教育の歴史E (2002年11月8日)
授業のねらい・・・復習と確認から縄文時代の教育関係について話しをもちこむ。説明の下手さと時間配分の拙さに自分でがっかり。いちおう「教育の起源」をこれまで確認した「視点」から読み取るというのを目的にしていました。その後、試験にも頻出の事項をおさらいしながら、古代〜近世までの流れを確認。 |
(6)教育の起源 −「前身」的なもの
○古代の成人式、日本の元服などの儀式
○宗教の儀式(例:キリスト教の成人洗礼など)
○物語(口伝等をのこしていくこと)
*社会のルールを教えたり、歴史的ルーツや伝統を伝えたり、偉大な先人の教訓を伝えるということで、「社会化の機能」を担当
「縄文時代」は「縄文文化」があったからそう名づけられている。「文化」があったということは「教育」があったのではないか。そして日本最古の文化ということは、日本最古の「教育」関係がそこにあったのではないかと考える。「土器」に決まった形式があった。偶然ではないはず。一人がつくって全国に分配していったものでもないはず。情報伝達という意味でも「教育」であるし、時期による発展もみれる(資料は略する)。粘土にも特徴がある。石器も発展している。土偶や埋葬、宗教かのような儀式があったと資料にはある。これは「教育」ではないのか。なぜ文化が発達して継承されていったのか。教育があったのだろう。村落もできた。竪穴式住居と村落。首長もいたであろうし、祭司もいたのか。貝塚や工房もあったとされる。これらは教育が可能にしたのではないか。いや、移動式生活から居住生活に変わったことで、留守番役となったであろう老人と子どもたちとの間で、養育や教育が行なわれたと考えることはできないだろうか。ちなみに所有も交換も、そして助け合い(協働)も行なわれていたのではないか。これも「余裕・余暇」からつくられたのではないか。
(7)「古代」社会における教育(3世紀後半以降の古墳文化、大和朝廷、飛鳥、奈良、平安時代)
●古墳・・・有力豪族を埋葬、権力・支配の構造(身分格差の誕生)
●大陸文化の摂取・・・文字、建築、仏教(帰化人の活躍)→後継ぎ、一族、氏族の教育
*「聖徳太子」の理想とする人間像(十七条憲法、冠位十二階、遣隋使の派遣など)
→(憲法第七)「官のために官を求め、人のために官を求めず」
法隆寺の建立→仏教(と儒教)による国家安定・・・「僧侶の教育」=政治
*「大化の改新」以降の貴族を中心とする社会のための制度、教育
→公地公民制・班伝収授法・租税制という支配のための学問
貴族文化、教養、自然美の表現、漢詩、音楽(大宝律令による大学寮と国学の設置)
・・・教科書「孝経」「論語」「礼記」「春秋佐氏伝」「周礼」「儀礼「周易」など
(例外)僧空海の綜芸種智院
留学・海外情報の伝達、そして政治制度、財政、宗教、文字、建築の方法、身分差(知識を持つものと持たないもの)。そして詩や音楽、蹴鞠などの文化。国学。これらは「教育」である。資料をもとに(略)、その展開をみていこう。
(8)「中世」社会における教育
●武力による秩序維持を目的とした社会・・・武術、家訓、家庭内における乳母の存在
●鎌倉新仏教による民衆教化・・・新仏教は易行(実践的)−法然の浄土宗、日蓮の法華宗
●教養の機関・・・金沢文庫、足利学校(将軍家や学僧)、
●庶民の教化・・・寺院(庶民に「いろは」を教える)、キリシタン学校
地方の時代になってきた。武家社会のルール・生活習慣と統治の方式。新仏教の教化活動。資料が収集されたり、また教育機関がつくられたり、キリシタン移入による海外文化との交渉もあった。「教養」というものや価値観について資料をもとに考えてみよう(略)。
(9)「近世」社会における教育
●幕臣の教育・・・昌平坂学問所(最高学府)、蕃書調所、和学講談所
●各藩の教育・・・藩校(藩士の育成)−−儒学・習字から実学へ、郷学(地方)
●庶民の教育機関・・・寺子屋(丁稚奉公、弟子、女中奉公)、郷学
江戸時代には日本独特の社会・文化、現在にもつながる生活様式が整ってきていたともいわれる。それがどういうものか資料から読む(略)。
(10)近代化当初、「維新」期の教育の性質・・・文部省設置以前の学校構想