「教育の方法・技術論」J(2002年1月11)
<教材をつくる、空間を考える>
前回の復習・・・「総合」実践の難しさは中学・高校ほど受験やさらに「教科担任」制の問題があってより複雑になるが、しかしやらねばならない。いや、「よくやるべき」であろう。では、どうすればいいか。いくつか事例を紹介したが、実は私がいいたいのは「方法」と「効果」に注目してほしいということである。だから「教科」の基礎も重要で、しかしそれが「実感できないで面白くない」というのなら、その実感の場として「総合の時間」を位置づければいいのではないか。学校ぐるみでできることである。「教員の自由」もあるだろうけれど、いちおう「あたりはずれ」が指摘される(短所として予想される)ならば、教員の「責任」のためにもコンセンサスは必要であろう。少なくとも迷いや疑いを解くために。そういうことで「両方」(教科も経験も)が生きるのではないだろうか。方法論的にはいくつかの授業例を紹介したが、それらは「総合学習」に限らずとも通常の授業でも効果がみこめるし、方法論としてとりいれられるはずである。 |
●先週の資料・文献名(追加)・・・若干の補足 |
●教師の工夫−−「教材」と「教室」
「授業」は下の4つの要素があると考えられる。
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(1)教材→
教材で学ぶ、教材から学ぶ →→ 教材でどう学ぶのか、教材でどう学ばせるか?
(教材の考案が重要)
教材は身近に感じさせる(実感)ためのもの
◆補助教材、資料
→教材の可能性・・・教え方、提示の方法で異なる効果
※介在するモノの効果(洗脳、宗教、教会の聖書講読・説教・讃美歌斉唱)
→資料の提示・・・黒板、プリント、OHP、教材提示装置(書画機)
*プロジェクターとの組み合わせ
◆教材から学ぶ
・教育的番組・・・セサミストリート、ポンキッキーズ
「ヘッドスタート計画」の説明。幼児番組。ビデオを見せて育児する母親の記事。→それは学んだのか?→→「学ぶ」ことはありえるが、何を学ぶことでどうなるのかまで考えて組まれてはいない。→もちろん番組によっては「子ども」をつかって彼らの意見をとりいれたり、綿密な打ち合わせのもとつくられているものもある。そういうものを「教材」にとりあげる大学の授業もある。これには効果は期待できる。
・教育番組、放送教育の可能性
「放送大学」のようなものや遠隔授業もある。大学の統合問題などでもこの問題が出てくるし、またIT化進行の中で連繋などが拡大されていく。「応答」があることから「教師と生徒」のやりとりが留保されることで教育的意味は保持されているともいえる。
◆教材・教育方法の可能性・・・プロジェクター、コンバーターをつかう
・教育教材の開発
例・htmlの可能性
ホームページソフト、ワープロソフトから作成可能 |
ここでは「教材」というより板書資料などをイメージしてもらってもいい。
表示される画面 |
*ソース |
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<HTML> |
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つくったものを「つかう」(みせる・すすめる)
パソコンからモニター(テレビ画面)あるいはスクリーンへ出力(投影・映写)する
以上はあくまでも『pc機器』等をつかって簡単につくれるもので、こういうものをこの講義で紹介するのはあくまでも「授業を構成していく」という視点から必要と考えるからである。
(2)「教室」
★「教室」の発明・・・「学習の空間」
「教育」の歴史的変遷については少し話してきたが、多人数を対象に一斉に授業をする必要があって、「学校」というシステムがつくられたところからが「近代教育」だと考える(現在と直接つながる)。寺子屋の図絵と比較してみたこともあるし、米国の教室風景とも比較してきた。いろんなカタチがあると考えるか、大差ない共通するものだと考えるか、みかたによって様々な見解がありえるが、とにかく重要なのは「つくられた」場所という事実である。すくなくとも偶然そこが学校になったというよりは「教室」を「教育を意図してつくった」ことではじめて近代教育なり授業なりが可能になったと考えるべきである。なんでも「自然の方がいい」という意見のもと、では青空教室でもできるからと「教室」「学校」を否定するのは少しいきすぎである。もちろん「学習の空間」は個人にとっても別個にあってもいいのだが、共通に集まって学ぶ場所(空間)として意味をもつのが「教室」であり、私個人としては近代教育の発明物の一つと考えている。
★「教室」の発明・・・「理解する」「わかる」というときはどうなっているのか?
