日本教育史H(11月29日) 〜近代以降の教育の変遷から、「教育」制度・改革・論争を読みとる〜(その3)

 

 3回目となるが、これまでの近代教育導入以降の発展・変容過程をもう一度ふりかえってみる。

★近代教育内容の変遷 ・・・「国際性」→「独自性」という周期的動き。「自由」と「管理」という反動。

                               

江戸時代



 

*封建制度下

武家と庶民の階層に身分が分けられている























 

1872年
(明治5)学制


 

*維新期の開化路線

欧米のカリキュラムの直訳すぎた

日本語の実態にあわない























 

1879年
(明治12)教育令

 

*実状にあうように修正

国語系科目をまとめた

ある意味、江戸期庶民教育へ戻る


 























 

1880年
(明治13)教育令

 

*儒教道徳が必要との意見

修身を筆頭科目に入れる形に修正







 























 

1890年
(明治23
小学校令
 

 

1941年
(昭和16)国民学校令






















 

大正自由教育

 






















 

*教育勅語体制(国会開設に備える)

修身が筆頭、兵式体操を含む体操、日本地理、日本歴史に限定

*海外との交流もあり、一見自由


 

*軍事体制

国民科に修身、
国史、地理、体錬科に体操、武道

戦時期、総動員体制となる

→→

戦後










→→








 

1947年
(昭和22)
学習指導要

*米国占領下の教育改革

「試案」というモデル扱い・・・「社会科」や「自由研究」があった。


 























 

1955年
(昭和30)

1958年
(昭和33)

1968年
(昭和43)

学習指導要領
 

*占領の影響から脱す。

「試案」の文字削除









 

*逆コース化時代


官報告示で法制扱い。道徳の時間をつくる。





 

*高度経済成長


神話教育の復活。
&つめこみピーク

*「期待される人間像」

 























 

1978年(昭和53)

1987年(昭和62)

現在
 

1980年代以降の教育改革

*つめこみへの反動
 

*臨時教育審議会

*?

 

ゆとり路線。  国際化、情報化、個性尊重・・・


しかし習熟度別という区分。




 


ゆとりと、道徳。
格技を武道に



 

ゆとりか、愛国心なのか
 

 

 この周期的とも思えるような「変容」のジグザグさを、他の背景項目とあわせて次の図表で説明する(詳細は略)。

 

 

 

<資料>   赤色が開明的な、そして外国の思想をもとりあげようという部分で、緑色がそれへの反動、一種の土着的意見である。戦前・戦後で同様のタイミング、同様な意見がみられたことに注目されたい。

★学制(明治五年八月三日文部省布達第十三号別冊)
立身出世(個人の独立)、実学の推奨、就学促進(しかし受益者負担)・・・従前の制度を批判






 

★教学聖旨(明治十二年)

西洋化政策を批判(風俗・品行の乱れ)、儒教道徳の重視、・・・自由民権論へ対抗






 

★新日本建設ノ教育方針(昭和二十年九月十五日)
戦前の軍国的思想及び施策を廃止、平和国家を建設することを教育の目標とする。

 








 

★修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件(昭和二十年十二月三十一日)
国家神道及び修身、日本歴史などの教育を廃止する。教育の戦争責任。

 

★教育勅語(明治二十三年十月三十日)
朕惟フニ我力皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我力臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我力國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨り朕力忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我力皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 

 









 

1966/10 中央教育審議会答申等 後期中等教育の拡充整備について (第20回答申)「期待される人間像」
第1部 当面する日本人の課題 
 今日の日本人には特殊な事情が・・・とくに敗戦の悲惨な事実は,過去の日本および日本人のあり方がことごとく誤ったものであったかのような錯覚を起こさせ,日本の歴史および日本人の国民性は無視されがちであった。・・・定着すべき日本人の精神的風土のもつ意義はそれほど留意されていないし,日本民族が持ち続けてきた特色さえ無視されがちである。」・・・「われわれは日本人であることを忘れてはならない。」
第2部 日本人にとくに期待されるもの  第4章 国民として  

