、生理学的にも考えたい私の考え方としては人間は、社会は、人間関係は「適応反応」にその理屈があると思っているのです。
 
 それと、「学力」重視がなぜ逆の曲線になるのかという意見もありました。下の表にもありますが、これは「日本」だけではないのです。例えば米国でも同じ問題があるのです。
 日米の教育を比較してみると、お互いにないもの(相手にあるもの)を模倣する方向にあると言える。クリントン前大統領下の米国は「日本」的なナショナルカリキュラム的な教育を模索していました。「経験的」カリキュラム路線の日本とは正反対の反応なのです。これは日本も模倣される対象にまでなったということでもあるし、また「学力低下」と「個性尊重の学習観」とは常にこの間をゆれうごくという相反する性質をもつものともいえます。
 イメージ的には、日本は「学力重視タイプ」で「基礎的・基本的な学習を重視」し、米国は「個性重視タイプ」で「個性尊重のために教育内容の多様化」をはかっています。前者は学力レベルが全体的に高いといういい点があり、後者には創造性あふれる人材が育つという点が顕著です。悪い点としては前者では画一的といわれますし、後者は学力の平均が低下しているということがあります。お互いにないものがあるというか、性格を異にするんですね。
 単純に図式化すると下のようになりますか。







 
 <日本>
教科カリキュラム
・教科、教材、教師が中心
・準備された教材に従って教える
 (マニュアル化)
・全員が同じく反応し、一様な学習結果を得ることが目的
・教育とは学校で教授を受ける



←  →



 
 <米国>
 経験カリキュラム
・経験や活動、学習者が中心
・実際の学習場面に応じて教材を選択
・反応も学習結果も多様、個別になることが予想される
・教育とは連続的な成長の過程







 
 
 こうみると、今の教育改革の柱である「総合的な学習の時間」「自己教育力」「生きる力」「心の教育」なんてのは、米国側の経験カリキュラムの児童中心主義に基づくものだということがわかります。だから、日本は米国の教育をモデルにしようとしている。それに対して米国では制服などにまで注目したりして、日本の教育のいい面、学力高レベル維持をモデルにして改革しようとしているのです。
 
 
◆ 教育の本質−−−時代によって、政治的状況によってかわる
 さて、今回は前回の比較をさらに裏付ける意味でも、少し具体的に当時の変革時・分岐点における教育意見(制度的・行政的にみた教育観)をみておきます。きわめて政治的状況によって「教育観」や「理念」はつくりかえられるものというのを注目してみてください。
 これから読む「文書」類は、この比較の裏付けとして使わなくても「近代教育の理念」として「教育の原理」の授業で見ておくべきものです。漢字とカナの文書は非常に読みにくいものですが、それに記されている「意味」を考えてみましょう。
 
 
★学制(明治五年八月三日文部省布達第十三号別冊) 
 まずは日本最初の近代教育法制である「学制」です。幕末の外圧から「開国」し、明治維新を迎えた。その意味で教育も「開国」したのでありきわめて「国際化」されたものともいえる。この場合の国際化は直訳摂取ということでもある。ハンチントン理論でいう上の方向・西欧化へと進んだのである。さて、この「学制」の性格・精神をあらわしたとされるその「序文」(※ いわゆる「仰出書」(おうせいだされしょ)あるいは「学制序文」。佐藤秀夫はこれを「学制布告書」と称するのが正確であると論じている。)を次にあげる。
 

