教育の方法・技術論C(10月19日)

 

前回の復習

(1)「わかる」とは何か?

 「自分の知識」とできるかどうかだ。

 

(2)他人の経験から学ぶ・・・「共感」と「誤解」(概念装置と統合・応用)

 実験・・・(先週の「ヤマダ君との会話のシーン」を変えてみる)

例1、テニスについて会話している
 

2、頭の中では他人のことがよくみえていない。勘違いや情報不足があるので感じとれない。

3、いろんな情報や経験をもとにはっきりとわかってくる部分も増える(わかってくる)。

4、対話していない人にすれば両方とも他者。
 

 

 ★言語的レベルでの理解と身体的レベルでの理解というか、「共感」から「実感」することと、過去の体験と統合・応用して構造化していくことで自分のものとして知覚できるのだということを説明してみた。また「わかりかた」にも段階があって、しだいにだんだんと深まってわかってくるということがある。

 

 「言語化→構造化→身体化」とあるが、構造化は「置き換え」と考えてもいい。「相手を演じる」ことで「相手の気持ちになる」ことで「相手をわかっていく」ということは、仮想体験を実感に高めていくということでもある。精神世界(観念)と身体とが一致するのが身体的理解ともいえる。

ユングとか心理学でも説明されるのだが、「思考」という一方通行であるものや、それに対して「感情」という「感受性」領域のものもあり、これが他者から影響を受けることで一種の「逆転移」もありうるわけである。

 

 

「わかる」「わからない」ということを次のように図示してもみた。

 コミュニケーション(人間関係)による理解と、対人関係における「同一化」、また読書における読後理解、こういうものが一方で「わかる」という情報の理解からすすむ面と、一方でどうしても誤読・誤解してしまう面があるということ。しかし、科学などにおいてはこの「誤解」「疑り」から新たなものが生み出されることがあり、その意味では創造性とも呼べるのではないかということである。

 

 上のように両極で(この図では上下に)分かれていると考えられる。

 それが「理解」するということは中軸がズレることによりわかってくるということである。

 

 この「軸」の移動を、例えば「自己同一性」というコトバでも説明できる。

 (西研『ヘーゲル〜大人のなりかた』という本を紹介)哲学者のヘーゲルは、例えば「キュウリを食べたからキュウリになるのではない」と述べたという話しがある。たしかに「キュウリ」を食べなければ「キュウリ」を食べたらどんなだというのがわからないのだけれど、食べれば「わかる」。しかし「キュウリ」を食べてわかるというのは、自分が「キュウリ」になるのではない。あたりまえであるが「キュウリを食べた自分」になるわけである。この経験でもって自分がグレードアップしたともいえる。これを、「自己同一性」→「知らない(脅かす)他なるものとの接触」→「より包括的な同一性」というようにいえる。対応して変わっていくのが人間ということである。そういう話しが書いてある本です。参考になります。

 

 *質問として、「会話でもそういうのを意識するべきか」とあったが、実は「無意識」に意識しているのだと思う。あくまでもそういう回路だとわかればいいだけで、普段からそう意識しろというのではない。「自己」が無意識に判断しているというのはあり、それも「自己意識」なのである。「会話」のシーンならば会話を交わす設定にはなっている。つまり話してもいいから話しているのである。自然に何語を話すとか、あいさつをしとこうとか、そういう範囲はほとんど自動操縦の領域である。神経回路的には無条件反射に近い感覚であろう。つまり「会話」という行為に慣れてくれば「社交的」とも評されようが、それは苦もなく自動的にできている状態なのかもしれない。それだけ習熟している面もある。ガリレオの地動説も同じで、誰もが自動的に疑わない知識となっている。「わかる」というのは「自分」がわかるのであるから、自己を中心として周囲を理解することでもある。キュウリにならないというのはそういうことで、人間としての同一性・アイデンティティは失わずにキュウリというものをとりいれただけである。そしてキュウリという経験は味、色、触感、形、食感といったものが整理されて、そしてこれまでの、あるいはこれからなにかに置き換えられるようになっていく。そういうものが「わかった」という状態ともいえる。少なくともキュウリのことが理解できるっていうのはそういうことであろう。

 

 ことばも文字も両方が必要で、双方を置き換えられていろいろ入れ換えて応用できることで他の知識をも吸収していけるのである。両方あって普通のものである。

 教育方法として大切なのは「まず、わかろうとする興味をひきつけること」と言ったが、それは導入だけではない。よくある授業で「導入」ばかり気を配って、それで内容に時間がかけられないなんて笑い話もある。だからそれだけを重視するというのではない。一つの重視は他の軽視にとられやすい。例えば「わかり」を深めていく「例え方」も大切だろう。文学者も例えば大江健三郎氏などは「異化」と比喩表現をよんで重視しているが、そういう「言語化」というものも大事である。それと同様に「教材」の「身体化」(視聴覚)の工夫も大切なのはいうまでもない。

 この言語・文字、及び教材の工夫についても今後すこし具体的に話していく。

 

 基本的にはわからないものには「説明」が必要なのだが、説明不足が多いと思う。「教育」には特に説明できそうで実は説明を放棄してしまっている部分が多い。「やりなさい」とか「やればわかる」とかいうのは不信しかまねかない。教員自身もわかっていないことが多い。そういう「誰もがわかっている」ようで実は「よく意味はわからない」から「うまく説明できない」というものをまず「わかっておく」ことが必要で、私はこういったものはとくに「大学生」の時に習慣にしておくべきだと思う。最後に大学生が読むという本として次の本を紹介して終わりたい。

 (苅谷剛彦『知的複眼思考法』を紹介する。)