教育の歴史 B (2002年10月11日)

 2 教育史の流れを理解する (3)世界史の大きな流れ(通史)

 

  前回の内容は、「2 教育史の流れを理解する(1)教育形態の変化、(2)教室・教え方の変容」であったが、今後もまずは「全体の流れ」を説明していく。また「そのような『教育』の発展・変容」がみられた理由を考える分析視点を紹介する。その後、各時代やいくつかの項目にそって講義していきたい。「全体の流れ」については今後の進め方として次のようなことを考えている。

2 (3)おおまかな流れ、(4)可能になった理由、(5)「余暇」という条件

 

 簡単に前回までの流れを確認しておく。

(1)教育形態の変化〜様々な授業のカタチ *「一斉教授」か、「児童中心主義の学習」か?

   ※「一斉教授→児童中心主義の学習」と発展してきた歴史がある

(2)伝える形態(教える形式)の種類、変化    *人数(対象)による方法の変化

  ※
 

個人指導
一対一:口伝


 

 少人数指導
文字や図、書物講読、問答法など


 

多人数の集団指導
共通のテキスト、教室


 

 

(3)教育のおおまかな流れ(世界史)〜教え方の歴史的変遷〜当時の学習観の違い

 「学習の対象」の違い、つまりどういう人間が学んでいくのかという(教育が必要かという)「学習観」の違いに注目して通史を理解してもらいたい。まず、「世界史」の流れにそって大きい時代区分ごとの特徴をみていく。通常、ヨーロッパを中心として解釈される「世界史」では「時代」は次のように区分される。

 

古代→中世(中世後期ルネッサンス及び絶対主義の時代)→近代・現代

 

 「日本史」の教科書にある時代区分とは若干異なる部分もある(対象したものは略する)。日本史では中世後期にあたる部分(あるいは近代初期的性格ももつと解されるが)で近代の発展する前の段階を「近世」と称するというのがその一つ。また、現実に「古代」や「中世」の長さや年代自体が一致しているのでもない。大きい意味でその「条件」がみられる発展段階を「古代」「中世」「近代」なりと称して区分しているのであって、その意味ではヨーロッパ諸国が「近代」化された当時にあっても他の地域では「まだ近代化されていない」と称される事実もあった。「失われた世界」などという小説のように「発展の時間がなくなった場所」という考え方もある。しかし大きくみると、例えば日本と世界史とでも違いは少ないという見方もできる。気をつけなければいけないのは「相手国が遅れている」という蔑視の感情(感覚)をもつように歴史をみることである。「古代」から「近代」、あるいは「現代」といった呼称は「歴史学」が発展して「歴史」が考えられた「現在」においてつけられた「区分け」であって、その「当時」に「いまが古代だ」などとは考えてはいないのである。また当然「今日から中世だ」というような区分けを意識していたということもない。「現在」すら数百年・数千年後には「歴史」として分析され、きっと新たな「時代区分」が行なわれるのである。その時、「いま」はなんと呼称されるのであろうか。「そのとき」が「現在」であり「現代」なのだとしたら、そのときに近い時期を「近代」と呼び、それと「古代」といういちばん古く発見された人間社会の歴史との間を「中世」(中間の世紀)と呼ぶにしかすぎないのだとしたら、・・・。「近代後期」「後近代」「ポストモダン」「新近代」「ネオ中世」・・・。これらは後からつけられる枠組み解釈である。一回目のガイダンスで話したが、分析できるからこそ、指標となりえるのであって、これで「歴史は後から理由をつけるだけのものだ」とは思わないでほしい。その「性格」を理解しながら、むしろその「変容」や「現象」の理由・要因を分析していくことから、現在の社会なり生活なりを考えていくヒントをえてほしい。

 「教育史」の一般的なテキストでは大きい流れが次のように記されていることが多い。

@古代→ギリシア古代都市の哲学スクール
A中世→ヨーロッパ・キリスト教の宗教思想
Bルネサンス期→科学の発達。実学が流行。
C絶対主義国家確立→支配階級の教育。国民支配。
D産業革命期→資本主義化、工業化により国力を富強した国が「近代化」。
E公教育制度の確立→19世紀後半に初等教育の義務化という形式で達成。






 

 

 @「古代」として、「ギリシア」の古代都市(アテナイやスパルタ等)の社会構造をあげて、いわば「人間社会」の起源としてそこまで遡られて考察されることが一般的である。奴隷制などの問題もあったが、公共性や哲学・数学などの発展もあり、人間のつながりや思想・科学の初期の時代と目されている。教育でいえば、「哲学」のスクールとしてアカデミアなどがあったとされる。哲学者を育てる、哲学を究めるというのが学習観としてあったという点で現代の教育(国民の教育)とは異なる。教育の機関というものが出現していたということと、内容として教養(哲学や科学)という価値観があった点に特徴がある。

 世界史的な古代と日本の古代文化(社会)とはスパンが違うとされるが、大陸(中国)の影響を受けながら「古代国家」の体制が整えられていったのだと考える。

 

 A「中世」は、ギリシアからローマへと中心舞台も移り変わり、またヨーロッパ各地で様々な文化が花開いた時期でもある。とくに「キリスト教」という宗教思想が大きく影響力をもった。ギリシア神話の世界(神々)ではない「神」とその子「キリスト」を信仰するということにより、いっさいの人間の平等という思想を広げていった。「帝国」や「支配者」というものからの自由も意味するのではないか。もちろん「神」という「絶対者」の下における平等であった。従って「神のおしえ」を説く聖職者(司祭や宣教師ら)が事実上「指導」的立場に位置するのではないか。この聖職者養成の学校がつくられた。特別の役職のための教育という限定的性格であったが、これにより宗教思想が広がっていくという効果があった。もちろん民衆の「教化」を目的としているので、結果的に生活習慣や道徳的感性、あるいはある程度の知識・教養を広めていくという効果もあったと考えられる。

