第10回(6月22日)
 
 前回紹介した本・・・前回、池上彰『ニュースの大疑問(最新版)』講談社+α文庫、800円ですが、紹介しました。またよく読みなおしてみたのですが、ネタがつまってるといいますか、面白い記述が多いと私は思いました。これはお話ししたように、土曜日に放映されているNHKの番組「週刊こどもニュース」のネタを書いたものなのですが、この番組も面白いです。へたな授業よりも子どもには楽しい勉強となる。なぜなら出演者が子どものため共感・実感しやすい。ていねいな教材もつくられる・・・。ボードとか模型だとか・・・、プロがつくっていますからね。小道具さんです。構造がみえやすい。・・・豪華な授業ともいえます。そしてタイムリーなことから歴史とか勉強につなげてくれる・・・。いつもうらやましく思っていました。こういう授業できたらわかりやすいのだろうなぁって・・・。
 私が教えていた女子高校でも、これを見るようにすすめたところ、私の授業より「わかりやすい」といわれました。複雑ですが、そういうものです。
 とにかく「子ども」の疑問という視点があって、「子ども」に語らせて、そして演じさせているのですから、これは「実感」しやすいです。「感覚」が近いというか、「目線」が近いというか、表現はいろいろあるのでしょうが、とにかく「実感」を助けてくれるのですね。
 あの番組は、海外の子ども向け番組なんかを集めたもののうち、表彰されるとかの集会があったのですが、まさに日本を代表していると思いました。こんど、そういう教育番組というものについて(視聴覚教材についてとあわせて)少しお話しします。
 
 
◆「教材」選択の方法・・・「知的好奇心」のための教材。「理解」を補助、深める教材。
  さて、いまの「週刊こどもニュース」のように、「子どもの視点・興味」から読み解いていくものとか、あるいはそれゆえに「共感・実感しやすい」といったいいかたをしましたが、つまり前回まで述べた「総合的な学習の時間」にしても普通の授業にしても、「子ども」=「学習者」の「知的好奇心」にそって、それに応えるもの、あるいはその「知的好奇心」を呼び起こすもの、そういう「モノ」である必要があるわけですね。授業をなりたたすには。いや「いい授業」といいますか、「わかってもらう」には。
 まさに「モノ」を工夫する必要があるわけです。ここでいう「モノ」が「教材」です。教師には「教材」を開発・工夫するという義務というか役割がある。求める授業にそって工夫する。それは、その目的は児童の「理解」をたすけるためであり、また理解を深めていくためなのですね。
 前回「教材の工夫が必須」といったのはそういうことです。
 
 授業という過程といいますか、構成の中には次の要素があると思います。

 
教 師 生 徒
教 材学習環境

 
 
