日本教育史I(12月6日)

 テーマ:「通史をみなおしてみる」(今まで学習してきた方法・視点から再考する)

 <前回の復習>

 

近代以降の日本の教育内容の変遷から、そこに期待された教育観を読みとる。これは「教育改革」がどのように行なわれていくのかという視点でみると興味深い。「戦前」「戦後」ともに「二項対立」かのような揺れ動き(循環)がみられるかのようでもある。また改革の論調が近似するということもあった。「考えている」「自分の意見」というのは何であろうか? もしも「時代の精神」(風潮)ともいうべきものに流されているのだとしたら、それは「考え」なのか、「反応」にすぎないのか?

明治12年(教学聖旨・元田)「若者の品行を憂い、愛国心涵養を叫ぶ」
昭和41年(中教審答申)「戦後の若者の衰退を指摘し、愛国心復興を叫ぶ」
平成
(「新しい歴史教科書」序文)「現在の道徳で裁く」ことはやめよう→「過去のことはいいことだ」なら本末転倒

 

 ちなみに私は前回までの「見方(視点)」を、哲学からヒントをもらった。一人はニーチェで「循環」のことと、客観視のことをいい、もう一人のガダマーは「比較」による相対化を説いてくれている。

歴史と思想   「系譜学・循環」             「比較の視点」

ニーチェ(Friedrich Nietzsche)・・・「永劫回帰」「永遠回帰」という思想。「人生」の倫理なり判断なり、あるいは価値観をもつときに、「人生」やその出来事が何度でも繰り返されるものとして受け止めるという考え方。永遠の宇宙の中で、可能性としては何度も別の場所で、別の時に「同じ」生成なり出来事なりが起きていると考えられること。「繰り返し」と考えると「運命」「どうせなるようになる」という無気力なものになるかもしれないが、ニーチェはそうではなく、(まさしく「超人」が必要なのですが)「繰り返される」と決断の時に覚悟して、何度でもこれを選んだ自分を肯定して生きていく。「このすばらしい人生をもう一度」と思えるように自分で生きていくというエネルギーが大切だと言っている。他人のせいにしたり、たよったりもしない。そうではなくてしっかりと「自分」として生きていくということ。考えることであり、動くことであり、生きることそのものである。
 社会にも、経済などにも変動の循環があることは知られている。流行・ファッション、文学などにもそういう循環の波がある。「教育」も循環ではないか。そこで繰り返されているのだとしたら、それは「永遠回帰」の運命だからしかたのないものなのだろうか。・・・運命としてではなくて、「考え」「意志」なくてはいけないのです。単なる反応や反動ではなくて、もっと「それでいいのか」と考えなくてはいけないのです。ニーチェは作品中に「既存の権力」に対して、あるいはそれに盲従する人々に対して、「洪笑」「笑う」ということを書いている。





ガダマー(Hans-Georg Gadamer)・・・「地平」という概念。人間が何かを考え、行動し、判断するときにもつ「先入観」のことを「基盤」(地平)としていて、そういう基盤があるからわれわれは物事を理解していったり受けとっていくことができるのだということ。自分のなんらかの歴史性をもつ知識によって、物事を理解するときにそれを比較の対象としていくのである。それには一致して考えられる(共感・共通)部分もあるし、しかし明らかに異なる部分もある。誤解してしまったり違和を感じる部分。例えばいま私たちの生きているこの世の中と江戸時代とはやはり「違う」ということもある。共通している部分とそして異なる部分。でも比較によってそれに気づくし、いや比較することによって「本当にこれでいいのか」という考えの発展もでてくると思う。今いる私は江戸時代の人間ではないけれども、そういう人間が考えて、とらえなおしをしていくし、それと関係して「いま」をも構築していくエネルギーにも理解の基準にもなるということ。(私なりの解釈をすると)古い教育の「考え」を考えもしないままでいると「何も気づかない」でいるわけである。個人的に悪くはないし優秀な政治家も、それは「多様な地平」を理解していないかもしれない。理解しているつもりだけかもしれない。一歩間違うと「地平」は自分勝手や孤立、ナショナリズムにだって行き着くのですから。

 

 

★問い?★「何故、こんなにも繰り返されるのか?」

 

サミュエル・ハンチントン著・鈴木主税訳『文明の衝突と21世紀の日本』(集英社新書、2000年)135ページ

 ハンチントンは『文明の衝突』で有名な学者であるが、彼のこの図表に関する説明では、「非西欧社会」(A)が「近代化」されるとき、そこには「西欧化」の方向(D=完全な模倣)と「近代化」の方向(C=西欧化は拒否)があり、そのベクトルの間で「(B)」という方向にすすむの(「双方を受け入れるケマル主義」)がありえる。しかし、「西欧化」と「近代化」の関係においては「(E)」という曲線がみられるのではないかと指摘する。はじめは「西欧化」の面が強くあり、近代化がすすむと「脱西欧化」が促進され、土着文化へのこだわりが強まると論じている。

 

 ★以上の視点から、「通史」の未明の点を明らかにする(考える)?

 森 有礼(もり ありのり)−−日本最初の文部大臣の謎を解く

  (謎1)森は変節したのか? 洋学者→国家主義者に変容。

  (謎2)キリスト教の影響は? 教育勅語体制の教育をつくりあげたという矛盾。

  (答え)矛盾といえるのか? 人間と社会の変革過程として理解できるのではないか?

