教育の方法・技術論B(10月12日)

前回の復習・・・「人間性、教養とは何か」。受講者のアンケートを集計してみたら、過去に「いい授業、いい教師」と感じた先生が「そういうもの」に集中した。あたりまえではあるが、ではなぜ「教養」や知識の広さ、話題の幅に魅力を感じるのか、なぜ「人格者」をいい教師と思ったのか、どういうときに人間性がたしかだと思ったのかと考えてみた。それで強調したかったのが「愛」ではなくて「丁寧さ」が必要なんだということだ。それが教育的な意味での「愛」ではないか。ある子だけを愛するのでは他の子が被害を受けるのではないかということだ。「予定調和型」の自分に都合のいい子だけを相手にする教師は実際に多いのではないか。その際に突き放される「疑問タイプ」がだめになってしまうと思う。結局は「人格」をいいと感じるというのは「信頼」で、それが「不信」になってしまうと彼らはいい教員に出会えないということになる。「できる人とできない人」はでてくるけど、それが「真実だ」では「そういうもの」のままである。だからすべてに対する「丁寧さ」しかないのだが、授業は「わからなければ」意味が半減すると考える。どういう時に「わかった」のかというところから、どうすれば「わかる」のかを考えて、そこから「わかる方法」をみつけだすのがこの授業の目標の一つである。 

 ● 教育活動における教授方法の意義

     ・・・私が「わかった!」と思った時とそれが「わかった!」理由

 前回のカードに書いてもらった意見の中からいくつかをピックアップしてみた。

数学の図形の問題のわからなくて質問しにいった時、先生が「図はじっと見ていてもダメなんだよ。補助線を引いてみたり角度をかえてみるといいよ」といわれて実行してみたら確かに今まで見えなかったものが見えるようになって問題がとけた。

現代文を読んでいて、最初より作者が何を伝えたいかわかった時。先生が作者についての話しをしてくれた。

中学の歴史の授業で、歴史の中で理由を答える問題は先生が自力で理由を考えさせて、一人一人の答えを見てくれた。暗記だとなかなか覚えられないけれど、そういうふうに自分で考えた問題はテストでもスラスラ解けてわかったと実感できた。

歴史でその出来事がなぜ起こったかとわかったのは、図を書いたりプリントを配ったり、ビデオをみせてくれたりといった熱心な指導があったから。

塾の先生が化学で、化学の反応式が簡単につくれたり、とても詳しくわかりやすいプリントで図表がたくさん書いてあった。先生の人柄がとてもよく、私たちが勉強しようという意欲を出させてくれた。

高校一年の化学で先生がわかりやすい簡単な具体例を出してくれた。すごく身近な事を例にとって先生自身が理解した方法を説明してくれた。その先生は化学がとても好きで色々な本を読んでいたみたいで理解しやすかった。

生徒のわからないところをわかろうとしてくれた先生。ゆっくり丁寧に話してくれて、一人でもわからないというと、その人のわからないことをきいて解説してくれた。

数学で立体の説明でスポンジを切り取って説明してくれた時、よくわかった。
 

小学生の頃、三角すいの体積は円柱の三分の一であることがわかった。→先生が中が空洞の三角すいと円柱と砂を用意して実際に生徒に入れさせて証明した。

数学の授業で例題を解いた後、練習問題をやった時に問題の解法を物語的に論理だてることができた時「わかった」と思えた。 

テスト前にわからくて先生にきいてわかった。授業をきいてわからなかった時はきいているだけで考えていなかったからだと思う。
 

地理の授業でそれぞれの国の特長(文化、宗教、経済、政治、地形、気候など)を先生が例え話や写真、新聞記事などでわかりやすく説明してくれた。

国語・古典が大の苦手だったけど短歌・俳句の情景を書いて説明してくれた時、絵にしてくれることで頭で想像することができて詠んだ人の思いが理解できた。

実際に目でみたり、経験したりした事と合わさってわかった。例えば物理の慣性の法則など。
 

地球の自転と夏冬の関係をボールを使って説明してくれた。

 

三角形の内角の和をパズルをつかって教えてくれた。また三角形の図形をひっくりかえしたりしてみかたを変えたり。
 

 