 日本の中世にも貴族の文化や文学があった。また宗教(仏教)の普及もあり、それらが「教養」として価値観となっていた。

 

 B「ルネサンス期」は中世の後期と考えることができる。「文芸復興」とも称されるがある種キリスト教以前の社会の価値観にもどろうという動きも含んだ。一般的には「科学」の発達が顕著にみられた。コペルニクスやガリレオによる地動説などはキリスト教神学概念を超えるものでもあり、当初は批判されたが、しかし航海術の発展やマゼラン、コロンブスらの航海の成果によって実証された(詳しく説明したがここでは略する)。これらによって従前の神学的「世界」観は打ち消されたともいえる。宗教自体も内部から宗教改革などで権威的位置から脱却しようという動きもあった。「世界」や「文化」や「民俗」が発見され、「実学」が流行することになる。そのための私塾的機関がつくられた。

 中世には日本にもそれらの影響があった。漂流や渡航者としてキリスト教宣教師が渡ってきて、また鉄砲などの科学が伝わった。それにより日本の思想や戦術、生活・居住にも変化があった(城や城下町、戦術や農業の話をしたが略する)。

 

 C「絶対主義国家確立」の時期は、新しい「世界」やあたらしい「国家」が編み出される過程で王政復古まで含めて「強固な中央集権的国家」が誕生したという時期である。古代の国家にも似ていたが、「国家」意識の世界の中でのとらえなおしの一つの反応でもあった。「自国」として強固にまとめるために、他国に対していくために「国民(国家)意識」が必要であり、国の力としての統率力が必要であった。支配階級のための教育という「身分性・階層性」が特色でもあり、国民には支配・統制のための規律を求めるという基本的には分立的なものとなる。

 日本の江戸時代や近世にはここに相当するものもみられるし、また寺子屋などの庶民文化や私塾はルネッサンス的でもあるし、次の時期にも近い部分も含んでいる。

 

 D「産業革命期」は、「近代」のはじまりの時期とされる。イギリスをはじめとしてヨーロッパへと拡大普及されていった。「工場」のシステムの進化によって「生産」力が大幅に上昇し、「資本」の増幅と蓄積が可能となった。海外との関係によって原料や労働力も得るなどの展開もあり、「国力」としての「金」(財政)を増すことが可能となった。資本主義化、工業化により国力を富強した国が「近代化」したといわれる。「工場」労働のため、生産形態が変わり、生活も変容する。労働者が工場のある都市に集中し、児童労働の問題や弊害もあったが、発展につれ、「資本」の余剰やあるいは「労働力の余剰」によって「子どもを労働から放す」という考えがでてくるようになった。「子どもの時期に勉強して知識をつけた方が将来に効率的に労働可能」という考えで(また基本的に「教育」を人権として考えられるようになってか)「子ども」を「学校」に行って学ばせるということが実現されるようになってきた。

 産業革命は日本でも明治中期以降におきるが、日本は「学校」が最初に移入され、あとからこの産業革命によって余裕が出てか就学率が伸びるという反応ではあった。しかし寺子屋熱などから「当初から教育普及の条件がそろっていた」との指摘がされることもある。

 

 E「公教育制度」が確立するのは、以上の流れを受けて、19世紀後半に初等教育の義務化という形式で達成されて以降である。これによって「いま」の教育の始まりは普通「近代」からだとされ、「近代教育」から学び始めるというのが「教育史」の授業のパターンの一つともなっているのではないか。直接つながる学校はたしかにこの時期である。例えば日本でも明治初期に創設されたという歴史をもつ学校は現存している。学校が制度化され、国民の教育というある種の人的投資(親にとっては子の就学の義務でもあるが、基本的には国家の準備・整備する義務で、それが就学して学ぶ国民の権利でもあるということ)が成立するのがこの「近代」以降のことであり、歴史的にはまだ新しいともいえる。ちなみに中等教育にまで「すべての国民」を対象とする教育が拡大されたのは戦後になってから(日本では昭和20年代以降)である。日本の現在の状況はさらに高等学校までほとんどの者が就学し、さらに「大学全入の時代が来る」とも言われている。急速にここ100〜200年の間にこのような「教育」が発展してきたのである。

 世界史でも日本史でも多少の差異はあるが、しかしそれは大差ないともみることもできる。

 

流れを確認してみる(世界史)  <教え方の歴史的変遷 1 当時の学習観の違い>

流れ

細かく

日本

  展 開

学習観

古代

古代

古代

@古代→ギリシア古代都市の哲学スクール

哲学者

中世

 

初期

中世
 

A中世→ヨーロッパ・キリスト教の宗教思想

宗教者

後期
 

Bルネサンス期→科学の発達。実学が流行。

科 学

近世

C絶対主義国家確立→支配階級の教育。国民支配。

統 合

近代
 

初期

近代
 

D産業革命期→資本主義化、工業化により国力を富強した国が「近代化」

市 民

 

E公教育制度の確立→19世紀後半に初等教育の義務化という形式で達成

公教育

 

  *リアクションペーパー及び質問紙の配布と回収