人間が「わかる」ということについては、いちおう心理学的モデルや哲学的モデルなどを紹介してきたが、自分のアタマの中で構造的に把握することができて、よくわかったといえるのではないかということをいってきた。また、マンガのコマのような、そういう「範囲」「場面」というのがあって、それがつらなることでアニメーションのように動くことをも理解できるし、そういうある可能な「範囲」において理解というのがなりたつのだと、そして範囲を広めたり変形させていくのだということもいってきた。だから皆さんに「前」でヤマダ君と話しているところを「意識」してもらえば、皆さんのアタマの中にその「前」の場面が再現されるわけで、それは前なりコマなりの場面があれば、それをアタマの中に再現するということでもある。再現できて、それをいろんな描写でいろんな角度からも応用できて、それではじめて自分の知識なりに「同一化」していくことができるわけである。すると・・・、ひょっとしたら「前」というのがキーではないか。
★「教室」の発明・・・「前」がある場所。
実は「教室」ではこの「前」があるのが特長で、さらにいえば「教科書・教材」も「前」なのです。「目線」でもいいのだが、メキシコでは学ぶことを「メラ(注視)」ともいうのだけれど、「目」が大切である。目に障害をもつ人もいるが、そういう方のために点字なり音響なりがあるのであり、もちろん文字は教材という意味で「前」なのである。だから「前」とは情報をいれる方向、とりいれることそのものである。これは脳の構造ともかかわるが、前頭部(とくに前頭連合野や視床下部)で視聴覚(等の感覚)でいれた情報を分析整理・判断するという構造が「生物学」的には「考える・わかる」ということであるから、そういう「みる」こと(空間)が大切なのである。
教室の構造
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★「教室」の発明・・・もう一度、「学校」って何をする場所だか考えてみよう。
先週、「教育改革」の方向性についても考えてみた。「学校は必要か。不要か」。「つめこみが大事か。ゆとりが大切か」。これらは皆「二項対立」になっている。おそらく多くの人が実際は「いい学校ならいい」と考えるはずで、ではその「いい」というのはどういうものなのかがまた問題になる。ただ、学校が「いい学校でなくなった」と考えること自体に問題はそんなにないが、しかし「学校の意味は時代で変わっている」のだから、「いまの時代にあった学校」を求めるという意見もすごくわかる。そうあるべきだが、しかしそのためにこそ、そもそも「学校って何をする場所なの」というのをよく考えておかねばならないだろう。何が学校なのといえば、授業や空間があって、はじめて他の場所とは区別できるもので、そしてそういう授業や空間はつくられたものなのである。「つくりもの」はすべて悪いという考えで「自然がいちばん」という場合、私は気をつける必要があると思う。「意図的な教育」を行なう、そういうことを「意図」して目的をもってつくられた空間。そういうフィクションが学校なのである。あなたたちが教員になって、そして子どもをあずかっていると考えて、それで自分や近親者にも子どもがいてというふうに想像していっても、あたりまえに責任感なりが感じられるであろう。そこで作り物からはじめていくことが授業であり、学校生活であるが、フィクションであることを恥じるのではなく、必要なフィクションを構成していくのが仕事であり、授業である。マンガ、紙芝居、図絵、本、テレビ、アニメ、ゲーム・・・、すべてフィクションである。それらと同じく、またそれらをも使って「教育」というものを構成していくのが授業であると考える。授業を構成するために「教材」をつくり、また「教室空間・環境」にはたらきかける。そして対人関係ではたらきかけていって、ある情報を知識として「わかってもらう」ことが一つの授業ではないだろうか。「教材」の構成については次回の講義でもう少し扱いたい。