 

1 正しい愛国心をもつこと  ・・・われわれは正しい愛国心をもたなければならない
 2 象徴に敬愛の念をもつこと
 日本の歴史をふりかえるならば,天皇は日本国および日本国民統合の象徴として,ゆるがぬものをもっていたことが知られる。日本国憲法はそのことを,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」という表現で明確に規定したのである。もともと象徴とは象徴されるものが実体としてあってはじめて象徴としての意味をもつ。そしてこの際,象徴としての天皇の実体をなすものは,日本国および日本国民の統合ということである。しかも象徴するものは象徴されるものを表現する。もしそうであるならば,日本国を愛するものが,日本国の象徴を愛するということは,論理上当然である。 天皇への敬愛の念をつきつめていけば,それは日本国への敬愛の念に通ずる。けだし日本国の象徴たる天皇を敬愛することは,その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである。このような天皇を日本の象徴として自国の上にいただいてきたところに,日本国の独自な姿がある

  下は、「大正」期を挟んでの天皇制国家を示す意見、あるいは詔勅(天皇のことば)であるが、これらがわざわざ出されたということは、逆に大正期に天皇制がゆらぐかのようなそういう自由化傾向・風潮があったということを裏付けているのではないか。

★戊申詔書(明治四十一年十月十三日)
・「内國運ノ發展ニ須ツ戦後日尚浅ク庶政益々更張ヲ要ス宜ク上下心ヲ一ニシ忠實業ニ服シ勤儉産ヲ治メ惟レ」
・「我力神紳聖ナル祖宗ノ遣訓ト我力光輝アル國史ノ成跡トハ炳トシテ日星ノ如シ寔ニ克ク恪守シ淬礦ノ誠ヲ諭サハ國運發展ノ本」
・「我力忠良ナル臣民ノ協翼ニ倚藉シテ維新ノ皇猷ヲ恢弘シ祖宗ノ威徳ヲ對揚セムコトヲ庶幾フ爾臣民其レ克ク朕力旨ヲ體セヨ

 

國民精紳作興ニ關スル詔書(大正十二年十一月十日)
・「國家興隆ノ本ハ國民精神ノ剛健ニ在り之ヲ涵養シ之ヲ振作シテ以テ國本ヲ固クセサルヘカラス」
・「是ヲ以テ先帝意ヲ教育ニ留メサセラレ國體ニ基キ淵源ニ遡り皇祖皇宗ノ遺訓ヲ掲ケテ其ノ大綱ヲ昭示シタマヒ後又臣民ニ詔シテ忠實勤儉ヲ勤メ信義ノ訓ヲ申ネテ荒怠ノ誠ヲ垂レタマヘリ是レ皆道憶ヲ尊重シテ國民精神ヲ涵養振作スル所以ノ洪謨ニ非サルナシ」
・「輓近学術益々開ケ人智日ニ進ム然レトモ浮華放
縦ノ習漸ク萠シ軽佻詭激ノ風モ亦生ス今ニ及ヒテ時弊ヲ革メスムハ或ハ前緒ヲ失墜セム
コトヲ恐ル」
・「質實剛健ニ趨キ軽兆詭激ヲ矯メテ」
・「人倫ヲ明ニシテ親和ヲ致シ公徳ヲ守リテ秩序ヲ保チ責任ヲ重シ節制尚ヒ忠孝義勇ノ美ヲ揚ケ博愛共存ノ誼ヲ篤ク」・「以テ國家ノ興隆ト民族ノ安榮社會ノ福祉トヲ圖ルヘシ朕ハ臣民ノ」

★青少年学徒ニ賜ハリタル勅語(昭和十四年五月二十二日)
・「國本ニ培ヒ國カヲ養ヒ以テ國家隆昌ノ気運ヲ永世ニ維持セム」
・「其ノ任實ニ繋リテ汝等青少年学徒ノ雙肩ニ在リ汝等其レ気節ヲ尚ビ廉恥ヲ重ンジ古今ノ史實ニ稽ヘ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ嚮フ所正ヲ謬ラズ・・・」


