「教育の歴史」A 2002年9月27日(金)
〇教育史の流れを理解する
(1)教育形態の変化
(2)伝える形態(教える形式)の種類
この講義の目標として、シラバスにも記したように、「教育の歴史研究の有効性を学ぶ」、「教育史の流れを理解する」、「現代を『教育史』の視点から考える」の三つを柱としている。前回の授業で「江戸→明治」「戦前→戦後」「2000年前後まで→2002年以降(正確には「ゆとり」路線はそれ以前からの継続延長上である)」という「変革」のまさに「→」の部分にいるという意識について話したが、「そこ」にいるときには「そこ」のことはわからにくいものであるとも思える。(*哲学者ガダマーの著書を参照して、彼の「地平」という概念の説明から入って、歴史研究の意味と可能性を話した。複数の観点をもって、比較的に物事をみて判断していくことと、それが自身をも相対化して考えていく方法であることを指摘した)
〇教育史の流れを理解する
「教育史の流れ」を、「授業のカタチ」「方法」の違いと発展、「教育がそう変わったのか」という形から考えていく。
(1)教育形態の変化〜様々な授業のカタチ
配布した資料の写真と図を使って、「授業のカタチ」について説明した。写真一枚目は日本大学で撮影した授業のシーンであり、大教室に座って前(黒板)に向いているところを後方から写したものである。複数人で掛ける長い机と教室の長方形という形態から、多数の学生が一斉に教師の方を向くという「一般的」にみられる授業形態である(本講義も同じ形態である)。またそれを図示したものも参照して、その一律な部分を意識するようにした。「一斉教授」の形式とよぶ。
二枚目は日本大学でのパソコンルームでの授業シーンであり、コンピュータに向かって座りながら、教師の説明をきくシーンである。必然的に横向きに(PCに正面に向いているのに対して)「教師」の方を向き、またTA(ティーチングアシスタント)がついているのもわかる。T.T(ティームティーチング)方式にも通じるが一枚目の「一斉教授」とは形態が異なる。これは本学部でも(一部の授業で)みられる形式と思われる。
三枚目の写真はゼミでの学生の報告と討論のシーンである。円卓形式に机を並びかえている。「一斉教授」と比べれば「前」を一律に向いているのではないことや、教師が中心でないという点で異なる。もちろん大人数すぎては不都合でもあるか。
四枚目はマサチューセッツ州の小学校(プライマリースクール)での学習シーンである。「調べ学習」という児童が中心となってすすめる授業の風景であり、生徒同士が向き合って座っているので、前に向かって一律の方式とは違っている。さらに教師が中心ではなく、児童が報告して討議するという方式である。もちろん少人数の教育だから可能というのはある。さらにその教室内配置を図示したものをみせて、「一斉教授」との比較を試みた。
以上から、「一斉教授」という形態と「学習者中心の授業」(児童中心主義の学習)という形態に大きく分けることができる。
発問:「どちらがいいと思うか?」→(答えは略)
今、日本の教育改革では「自己教育力」「体験学習」といっていて、後者の「児童中心主義の学習」をめざしているともいえる。米国をモデルにしているともいえるが、そのアメリカ合衆国も昔は一斉教授を行なっていたのをある時代から(デューイの実験学校以降)この「児童中心主義の学習」にと変わってきたのである。その意味においては、歴史的に「一斉教授→児童中心主義の学習」と変遷してきているともいえる。
しかし、実際には米国は現在、かえって「日本」のような画一的な教育の志向により学力問題を解決しようとしているし、そもそも旧ソビエトとの宇宙開発競争からの刺激で(スプートニクショックという)「デューイの児童中心主義の学習では駄目」ということになって「系統的」「科学的」な教育が重視されてきたこともあったのである。そのことから「授業のカタチ」として出てきた順番として「一斉教授→児童中心主義の学習」という変遷がありえるが、それは固定的なものではない。
(2)伝える形態(教える形式)の種類
「教える形」にもう少し注目していく。次に「人数(対象)」による方法の変化を考える。対象とする生徒数によって教え方が変わるということであり、それは教育の機会の拡大や就学の増大によって、「授業」が変わってきたのではないかという見方である。
一対一のマンツーマン(個人指導)のときにはどのような教え方が有効か。古来、西洋で哲学を学んだり、あるいは技術職の師弟関係における伝承も「このような少数」の教育であった。書き取らないことが意識されたこともあったが、基本的に「口伝」で事足りる。
一対少数人数(少人数指導)では、口伝だけでは全体には伝わらない。他に地面や石板に文字や図を書いて説明するなどの方法が有効となる。書物ができて以降、書物や文学を講読して討議する輪講(ゼミ方式)や、ディスカッション形式が可能で有効となる。あるいは教師の問いに答える問答法などもあった。
多人数を対象とする集団指導では、共通のテキストがないと伝えにくい。教科書の重要性が増す。従って、読み、書かせる方式が定着する。基本的にはPC使用の授業もリテラシーという面で共通する。基本的に機会の公平・平等ということで「大衆教育」が実現していった。
歴史的には「個別の教育=少数指導」→ 「大衆教育(学校)」と発展してきたが、そこで「次の教育は?」ということを考えていく必要がある。歴史的な登場の順序としては、その候補として「児童中心主義の経験学習」が注目されているのである。それを今後の講義で考えていきたい。
*リアクションペーパー及び質問紙の配布と回収。