教育の方法・技術論E(11月9日)
教育を歴史的にふりかえる(方法はどう変わったのか)
前回の復習・・・近代教育方法・授業の考え方がどう発展してきたのか
閑話休題・・・「授業中の私語」について→→「私語」の指導についてひとこと。「なぜ私語はでるのか」と考えてみる。つまらない、あきあき、わからない、たまたま、無自覚、等が理由か。→問題は「なぜ私語がとまらないのか、拡がるのか」。とめないから、自由にしゃべれるから、どうでもいいと思っているから、昔のように教師に権威がないから?→→私の立場は「怒らない」。しかし責任と義務があるからとめる。「怒らない」というのは私が「怒りを感じない」(思い込みで怒らない)ということであり、他者の邪魔になるものはきちっと注意はする。「本質的」には私語のおこらない授業をすることこそ大切。「他者」に迷惑をかけて他者を落とす行為は「競争」とは思わない。だからそれは各人に考えてもらってやめてもらう。「出席」がつらければ出席しない権利だって認める。そして「出席」=「単位」でもない。その裏返しは2・3回出て代返で単位のとれる楽勝科目と考える。→→本質は「講義内容」「授業」が大切。教員も学生も生徒もそう考えられるものがなりたっていなければ、強制やあるいはつまらないものになる。「楽」というのは人間の本能であるが、「楽」をするのではなく、その「楽」を得るために「楽しむ」という、つまり主体的に(つらいことにだって)とりくんでいく方がいいと私は考える。与えられるものに不満をもつのならば、自らの主体性を主張したいのならば、「楽しんでほしい」のだが、それが「楽」を楽しむものになってきているのが「私語」かなと思う。私のスタンスはちょっとひねまがっているけれど、・・・邪魔な私語はひかえてもらうし、そもそも私語のなくなる授業を実現させていく(考えである)。そういうものです。 |
★近代教育内容の変遷(主に小学校・義務教育課程を中心にして)
授業の内容がどのように変わっていたのかというのに注目してもらって、「歴史的考え方」を深めていきたい。
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●内容が「国際性」あるものと反動的に「独自性」の強いものとでジグザグになっているようにもみえる。「質問・意見」として「歴史に学ばない愚かさ」「歴史は繰り返される」という言葉があったが、たしかにそういうことはいわれています。ただ、ここではあげていないのだが、教科書制度(検定・国定など)の管理強化や保安条例・集会条例等の弾圧的な政策をあわせたり、また個人の受け入れ要素の析出(個人主義、集団主義、私事化、公性重視という座標軸)も多面的にあわせて考察するとすごく面白いものがみえる。ここではあくまで「教育方法」を決める教育観の違いについて並べただけ。
●歴史を学ぶ意味は、年表や事項の丸暗記ではなくて、解読・解釈・推理だと思う。時々、いろんな統計資料を出すのでその読み方も学んでほしい。あと、現在おこりつつあること、おこっていることを相対的に把握するために比較する対象が必要なわけで、科学なら公式や分析の数値があるが、社会のことは歴史や外国に相対化の「鏡」を求めることになる。知らないとウカウカできないという緊張感をもつことと、働きかけて実現性を求めることができるという期待感をもたすことこそが大切と思うので、この「比較の表」形式で全体をみてもらった。
★近代以前の「教育」→近代の「学校教育」
@古代→ギリシア古代都市の哲学スクール、アカデミア等。プラトンやアリストテレスらの哲学者・教養人。一部の政治的指導者=「知識人の教養」のためのものという限定。
A中世→ヨーロッパ・キリスト教の宗教思想。僧職が特権階級。僧職のための学校。
Bルネサンス期→科学の発達。宗教改革、世界観変革。実学が流行。私塾。学問熱が高まる。啓蒙家の活躍。
C絶対主義国家確立→支配階級の教育(身分差別)。国民統一、軍事力をつけるための教育。国民支配。
D産業革命期→資本主義化、貿易等で経済力を増す国、工業化によって国力を富強した国が「近代化」。工場労働問題との関わりで国民に知識を与える必要、子どもへの教育の必要性が説かれる。
E公教育制度の確立→19世紀後半に初等教育の義務化という形式で達成。義務・無償・中立性の3原則が公教育の特徴。
一部の者(階級化)→大衆の教育(人権としての教育) |
例えば、ソクラテス→プラトン(古代ギリシアの教育)。ギリシアのポリス(都市国家)アテナイという場所のもつ意味。アテナ&スパルタでペルシアとの戦争に勝ち、奢ったアテナはその後スパルタとの争いにより危機的状況に陥ったという、そういう時代背景。もともとソフィスト(賢者)の一人であったが、賢者のスペシャリスト的「知」に対してソクラテスは「無知の知」を説いて支持されるようになる。「知らないということを知る」というものだが単なる「謙虚」というよりは「人間にとって大切なものは個別のものではない」といったのだと私は思うし、そこから出発しようというのが「教育」であった。そのための「知」を得ていくソクラテスの教育方法が「問答法」である。「問答」には「論破」(皮肉)と「助産」(産婆術と称される)があり、弟子と師とのやりとりで知を高めていくものであった。「論破」というのは厳しくイメージされることもあるが、そういうことが可能な「関係」がなりたっているから有効である。もし、ここで私が誰かに試したら・・・(略)。つまり実は「親しさ」が媒介になっているという性質がある。ちなみにソクラテスは刑死した。その弟子のプラトンが書を著してこれらをあきらかにしているのだが、プラトンの問答法はもっとやさしいスタイルとなった。国家との関わりを考慮したのだろうし、彼のアカデミアにおける「対話術」あるいは「弁証法」は時代の精神もあってか説得的性格をもつものになった。ちなみに、ここにも後の開発主義か注入主義なのかという対立、児童中心主義か教師中心主義なのかというデューイとコメニウスのような対立軸、進歩主義なのか本質主義でいくのかといった対立と同じようなものがみられ、適応して二極の間で性格が変わっていくのだと思う。一般化とか大衆化というのはそういう性質ももつのだろう。だから歴史のジグザグは起きるともいえるか。・・・とにかく、ソクラテスの産婆術的問答と、授業のやりとり、そして授業の人数というものに対応してより内容を安易に伝えやすく工夫していくとどうなるだろうか考えて欲しい。そういう考えで、結果として意図しないことがでることがあるのだが、そう考えると「大衆のための教育」というのは「公」のためなのか「個人」のためなのかがとても複雑にからみあって矛盾しあっているようにもみえるわけである。
・・・近代になって、「学校」という場所で「授業」を公平にしていくには、その方法が必要となる。教室の構造や、環境の確保、教材の開発というのがともなって発展してくるのであり、そこに文字と言語をつかった「教師」の営みがどうかかわるかで生徒に与えられることが変わってくるし、受け取り側から考えても「違い」が感じられるのである。人数によって形態は変わるし、目的や内容によっても変わる。つまり教科によっても違う部分が出てくる。
そういうお互いの影響関係があるから、「過去」にも教育の前身は求められるが微妙に意味も変わっている部分が多い。過去の「教育」を真理や前提として確保されて「制度」はつくられたのだが、「方法」や「授業」はさらに現代的、あるいは「現場」との関係においてつくられていくべきところもある。(次回、言葉と文字と文化と社会について、佐藤秀夫氏の歴史研究も含めて説明する)