教育の方法・技術論 第2回(10月5日)
◆この授業の「目的」の確認
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(1)「教える」とはどういうことか?(「わかる」ことから考えていく)
●「学ぶ」・「教える」ことの意味(学習・教育活動をふりかえって)
・・・前回の復習
@「教育」の意味。何に役立っているのか。
A「教育」(『広辞苑』)・・・「教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動」
B英語の「education」→educe・・・「潜在する性能を引き出すこと」
※(学習・教育活動をふりかえって)→前回のアンケートをもとに考える。
教育方法の成果、わかりやすさとは何か?
アンケートの結果 |
★「いい教師」「いい授業」とは何かがあらわれている。前期の授業では「予備校の授業が面白い」という意見が多数あって、そこから「予備校と学校の転換」として「なぜ面白い」のかを考えてみた。大学入試の激化、特にベビーブーム世代により高校増設され競争が激化した頃、1991〜92年に大学受験のピークを迎えた頃には高校等「学校」でも実績をあげるために「解法」中心の授業が多くなっていったのではないか。「予備校」化ともいえるが、それでは生きていけない予備校側は「教養」や「本質理解」などの新たな事業展開をしてきた。シェークスピアを日本語で読んでいれば「英語」の問題がでても正答する可能性が増える、そういう教養は必要だとなった。さらに学校ではないから教員(講師)が淘汰される。いい教育をしなくてはならないし、アイデンティティにもなる。その意味である意味本当に面白い授業をしなくてはならない。そういう話しをした。
★皆さんがこんなにも(アンケートにあるように)「人間性と教養」ある教師を待望するのはなぜだろうか?「人間性」や「人格」は「好き嫌い」ではないのか。そもそも「どうして『わかる』ときにその先生の『人格』がかかわるのか」。これは、相手の気持ちがわかるというか共感できたということ、あるいは「わからない」状態から解き放ってくれたからではないか。
リースマンという社会学者は現代社会を「不安」をモチーフとする他人の集合体だとしているが、知らない他人であるから「不安」である。これは「安心」を求めるのと表裏一体でもあり、「安心したい」ということでもある。「わからない」のは不快で不安ではないか。もちろん無関心・無意欲になるという反応もある。それは自分に納得させているということではないか。
★「どうせ何々だから」とかの不信感はないだろうか。最初は「何故だ!?」という思いがあって、それを疑問としてぶつけたりしながらも、それでも納得することができないでいて、・・・それで「どうせ・・・」となって距離を置いてしまうことはないだろうか。「先生なんて信用できない」とか、「学校なんて」とか「また政治家が不祥事を」という時に、はじめは怒りを感じたものの徐々にあきらめにも似た無関心へとなっていく、そういうことはないだろうか。逆にいえば「先生なんて信用できない」先生の授業がスラスラとわかる例はどのくらいあるのだろうか。もちろん先生の授業以上にわかっている(つもりになっている)生徒もありえる。しかし、無関心にまでなったら授業からきいてわかるということは少なくなるだろう。
★生徒には「理解してくれやすい型」と「納得に時間がかかる型」という2タイプがあると思う。前者が「予定調和型」、後者が「イレギュラー型」ともいえる。前者は教師のいうことをすぐに納得してくれて、うなずいてくれる。後者は疑問をつねにもっていて、首を横にふる。教師のリズムとしても、あるいは授業にシナリオがあるとすれば前者は都合がよく、後者はやりにくい。シナリオどおりにすすめるためには「予定調和」の生徒を中心に質疑や説明をすすめるだろう。教師も「相性」を信じて、後者を無意識なままにさけることもあるだろう。しかし、もっと実際的には、「そういうタイプの人間がいる」というよりは、人間の内部にこの両面があって、ある場面に対してどちらの面が多くでているのかという「状態」でもある。しかし、「疑問」状態のまま「応え」どころか相手にされないでいると、疑問は解消されないままであるから「あきらめ」「意欲を失う」ことにもなる。疑問が解消されていけば、不安も解消され不信が解かれて「安心」や「信頼」にもなるのではないか。「にわとりとたまご」ではないが、皆さんの中の両面のうち、後者の面が満たされた時には「安心」して結果として信頼がめばえたのであろうし、あるいは「人格」をなにかで認知することによって「安心」できる方向に向かって距離を話さずにわかっていくことができたのではないか。アンケートにある熱心さや熱意、努力もそういった効果ではないか。もちろん「愛情」というよりも公正な「生徒への丁寧さ」こそが必要となる。
★「教養」を求めるとは何か? 意欲格差がつくられる社会
苅谷剛彦先生という方の本が発売されたのですが、すごく勉強になりました。「意欲格差」というものがつくられる「不平等」のことを分析しています。「階層」というものから考えておられるのですが、基本的には習慣づけられてしまう、そして無意識にあきらめてしまうという点で同じことを言っているのだと思います。だからどうするかといえば、別にモラルあふれる道徳人間として生きざまを売りにした教員になれというのではない。「疑問型」へも応えるというか、「わかっていく」方向へとすすめていく、あたりまえのことしかないと思うのですね。だから丁寧さと知的好奇心に訴える授業が大事となる。ですからその「わかる」というものがなんなのか、ということからはじめる必要があります。教育学では発達認知とか、教育心理学系でいわれてきたことですが、その心理的なもの、それと哲学的な考え方も加えて、「わかる」というのがどういう状態なのかというのを把握してから、「では、そのわかるためにどう授業を構成するか」というようにすすめていく必要があるわけです。
そして「教養」の量や質が「憧れ」であるにしても、なんにしても、「不安」を解消して説得力を増すためや、あるいは座標軸を広げるためにも「教養」は必要となる。力があるからはじめて力を抜ける、いやリラックスして必要な力をとりだして使える。そして人生のうち勉強をたくさんわがままにできて悩める時間的余裕はこの大学時代かもしれない。だからいまどのくらい本を読んだりいろいろ経験しながら学べるのかが大切だと思っている。おせっかいじみたいいかただが後悔しないように勉強していってほしい。
● 教育活動における教授方法の意義
「私が『わかった』と思った時とそれが『わかった』理由」を考えてもらいながら終わる。学生の代表と話しながら、個人の対話というもののなかで「どのような理解の回路」がはたらいているのかを説明した。最後にカードに上の問い(「わかったと思った時、それは何故だったか考えてみて下さい」)を書いてもらって終了。
*なお、「わかる」の後、その後の授業の展開として次のように考えていることを知らせておいた。
(2) 『方法、内容等に関する歴史的展開』
●近代教育方法論の成立と展開(西洋・日本・方法論、内容論の関係及び学習形態に注目して)、● 個別教育・自由教育・個性尊重の教育方法論
(3) 『新しい教育方法の紹介と考察』
●新しい教育方法と新しい教育観〜教育実践から考える、●「総合的な学習の時間」(歴史的位置づけと可能性・実践例から考える・基礎学力と創造力の問題)、●視聴覚教材の活用による学習過程の変容、●放送学習、マルチメディアの教育の可能性と問題