教育の方法・技術論I(12月14日)

 

前回の復習・・・「総合的な学習の時間」というものの実践例をいくつか紹介しながら、その教育方法としての特長と効果に注目してもらった。何度かいったことは、この講義は「総合学習」の教員を育てるためのものではなくて、その「総合学習」の何がいいのか、そしてどういう問題があるのかを学んでおくということを目的にしている。教育方法論として「総合学習」なり「経験学習」なりをとらえなおして、そして「なぜ、そういうものが求められるのか」や、「いいものならいかしていけるではないか」ということを考えていきたいのである。前回は小学校での実践例の取材記録を紹介し、また高等学校での模擬授業の内容をお話しした。小学校の例は、まさに「自己教育力」「ゆたかさ」「こころの教育」という現在の教育改革路線の先端のものであることが理解いただけただろうか。小学生が「歴史」教科書以上の知識を調査・発見し、また大学生(の講義)以上にパソコンを駆使できるようになっていく。もちろん先端校の実践であり、モデルともされて研修の場にも推薦されたりもしている学校であり、条件や環境でめぐまれていることもある。「こういうことをやる」という教員の意識がはっきりしているのが大きいと考える(→A)。さらに高校での実践例は「総合学習」ではなく調べ学習の授業法へとすすめる導入の方法であり理科と社会の合科授業的なものでもあった。「考えさせる」ことから入っていく、そういうきっかけの授業法でもあった(→B)。

 

 前回のまとめに、またつけくわえれば・・・

 ・・・「教員の意識」や「環境・条件の整備」は重要条件である。しかしそれが絶対条件ではない。たしかに「教育改革」路線自体は現場への整備や説明が不十分不徹底であり、そのための混乱がみられるが、その前の授業でみた大正時代の教育の例のように「教室」や「教具」の整備だけではなくても可能ではあった。たしかに教員の力量にまかされる。しかし、「環境」の有無をできない理由にするのはどうか。そうではなくて、「できる」という安直な文部科学省のいいきりに「本当にそうか?」という意見を提示することには意味がある。ないよりはあったほうがいい。だからできるだけ条件整備すべきだ。それを求めるのはいい。しかしそれが「絶対」になるのもまたどうかと考える。私の意見は「賛成・反対」のどちらかではないので、「中途半端」にみられがちだが、とにかく「やる」以上は最大限のいい方法をめざしていくしかない。前回の授業でいったように、過去、教員は「教育する権利・自由」を求めてきた。それが限定つきながら認められるのだと考えて、そこに責任感があることを意識した上でやっていくしかない。その「教育」の考え方で「ウェビング」について説明した。教師も「ウェビング」をして生徒も「ウェビング」していく。これが計画的なそして論理的な思考法を育てる効果もみこめる。KJ法やラベル法などの参画授業の形式とも重なるが、「思考」して動いていくことの「効果」というものを重要視しているのだとはいえる。例えば上小学校の児童は市内の中学校に進学した後、しばらくは「いわゆる『つめこみ』」を経てきた他校の子どもに成績で遅れることもあるが、2年目ぐらいから発表やリーダーシップや思考力で急速にのびて成績も上がっているという面がみられるらしい。これはさらなる追跡調査が必要ではあるが、こういう事例をどう考えていくかが重要と思う。そして、教師が「準備」「計画」を怠らないという事実が重要である。ただただ何かを経験させるのではない。「意味」を考え「評価」を考えて授業を展開させていく。これは大学の授業でも同じで、ただただそこに「いる」だけだとどれだけの意味があるのだろうか。「わかろう」とすることと、わかってもらおうというものが相互にあり、そこで何らかの「意味」を共通に体験できて得るということはあるのではないか。

 

 ・・・中学以上だと、「やりにくい」とイメージされるのは、教科担任制とかの問題もある。そこが小学校とは大きい違いであるし、さらにより「成人」や「社会へ出ていく」ことに近いがゆえに「進学」などの価値観に影響を受けやすいのはいうまでもない。また、授業については前回話したように「導入」だけを重視するのでも、奇をてらうのでもなく、その「適度」なバランス感覚が必要だが、これはマニュアルではなく、盗んだり応用して変えていくことが必要である。いくつか事例をあげる(ホームページではカットする)。前回の「縄文時代の生活と科学」の授業の復習(略)。昨年都内の高校で実践した「世界史」授業での調べ学習での「クレオパトラ」と「エジプト文字」のレジュメ(略)。「マンガ」をつかった授業(石ノ森章太郎さんの作品をつかって)例(略)。「かみしばい」「イラスト」をつかった授業(略)。以上、クレオパトラ以外は全部、私のやってきた例であるが、これらは教師用雑誌などにも紹介されているし、いろんな方が全国で実践されている方法でもある。しかし、この(説明した)方法は、ただ「マンガ」や「イラスト」をつかうのではないし、ただただ自由に調べさせるのではない。これを「どうするか」という目標とみこめる効果というものを考えて、はじめて「意図的な教育」としていかせるのである。何度もいうが「自然の大切さ」はわかるが「教育」を「自然にまかせろ」という言葉がとりちがえられるとたいへんなことになる。自然というのは「放任」というのではない。もし「自然にまかせる」のならば教師はいらないことになる。「見守る」とか情緒的言葉でも語られるが、それは具体的にはどういうことなのか、現実的に考えていかなければいけない。同じく「ゆとり」は必要だが、そういう「ゆとり(放任=なにもしない)」ならいらない。なにを身につけて、それがどういうものなのかを考えて、それを経験させていく、そういうものが「準備」「計画」なのである。