 ・・・やはり「人格」や「信頼」と結びついているものもあるし、なにより教員のテクニックが「抽象化」や「例え」「レトリック」「実験(での証明)」などが使われた時にこういう反応がでることがあると読める。ちなみに教科書を読んだだけでも読み取って「わかる」者もいれば教員が普通に話しただけでも「わかる」こともある。それに対して上の例は「疑問型」がその「疑いが晴れた瞬間」と考えることもできる。いくつかの事例は具体的な技術が記されているが、こういった記述を読んで私たち(他の読者)も「これならわかるだろうな」と「納得」できるわけである。だから「有効」と思える方法はたしかに存在する。しかし具体的な技術というよりも、それも「一人一人に解説してくれた」という例もあるように、基本的には丁寧に、一つ一つのことをこういうふうに「有効な伝え方」を考えていくしかない。あたりまえであるが、しかし大切なのはいま私たちはこれらを見て「有効だろうな」と思うわけである。他人が受けた影響、他人の気持ちすら想像できるのである。「自分におきかえてみて」それでそういうふうに感想をもつわけである。「共感」できるわけである。この「共感」や「教えられる立場」の感覚を失わなければ、それを考えながら最善の伝え方を(常に適正であるか考えながら)構築していけばいいのである。言うは易し、するは難しであるが、構築や工夫のテクニックについてはいくつかは授業で紹介するので、それをもとに各自で考えつくっていってほしい。基本的には誰だって同じようなことは発想するし似たようなものはある。だからマニュアル的に真似するだけでなく、本当に「わかる」か自らが「わかるか」も考えながらつくっていくべきだ。

 

 ★例えば、上の例のいちばん最後の「三角形の内角の和」については前期の授業でも別の時に紹介した。近畿大学の山口先生というかたに教わってつかったのだが、@私たちが授業で口頭で「三角形の内角の和は180度になる」と言った時、それでわかる人もいる。数学好きだって得意な人だっている。しかし「わからない」人も多いだろう。「常識だ」といって教員がそれでとばしてしまってもいけないし、なにより「わかった」気になってその台詞「三角形の内角の和は180度になる」を記憶しただけの場合もある。そういうものなんだという受け取り方が「理解・予定調和型」にはありえる。これは記憶力の低下や試験範囲の終了とともに忘れ去られる可能性もある。A教科書に書いてあるその台詞の文字を読ませても、あるいは黒板にその台詞を書いてノートさせてもどうだろう。やはりまだ「わからない」子や「わかった」つもりの子もいるだろう(もちろん総てにこれはいるだろうが)。Bそれでは「絵」を書いたらどうだろう。わかりやすい90度・45度・45度の三角形ならば計算できて「わかりやすい」だろう。Cあるいは教科書に三角形の図形が載っていれば分度器ではからせて足し算させるというのも実感は増すであろうか。こういうふうにして少しずつ「わかる」ことは深めていける。もっといえばD下の写真のように大きい三角形をつくって切って並べて証明して「みせる」ことで「わかった」という思いが強まるのではないか。Eそして全員に自由に様々な三角形を配って、それで実験させて証明させれば、これがこういうものなんだと実感がわく(疑いがなくなっていく)のではないだろうか。

 

例題:「三角形の内角の和は180度になる」


@




 


A




 


B




 


C




 

 

 ★さらに別の例で、「地球の夏よ冬をボールで説明」というのも、かつて私でもやっていたことがある。ライトをあてて時間・昼夜などもできたし、バレーボールを解体して、それで地球儀の分解図のようなギザギザのものがなぜ地図帳に書いてあるのかという、「球体面」についても説明した。またプレートテクトニクス論や造山帯、あるいはプレートや火山帯、地震を説明するのには下の絵のように「野球ボール」を使って説明もしていた。ボールがほつれてこわれるのはどこからで、その構造はどういうものであり、それを地球に例えれば地震もプレートの性質もわかりやすくならないだろうか。

   

(1)「わかる」とは何か?

