教育の方法・技術論H(12月7日)

 

「総合的な学習の時間」における 「授業の構成」方法

 

 ◆前回の復習・・・





 

秦野市立 上小学校の
    「ひつじを飼う」授業

戦前の新教育・滝野川尋常小学校の「アイスキャンデーをつくる、
      みかんの観察」授業

「ただ飼う」、「ただ食べる」、「ただ自由にしている」というのではなくて、教員の工夫があってなりたっている。実は計画的というか、授業として構成されているものなのだといってきた。

・・・「授業」というのは左の図のようなもので、教師が教材の選択・工夫や環境へのはたらきかけによって生徒へ効果をもたらそうとする、そういう関係がある。

 

 

 

単純にいえば「経験主義」の教育方法なのであるけれども、単に「調べ学習」とかいっても教師が不在なのではない。実際に何を学ぶのかが大切だし、その視点がないから歴史的に批判をされてきた。そういう難しいものでもある。しかし効果があた例もあるから有効な方法論でもある。このいいところをつかいこなすのが課題となる。ちなみに上の「アイスキャンディー」の例が左の図のとおりの児童中心主義(経験主義)の教室形体であったことには注目したい。これも「カタチ」にのみ注目するのではなく、そこから意味をみつけていくことが必要となる。

 

・「総合的な学習の時間」をこの授業でみていくわけは・・・。






 

自己教育力が求められる教育改革
     ↓
経験カリキュラム・経験学習の方法
     ↓
歴史的に三度目
(学力低下や授業がなり
         たつのかが問題視される)

いまは「第三の改革の時期」といわれていて、明治5年の「学制」(第一の時期)、戦後直後の教育改革「民主的教育」(第二の時期)に次ぐ、いわゆる「ゆとり教育」の改革のさなかである。歴史的に三度目の導入(大正期、戦後についで)というのは「いい面」「わるい面」があったということでもある。

 「いい面」は、おそらく「子どもが主体的に・・・」とか「本当の知識がつく」とか言うだろうし、「わるい」のは「たんなる経験」とか「遊びになる」「ついていけない子がいる」などが思いつくであろう。「いい面」としてはつまり「生きる力」「自己学習力」「問題解決学習」をイメージされるのです。

 

上のように、「わるい面」をふせいで「いい面」(問題解決能力ら)を伸ばしていけばいいのですが、これが難しい。簡単なら成功していて問題ないのですから。しかし理想的ではあるけれど、その「理想」を実現させていくにはそれなりの「構成」を考えなくてはいけないのです。例えば「問題解決」というけれど、その過程には「問題の発見」から「仮説」をたてて「推論・論理だて」をして「追究・分析」し、「検討・報告」の後の「反省・フィードバック」を経て「新たな問題発見・関心」にと向かうのですね。科学的、あるいは論理的思考です。

・・・それは「左」の図のようになりますが、これは「総合」でめざされているものです。しかし誰もがこうならないから、最初の教師の働きかけやもっていきかた、そして他の教科でも「わかる」「学ぶ」といった効果のためにはこのサイクルが含まれる構成であるべきなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●以上のように「授業」できていれば「学びたい」気持ちや「学ぶ楽しさ」が感じられるようになるかもしれないし、その意味では「わかる」ことから授業を考えていこうといったこの「教育方法・技術論」の講義でも、深く追究していく意義があるだろう。以前に「わかる」というのは「わかろうとする」からよく「わかる」のだといった、受け手への知的好奇心をもたせるという部分である。単純に「やりたいことはないかな?」ときいても小学校からこういった経験がある子ならすぐに意見やアイディアが出せても、そうでなければなかなかでない。似たような、同じような考えか無関心になるであろう。実際に現場では上の学校、つまり中学・高校になるほど「福祉体験」「ごみ拾い」「ボランティア参加」などのパターンにおさまっているの傾向がみられる。いや「活動」はいいのだが、何を学ぶのか、学ばせるのかが問題なのである。