 どれかが欠けてもなりたたないと思うのですね。「授業」としてあるためには必要な要素というわけです。佐藤学先生という「教育方法」の分野で有名な先生の著書などにもそう書いてあるのですが、基本的なことでして、たしかに考えてみればこの要素は必要だなと。
 「教師」がいないで授業が成り立つでしょうか。もちろん「自学」とか「自習」とかありますが、それは「授業」ではないですよね。何かの本とか「教材」から学んだとはいっても、「授業」ではないですね。もちろん「授業」で漫画GTOのように「僕が教えるよりは自習の方がいいから、みんな勝手に学習して」とでもいうなら別ですが、それが「授業時間」だったとしても事実は「自習」でして授業放棄でしかないかとも思える。いや、漫画のとおりだとしたら「反面教師」として「教師」も存在するのですね。それなら「教師」はいるわけです。「授業」の時間・空間に教師と生徒がいる。
 「生徒」がいるのは当然ですね。教師が別の教師や大人に何かをレクチャーするにしても、それが「授業」形式だとしても、そこには「生徒」がいないのではなくて、そこでは「別の教師や大人」が「生徒」としているわけですね。
 「教材」も「モノ」にしても「教科書」にしても、「プリント」にしても「写真」にしてもなんでも、その学ぶ対象として存在するわけですね。この講義のように「教科書は使用しない」とうたっているものでも、例えばプリント配布をしないで私が話しだけで進めたとしても、「なにか」について話すのですよね。難しいけれども「コトバ」だけで進めてもその「なにか」を表現して、考えてもらう。なにもないのではなくて、なにかを皆さんに「共通のモノ」として話して考えてもらうわけですね。ネタというか主題というか、そういう「対象」がある。
 「学習環境」は「空間」としてのこの教室もそうですし、また地域でもいいのですが、そもそもこうして学ぶという風潮というか意識というか理解もあって、その上でこの「機会」として「環境」がなりたっているのですね。
 そういう「場」というか「理解」の上に成立しながら「なにか」を一斉に「生徒」が集まって「教師」のはたらきかけとやりとりが成立していく状態・・・、それが「授業」と考えます。意図的な教育機関の中の場ですね。これらの要素の関わりの中で「学び」が発展していくのですね。単純に「生徒」だけが周囲との関係なしにのびていくのではないのです。
 難しい話しにきこえますが、つまり私たちはここ数回の授業で「主体性」とか「自主性」といったコトバをつかってきていますが、この「主体性」は教師や教材、環境とのかかわりを前提にあるものであって、それ無しであるというか、もともと自然にあるとかいうものじゃないと思うのです。興味とか関心とか意欲とかが最初からあるのではなく、周囲とのかかわりの中で生成されると思うのです。
 もっといえば「子ども中心」とするとはいいましたが、それは他の3つの要素をないがしろにするということではないのです。ここが難しいですね。
 勘違いをしてはいけないこととして、子どもの「主体性」とは何かは考えなければいけないことだと思います。たんに何もしないで、いや「子ども中心だから」とあえて「何もしないべきだ」などとして、それが「子どもの主体性尊重だ」などというのは怠慢でしかなくなるおそれがあると思います。放棄しているともいえる。「児童の権利条約」とかにもあるのですが、なんのために「親」と「子ども」というそういう区分があるのか。放っておくことが「主体性」ではないです。皆さんも前々回にアイディアをきいたとき、「中学生のころ、高校生のころにもどった気持ちで考えて」としても「考えるのは難しい」とわかったわけですね。そういうのが得意な子もいるかもしれないけれど、そうではなくて苦痛に感じる子もいる。だから、皆さんぐらいの年齢でも「自由」に考えて「主体的」に「考える」のは難しいのですね。いや、自由に・・・、本当に「考えてください」とかも「なし」にしてそれこそ寝てても電話しててもいいのだとしたら、それは「楽」でしょうね。でもそれは「授業」じゃないですね。「授業崩壊」図です。・・・だから「主体的」に授業にかかわるのはなかなか難しいですね。たんなる放置ではないのです。
 「教師」のはたらきかけがあって、「教材」の役目があって、「環境」の中でそれらの融合があって、そして「生徒」同士も関わり合って、その関係において「自律的・自立的な学び」が認識されるべきなのですね。
 佐藤学先生のテキストなんかでは、「主体性」というものは欧米と日本では考え方が違うと仰られます。よくいわれることですが、日本は「自由」がはき違えられているというのもそうですね。「主体性」は英語でsubjectなのですが、まさに超越的存在に従属するという意味において「自分」があるという「関係」的存在なのですね。社会に位置づける自分というのもあたるかもしれません。たしかに欧米では「神」の下にとなるわけですね。「自然」や「国家」や「真理」や「国民の総意」でもいいのですが、そういうものに自分を照らした上で「主体性」というものを意識するというのが本来の意味なんだというのですね。期限や制限、規定つきということでもある。この「感覚」がないと「自由」のはき違えになるわけです。
 日本は環境破壊問題等でも「自然」に関する意識が欠けているのではともいわれますし、宗教意識も欠けているともいわれますね。それと関係あるかはわかりませんが、「あらゆる制約からフリーになること」が「自由」であり自分の「主体性」なんだと考えるのは、たんなる「わがまま」ではないでしょうか。
 