 

★国民学校令等戦時特例(抄)(昭和十九年二月十六日勅令第八十号)
・「宣戦ノ大詔渙発セラレテ」 ・「大東亜ノ建設亦日ニ進ミツツアリト雖モ暴戻ナル敵ノ反抗ハ最近頓ニ熾烈ヲ加ヘ」 ・「未曾有ノ危局ナリト謂フヘシ国家非常ノ秋ニ方リ義勇公ニ奉スルハ光輝アル我カ伝統ナリ」 ・「国民即戦士ノ自覚ニ徹シ一億蹶起シテ戦闘配置ニ就ク」 ・就中学徒ハ曩ニ一部ノ勇躍出陣ヲ送リ」 ・「学徒ハ挙テ常時勤労其ノ他ノ非常任務」

 

 最後に 「現在」の改革についてもみていきたい。各種の審議会の答申もあるが(略)、ここで下記の会議議事録の意見をみておきたい。これらの委員が選ばれたのは公選ではないのだが、この委員からの提言(答申)を「国民の意見」と称して、現在の改革がリードされつつある。特に下記のものは、最初の自由な意見であり、何を「問題視」しているかが語られている。

「教育改革国民会議」URL http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/index.html 報告「教育を変える17の提案」(平成12年12月22日)。

(戸田議員)これまでの教育についてみると、特に「徳育」が現場で教えることが難しかったようだ。会議では専門家の御意見も伺いながら、教育の基本・根本に係る問題につき御議論いただきたい。また、教育基本法の改正についても御議論いただけるものと期待している。

(太田議員)我が国の議論においては、経済などがまず優先されがちだが、教育という問題こそ根本的で一番重要な問題である。公明党の憲法調査会でも議論となっているのが、グローバリゼーションが進む中で、日本の「ナショナル・アイデンティティ」を如何にして確立するかという問題。

(浅利委員)劇団で40年にわたり、小学生に対して自己犠牲や友情についての芝居を見せてきた・・・戦前の修身の授業のようになってはいけないが、例えばガンジーや日本の偉人などの人生を学ぶことができるような授業を行うべきであり、その中で道徳観や倫理観を養っていくべきである。

(石原委員)地方の公教育・義務教育を担当してきた経験から発言していきたい。・・・教育の機会均等が成し遂げられたことで「平等」は一応達成されたので、今後は「公平」という観点について考えていくべきである。

(今井委員)本会議では、日本PTA、母親として意見を申し上げたい。・・・親が子どもに求めるものは躾から学力へと変わってきており、子どもが良い学校へ行くことで優越感を持つという感覚を変えない限り、教育改革は実効的なものとはなりえない。・・ 子は「地域の宝」という意識

(上島委員)・・・二児の父、日本青年会議所の代表としてコメントしたい。・・・大都市圏ではドラッグの問題や社会不安があり、地方では授業を抜けてカラオケに行ってしまうなど、地域によって問題の状況が違うが、これらの現実を踏まえ・・・どのような人を育てるのか、・・・

(牛尾委員)・・・日本の状況についていえば、米国で20年前、30年前に起こっていたことが今現実に起きている。日本人は、貧しいときの哲学というのは持っているが、豊かなときの哲学というのを持っていないので、豊かさに対応した教育を考える必要がある。また、母親中心の教育が女性の社会参加に伴って機能しなくなっていること、祖父母とともに住まなくなったことにより道徳が軽視されていること・・・

(梶田委員)・・・経験上日本の教育はしぶとくて底力を感じるが、根本的なところで歪みが出ている。教育行政を非中央集権化、非政治化するとともに、未来ばかりを語るのではなく、過去を踏まえ温故知新を図るということが必要である。日本人はフランス革命を知っていても、自分の国の歴史や古い文化を知らないため、南米からの留学生は日本の技術はすばらしいが教育は植民地教育であるとして失望していた