●先週、話したように小学生のコンピューターリテラシーの方が身についている現実も、皆さん大学生はそれまでやってきていないからくいつきにくいというのもある。語学でもなんでもそういう傾向はみられる。私もコンピュータとか独学でやるしかなかったし、学生、小学生で私以上に専門的・実用的にものしりもいるであろう。だから中学・高校の教員免許のためのこの授業でも、この「小学校」の事例がどういかせるのかが問題になる。あとで中学・高校の事例や、また普通の「教科」の授業にどうこの「授業の構成」をとりいれていくのかということもとりあげていくけれども、・・・基本的には「応用」をこそ教えようというのだから、まさにこの事例から「いい面」を他の上級学校や教科、クラスの生徒の実情にあわせて「応用」していけるように考えていくべきです。

●それと現場にいる時、話題になったのが「教育課程の編成権がどこにあるのか」ということで、法令を引っ張りだして争いがありました。文部省であり学習指導要領に準拠するのだとか、都道府県市町村の教育委員会にあるとか、学校の校長にあるのだとかされたのですね。これらの提案には各教員という選択肢がなかったので「教員の教育権」的にそういうものが求められた。「やりたいように教えさせてくれればもっといい授業ができるのに」という不満があったはずです。ですから、この「総合的な学習の時間」は限定ではあるけれども、学校や教員単位でそれがゆるされたのです。だからよろこぶべきなのに、実際は「何をやったらいいのかわからない。文部省(文科省)がはっきり示してくれないと」という嘆きの声が出る。無理はないけれども、認識不足・責任感不足ともいえないでしょうか。いつものように「本質的には内容が勝負」と私が言っても、それも「あいまい」なのですが、やることになったし、求めたことでもあるから、最大限考えて、情報も集めて、そのうえでやっていくしかない。そして、文科省も説明下手だけれども、そもそも「授業」や「学校」で知識や考える習慣をつけさせて人間を育てていくのだという「基本的」な誰もが認める考えはあるのだから、それならば「構成」の中に共通して「発見→仮説→論理・分析→討議・反省→確認(納得)・再発見」というような知的思考が獲得される営みが提供されるようにすればいいわけです。これは考えてみたら、考えるまでもない普通の考えですね。それが考えられないというのは普通に授業をするようになったからだと思います。ですから、やっていくし、普通の教科の授業も「いい面」をいかすようにしていこうということです。

●以上はそんなにまちがった考えではないでしょう。ただし、言葉は受け取り方によって変わるものです。私は経験させるとか自由にさせるとかを「だけ」がいい悪いというのではない。それはわかってもらいたい。部活動の話しをしたけれど、詰め込んだ、ドリル、訓練の結果、すごく身についたものはある。だから苦労も大切などといわれる。米国の大学だって入るのが楽で出るのが困難とはいわれるけれども、それよりも具体的にはすごいレポートとか課題が課せられます。ものすごい読書も必要だし、やっぱり人生のうちに今がいちばん勉強したんていう感想が出てくるぐらいのものです。実は自由にみえてすごい訓練をしているわけです。僕もそういうものを重要で効果があると思うし、皆さんは学生なんだからたくさん勉強してほしい。それと同じく、小・中・高校であれ、たんに「自由」、たんに「活動」ではないのです。「だけ」ではない。その意味で「いいところを教科にいかす」というのは「教科を活動の時間にして教師が支援にのみ徹する」ということではありません。今日の後半で高校での授業実践の例を紹介します。ちゃんと「授業」としてやるところに注目してください。それでは時間がなくなってくるので次の写真で取材した小学校の実践をみてもらって、そこから「授業の構成」をみてもらいましょう。

 

授業の構成

 神奈川県・秦野市立上小学校と岡山県・寄島町立寄島小学校

ヒツジの事例を紹介したけれど、今年度も違う学年が違うヒツジを飼うという「総合」の授業があった。ちゃんとカリキュラム評価的に項目や単元として意識されているところにこの学校の特色がある。なにを学んだのかが意識されているのが素晴らしい。単に「飼う」というだけではない。

6年生の稲刈り、小麦つくりの表だが、この写真は授業時配布のものと違い下の方が切れているが、生徒の「予想」「気づいたところ」「学びとった知識」について記録・書き込んでいくランがある。単なる写真の切り貼りではなく、目的と知識の確認とが重要である。それも教員のもっていきかたであり、そのつみかさねが彼らの力になる。さらに考えていく習慣づけになる。

