教育の方法・技術論F(11月16日)

 

前回の復習・・・「教育を歴史的にふりかえる(方法はどう変わったのか)」として、@古代→A中世→Bルネサンス期→C絶対主義国家確立→D産業革命期→E公教育制度の確立、までを概観し、「教育の目的」やもつ「意味」の変容や教育の「対象」に注目してもらった。文化など「社会」の体制や国家体制によって変わるし、世界史的にも大きくは同じようなゆるやかな変化をへて「近代化」されてきた(達成された)ということをみてきた。その意味で「学校教育」が現在のような意味をもつのは近代以降ではあったが、しかし「教える・伝える方法」としては「人間対人間」としては大きく違いはないものと思える部分もあった。しかし、対象とする人数や条件、教えようとする内容によって変わってくる部分があり、これは学問的には「合理的」というものがあったのではないか。啓蒙主義運動によって「人間性」・「理性」などがうたわれて近代化が進んだとも思えるが、そこにも一致して「合理性」というものがあった(もちろん合理主義か経験主義かという対立論ではなく)。ソクラテスの問答法を試してみればそこでの教育作用を理解できるし、それをうけたプラトンによる継承にも時代と国への対応しての変化(形象)という問題もみてとれる。

 

 前回のまとめをまたつけくわえれば・・・

一部の者(階級化)→大衆の教育(人権としての教育)
      ※社会構造の変化

 ・・・これは逆に言うと「昔からあった」いうことでもあり、今は何が違うのかといえば「大人数の公教育」であるということだけかもしれない。一部の限定された人間・階級には教育が行なわれてきたとみてきたのである。その方法は、基本的には「師弟関係」や徒弟制のもとの文化・知識・技術・情報の伝達であった。

 

(2) 『方法、内容等に関する歴史的展開』

 近代教育方法論の成立と展開(西洋・日本・方法論、内容論の関係及び学習形態に注目して)

 

1、伝える方法(知識を教える方法)

 基本的に人間が人間にモノを伝える方法としては次のようなものがあるでしょう。人間はそういう能力をもったことによって、後世にも文化をのこしていけたのですね。→→宗教も、ガリレオもそうであった。そもそも「コトバ」もそういうものであったと説明(省略)。

話す・・・直接の対話、講話、講義、説法、説教、講演。口述の方法。間接的には口伝。
      例えば民間伝承、物語等。
文字(読み書き)・・・教科書、掛け図、黒板、等、授業用のもの。記録も可能。
     大量印刷技術の発達、鉛筆、ペン、ノート等の発明・普及により中心に。
・図絵(写真)・・・図鑑、百科事典・動植物図鑑、写真集、等。視覚的に理解。
・もちろん他の記憶機器もある。

 

 <伝承の形式>は「文化」のカタチを決定づける?

 授業や生徒の表現力で、ディベートや文盲などの問題で次のようなイメージが提出された(質問にもあった)。


 

言語文化圏=ヨーロッパ(西欧)
文字文化圏=アジア

 ・・・これはたしかに「ヨーロッパ」は遺跡・文化財などでも芸術・建造物・銅像・絵画などが多くみられることやキリスト教の信仰形態としての礼拝が言葉や歌によるものや宗教画がみられることにも符合する。もちろん西欧の遺跡にも碑文など文字もあり、『聖書』もベストセラーの「文字」であったとは思えるし、一概にはいえない。「アジア」が碑文や仏教でも儒教でも文字や文書で残された資料が多いことや、かな文字文学なども多くあったということからイメージされるだろうか。しかし「問答」もあれば「説法」もあったともいえる。

 

 「書きつけられるモノ」の歴史・・・佐藤秀夫先生という教授がこの日本大学文理学部にはいて、「教育史」を教えているのだけれど面白い本を書いている(紹介→略)。「紙」などの「書きつけられるモノ」の発達や「鉛筆」などの「書きつけるモノ」の開発を調べて、その結果、「日本」はそういうモノがつくれたからそういう「教育」になったという「条件整備」の問題を論じている。逆にいえばヨーロッパではそれが不足していたから文化的に言語中心になったといえないか。例えば「紙」以前の書きつけられるモノとして・・・

 ・メソポタミア・・・粘土板

 ・エジプト・地中海圏・・・葦のパピルス、ローマ時代にはなくなりパーチメント(羊の腹皮)、ヴェラム(子牛)

 ・インド、チベット・・・貝多羅葉(バイタラヨウ)

