森 有礼(もり ありのり)−−日本最初の文部大臣の謎を解く
(謎1)森は変節したのか? 洋学者→国家主義者に変容。
(謎2)キリスト教の影響は? 教育勅語体制の教育をつくりあげたという矛盾。
(答え)
森 有礼(もり ありのり)1847−1889。 初代の文部大臣。近代公教育制度の基礎を築くうえで大きな役割を果たした。幕末動乱期の薩摩藩下級武士の出身。通称金之丞、のち有礼。藩校造士館、藩の海軍講学科教授機関である開成所で学ぶ。1865年藩の内命により、イギリス、アメリカに留学、維新直後の68(明治元)年に帰国し、新政府に出仕した。翌年、「廃刀」を建議し官位返上、一時帰郷した。70年、少弁務使としてアメリカに滞在、滞米中に"Education in
Japan"(『日本の教育』)を編纂、アメリカの識者の日本の教育に対する意見を紹介した。74年には福沢諭吉、西周らと明六社を設立、社長に就任、啓蒙思想家として活動。1880年から84年まで駐英公使。その在任中、伊藤博文と会談、教育についての意見を交わし伊藤に認められるところとなった。帰国後、参事院議官、文部省御用掛を兼務し、85年、内閣制度の発足とともに伊藤内閣の文相に就任。初等学校から大学にいたるまでの全面的な学制改革を推進し、教育令を廃して帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令等各学校別の勅令を公布した。さらに小学校就学の義務制や教科書検定制を実施するとともに、師範教育の改革を重視し、順良・信愛・威重の三気質の涵養を教師に求めた。森の教育施策は、日本資本主義の準備期にあって国家の主導の下に国民教育を発展させ、「人民各自ノ福利」とそれに支えられた「国家公共ノ福利」の増進とを企図するものであった。また、旧来の「教学一致」という考え方を打破した点では進歩的であったが、学問と教育とは別という原則を立てたことによって、学問・研究の成果をとり入れて初等教育の内容を編成することを困難にさせる結果となった。1889年大日本帝国憲法発布の日の朝、刺客に襲われ翌日死去。 |
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"Education in Japan"の内容・・・在米中の森有礼は日本の教育の進路についてアメリカ人有識者にアドバイスを求めその回答を“EDUCATION IN JAPAN"としてまとめ刊行したが、その回答のうちいくつかは日本をキリスト教国化すべきとの意見であった。もちろん森は質問においてキリスト教については一切触れていない。「一国の経済的・物質的繁栄」、「商業・流通面」、「農業・工業といった産業」、「国民の社会性・道徳面・身体の発育」、「法律・政治」、以上5つへの教育の効果を尋ねたのであった
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