例えば「ウェビング」というもので、考えを発展させていくことを身につける。皆の考えを出し合っていくというより、決めたものを今後どのようにすすめていくのか、仮説・推論から論理的考証へとすすめていく。その証明への道筋(過程)を常に考えていく部分ともいえる。左のものはキャンプの部分だが、授業そのもの以外にも、つまりあらゆる場面でこのようなとらえかたができるようになる。授業そのもののウェビングは教員がかかわりながらまとめ、その中で実現可能性のあるもの、そして時期的なものを指摘・制限しながら、方向を「構成」していく。

「評価」の部分の一つとして自分の学んだことをファイルしていく。レポートや卒論、あるいはポートフォリオや日記もすべて同様の意味をもつと思うが、小学生とは思えない観察力などもみられることもある。もちろん担任が逐一応えるなどの努力は惜しまれない。その意味でも教員はたいへんである。少人数であるからできるということも少しはあるが、大学でも多人数でもやる人はやる。

校舎の構造もモダンで新しい。廊下が広いフリースペース方式の建築。しかし新しくないからできないのではない。

4年生の授業の例で、下左のパソコン室でガイドブックの編集作業をしている。このレベルのことは大学のコンピュータ授業でもやっていて、しかし4年間で身についていないことも多い。

授業の配布資料には入れたが、あらかじめ下書き(手書き)でデザインをして、それを入力してつくっていく。動画、ビデオ、書画機、デジカメ、なんでも使えるし、入力・編集だけでなくCD作成、ホームページ更新までできる小学生。

教員や大人による放課後の質問会に有志は出席。大人を相手に論理的に説明ができる。辞書やテキストを読みながらではなくて、わかっていることを説明できる。原稿を読むのではない。しかも、他の学年・組がどういう活動をしているのかもよくわかっている。「教えることで学ぶ」とはよくいわれるが、小学生が人に(大人に)堂々と渡り合って説明ができている。これも単に経験だけさせているのではなく「わかる」「考える」「説明」という意識で授業を成立させている。

 

これは岡山の寄島小学校のコンピュータ室。もちろん機材は整っているが、しかし実際にはどこにも同じく搬入されている。整え方、使い方が問題である。

寄島小学校もオープンタイプの教室になっている。いわゆる新しい建築ではある。移動や拡大などが可能である。しかし問題は建築ではない。「アイスキャンディー」の事例のように普通の教室でも環境の工夫でかえられる。かえってオープンだと「崩壊」状態ではたいへんだといったがあくまでも教員の責任感・意識が反映される。

 

左の写真は同じく寄島小学校であるが、講義の第一回目で配布したアメリカ・シカゴの学校の風景に似ているし、今回も配布した教室構造の絵図にも共通する。移動できて床に座れて、前の黒板の他に教卓やコンピュータが横にあったりして・・・。これも設備や建築の問題ではなく、空間の使い方を考えて受け取っていくようにするべきである。 

 

●以上のことから「授業の工夫」の一つ(特色)として、教室構造を変えるとか、配置を変えるとかを感じられたとは思う。しかし、新しい校舎でなければできないことなのだというのならば、それもまた意味がないことともいえる。前回の尋常小学校のように古い校舎でもできていたわけである。要するに応用の必要である。コンピュータの数とか設備だという意見もあるだろうか。しかし実際にはほぼ一律の台数が整備されているのだ。もちろん人数が少ないから割合的に多いのだという見方もある。そしてもう一つは「小学校」だからできるのではないかということだ。これにも一理はある。たしかに語学や機械の使用などについては子どもの方が習得しやすいのかもしれない。それが「大学生よりも身につけやすい」という面にでているともいえる。しかし、これも「できる人間とできない人間がいる」という事実があるだけともいえる。われわれ大学の教員も、そしてとくに教員養成の科目で「きみたちが年齢がいっていて、教えにくいから習得できないのだ」などと責任転嫁してもはじまらない。いいわけでしかないだろう。

 