(勝田委員)・・・教育基本法の見直し、教科書検定の廃止を行って自由化する必要がある。それにはメリットとデメリットの両方があるけれども私見ではメリットのほうが大きいと思う。また、教育改革国民会議を開催したせっかくの機会なので、情報公開を原則にしてマスコミを上手に使うことが大事である。子どもは国の宝であるから、国を挙げて「他人の子どもも誉めよう、叱ろう運動」をキャンペーンしてはどうか

(金子委員)・・・慶応幼稚舎の舎長として小学生と関わる中での印象を述べたい。まず第一に、子どもは複雑なことも理解するということである。・・・・・幼稚舎ではいろいろな分野で競争をさせて子どもを誉める機会を作っており、競争自体が悪であるとは思わない。そのことで人の気持ちがわかることもある。学校はコミュニティの核であり、学校を人と共に喜ぶことを知る場としたい。

(河上委員)・・・この場では唯一の現場の教師である。勤務先の中学は学校が崩壊しているという意味で全国の最先端である。200人の生徒の中で5、6人は学校の枠組みを全く無視する生徒がいる。枠組みを無視されると彼らに対して教師は何もできない。校内暴力が吹き荒れた時期と比べると普通の生徒と問題児の差が少ないため、2割ぐらいの生徒がそれについていってしまい、全く規律をなさない。

(木村委員)・・・我が国は、今こそヘゲモニーを求めないエリートを必要としている。また、日本の教育には職業観・勤労観といったものが欠けており、そのため若者に無職者が非常に多い。経済が好調なアイルランドなどでは労働経験と学習経験を同列のものとして扱っている。

(草野委員)・・・重要なのは、@個々人の能力を伸ばしていくこと、AIT革命が進展しているが日本の経済を支えているのは「ものづくり」であり、そのための教育をしっかりやっていくことB自分の考えを正確に相手に伝えるためにディベートなどを教育に取り入れることC生涯学習の成果を発揮できる環境をつくることD相手を思いやる心の醸成E勤労観・働くことの重要性を教えること

(クラーク委員)・・・道徳が崩壊しているので、修学旅行などはやめて、ボーイスカウトや奉仕活動などの経験を積むようにさせることが必要

(黒田委員)・・・自然科学の現役の研究者・教育者は私だけなので、その立場からも発言する。科学技術、特に生命科学の分野では生命倫理が問題となっており、また、環境問題においても、国民一人一人の正確な判断を求められている。@自然、社会、歴史の中での個を考え、A自然の不思議さ、厳しさに感動し知的創造の喜びを知り、B勤労に対する誇り、責任、倫理観、他者への思いやりを持つために、子どものころからヴァーチャルではない本物の自然と社会に触れて創造性を養うべきである。

(河野委員)・・・日経連の「教育特別委員会」で人材の育成と「海外子女教育振興財団」で海外子女の教育問題に携わっている。我が国は、高度工業社会から情報社会へと、またグローバル化の進展と、社会構造や価値観などが、大きく変わりつつあり、教育制度も制度疲労を起こし、環境の変化に十分対応できていない。海外の日本人学校の生徒達は、自己主張もはっきりしており、多様な価値観を受け入れ、自律心もしっかりしている。

(曾野委員)・・・日本人は、真善美のうち、相手との関係に基づく「善」ばかりに一生懸命になり良い人と思われようとしてきたが、「真」と「美」という徳や美学については個人的な作業でありおろそかにされてきた。・・・全国民が18歳で社会奉仕活動の機会を持つべきであり、愛を受けるばかりでなく与えることを学ぶことで、高齢者問題などをはじめとした様々な問題の解決に結びつくと考えている。

(田中委員)・・・高等教育に対する社会的関心が低いことは問題。・・・安上がりな大教室のマス教育でゼネラリストを養成するだけではなく、リーダーシップをとれる人材の育成が必要。教育に携わる人材の質の向上も重要になってくる。また、公共的で実践的・倫理的な問題に関わる実践知の教育の充実が図られるべきであり、そのためには、画一的な平等志向から脱却し、多様化・重層化した教育・評価システムを構築する必要がある。