 そこで、「生徒」の「主体性」というのを中心に考えるのだとなると、日本では難しく考えられるのではないかと思います。いや、歴史的にみて、それが批判されたのも、それは実現が難しかったのも、その「受け止め方」が悪かったのではないかと思います。「子どもを自由に」というコトバを「そのまま」に受け取っていて、日本にあうように、あるいは本来の意味として受け止めていないからそうなるのではないかとも思うのです。デューイが経験主義で自由を主張したといういいかたもあれば、しっかりと規律等をいっていてたんなる自由ではないというとらえかたをする場合もあります。私も単純化はしていますが、とらえる方に違いはあるわけです。
 ようするに私がいいたいのは、たんなる自主性まかせというのでは教師はいらないわけです。そして前回、皆さんに経験カリキュラムの学習において教師はどうするべきかときいたら「なにもしないほうがいい」との答えが多かった。・・・だからしつこくいうのですが、それでは「教師はいらない」→したがって「皆さんも教師にならないでいい」わけです。だって教師は必要ないのですから・・・。現実にはそうではなくて、皆さん自身が主体性を発揮することだって難しかったわけで、そういう時のリードや誘いが必要なわけです。そういうのを「ひきだす」というわけです。そしてそれは「子どもの興味」がわからないといけない。そして皆さんぐらい若くてもそれがわかりにくいという現実がある・・・。
 教師が、生徒と追求したいというリアルなテーマを設定できるかどうかが問題となりますが、これが難しいのですね。そういうものの「成功例」がいくつか紹介される。しかしこれをどう受けとるかという問題もある。私が紹介したいくつかの学習は「成功例」ともいえますね。どうこれを採り入れるかです。それと「主体性」「興味」とのかかわり。
 ねっ、このように「しんどい」ものです。難しいのです。この難しい「かかわりかた」をするのがこれからの「子どもにわかる授業をするための方法」でもあります。
 アイスキャンディーの例をもう一度思い浮かべてください。あれは教師が準備したものです。そういうのを発想して繰り返して、それで知的好奇心を刺激していく。そういう気づかせ方・・・。そこから「生徒の自主性」や「参画」にもっていくのが本来の「授業」ではないでしょうか。「教師」「生徒」「教材」「学習環境」があるわけです。
 
 ちなみにこの4つの要素のうち、「教材」は教員の働きかけや工夫で改良することが可能です。そして「教材」で学ぶわけですね。すると「教材」を通して刺激するし、うったえかけるし、投影するわけです。だから教師の意図によって「教材」をどのようなものにしていくかによって「授業」は変わっていくものです。変えることができる。
 ここで、佐藤学著『授業を変える 学校が変わる〜総合学習からカリキュラムの創造へ』(小学館、2000年)から、地域の教材といいますか、生徒と共有できたそういう題材を発見した例を一つ紹介します。もちろんこれも成功例でしょうが、ヒントとして・・・。
  (※いくつかありますが、同書143ページからの、三重県伊勢市大淀小学校の例として「ひじき」という地域の名産物を教材にした例を紹介しました。ここでは略します。)
 
 「教材」の工夫と、それをつくること。その方法はまたやりたいのですが、授業の工夫の例を一つ紹介してみましょう。「総合的」なそして科学的な考える授業です。
 
 
◆「仮説実験法」・・・(例)理系の方法で歴史をみる?(科学的考察の面白さ)
 これまで紹介したものや、クレオパトラなどは社会科の授業だったり文系の授業についてもいってきたのですが、今日は理系の考察方法をいかした社会的な考察方法を例にあげます。板倉聖宣『日本史再発見〜理系の視点から』朝日選書(1993年)という本がありますが、この板倉先生は「仮説実験授業」というのを推進している人でして、以前は国立教育研究所というところにおられた研究者だったのですが、いまでは出版社とともに「仮説実験授業」というのをすすめる立場へと転向されたようです。これは面白いし、お金にもなるのですね。そういう民間だからできる開発というか推進事業だと思います。
 (※黒板に絵を書いて、クイズ形式で、科学技術の発展と人間の乗り物の発展史とを比較して、そこにある「時代性」というか「支配」という点について考えてもらいました。略しますが、おおよそ次のようなものです。)
  *概略
 科学技術の発展・・・大きいもの→加工→細かなもの→一般化(高額から安価へ)
  (例)地層を調べて、石器を並べれば、打製石器→磨製石器→細石器→型式の鉄器等→今では家庭用刃物・・・単純なつくりかたから進歩して詳細な高性能な、そして量産可能なものへと変わる。
  (例)レコード→カセットテープ→CD→MD・・・大きいものから小さく携帯可能なもの、そこから音質デジタルで、さらに小型へ変わる。
  (例)ビデオカメラも大きく高額から・・・いまでは小型手のひらサイズでしかも低価。
  (例)コンピュータも大型電子頭脳からいまではB5ノートサイズ、低価格、高性能。これからもさらに発展するだろう。
 
