教育の歴史J(12月13日)

本日の講義では、戦前日本の教育体制の成立期とされる明治中期の、いわゆる「教育勅語」の時期をみていく。その中で「御影」や「勅語」の事件や扱い方、それに外国語訳ということの意味を、資料をもとにして考えていく。なお、直後の翻訳については「ブーメラン効果」という平田博士の言う新しい分析概念もあるので注目されたい。排外と承認といううらはらな現実のありかたをこれまでに続いてみてもらったのだが、さすがに新しい方法は魅力的ではないか。

 

資料 天皇の写真類。宮内庁「御写真録」からの複写(ホームページでは略する)

 「明治天皇」と「皇后」、「大正天皇」と「皇后」、「昭和天皇」と「皇后」の写真。これらが学校儀式において「直後奉読」と並んで拝礼の対象として交付された。キヨッソーネの描いたものという明治天皇と他の写真とでの違いはあるが、「天皇」写真に共通性がある。軍服洋装で、勲章をかけ、左手にサーベル(剣)をもち、飾り付帽子をテーブル上に置いたというスタイルの共通性がある。肩からの帯のかけかたが大正天皇が逆である以外はほぼ似通っているといえよう。元帥ということや統合ということも示していると思える。そのように「写真」によってシンボル化したものといえよう。「皇后」も洋装ドレスで手を前に合わせ、扇子をもち、頭に冠で飾るという点が共通するスタイルである。ちなみに「皇后」は女子教育機関における象徴として、様々な賜物なので関わることになる。それぞれ国民の男女のシンボルであり、ある種の崇拝・畏敬の対象ともなっていたのではないか。ちなみに「御真影」「御影」「御写真」等の複数の表記の仕方があるが、「教育」の歴史上は「御真影」という表記がされることが多いようである。今現在も、このように統治者や国家元首の写真を神格化するかのように大事に掲示する国家もある。「可視化」することで、意識や国民感情、また統治をしやすくなるという効果があるのではないか。ちなみに、基本的に天皇や崇拝の対象は「声」を生できかすことが少なく、なるべく神聖さを表現したかったのではないかとも思う。「敬う」ことは軽々しくないということでもある。ヒトラーのように煽動タイプの政治家・指導者もいるし、また現在では情報化の進展で「神格化」というものが困難になってきていることはあるが。「天皇」は写真と、そして「文字」(言葉を書き記したもの)でその意志をあらわすという形式であった。それが「勅語」類である。

 

資料 教育勅語(国立教育研究所)展示のもの(写真)

「勅語」は恭しく扱われ、「桐」の箱に入れられてセットになって、各学校へと交付され、保管され、儀式ごとにそれが校長(責任者)の手によって代読された(奉読)。ちなみに「天皇」(これは明治天皇が対象となるが)の名前は記されない。「御名 御璽」と記されるのみである。基本的に現行の天皇も「氏名」は一般的に周知されているとはいえない。天皇は例えば公式文書・議事等への確認「上奏書」(回覧・供覧の性格をもつ)へのサインも、印章等により記されることが多い。(読んでみる−略)

 この(いわゆる)「教育勅語」もその性格が「天皇のおことば」であるからとひじょうに重視され丁寧に敬意をもってとり扱われるというものであった。例えば、意味の「解釈」は多様であってはいけないと、その「意義」を統一されるようになった。勅語は勅語として受け取れというものである(資料略)。また「読み方」も間違えてはならないし、まちまちであってはならないと、統一された。「ルビ」のふられたものが「高等師範学校」でとりきめられた資料から(略)、その扱いの重要性がみてとれる。

 さらに「勅語」にまつわる様々な事件や問題への対応もある。例えば、キリスト教者であるなどの宗教・思想・信条上の理由などから、学校儀式での勅語奉読を拒否したり、様々な不敬事件も記録されている(資料は略する)。また、資料にあるように(略)「校長殉死事件」等も様々な意図をもって報じられた。長野県の南条尋常高等小学校校長が火事の際に、教育勅語を守るために火の中を「奉安殿」(勅語を保管するための倉庫)に入っていって殉死したというものであるが、これはそれほどまでに「重んじなければいけないもの」であったということでもあるし、またそれを報じることで(「骨を煎じて飲ませよ」などのように)そのような体制へと引き締めるねらいがあったということでもある。このようにして「天皇制国家体制」は「教育勅語体制」というものによってもつくられていったのである。

 「勅語」の大切さは資料「教育ニ関スル 勅語ニ就キ地方一般ノ状況」(略)というように全国地方各府県での勅語下賜や式典・拝読の状況が報告されているという「確認」が行なわれているということからもわかる。重要視されていたことがうかがえる。同じく「教育ニ関スル 勅語奉読式ノ状況」(略)として直轄学校での式典の状況調査および報告が行なわれていた。 

 以上のことから、「教育勅語」が当時の国民教育政策の中でいかに重要視されていたかがわかるであろう。国民にみえる形で「写真(姿)」と「勅語(ことば)」により、天皇制国家意識を効果的に教え込むことが可能となったのである。なお、外地での勅語についても、そこを国家の領地とした時には日本語教育とそしてこの勅語奉読が行なわれていたと考えれば、まさに「ナショナリズム」「国民づくり」の中心・根幹部分であったのではないか。

 資料として、漢訳されたもの、フランス語訳されたもの、英語訳されたものをあげたが(略)、これらは海外での教育や儀式につくられたものではなく、海外への情報発信としてつくられたものである。例えば文部省は教育令等から様々な法規等を英訳版も作成するなどしてきているが、実はこれらの他国語訳されたものから、その「意義」を理解しやすいともいえる(ここでは略します)。そしてこれら外国語訳教育勅語は海外への「日本の体制」の発信でもあるし、またこの発信による反応と、発信という行為自体で「外国からも認知されている」「国際的承認を得ている」といういわば「お墨付き」による「客観化」というものもあったのではないか。これは平田氏の研究でも示唆されている(紹介したが配布資料は略する)。このように「ソト」へ発信することも実は「可視性」を確実にする一つの方法である。

 

 ・・・今回の資料は写真類が多く、ホームページでは略させていただきました