(田村委員)・・・今の日本の大人は18歳の若者に与える言葉を持っていない。・・・ 21世紀懇談会は個の確立をうたっているが、集団主義で成功した国で個の確立は難しく、「個の確立と全体」と考えるべきであり、ケネディ大統領の演説にあるように「国が何をしてくれるかではなく、国に何をできるのか」ということを考えた方が良いのではないか。

(沈委員)・・・これまでは、地方は中央ばかり見てきたし、中央も地方に対して通達ばかり出しては上意下達の行政を行ってきた。私は、職人の父から仕事を伝達され、そのために父を尊敬することができたが、今の日本でこのような関係が成り立っているかどうかは疑問である。特に父親は家庭から逃げ出しており、親の側の意識改革をするための教育が必要である。

(浜田委員)経団連では昨年から教育を担当している。昔の日本にはお手本となる人がいたが、・・・いじめは昔もあったが、弱い者いじめはしないという暗黙の了解があった。今は強い者はいじめられないので弱い者をいじめて楽しむのが普通となっており、政府で弱い者いじめはいけないことだと広告を打つべき。自然に接する機会が減り、友達とも遊ばなくなった。この状況を打開する意味でも、14、15歳時に、一定期間合宿で農業を行う「国民皆農制」を実施すべき

(藤田委員)・・・臨教審以降の教育改革は日本を駄目にしている。世界的には教育の「再武装化」が潮流となっているのに、日本では逆に「武装解除」を行っているようなものである。教育には多くの資源を投入する必要がある。また、いじめや校内暴力などの問題は、学校病理なのか社会病理なのかを見極める必要がある。

(森委員)・・・戦前から歴代総理大臣・文部大臣が「教育は100年の大計」と言っているが、それをスローガンで終わらせてはいけない。これまでの改革案は理念に傾き、これを実行するための理論や実践方策に欠けていた。教育問題の原因をたどってゆくと大人の幼児化に行きつく。

(山折委員)・・・心の教育を議論するための中教審の委員に宗教家が一人もいなかったが、このような文部省の見識を疑う。宗教教育は戦後教育の根幹であり、内村鑑三も西欧文明を受け入れながらキリスト教を無視したのは失敗であったと言っている。

(山下委員)・・・いかにあるべきか、いかに生きるべきかという人の教育が欠けている。また、子どもは大人の鏡であるので、親・教師は自分を省みて、まず自分を磨くべきである。大人が本音と建て前を使い分けていることが子どもが荒れる原因であり、責任は大人一人一人にある。

 

 上の意見には、実は私はかなり同意できる。ようするに「道徳」「理性」「倫理観」や「国への愛着」「公共心」が大切だといっている。「職業への誇り」も・・・。「教育基本法の改正」を言い出しているのが「議員」側というのがわかるが、はじめからの意図というのには同意できない。しかし、他のものは反対できるものだろうか。道徳はないよりあったほうがいいだろう。国を愛するということだって悪いことではない。職業への思いも・・・。ただ問題は、この程度はまさに誰もが同意するレベルの話しや思いでしかないということです。それがなぜか実施策として「道徳系科目を増やす」「奉仕体験義務化をする」「法規を変えて愛国心と書く」となる。この「やりかた」が考えているのかと問いたいのです。こういう誰もが考える意見や、そして決まりきった反応ともいうべき・・・歴史的にみて繰り返しじゃないかとも思える行ないは、「考えている」とはいえないたんなる「気分」なのではないでしょうか。そして言っている人たちは「考えている」「自分のまっとうな意見だ」とおそらく思う。人間は「適応」し「反応」する生き物です。世界史と日本史の区分や展開が似ているように、似た思考や行ないをするわけです。そういうものが「歴史」からみるとわかる。「歴史」の言葉をよく引く政府の方々も、本当の意味では「歴史」に学んでいないのでしょうか。実は「歴史」からも常に自分の思考や言論・行ないを「客観視」することが可能なのです。