授業日誌

   

 生徒指導・進路指導論 2004年度 前期

@2004年4月13日(火)・・・・初回の授業のためガイダンス。2時間合計で200人ぐらい。学校教育における「教科指導」と「生活指導」の二本柱について話し、教師の役割(仕事)としての生徒指導の重さを理解していただいた。ここから「どのような指導が必要か」「どのような具体的な方法があるのか」などを学んでいく糸口にしたい。朝日新聞と日本教育新聞、教育新聞の記事をあげて、現場の教員(現職教員)が「生徒指導」に「不安」をもっていることをみてもらって、大きな課題であるということと、難しいのだということを指摘した。あわせて「学校教育の問題」として語られるニュースや、例えば「教育の弊害」「改革されるべき」などと議論されることが(例えば「学力」「学級崩壊」「不登校」「いじめ」など)「生徒指導・進路指導上の問題」なのだということを「資料」をとおして説明してみた。もちろんカウンセリングなどの実践的コミュニケーションの方法論も大事だが、多様な面から授業をすすめていきたいと述べて終了。

 これまで教職系授業で関心があったものについて書いてもらったところ、「教育カウンセリング論」と答える学生が多くいた。そういうものが授業としていいのか、教員がいいのか、いろいろあると思うが、そのような科目が「勉強になった」という知的好奇心への満足感や、あるいは参加したという実感を与えるというのが現実的なのだろう。

 

A2004年4月20日(火)・・・・指導論導入の歴史的前提について説明。まず「生徒指導」が「教職課程」で必修になったのはいつからで、そしてそれは何故導入となったのか(必要とされたのか)、その理由を資料でみてみた。子どもの「荒れ」への対応として必須とされたものの、それは実際に現場にどのような影響を与えたのかということや、研修体制などについても考えてみた。その際に自分たちが受けてきた学校の「生徒指導」から考えはじめてみることをすすめてみた。実際にどのように指導をしていたのか。学校による違いはどういうものか。相談室や体制はあったのか。登下校の指導や取り締まり、あるいは生徒会の活動の自主制かどうかなど、簡単に説明し、それぞれについて考えてもらった。資料として文部科学省のホームページと、そして校務分掌の図とプリントをみてもらって、それについて各自で考えさせ、その後、補説的に解説をして終了。

 リアクションペーパーを書いてもらったところ、私立と公立の違いを知りたいということや、いじめの問題など資料をみたいという意見があった。ことわっておけば私立・公立でも同じ免許・資格の持ち主が教員になるのであって、学校ごとの違いなら公立の中でもやはりあるということや、逆に「個人」や「カリスマ教師」あるいは「あるカウンセラー」などに頼っているというのが現状の大きな問題点でもあると私は考えている。これを次回に授業の初めに述べておきたい。

 

B2004年4月27日(火)・・・・授業のはじめに先週のリアクションへの回答をする。「一部の教師」だけの善悪という「他人まかせ」にするのならこんな授業は大学にいらないと話をした。理想的ではあるけれど、全員が少なくとも最低限の知識や力を身につけるのが大学の授業として存在する意味だろう。もちろんその中で例えば「カウンセリングとしての資質」だのがすぐれているなどの「違い」(個性でもよいが)が出てきてもいいのである。さて、今日は雨と風がすごい。すると「私語」が出やすい。そうやって後々の授業の前ふりもしておいた。「天候ぐらいで一喜一憂しないように。私語の出る理由って、多くはそんなものでしょう?」。「そう指摘されたら、そういう私語はできないでしょう」と。今日は内容が多く、時間的余裕がない。内容はエクササイズと資料分析のミックス。「カウンセリング」などを実践的でいいと思っている人たちへの対応でもあるし、先週「いじめ等を資料でみたい」という学生への対応でもある。リアクションへの対応、レスポンスであり、授業もコミュニケーションだと言っている以上、その「授業」をする資格をとるこの「授業」もそのやりかたを実際に体験できるようにと考えていると表明しておいた(わかりにくいか)。本当はエクササイズと資料分析は分けたかったのだが、あまり授業数がないのだ、この前期の講義は。人数も多いし。

 資料の数値の読み方について、いくつか質問や疑問があった。いじめの数値で、「数」としては諸外国の方が深刻ないじめが多いのではないかと、計算してきた学生が2名いた。説明が足りなかったのか、私はそういうことをいっているのではなく、「発生するいじめ自体の質」の悲惨さを言っているのだ。それに対する周囲の考えかたとあわせてこの資料は言っているのであって、単純な「数」量だけではない。継続される時間や、対象とされる人数の集中や、そして周囲の考えかたの変容を(年齢ごとの)指摘したのであって、それが「教育問題」や「指導」として考えていくということなのだ。次回に答えたい。