 

(1)人間の認識=「ワクグミ」

 ・「マンガ」や「イラスト」の授業の何がいいのか?・・・ただ「入りやすい」とか「やさしい」とか、あるいははやりの「視覚」や「五感」などではない。もちろんそういう効果もある。ただ、人間の「思考」なり「理解」というのは「場面」や「構図」として把握され、「構造的」に理解されるのである。例えばビデオだけだと「わかったようで、でもわからない」といわれるように映像は入りやすい。しかし結局はなんだったのかわからないこともある(もちろん文字の授業でも同じ)。これは受け入れやすいけど、頭の中に「定着」していないともいえる。「定着」するということが構造的に理解するということだとも考えられる。「マンガ」や「紙芝居」は場面ごとに展開する。そういう意味ではビデオにも近い。しかしマンガをみてもらえばわかるが「コマわり」があって、四角だったり、はみ出したり、あるいは様々な他の形で区切られている。この「コマ」が一つ一つの「場面」なわけで、そこに背景や感情や台詞などが描かれて、それでストーリーが続いていくのを理解できる。「紙芝居」はひとコマずつをめくっていくカタチ。テレビももちろん「ワク」内にうつるシーンがあるのだけれど、ちなみにそれは「全部」じゃないわけで、つくられたフィクションなわけである。ノンフィクション番組でも映っている部分は限定された場面です。本当のありのままは一方向のカメラの範囲ではない360度よりさらに広域なわけです。でも、「自然」だったらその限定の視線はないわけです。古来、ことばや文字がつくられてきたが、あれらも「限定」して「意味」を与えてつくっていったもので、フィクションであり、構図(見方)なりであったわけである。人間は「理解」するとき、「感覚」で感じるけれど、それは言葉なり、シーンなりにおきかえられる(ことで認識できる)わけである。だから、・・・「マンガ」や「紙芝居」の「コマ」は人間の認識のワクグミである。・・・次に「マンガ」をつかわなくても、言葉や文字でやはりなんらかの「説明(場面)」をするのは、その「ひとコマ」を説明するということではないか。そもそも言葉や文字の歴史をマンガというワクになおして受け入れられやすいようにしたのが石ノ森らの業績であった。これを「変換」と考えれば以前に話した「糸電話」とも重なる。とにかく人間の認識のワクグミは言葉、文字、図絵なりで「変換」して場面を展開させながら理解させていくが、それはもちろん「自然」ではない。だから「意図的」に教えながら、それでその後、これは「つくりもの」だけれど、では自然(周囲すべて)はどうだろうと、広げさせていくのが順序というか「教育」なのではないか。

 

(2)「つめこみ」か「経験」か

 ・通常の授業と総合をいかすなら・・・通常の授業を「つめこみ」といいきってはいけないが、「総合学習」がそうでないことをめざして体験重視にするというのに対して、とりあえずそう位置づけたい。まず、単純な知識の「つめこみ」はそんなにいけないことだろうか。たしかにつまらないとか必要性が感じられないという不信感もあるだろうし、しかしやはりくりかえしの効果で身につくということはある。音楽でも体育でも、幼児期からのエリート教育のようにドリルというものの重要性は認められているし、それを「基礎的能力」だと位置づければ、文部科学省の改革も「つめこみ批判」というわけではない。ただし、現場には「つめこみ軽視の経験重視」と伝わっていたし、その証拠として「はい回る経験主義」などの対の批判の意見がでている。そうではなくて、もうやることなのだから、受ける子どものことを考えていかにやるかを考えていくべきで、もちろんなぜそれが必要なのかという原理的部分から考えなおしていく必要があるわけである。答えは簡単で「つめこみ」も「経験」に大切だ、だから両立させるのが必要だとなる。しかしこれが論争になるとすぐに対立意見に終始してしまう。