●では、どうするか。皆さんは中学・高校の教員をめざしている。それが「中学・高校ではできないのだ」としてすませてしまうわけにはいかない。どういう部分がよくて、どんなふうにいかしていけるのかを考えていくべきであろう。ちなみに、上の写真の「コンピューター」は、ただただその技術を教える授業の時間なのではない。「何かの発表や、編集、あるいは分析のために活用するために『コンピューターが必要』なのである」。この「必要」と思えることを行なえることは大事である。よく、「中学ではコンピュータやインターネットでホームページつくりをやればいい」とか高校では「受験勉強の時間にすればいい」とかの単純な考え方がある。あるいは「福祉体験」「ボランティア活動」をともいう。しかし、これらをただやるのではなくて、それが「何になるのか」「どんなチカラになると考えているのか」が必要なのだと思う。取材の当日に日本を代表する総合学習の研究者の先生が「カリキュラムとして考えていくべき」と仰っていたのだが、それはまさに評価まで含めて、先のことまでも考えた上でどんな勉強になるのかというのをちゃんと考えておかなければならないということであろう。

 

●資料として(HPでは略)あるクラスの「年間活動計画」と「活動の構成(ウェビング)」をみてもらったが、前者(計画)の年間での動き(これは現在は11月ではあるけど、それは前もってたててある「計画」なのである)と見通し、ねらい、具体的な活動のすすみかた、関連して学習する領域というものに注目していただきたい。まず「はなしあい」で活動を決めていくが、必ずしも全員の意見が一致するわけではない。いや最初から一つなのではなく、はじめは多様な意見がでてくる。その中から「どうできるか」「可能なのか」をウェビングのようなかたちにまでもっていって「コンセンサス」にまでたかめてしぼっていくわけである。つまりいくつかあった他のテーマはここでなくなる。その中で例えば悪役の先生ではないが、それはできないとか、許可しないとか、あるいは微妙なアドバイスだとかがあって、可能なテーマへとしぼっていかれる面もある。発想は無限とはいっても可能なことを考えればやはり限りはあるだろう。そういうものをつくりあげていくのが教師の重要な役割でもあって、けっして自由にとか放っておくわけではないのである。もちろん最初の却下された意見もいかせたり加えられることもある。この資料からはそういう動きが読み込めるのではないか。

 

       それでは、中学・高校ではどうするか。今日は残りの時間をつかって「わたし」が高校勤務時代に「選択」の「総合社会科」で実施していた授業をまず紹介する。週に2時間続きの講座の時間で、「総合的」に「社会科、社会に関する常識・知識を身につけさせる」ということを目的とした授業であった。基本は社会(公民)の時間であったが、理科、数学、国語、地理、歴史などのいろんな知識を統合して(というかちりばめながら)授業を行ない、さらにレポートや調べ学習へと展開していくというものであった。私は科学史の大家・板倉聖宣氏の「のりもの」授業を応用して、石器や道具の歴史と社会(支配体制・政治)の問題に注目させ、価値観やニーズはどうつくられ、ニーズをもった層はどのような階級なのかということに着目させる方法を一回目の授業として行なっている。クイズ方式で行ない、そして論駁し、常識と思い込んでいたものと違うのだという意識(気づき)をもたせて「次回」につなげていくことを目的としていた。一回目に「日本史」でやって、それが「世界とは違うのでは」との疑問をもたせるようにして、二回目に「世界史」とつなげ比較する。この中で数学や理科・科学の発展も扱う。それで「歴史はたんなる年表や暗記ではない」ともっていく。なぜ社会科が嫌いかと問えば「人名」「戦争」が関係(必要性が)あるとは思えないという子が多いだろう(予測できる)。じゃあ、そんなに面白くないのかと・・・。教科書が面白くないというのなら面白くなるまで調べてみようじゃないかと調べ学習にもっていったり・・・。そういうふうにすすめていくのである。(ここでは約25分で行なった当日の授業はカットする=収録しない)。

        

       ●以上は「総合的な学習の時間」ではない。そうではなく、しかしそういう方法を活用した授業である。何度もいうがこの「教育方法論」の講義では「総合」の教師をつくるのでもなければ「社会科」の教師をつくるのでもない。ただ「わかる」授業として、あるいは「身につく」授業としてつかえるものをとりいれられるよう考えていくということが目的である。次回にもう少し中学・高校での実践例も紹介しながら「どう授業を構成していくべきか」というのを考えていきたい。