森 有礼(もり ありのり)1847−1889。 初代の文部大臣。近代公教育制度の基礎を築くうえで大きな役割を果たした。幕末動乱期の薩摩藩下級武士の出身。通称金之丞、のち有礼。藩校造士館、藩の海軍講学科教授機関である開成所で学ぶ。1865年藩の内命により、イギリス、アメリカに留学、維新直後の68(明治元)年に帰国し、新政府に出仕した。翌年、「廃刀」を建議し官位返上、一時帰郷した。70年、少弁務使としてアメリカに滞在、滞米中に"Education in Japan"(『日本の教育』)を編纂、アメリカの識者の日本の教育に対する意見を紹介した。74年には福沢諭吉、西周らと明六社を設立、社長に就任、啓蒙思想家として活動。1880年から84年まで駐英公使。その在任中、伊藤博文と会談、教育についての意見を交わし伊藤に認められるところとなった。帰国後、参事院議官、文部省御用掛を兼務し、85年、内閣制度の発足とともに伊藤内閣の文相に就任。初等学校から大学にいたるまでの全面的な学制改革を推進し、教育令を廃して帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令等各学校別の勅令を公布した。さらに小学校就学の義務制や教科書検定制を実施するとともに、師範教育の改革を重視し、順良・信愛・威重の三気質の涵養を教師に求めた。森の教育施策は、日本資本主義の準備期にあって国家の主導の下に国民教育を発展させ、「人民各自ノ福利」とそれに支えられた「国家公共ノ福利」の増進とを企図するものであった。また、旧来の「教学一致」という考え方を打破した点では進歩的であったが、学問と教育とは別という原則を立てたことによって、学問・研究の成果をとり入れて初等教育の内容を編成することを困難にさせる結果となった。1889年大日本帝国憲法発布の日の朝、刺客に襲われ翌日死去。


兵式体操・・・明確に学校教育の目標・管理にかかわって兵式体操(歩兵訓練のための体操と操練)を位置づけたのは森有礼であり、かれは1879年兵式体操による身体教育と精神教育の有効性を主張した。
 

"Education in Japan"の内容・・・在米中の森有礼は日本の教育の進路についてアメリカ人有識者にアドバイスを求めその回答を“EDUCATION IN JAPAN"としてまとめ刊行したが、その回答のうちいくつかは日本をキリスト教国化すべきとの意見であった。もちろん森は質問においてキリスト教については一切触れていない。「一国の経済的・物質的繁栄」、「商業・流通面」、「農業・工業といった産業」、「国民の社会性・道徳面・身体の発育」、「法律・政治」、以上5つへの教育の効果を尋ねたのであった 。
 回答したのは13人である。ウールゼイ(Theodore D.Woolsey)、スターンズ(William A.Stearns)、発明家クーパー(Peter Cooper)、ホプキンス(Mark Hopkins)、ペリンチーフ牧師(Octavius Perinchief)、シーリー、マッコーシュ(James McCosh)、ヘンリー、ノースロップ、エリオット(Charles W.Eliot)、ボートウェル(George S.Boutwell)、後に大統領となるガーフィールド(John A.Garfield)、そして文部省顧問となるMurrayであった。以上13人中6人は牧師の資格を得ていることから、当時の牧師がいかにエリートであったかがわかる。
 以上のうち「日本におけるキリスト教採用」を提言しているのは、スターンズ(アーモスト大学長、組合教会牧師)、ホプキンス(ウイリアムス大学教授、米国海外伝道委員会会長)、シーリー(アーモスト大学教授、改革派教会牧師)、マッコーシュ(プリンストン大学長、長老派教会牧師)、ヘンリー(森の友人でスミソニアン博物館教授、長老派教会員)の5人である。またウールゼイ(イェール大学元学長)も宗教は限定しないものの道徳重視を指摘していた。
 さらに、森は日本最初の洋式結婚式をあげた人物。また日本語の「ローマ字」化をも構想した?

 

★明治期の近代学校制度の重要項目・略年表

 森の活動!


1868(慶応4) 年 維新政府、旧幕府の学問所を昌平学校と改称、開成学校の設置
   (明治元)年 皇学所、漢学所の設置
1869 (明治2)年 小学校設立の奨励
1870 (明治3)年 「大学規則」「中小学規則」公布
1871 (明治4)年 文部省の設立(学校制度の監督、教科書類の編纂、教則の編成
1872 (明治5)年 「学制」の制定。事前に、師範学校設立、教員養成を開始
1877 (明治10)年 東京大学(官立大学)


洋学導入

洋式学校設置
洋式学校制度を計画
外国の制度を模倣
〃 外国の内容を直訳
〃 大学の設置








 

1865年、英米留学
1868年、新政府に出仕

1869年、「廃刀」建議
1870年、駐米の少弁務使
72"Education in Japan"刊行
1874年、明六社設立
 (啓蒙活動を推進)

1879 (明治12)年 「教育令」公布(「学制」の廃止・自由教育令)

経済的・条件の困窮、内容の簡易化

 

 

1880 (明治13)年 「教育令」改正(改正教育令・第2次教育令・統制の強化
1885 (明治18)年 「教育令」再改正(再改正教育令・第3次教育令・経済対策
         森有礼、初代文部大臣に就任
1886 (明治19)年 「帝国大学令」「小学校令」「中学校令」「師範学校令」公布
         「教科用図書検定条例」(教科書検定制度
1890 (明治23)年 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布
1893 (明治26)年 祝日・大祭日儀式規定(天皇写真、国歌等の問題
1894 (明治27)年 「高等学校令」公布
1899 (明治32)年 「私立学校令」公布
1903 (明治36)年 国定教科書制度の成立

 

洋風批判、統制を強化(修身を筆頭)
    ↓
内閣制度(帝国議会開設に備える)

教育内容の統制
天皇制国家体制の確立
国民統制の強化
学校制度の取り締まり強化
学校制度の取り締まり強化
教育内容の統制強化

 











 

1880−84年、駐英公使
1885年、初代文部大臣
・各学校ごとの勅令・教科書検定制度・兵式体操・教師モデル(国家主義)
1889年、死去