 *これを踏まえて、次の絵、A「自動車」、B「牛が車輪つきの乗りモノを引っ張る、屋根つき」、C「馬に直接乗る」、D「人間二人が棒を肩にかつぐ、棒の中央に乗る台がある」、E「人間が車輪つきの乗りモノを引っ張る、屋根つき」を歴史的順番に並べ替えてもらいます。その際に正解がでようともその判断の理由をききます。
 もしも「科学技術」の発達順だと考えるのならば、「車輪」という発明品があるかどうか、そして「野蛮」でないかどうかで順序が決まるはずです。ところが正解はそうではないですね。
 正解は、B→C→D→E→A。でも、発明としては「車輪」のないものが間にはさまっている。それは道路とか用途とかの問題なのですね。ここではいまの常識が通じない。正解をおぼえていてもその「理由」をしらずに「歴史的にそうだから」ではこれも「わかっている」とはいえないのですね。
 
 これはあくまでも一例です。考えさせる授業の一例でしかないです。
 
 
◆(例)理系の原理的理解?
 さいごに、今度は理系の、といいますか、算数の考え方のうち、原理的なわかりかたをふまえるかどうかということを紹介します。以前からいっていますが、公式等を理解させるというかたたきこんでから、あとから応用で実感させる、気づかせるという理解の方法もあります。しかし、次に紹介するのはそうではなくて、その段階ごとにまずわからせてから、すすめていくという方法です。
 「総合的な学習の時間」をすすめる上で、必ず「学力が低下する」「しない」といった論争があるのだといいました。その論争の中で出てきた意見ですが、豊田充さんという方が次のような意見を仰っています。面白い意見と思いました。
 
 ★豊田充氏の意見 (知人を介して豊田氏とメールでやりとりをして教えていただいた)


























 

 アニメ映画『おもいでぼろぼろ』(高畑勲監督)を見たことある? おれも実は先週、テレビで見たんだけど、学力に関するおもしろい場面があった。
 小5の妹が分数の割り算ができず、テストでひどい点を取って、中学生の姉に教えてもらう。
 姉「ひっくり返して、掛ければいいのよ。ほら、こうして」
 妹「えっ、だけど、リンゴ3分の1を4分の1で割るんでしょ。だから、リンゴはうんと小さくなって‥‥。どうして増えちゃうのよ」
 姉は答えられない。「そんなこと考えなくていいの、ひっくり返せば」
 そのやり取りの前に、姉は妹の答案を見るなり、「えーっ、どうしてこーゆー点になっちゃうわけー。あんた、おかしいんじゃないの」と言い、「はい、九九を言ってごらん」。
 妹は「九九なんか、できるー」と、泣きべそ。
 姉妹とも、分数の前に、割り算の原理(比の原理)を理解していない。
6÷3とは、6の中に3がいくつあるか、という設問だ。だから、1/3÷1/4とは、1/3の中に1/4がいくつあるか(いいかえれば、1/3対1/4の比)ということ。足し算、引き算でやったように、通分して、4/12の中に3/12がいくつあるか、と順序立てて考え、4/3という答えを発見させる。
 あるいは、妹がこだわっているリンゴを描き、その1/3と1/4の大きさを比べさせてもいい。
 教師はそういう原理をきちんと理解させたうえで、最後に、その計算を簡略にして、ひっくり返して掛ける、というマニュアルを教えるべきだ。
 原理を教えないで、要領だけ教えるから、姉は妹の質問に答えられない。
 苅谷先生があげた調査データだと、姉は学力あり、になってしまう。そういう「見せかけの学力」では、いくら中間技術者でも、21世紀の日本を支えられない。だから、教育改革が必要なんだ。
 小学生にとって、分数は難しいよね。九九まではみんな、クリアーできるけど、分数から、数の概念を抽象的に捉えることが、本格的に始まる。
教師たちはその難しさを、理解してないのじゃないか。実際に小学校の教師たちと話すと、「その通りで、そこでつまずく子が多い」と言うけど、つまずかせない技量がないんだなあ。
 


