第二百十四号
人々自(みづか)ら其身を立て其産(しんだい)を治め其業(ぎょう)を昌(さかん)にして以て其生(せい)を遂(とぐ)るゆゑんのものは他(た)なし身を脩め智を開き才芸を長ずるによるなり而て其身な脩め知を開き才芸を長ずるは学にあらざれば能(あた)はず是れ学校の設(もうけ)あるゆゑんにして日用常行言語書算を初め仕官農商百工技芸及び法律政治天文医療等に至る迄凡人の営むところの事学あらさるはなし人能(よ)く其才のあるところに応じ勉励して之に従事ししかして後初で生を治め産を興(おこ)し業を昌にするを得ベしされば学問は身を立るの財本ともいふべきものにして人たるもの誰か学ばずして可ならんや夫(か)の道路に迷ひ飢餓に陥り家を破り身を喪(うしなう)の徒の如きは畢竟(ひっきょう)不学よりしてかゝる過(あやま)ちを生ずるなり従来学校の設ありてより年を歴(ふ)ること久しといへども或は其道を得ざるよりして人其方向を誤り学問は士人以上の事とし農工商及婦女子に至っては之を度外におき学問の何者たるを辨ぜず又士人以上の稀に学ぶものも動(やや)もすれば国家の為にすと唱へ身を立るの基(もとい)たるを知ずして或は詞章(ししょう)記誦(そらよみ)の末に趨(はし)り空理虚談の途に陥り其論高尚に似たりといへども之を身に行ひ事に施すこと能(あたわ)ざるもの少からず是すなはち沿襲(えんしゅう)の習弊にして文明普(あま)ねからず才芸の長ぜずして貧乏破産喪家(そうか)の徒(ともがら)多きゆゑんなり是故に人たるものは学ばずんばあるべからず之を学ぶに宜しく其旨を誤るべからず之に依て今般文部省に於て学制を定め追々教則をも改正し布告に及ぶべきにつき自今以後一般の人民華士族農工商及女子必ず邑(ゆう(むら))に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す人の父兄たるもの宜しく此意を体認(たいにん)し其愛育の情を厚くし其子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるものなり高上の学に至ては其の人の材能に任すといえども幼童の子弟は男女の別なく小学に従事せしめざるものは其父兄の越度たるべき事
但従来沿襲の弊学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱ふるを以て学費及其衣食の用に至る迄多く官に依頼し之を給するに非ざれば学ざる事と思ひ一生を自棄(じき)するもの少からず是皆惑(まど)へるの甚(はなはだ)しきもの也自今以後此等の弊を改め一般の人民他事(たじ)を抛(なげう)ち自ら奮(ふるっ)て必ず学に従事せしむべき様心得べき事

右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加へ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事

 明治五年壬申七月
 太政官
 
 最初に「立身出世」のためにも、個人の自立や成功のためにも「学ぶ」ことが重要だと言っています。そして従来(従前)の学校は武士中心で、また実学でなかったこともあるとして、旧来の教育を批判する。そして父兄の責務・義務として就学を位置づけているのですね。ここらへんはきわめて近代性があるものと思います。
 しかし「ただし書き(但)」で従来の「国家」(藩)では教育経費の負担を藩側がしていたために個人が教育に対する意識に欠けていたと言っています。これは「受益者負担」の原則を言っているのですが、それよりも旧来の幕藩制度から人民をとりあげるというか、解放するという目的があったのですね。しかし、なんにしろ制度的保証は欠けていたのでその点では現代の公教育とは若干異なります。
 ちなみに締めで「右之通被 仰出候」となっていますが、この空欄部分・文字が欠けている部分は「欠字」であり天皇から下されたということなのですね。それで「仰られた文書」ということになりますし、従来「仰出書」といわれてきた理由でもあると思います。
 
 この「学制」は近代的ながらも「急進的すぎて実情に適さず反対が多かった」ともいわれますが、しかしそれでも施行3年後の1875(明治8)年には約2万4000校の小学が設置されていました。現在にせまるレベルの数です。もちろん校舎が代用(あるいは劣悪)だったり生徒数や環境の面でも「規模は異なる」ものであることはいうまでもありません。しかし、それにしてもすごい「統制」の一面だと思いますし、「民衆の負担」は大きかったとも思います。社会的な不満も高まったのは事実でしょう。そして、この時期には「自由民権運動」らも出てくるわけです。「もっと人民の権利を」的な風潮も高まる。そんな中で「国語科目の整理」的にいじられ、また他を簡素化したのが1879(明治12)年のいわゆる「自由教育令」でした。ある種、「自由民権」的に各地域まかせだったりした面もある。当時の影響はあったと思います。
 これに不満をもった宮中派の元田永孚(もとだ・ながざね)が批判文書「教学聖旨」(あるいは教学大旨)を寄せています。「修身」道徳重視の教育の必要を説いているのですね。

★教学聖旨大旨(明治十二年)
教学ノ要仁義忠孝ヲ明カニシテ智識才藝ヲ究メ以テ人道ヲ盡スハ我祖訓國典ノ大旨上下一般ノ教トスル所ナリ然ルニ輓近専ラ智識才藝ノミヲ尚トヒ文明開化ノ末ニ馳セ品行ヲ破り風俗ヲ傷フ者少ナカラス然ル所以ノ者ハ維新ノ始首トシテ陋習ヲ破り知識ヲ世界ニ廣ムルノ卓見ヲ以テ一時西洋ノ所長ヲ取り日新ノ效ヲ奏スト難トモ其流弊仁義忠孝ヲ後ニシ徒ニ洋風是競フニ於テハ將來ノ恐ルル終ニ君臣父子ノ大義ヲ知ラサルニ至ランモ測ル可カラス是我邦教学ノ本意ニ非サル也故ニ自今以往祖宗ノ訓典ニ基ヅキ専ラ仁義忠孝ヲ明カニシ道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ人々誠實品行ヲ尚トヒ然ル上各科ノ学ハ其才器ニ隨テ益々畏長シ道徳才藝本末全備シテ大中至正ノ赦学天下ニ布満セシメハ我邦獨立ノ精紳ニ於テ宇内ニ恥ルコト無カル可シ