 では、お前ならそれをどうするかといわれた時、あくまでも私は両立から考える立場なのだが、それでいけば例えば次のような方法がある。週に2〜3時間の「総合」の授業をやるとして、教科担任の中学・高校ということでなら、「普通の授業」と「連繋」させて、効果をねらえばいいのではないか。「変換」の基礎ともいえる諸能力を基礎的能力といってもよく、それを「つめこみ」的に授業をしたのならば、それが不信感があるのならばそれを「いかす場」を設定してやればいいのではないか。先週の模擬授業や「クレオパトラ」の例などが一授業ないでのそういう「調べ学習」であったが、そういう成果発表、あるいは応用の場として「総合学習」の時間を設定してみるのもひとつだろう。国語能力、数学、あるいは理科・社会なんでもいいのだが、そういうものを駆使して、あるいは複数を組み合わせて発表なり調べなりをしていく場にしていけばいいのではないか。「フィクション」とその「応用」のワクグミをつくって、設定していけばいいのだと考える。配布資料(略)のうち『日本教育新聞』の実践例で中学校で全校生徒会で発表していくようなものがあった。学校ごとに形態はまかせられているのだが、もちろんこういうものも含んでもいい。そうすれば「つめこみ」の延長(応用)という発展や関係性理解もみこめるだろう。「経験」も自由時間ではなくて、各人が基礎的能力を高めながら考えていく時間になるだろう。こうすれば<「つめこみ」か「経験」か>などのつまらない論争も少なくなってくる。どうすればよくなるのかということからこういう考え方もできるのではないか。もちろん実践例はまだ取材していないが、しかし一教科の中での(先週の例)事例のように、少なくとも理解が増し、興味が増す子どももみられるのである。そういう体系的なものをやるには、それこそ学年レベル以上での教員の協力が必要である。もともと必ず基礎的な知識は生きるのであるから、設定のしかたをどうつくりだしていけるか、どうやって構成していくか、そういう意味での「授業の構成力」が必要となるのである。

 

(3)教育改革への様々な意見

 ・思いもよらない効果を及ぼす危険性を理解して・・・ここで「擁護」ばかりではなく、「批判」の意見も紹介したい。『教育新聞』『日本教育新聞』への様々な意見(略)にも、その反対意見はみられる。平成14年(来年度)からの実施を前にますます強まってきたようにも思える。「学力低下論争」もそうだが、文部科学省も最近では批判の声に屈してか、学習塾に体験を求めようという動きや、補習や教科書以上の授業も認めるなどもあって、さらに混迷を強めているのではないか。私の立場は単純な「二項対立」ではないので、さきほどまで話してきたとおりであるが、しかし「やらねばならない」けれどもやはり「一理ある意見」や「危険性」を理解して、その上で「連繋」してやっていくことが現実性があると考えている。いくつか資料をあげる(詳細は略)。苅谷剛彦のNHK人間講座テキスト『戦後教育を読み解く〜「学歴社会」という神話』(2001年)及び、中央公論の『論争・中級崩壊』及び『論争・学力崩壊』の苅谷及び金子勝の論文を参考にみていく(略)。資料を10点みてもらったが(東京都の調査で中学2年生の勉強時間の推移、同テレビを見る平均時間の推移、社会階層ごとの学校外での学習時間、現状に満足しているかどうか、授業で勉強が好きになったか、自己有能感、など)から読める現状は、この10年間あまりの教育改革はスローガン(ゆとり等)どおりの効果が出ていないで、むしろ重要な「勉強離れ」をつくってしまったのではないかということをみてもらった。繰り返しになるが私はこれらの意見に完全に同意なのではないが、とにかく「意図」と違う効果もでるという現実がある。だからこそ、効果的な「授業」がなければならないし、それは「学校教育」の考え方そのものとも強くむすびつくわけである。「二項対立」にはまれば「自然・自由・ゆとり」をすすめるために通常の授業のいい点までも削る方向にいきかねない。それだと以前にみたように必ず行き詰まるから、その時に批判されてまた対極なものに変わるだけである。それではまさに意味がない。だからなぜそういう「二項対立」になるのか、なぜ文部科学省の意図することと違う効果がでるのか、ということまで考えることも必要である。苅谷先生の本は面白いので大学生には読んでほしいのだけれど、例えば配布した『知的複眼思考法』をみてほしい(略)。これを読めば苅谷氏の考えはまさに二項対立を批判してそういう構造を疑うことでもあるから、さっきの資料でも単純に「学力が低下するから反対」といっているのではないのだと思う。今日の授業のポイントの一つでもあるが、だから気をつけようと・・・、そこから考えていく必要があるということなのだと思う。

 私は必要なフィクション(ワクグミ)をつかうことと、ドリルとその基礎能力を応用させていく経験とをあわせて考えていくことが大切かと考えている。これらをもって「授業を構成していく」ことが必要となる。次回、このワクグミについて「教室空間」ということから少し考えていきたい。

 *なお、当日の資料は私のワープロ打ち込みのものではなく、新聞・雑誌・書籍・あるいは授業での手書きのレジュメ、紙芝居等のコピーであったためここには掲載しません。レジュメや紙芝居などについては一部を画像でアップすることも検討中です。