 
 
 豊田先生が実際の教育現場、つまり教師の資質・技量、教育(授業)方法を問題視していることと、さらにいえば「そういう教育」が慣習となっているという事実を暗示し、だからこそ「根本的」な教育改革が必要なんだと訴えたいということは、そういう意図が読みとれます。さらにそのさきには、そういう教育現場・現状と教員養成を担ってきた「高等教育機関」=大学にも責任の一端があるのだという気持ちもこめられているように(自戒の意味も含めて)受け止めているのですが、まぁ、これも一つの意見です。
 数学の専門家の方に教えてもらったのですが、それとは違ってあとから気づかせるという方が有効なこともあるそうです。大切なのはわかるけど、実際にはそういうすすめかたで全部いくわけにはいかないという現実もあるということですね。
 森毅さんとか秋山仁さんとか有名な数学者は豊田さんと仲がいいのですが、同様の意見です。そういう方々は「有名」ですね。ある種「正論」ですが、しかしそれが「ユニーク」だから受け入れられるし、そういう「立場」なのだとも理解できます。まぁ、一つの見地として参考にはなります。全てがではなく、これも考え方によってはとにかく「児童」にとって本当に「興味」がもてるようにしていくためにというのであれば、部分的にとりいれることも可能です。
 
 
−・−◇−・−◇−・−◇−・−◇−・−
 時間がなくなってしまいましたが、続きは次回にしまして、その「学力低下論争」について少しきいてみたいと思います。挙手をお願いします。
 1999年5月に、「朝日新聞」教育欄「ひろば」での対談記事(1999年5月24日付の記事、及び5月31日付の朝日新聞の教育欄「ひろば」:テーマは「大学生の学力ダウン?」)において、受験科目軽減や高校までの教育内容厳選精選の中で、かつてと比べての学力低下が増加することを危惧する苅谷剛彦氏と、それに対してつめこみ知識偏重教育を否定してそんなものは「学力」ではないと言う豊田氏との意見のぶつかりあいが掲載されましたが、記事の構図を略図で示すと次のようになります。
 
 論争の内容:論点








 
教師の資質・技量、教育(授業)方法を問題視していることと、さらにいえば「そういう教育」が慣習となっているという事実を暗示し、だからこそ「根本的」な教育改革が必要なんだと訴えたいという低下している(「鎌倉幕府滅亡の年」を答えられない現役の東大生(文系)が多いことに、学力低下の一端を指摘)
→現在の教育改革で低下が増すのを危惧

 



VS




 
豊田充氏(朝日新聞社取材記者OB)
          5/31(朝刊)
 ・学力は低下したのではない
 ・学力観が間違っていたと指摘
(「私の三十余年の社会人体験でその年号(鎌倉幕府滅亡の年)を記憶している必要は1度もなかった」)
→現在の教育改革を推進すべき

 








 
 