小学條目二件
一 仁義忠孝ノ心ハ人皆之有り然トモ其幼少ノ始ニ其脳髄ニ感覚セシメテ培養スルニ非レハ他ノ物事已ニ耳ニ入り先入主トナル時ハ後奈何トモ爲ス可カラス故ニ當世小学校ニ給圖ノ設ケアルニ準シ古今ノ忠臣義士孝子節婦ノ畫像・寫眞ヲ掲ケ幼年生人校ノ始ニ先ツ此畫像ヲ示シ其行事ノ概略ヲ説諭シ忠孝ノ大義ヲ第一ニ脳髄ニ感覚セシメンコトヲ要ス然ル後ニ諸物ノ名状ヲ知ラシムレハ後來思孝ノ性ニ養成シ博物ノ挙ニ於テ本末ヲ誤ルコト無カルヘシ
一 去秋各縣ノ季校ヲ巡覧シ親シク生徒ノ藝業ヲ験スルニ或ハ農商ノ子弟ニシテ其説ク所多クハ高尚ノ空論ノミ甚キニ至テハ善ク洋語ヲ言フト雖トモ之ヲ邦語ニ譯スルコト能ハス此輩他日業卒り家ニ帰ルトモ再タヒ本業ニ就キ難ク又高尚ノ空論ニテハ官ト爲ルモ無用ナル可シ加之其博聞ニ誇り長上ヲ侮リ縣官ノ妨害トナルモノ少ナカラサルヘシ是皆教学ノ其道ヲ得サルノ弊害ナリ故ニ農商ニハ農商ノ学科ヲ設ケ高尚ニ馳セス實地ニ基ツキ他日学成ル時ハ其本業ニ帰リテ益々其業ヲ盛大ニスルノ教則アランコトヲ欲ス
 
 下線を付しましたが、「維新後の教育は欧化に傾きすぎである」と批判して、今後(将来の日本)が心配だと危惧しているのですね。儒教道徳重視の教育が必要なんだと。
 そして「農商ニハ農商ノ学科ヲ設ケ高尚ニ馳セス實地ニ基ツキ」というようにある種、前近代的な身分制度的考え方まで述べています。教育近代化への批判なのですね。
 
 もちろんこの意見に対して「学制」以降欧化政策を進める政府側は反対を示し、伊藤博文(政府代表)は「教育議」を発表して論争をしています。しかし、「自由民権運動」対策ということもあって、この元田の意見に寄るというか、天皇の権威を利用する方向へと方針の転換をします(あくまでも単純にいえば、「民権」が達成されると当時の「政府」は立場を失うことにもつながるわけですから・・・、例えば明治初期、キリスト教布教が禁止されたのもそういう西洋思想への警戒があったわけです。これについてもまたお話しします)。翌年の「改正教育令」で「修身」が筆頭となり、そして国会開設運動や大日本帝国憲法とのおりあいもあって、1890(明治23)年には「教育勅語」が出されて、この戦前の教育体制ができあがってくるのです。
 

★教育ニ關スル勅語(明治二十三年十月三十日)
朕惟フニ我力皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我力臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我力國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨り朕力忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我力皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
 
 天皇制国家のための教育理念が記されています。これは祝日大祭日儀式の規定などとも関連して、日の丸・君が代ともセットになって、天皇の写真(御真影)とともに儀式に必須のものとされ、各学校へ下賜されて儀式で校長によって奉読されたのですね。これは「天皇のことばである」と・・・。内容は「皇国史観の国体」が記され、15の徳目が具体的に示されています。これを遵守することが「国民」の義務であるということですね。永遠の真理なのだからというわけです。井上毅という人物(官僚)が作成したといわれていますが、「天皇」のことばだから神聖でおかすべからざるものとされていました。
 
 今回はここまでにしますが、ここまででも「学制」と「勅語」ではかなり教育理念が違うのがわかりますでしょうか。次回、この続きをやりますが、次の戊申詔書は勅語から20年後、それから20年後に國民精紳作興ニ關スル詔書が出ていますね。節目に、きっかけがあって出された詔勅の類ですが、その「節目」がなんであったのか、明治後期から大正自由教育をはさむ時期であったことだけを述べて今回は終わります。
 それと、私のいう「揺れ動き」ですが、朝日新聞に先日同じような意見が掲載されていました。まだまだ大きな枠組みだからいまいちすっきりとしないでしょうが、全体の雰囲気としてはそう考える人はほかにもいるということで、あたらずも遠からずというところと考えています。これから細かく、全体を通して「比較」の考え方をすすめていきたいと思います。