第四回(5月9日)
 
 前回、教育内容の変遷、及び年譜から教育の性質の変容について論じてみたが、今回、あらためて、戦後の学習指導要領改訂の動きを記した略図も加えて、さらに考えてみましょう。
 
  <日本の近代化の略図>
 
 
 上の図はあくまでもイメージであることをおことわりしておきます。そして「教育制度」は実施されて、なんとなく10年ぐらいで批判され、反動の面がでてきて、結局20年目ぐらいで「独自性」の面へと動いていることと、それは最初の教育の「開国」政策ともいえる「学制」(明治5年)公布の時も、そして「第二の開国」といわれる「戦後」教育政策(学習指導要領)実施の時にも同じような気運がもりあがっている、同様な「反応」がでているようにもみえるのではないでしょうか。
 もちろん、これだけで比較して判断するのは材料が足りなさすぎます。「文化的・イデオロギー側面」も含んではいますが、「経済的側面」、「政治的側面」、「国際関係・世界システム的側面」も別個に詳細にみて、それから統合して判断する必要があるでしょうし、また「人口動態における世代」なども注目しておく必要があるでしょう。
 そして、「学力」論争で語られますが、「学力」が重視されるか、それとも「経験や個性」が尊重されるのかの「教育観・学習観」の違いも、この図表にあてはめてみれば、例えば「学力重視」の曲線は上下をあわせれば「西洋化」に反比例する曲線となることが多いという傾向もあります。もちろん「西洋化」=「学力低下」ではなく、「自由」の風潮を批判するときに「学力が・・・」という台詞がつかわれることがあるというだけです。もちろん近代化当初のように「西洋の知識導入」=「学力向上」というときもありました。するとこの「相関」は反比例なのか、時間的なズレなのかの問題もあります。そもそもその時の「語られ方」ですから、極めて権力的・政治的なものになりやすいという現実があります。
 1870年代から80年代までのまさに「教育の明治維新期」から、宮中派の元田永孚(もとだ・ながざね)等のその批判を経て「修身」道徳重視の教育に変わっていき、その後の原型が形成された。まさに教科書の自由出版・翻刻から検定制、そして国定教科書へと管理が徹底され、また儀式等で生活リズムまでもしばる「教育勅語」体制になって戦前の国家「日本」は完成されたといえるでしょう。しかし世界的な「新教育運動」の流れもあり、大正デモクラシーと称される風潮になって「自由教育」という新しい欧化の波がみられました。この下から出てきたものを文部省も政府もある種自由にさせていたのでしょう。ただしこの時期には日清・日露から第一次世界大戦があり、関東大震災等もあったりで、国際関係のみならず、国内外にわたってナショナリズムが高まりやすい条件になっていたということもあります。その後、ファナティックに戦争への道を走り、敗戦を迎えた。占領下、新しい民主的な憲法の下、教育基本法・学校教育法等によって新しい教育がはじまった。教育内容は今と同じでこの時期は「民主化の模索」の時期かと思える。その後1950年代から高度経済成長へと向かって「現代の日本の姿」がここらで形成されたと考えられます。そして今に至る・・・。
 
 ちなみに、この上下する変容については、サミュエル・ハンチントンの本にあった図表が有効な示唆を与えてくれると思っています。次にその図をあげます。
 
 
 この図はサミュエル・ハンチントン著・鈴木主税訳『文明の衝突と21世紀の日本』(集英社新書、2000年)135ページに掲載されているものを真似してつくったものです。
 
 ハンチントンは『文明の衝突』で有名な学者ですが、彼のこの図表に関する説明では、「非西欧社会」(A)が「近代化」されるとき、そこには「西欧化」の方向(D=完全な模倣)と「近代化」の方向(C=西欧化は拒否)があり、そのベクトルの間で「(B)」という方向にすすむの(「双方を受け入れるケマル主義」)がありえる。しかし、「西欧化」と「近代化」の関係においては「(E)」という曲線がみられるのではないかと指摘する。はじめは「西欧化」の面が強くあり、近代化がすすむと「脱西欧化」が促進され、土着文化へのこだわりが強まると論じている。
 この説明は私の図表の最初の山(カーブ)と同様である。もっともハンチントンはこの「文明の土着化」によって各文明の孤立化がすすんでの衝突がありえると危惧しているのだが、私の「繰り返し」の「波」とは若干異なる部分もある。単純化すればまさにハンチントン理論そのものであるが、そのカーブの中にもつねに上下運動が周期的におこっているというもう少し細かいものであることをおことわりしておく。
 
 さて、「期待される人間像」(中教審答申)や「学制」批判の意見等はまた次回にみていただきます。
 「学習指導要領」は、小・中・高等学校の教育課程の基準を示した文部省告示文書であるが、その内容の変遷を見ると、前回の授業で指摘したことと同じく、国際性と独自性、そして「学力・教授中心」か「個性・経験中心」かの二極間での揺れ動きがみられる。特に「天皇制」に関わる自国史観というか、歴史観の偏重がある意味で法則性をもって出てくることにも注目したい。昨年、小渕内閣下で日の丸・君が代の国旗・国歌としての制定が十分な国民的議論もなく可決され、先日の森総理による「日本は天皇を中心とする神の国」などという不注意な発言(舌禍事件として問題視されている)も実はその中に位置づけて考えるのも可能ではないか。
 























 

江戸時代(封建制国家・幕藩体制下の教育)























 

1872年
(明治5)学制

 























 

1879年
(明治12)教育令

 























 

1880年
(明治13)教育令

 























 

1890年
(明治23)小学校令

 























 

1941年
(昭和16)国民学校令

 

→→→
 戦後











→→→








 