 

C2004年5月11日(火)・・・・午前中に歯医者にいってから授業。個人的な理由だが麻酔が効いていてうまくしゃべれないのでもどかしい(もちろん気づかれないようにすすめたし、クレームはなかったが)。今日は戦後の主な生徒指導資料を読んでみた。そして「カウンセリングマインド」や「スクールカウンセラー加配」などの記事を紹介し、そのすぐれた面と、しかし依存しきってはいけないということを話した。頼って、自分は関係ないとなってしまうと、結局はカリスマ教師だのみのころと変わらないだろう。制度化されるというのは、どうしても「自分は関係ない」となりやすいかもしれない。「自分のクラスではないから関係ない」というのでいいのか。そういう無関心さが、「消極的生徒指導」(2回目にやったこと)に終わっていたということはすでに学んできた。資料を読んでの授業のあと、いくつかロールプレイを試す。2人式と3人式を試す。今日、ちょうど市の事業のファシリテーターの依頼があったが、その研修の内容も今後の授業にいかしていくと述べて終了。

 リアクションペーパーではなく、ロールプレイでの気づきを書いてもらって提出させたが、やはり知らない人と組むということの難しさはあるようだ。それを今後くずして慣れていっていただきたい。

 

D2004年5月18日(火)・・・・教育的カウンセリングについて解説し、ロールプレイなどについて説明。論理療法というのは哲学的な方法で、「考える」ことや「考えかたの相談にのってあげる」という方法論。ここで「心理学」の限界を説明した。心理学科の学生にはうまく説明できたかどうか、気をつかったつもりだが、「心理学」にも限界はある。もちろん「学問」には限界はある。しかし「必ず」ある反応をするからそういう気質や心理があるというのではないだろう。「必ずではないだろう」ということだ。極端にいえば、あるカウンセラーの態度が「話やすい」子もいれば「ロボットみたい」と思う子もいるわけで、つまりとらえかたや表面にでない部分もあるのである。ここが気をつかうところだが「時間がかかる」のである。基本的にあとから「トラウマ」だの精神分析だのして解説をするのはいいのだが、事前や最中にそれを短い時間でどのように有効的にすすめていけるのかということだ。海外ドラマ「アリー My Love」などをみてもわかるように米国なら日常に「カウンセラー」に受診することもあり、それを自分で斟酌して受け止めていけるかもしれない。しかし日本ではまだそこまでいっていない。ある曜日のある時間にある場所でしかやっていないカウンセリングという物理的限界。そしてそこからの判断。そして心理学の専門性。だから教員が日常的にできるのが「考えかた」をまさに指導していけるというこの「論理的」なカウンセリングなのです。ロールプレイをいくつか説明して、宿題を出して終了。

 

E2004年5月25日(火)・・・・今日はグループワークを試す。受講者さんへの挑戦状的内容。100数十人でもグループワークは可能かどうか? 近大の先生に教えていただいた方法を試してみた。やってみたらできたではないか。やはり「難しい」と思っていたのは固定観念だったのである。先週の「論理療法」で言ったとおり。そして多人数教室では授業がなりたたないと思っている大学の先生方・・・、そんなことはない。僕自身もそう思えるように一歩進めたように思える。ヤマグチ先生、ありがとうございました。

 今日の内容は不登校の資料をみて、そしてグループごとに内容や対策を検討してもらった。「グループワーク」という生徒たち自身に話し合いをさせる「方法」自体を今日は経験してもらったということと、そしてその後に背景を解説して授業なり理解を深めさせていくのだと言って授業は終了。

 

F2004年6月1日(火)・・・・「不登校」について解説。前回の補完になる。自分たちで考え、それを教員や他者が補う。そうやって何らかの問題解決をうながしていくのが、「指導」の一つではないか。「自主的」に「社会」に参加させていくというのも、そのような態度を育てるのもまた学校でやるべき指導であると考える。森田洋司の著書を数冊と不登校に関する本を数冊紹介した。

 リアクションとして、実際の身近な不登校事例に関する相談があった。他にもメールでも数件あった。行政や関係機関、相談所やセンター、あるいはカウンセラーは何人かいるので紹介できるが、まずはその該当家族と学校の先生との関わりはどうなっているのかなど、そういう面も知りながらすすめていくべきだと応えておいた。

 