 上のような各教員の「教え方」でその生徒さんは「わかった」し、それをみてここにいる何人かの学生さんも他人なのに「わかったろうなぁ」と思う。これは「自分ならこれでわかるなぁ」という置き換えでもあるわけだ。哲学的なのかもしれないけれど、やはり判断とか考えというものは個人の中で「自分はこう思う・考える」というところからはじまって、それで他人とのズレがそんなにないのだからこれは普遍的な事実だし、「こういうことなんだな」と納得・整理できるのである。もちろん「文字」で書いてあるのを受け止めて「わかった」と思い込んでいたりすることもあるし、あるいは本当に「文字」からだって他の「例え」なみに自分で「想像」して「わかる」人だっているわけである。「一を知って十を」ではないけれど、そういう理解力のある人もいる。

 

 ★では、そういう「わかった」の差はなんなのか。それは「自分の知識」とできるかどうかだと考える。いやつまり自分の考えとしてとりこめるかどうかということである。もっと言えばそれを「応用して」問題に対して取り組んでいける、つかっていけることまでいってはじめて「わかった」というふうに考えたいし、そこまで教えたいのだ。いや「問題」にであわないことだってあるだろうが、直接関係ないものも応用したりいかせるように、そういうふうに吸収できる状態がいいということがいたいのだ。「自分の知識」にできること。この言葉もまだ曖昧だが、この「自分のもの」としてつかえることがどういうことなのか考える必要がある。

 

 

(2)他人の経験から学ぶ・・・「共感」と「誤解」

                 概念装置と統合・応用

 ●実験・・・ヤマダ君との会話のシーンから

 受講生ヤマダ君に教壇まで出てきてもらって会話をかわす。名前、専攻・学年、出身地、兄弟、趣味、音楽は何が好きか(聴いているか)などを訊きながら自分のことも話す。→→これは「情報(データ)」のやりとりの状態である。→→このとき、私(教員)とヤマダ君の「間」に起こっていることを黒板に図解する。→その「図解」は二人の対話である。これは他の受講生から見たシーン(事実)でもある。→→このとき、対話した二人の頭の中ではどのようなことが起きているのか図解する。→「理解」という「アタマの中(観念の世界)」で「対話」のシーンが再現されていること、理解のための物語が演じられていると考えられると説明する。→→しかし僕は僕、ヤマダ君はヤマダ君である。お互いのアタマの中で演じられる役者は自分以外は「自分の想像」「演技」でしかない。→その意味で人間に完全な理解はありえない。→→しかし「知らない」状態から情報を得ることで「わかってくる」面はある。共通の趣味でも経験でもいいし出身地でもいい。過去の自分の知識や体験と通してわかってくる部分はあるし、知らない状態ではなくなる。→モザイク状態が徐々にはっきりしていく、あるいは「鵺」ともいえようか想像の産物がはっきりと実体像が描けるようになってきたともいえる。→こうして「理解」は深まっていくこともある。

 ●しかし、会話していても「意識」していないと、何を話したか、どういう内容であったかも「整理」されないこともある。話半分でもいいが「アタマの中」の演技がされない状態である。ボヤッとしたままで無意識なままで通りすぎる。あるいは「演技」が「模倣」だけにとどまって、相手の「言葉」のみをくりかえしているという状態もありえる。その意味を考えないで流している状態もありえる。

 ●もちろん「言葉」レベルで理解するということもありえる。衝突や誤解も多いが、そういう理解がはやい人間もありえる。しかし「表面上」の言葉は自分自身もそうであるように必ずしも本音でないことや、すべてではないこともある。そういう時に相手の状況・情報から「相手の身になって」気持ちを想像する理解もありえる。より深い理解ともいえる。

 ●どちらにしても、演じているのは自分の客体であって相手本人ではない。完全な理解はありえないが、しかし理解は深まっていく。アタマの演技をしないとわからないということでいうと、「わかろうとしないと、わからない」ということもいえる。だから授業でいえば受け手側に「わかろう」という気持ちを準備させることが必要となる。導入や動機付け、あるいは知的好奇心にうったえかけるという手法である。ちなみに直接の対話者ではなく他の受講者も自分以外の会話のシーンを第三者としての自分が想像するということになる。テレビでも小説でも映画でもこれと同じことであり、そこから何かを感じとったり理解するというのは「アタマの中」で自分がそのストーリーを演じているからである。どんなテレビでも意識せずスイッチがついているだけなら何が放映されているかはわからない。そういうものである。

 

 ★言語的レベルでの理解と身体的レベルでの理解というか、「共感」から「実感」することと、過去の体験と統合・応用して構造化していくことで自分のものとして知覚できるのだということを説明してみた。たぶん受講生にとっては「わかったようで、わからないような」というのが感想としてあると思う。次回はそこから進めていく。