 ・中国・・・・・・・甲骨、石板、竹筒、木簡など

 ・・・「紙」技術が朝鮮から日本と伝わり発達したが、こうぞ、みつまた、がんぴ等の材料・原料が豊富であった。これが「和紙」のもとである。とりあえず動物の皮や骨よりは限りがない。またヨーロッパにはこれらは植生しない。後に針葉樹から「洋紙」がつくられるようになった。

 (他に万年筆、ガチョウペン、鉛筆の技術や溶ける紙の技術(スキ)についてエピソードを話したが省略する。)

 <もちろん出版・刊行のための「印刷技術」というものの発展もある>

 

 

 

2、伝える形態(教える形式)

 そして形式だが、はじめは学校などという皆が集まって計画的に時間割の内容を教えるというのはなかった。それが必要になっていくのは、そういう「社会」になっていったからというのを見てきた。長寿とか、複雑な社会システムだというのは話してきたが、最初は特定の者への伝承から、しだいに大勢への一斉授業へとかわっていったわけである。大衆化していったともとれる。とにかく「数」によっても教えかたは変わってくる。いや「根底」は変わらないけれども「授業

形態」は変わる。

個人指導・・・一対一で伝える。口伝等、技術の修得には十分であった。古来、西洋で哲学を学んだり、技術職の師弟関係における伝承も宗教の教え等も基本的には口伝中心であった。
少人数指導・・・一対少数人数での教授では、口伝の他に、地面や石板に文字や図を書いて説明するなどの方法が有効であった。書物ができて以降、ある書物や文学等を講読して討議する輪講などゼミ方式、ディスカッション形式などが可能になった。あるいは教師の問いに答える問答法などもあった。
多人数の集団指導・・・共通のテキスト・教材がないと多人数には伝えにくい。また自学次週にも教科書は有効である。教科書を読み、書かせる方式が定着した。基本的にはPC機器を使用する授業形式でも共通のテキストを読むか書かせるかというリテラシーの面では同じである。また基本的には機会の公平・平等にもなる。 

 

  何度もみてきたように人数によって可能な配置、そして教材がつくられる必要がある。












 

  教材・教科書・掛け図などの開発による「一斉教授」によって近代学校は可能になった。

  次のようにも例えられる







 

  →「糸電話」で<A→B>で情報が伝わるとき、「情報(言葉)」はいったんコップの底で振動に変換され、「ライン(糸)」を振動として伝わって相手側のコップで振動から音声「情報」に再変換(再生)される(普通の電話でも信号の解読でもいい)。これは「共通」の変換装置があるから可能で、そしてコミュニケートラインがあるから可能なのである。「再現可能性」ともいえるが、共通の言語や認識、そして関係がなりたっていることが重要であり、それが人間の文化でもあるし、それを伝達・継承していく場として「つくられた<学校>」なのである。

 また「変換」は相手の「アタマの中」で行なわれて「再生」されるのだとしたら、「言葉」が理解できることや文字が読めることも条件であるし、それと「変換」を授業の「説明」であると考えることもできる。つまり「例え方」や「教材」が情報を相手の「アタマの中」に再現するための「変換」なのだとすると、これまで話してきたように「わかる」ために「文字・言葉」(言語的)、「ビジュアル的」(身体的)な「例え方」(適切な再現能力)が重要な要素となってくる。

 例えば「風景」を見て、それを説明するときに相手に「風景像」をわかってもらうような説明のしかたが必要となる。そのために言葉(比喩表現)、写真、模型、比較などが必要となるでしょう。もちろん、言葉なのか、画像なのかではなく、「言語か身体か」でもなくて、足りない部分を補い十分に伝えるのはどうするのかというのが必要となる。これが「どうすればわかるのか」まで含めた考え方であり、単なる技術論になるとどちらか極端におちいりやすいのでそうではないということだけ伝えておきたい。もちろん実は個人(単独)の「理解」においても<A→B>のように「感覚」を感じて知覚・認識にしていくのであり、その際には過去の体験(仮想も含む)の情報と比較統合しながら「わかっていく」のであるともいえる。

 「多人数の集団授業」では問答法も口伝も難しい。「話す」「書く」は基本としては同じでも「対象」「目的」によってアレンジして変えていく必要があるし、実際に「対象」「目的」の変化によって変わってきた。

 

 「歴史」は今回で終えて、次回は上の写真画像のような「授業の形態」の実践を紹介しながら、どのような授業や、そこで「わかる」伝え方が可能なのかというのを数回にわけて説明していく。

  前回までのもあわせて、歴史的に次のような展開があったことからはじめていく。

<(助教法)→一斉教授(教師中心主義)>→→←←<学習・経験主義の授業(児童中心主義)