G2004年6月8日(火)・・・・今日は文部科学省の指導方針を読んで解説。また新聞紙面から、11歳の少女の事件に際して、政府の要人のコメントはどうだろうか等も考えてもらった。さらに、文科省の通達をみてもらった。「心のサイン」とはなんだろう。それが書かれているのが今回の「指導方針」の書なのだ。今日は「資料」「文書」を読んで解説する日なので、個人的にはなかなか興味深く考えてもらいにくいところかなと思っている。そういう「教材」もやらねばならない。しかしそういうときにも普段の関係ができていればそれなりに受け止められるのではないか。・・・どうだっただろうか。もちろん教職課程であるから意識が明確でしっかりとやる学生が多いようだ。そういう意味では楽な授業なのだろうか。

 教育実習のシーズンなので人数少なめ。

 

H2004年6月15日(火)・・・・「指導論」はピアカウンセリングについて。英国の事例やオーストラリア、カナダなどでの応用例をもとに、日本での実践のしかたなどを課題として考えてみた。もちろん実験校での事例はあるし、本も数冊でているので滝充さんの本を紹介。日大の図書館には入っていないようだが・・・。後半はウェビングの方法を紹介した。ここで前ふりをしてきた「私語」をとりあげ、実は数回言ってきたことや書いてもらったものを「ウェブ」でまとめていくと、滝さんの言っているPEACEの方法になるというか、仮想ではあるが生徒会などを指導して議論させていくことになると試してみた。自分たちで考え、生徒指導を自律的にやっていくという理想的な方法。これはピアの方法とも一致するし、そして英国のいじめ対策などにも関連すると謎解きをして終了。時間がなくなりリアクションペーパーは回収できず。

 

I2004年6月22日(火)・・・・今日は進路指導について。主にフリーター志向について考えてみた。高校生の進路傾向に関する新しい資料の分析を。「進路」の指導ってなんだろう。どのような指導が必要だろうか。学校や教師への信頼度や相互の信頼、コミュニケーションはどうなっていくべきか。「学校を嫌い」にしてしまっていいのだろうか。など、資料から様々なことがよみとれるかと思う。「フリーター」については某大学でのゼミの議論の様子を紹介。資料を各自で考えてもらって、それから隣近所の人と自分の意見を交換しあうというのを試みる。そこから意見を再構成して書いてもらう。そのような複合的なことをやっていたら授業が長びいた。「進路指導」は実はとっても重要なテーマです。

 

J2004年6月29日(火)・・・・今日の「指導論」は場面設定してのグループワークからプレゼンテーションまで。生徒指導の教員研修ワークショップを仮想で体験してもらうというねらいもあった授業。「教育プログラム」をたてる(検討する)のにも教員会議で議論し、そして親や各種関係機関に連絡や連携をとらねばいけないということを先ずあたりまえに気づいてもらうのがねらいの一つ。「教育」に意図的じゃないものは少ないというか、そういう責任があるのです。生徒の行動や、理解、そして体験や社会的まとまりをどのようにつくって、そして最大限に効果を出せるのか。事例を一つみせてから45分間検討。その後、発表(代表5組のみ)。発表はなかなかいい意見や適度な分散もみられて、まとめやすかった。やればできるというのがまたわかってくれればいいのだが。しかし授業回数は少ない。

 リアクションとして、「グループ活動に慣れてきた」というのがあった。やればできるのです。

 

K2004年7月6日(火)・・・・「指導論」最後の授業。今日は「ストレス」という観点から生徒指導をとらえなおしていくということをやってみた。ストレスの要因をゼロにするのは難しいけれど、それがあるということを知っておく。すると、減らしていったりはできるだろうし、さらにはそれでも我慢できるつながりなんかを広げていったりはできるわけである。「ソーシャルボンド」「つながり」「居場所」など、今マスコミで踊っているあの台詞の意味はここにある。ここを知らないでいると例えば「なにが居場所だ」と賛成反対に二分されてしまうのです。そうではなくて、子どもの周囲の環境や関係を司る能力が、あるいはチャンスが教員にはあるのだろうと・・・、だとするならそれも生活指導であるだろうということなのだ。対症療法的な解決対応ではなく、予防という名の取り締まりでもなく、ようするに「楽しい学校づくり」ではあるのだが、・・・「そんなのは普通のこと」ということの中に、こういう「構造」を理解してやっていくかどうかが大切なのだということであった。

  最後に実習でどのような指導をしていきたいかなどの意気込みを書いてもらって終了。来週は試験。検討を祈ります。