1947年
(昭和22)


 























 

1992年
(平成4)


 























 
(武家・
  藩校)
 儒教



(庶民・寺子屋)
 読
 書
 算






 
綴字  習字  単語  会話  読本  修身  書読  文法  算術  養生法地学大意理学大意△体術 △唱歌



 
読書
習字
算術
 地理
 歴史
修身
○罫画
○唱歌
○体操
○物理
○生理
○博物
○裁縫




 
修身
読書
習字
算術
○地理
○歴史
○罫画
○唱歌
○体操
○物理
○生理
○博物
○裁縫




 
修身
読書
 作文
 習字
 算術
○体操
○日本
  地理
○日本
  歴史
○図画 
○唱歌
○手工
○裁縫



 
国民科
修身
 国語
 国史
地理
理数科
算術
 理科
体錬科
 体操
 武道
芸能科
 音楽
 習字
 図画
 工作
 裁縫
 
国語

 社会

 算数

 理科

 音楽

図画工作

 家庭

 体育

自由研究
 
国語

社会

算数

理科
 
 生活

 音楽 

図画工作

家庭

体育
 
 

明治期の近代学校制度の重要項目・略年表
 1868(慶応4) 年 維新政府、旧幕府の学問所を昌平学校と改称、開成学校の設置
    (明治元)年 皇学所、漢学所の設置
 1869 (明治2)年 小学校設立の奨励
 1870 (明治3)年 「大学規則」「中小学規則」公布
 1871 (明治4)年 文部省の設立(学校制度の監督、教科書類の編纂、教則の編成)
 1872 (明治5)年 「学制」の制定。事前に、師範学校設立、教員養成を開始
 1877 (明治10)年 東京大学(官立大学)
 1879 (明治12)年 「教育令」公布(「学制」の廃止・自由教育令)
 1880 (明治13)年 「教育令」の改正(改正教育令・第2次教育令・統制の強化)
 1885 (明治18)年 「教育令」の再改正(再改正教育令・第3次教育令・経済対策)
          森有礼、初代文部大臣に就任
 1886 (明治19)年 「帝国大学令」「小学校令」「中学校令」「師範学校令」公布
          「教科用図書検定条例」(教科書検定制度)
 1890 (明治23)年 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布
 1893 (明治26)年 祝日・大祭日儀式規定(天皇写真、国歌等の問題)
 1894 (明治27)年 「高等学校令」公布
 1899 (明治32)年 「私立学校令」公布
 1903 (明治36)年 国定教科書制度の成立 
  
※ 学校教育制度に関する法令・布告類には下線を付した。
 
 
 「学習指導要領」の変遷
1947年、「学習指導要領・一般編」〔試案〕を発行(3月)。実施4月〜。
    高校「新制高等学校の教科課程に関する件」通達(4月)。
1951年、改訂。(7月)
1955年、高校学習指導要領改訂(実施は56年) 、「試案」の字が削除となる。(12月)
    小・中では「社会科編改訂」
1958年、改訂(小・中) 、道徳時間の特設、科学技術教育の重視。(教育内容の現代化)
    官報告示。(文部省は学校教育課程の拘束を主張、教科書内容の統制進む)
    実施、小(61.4〜) 中(62.4〜) 、道徳は58.10 〜。
1960年、高校学習指導要領改訂(実施は63年) 。
1968〜70年、改訂。教科内容の現代化、小学校から集合、関数など導入。神話教育復活。
    実施、小(71.4〜) 中(72.4〜) 、高校(73.4〜) 。
1977〜78年、改訂。教科内容の過密化を改善するとし、授業時間の削減、前回導入の集合を削除、
    「ゆとりの時間」設定。高校では「習熟度別学級編成」導入が提示。
    実施、小(80.4〜) 中(81.4〜) 、高校(82.4〜) 。
1987年12月、臨時教育審議会答申をうけ、教育課程審議会は、道徳教育の充実、
    (小) 低学年の社会科・理科の廃止と生活科の新設、(高) 社会科の「地歴科」「公民科」へ
     の分割等をもりこんだ答申を発表。〔他に「格技」を「武道」に〕
1988〜90年、上答申をうけ、学習指導要領は戦後6度目の改訂。
    実施、小(92.4〜) 中(93.4〜) 、高校(94.4〜) 。
2002年、学習指導要領は戦後7度目の改訂。「総合的学習の時間」。学習内容の「精選」。
 
 以上で「日本的」になるというか、「国際化」と「独自性」の間を行き来するという事実がなんとなくわかるだろうか。また学力偏重と経験カリキュラムとの間を動いていることがわかるだろうか。
 ここまで、日米の違いから「人間形成のとらえ方」の違いというか、独自性の差異があることをみてきたつもりです。同じ「教育制度」「カリキュラム」でも価値観とか考え方は異なる。それも教育の本質でもある。なぜなら「国民つくり」が教育の基本であるから、国民は「国家」による望ましい姿といった違いがあるからである。その望ましさとして「愛国心」が叫ばれるのですが、それについても次回にお話しします。
 また、大人によって改革されるわけで、その大人は当該の教育を受けていないのが普通であるから、理解しにくいと思う。というよりも「大人が子どもを教育する」という本質がある限り、「新しい」ものが定着しにくいのもあたりまえである。安定しにくいから不安を感じ、不満が出る。だから大きくは二つのパターンの間を揺れ動いていくのですね。
 こういうことがあって教育は二者の間を揺れ動くんですね。一つは「国際性」と「独自性」。もう一つは「学力」と「個性」。まぁ、この揺れの周期やその意味については、もっと深く考えていく必要があります。様々な条件を考えながら、今後も「比較」の視点から授業をすすめていきます。