 ちなみに、当時、インターネット上で意見を募ったところ、学生さんから次のような意見がありました。
 
 タイトル「学生の言い分!」
 X君 (99/6/1/火/23/30/東京都/男性/22才) ←書き込み日時等
学力をどう設定するかによって、違ってくるとは思います。
苅谷先生のように、教養知識とするのと浪川教授のように、分からなさを克服する努力とするのでは違いますからね。僕は、一般教養なんてどうでもいいと思っています。
みんな同じだけの学力を持つ必要性があるのでしょうか?
いつまでも同じ人間を生産していても仕方ないと思うのですが。
大学の選抜方法がそういう知識を求めているのだから、そういう学生が生まれるのは当然だと思いますけど。 まあ、学生が「自ら学び」出したら、先生たちが困るんじゃないですか?
ここの掲示板のように、学生の疑問に答えられる先生がいるのでしょうか?
結局、教師の質によると思います。 学生に問題意識を持たせる先生もいれば、そうでない先生もいる。 朝日にも書かれていましたが、研究の片手間にしては大変じゃないのでしょうか?
僕は、大学時代は時間を買ったものとして、自由に使わせていただいています。
勉強するも良し、遊ぶも良し。
皆さんだって、自分で勉強したいから、勉強したんじゃないでしょうか?
学問に魅力があれば、やりますよ。 むしろ、そういう魅力が学生に伝わって来ないんじゃないですか?
っと偉そうに書いてすみません。
インターネットもろくに使えそうのないおやじに学力ダウンとか言われて、ちょっと腹立ちましたわ。 今の大学生の方がいろんなこと吸収して、怖いですよ。(苦笑)
古典的な教養に染まっていると、情報社会に飲み込まれますよね。
今の学生だって、教養はあると思うし、情報に強いし、バイト経験も豊富で、そう仰る先生方より社会性があると思いますが。そういうものは学力とは呼ばないのかな?(笑)
 
 同じく、本当に短い時間の(つまりよく考えたというよりは記事への直感的感想に近い)やりとりをしまして、例えば、翌日に、非常勤で出講している先の短期大学で240人の学生たちに同記事を読んでもらって、同じく感想を集めることを試みたところ、・・・この調査は1年生教職必修の時間内に実施したが、240人中の233人がXさんとほぼ同様の感想を答えてくれた。やはり共通して「そう読める」ようにこの記事は構成されているのではないか。「記事」とは意図的に読者に伝えるものですからね。
 もちろん、読みが「正しい」とかどちらが「間違っている」という問題ではないです。
 とにかく、私には「学力」が減るとか減らないとかが語られること自体にはあまり意味が感じられない。結局は「教養知識」なのか、あるいは「わからなさを克服する努力」なのか。本来の学力はなにかを考えていく必要はあると思う。ただ、これは従来、「学力偏重」か、「経験・創造性・個性」なのか、ということが問われてきたことと重なるのではないだろうか。つまりその時にそう話して提議され、世論が形成されても、厳密な分析・反省がないままでは、また数年後に同じことが繰り返されてしまうと危惧するのである。その意味で苅谷氏の意見は単なる「低下嘆き論」ではないと考える。手続きを責めているのだと思うし、それが必要なことと私も同意する。
 それではききます。「総合的な学習の時間」について・・・
 ◆この授業法にすると、学力が低下すると思う人?  →数人
 ◆学力は低下しない。むしろ従来の課題であった創造力が増すと思う人? →数人
 ◆いままでいう「学力」は低下する。しかし「学力」は定義しなおさなければならないと思う人?   →数人
 
 はい。それでは終わります。実は私の意見なのですが、「学力」を嘆き、語るわりにはそれはちゃんと省みられているのですかねぇ。疑問です。「学歴社会」といいます。「学力」を積んでさらにいいとされる学校を出たことですかね。昔は学校名・大学名で給与に差額があったのですが、それはなくなったわけで、そういうことで「学歴差の崩壊」ともいわれます。実際にはまだまだ採用などではあるのですが・・・。賃金では差はない。一見平等です。・・・で、ちなみにそういう人が「学力」があるのでしょうかね。その課程をクリアしたという意味で判定は受けている・・・、では、高齢な方ほど学力があるのでしょうか。別に大学を出ていない社長が悪いなどとはいわない。そうではなくて、「教えられる内容の量」が「学力を左右する」というのならば、私は昭和40年代世代ですが日本で歴史上もっとも内容量が多かった時代です。でも「学力王者」などとはいわれないのです。逆に「つめこみすぎで消化不良世代」などともいわれる・・・。都合のいいこといいやがってなどとも思うのです。だって、戦争世代までは「縄文・弥生時代」も教えられなかったり、外国語もそうですね、違いがあった。戦後すぐといまだって知識量には差があります。そういう「若い」方からの「判定」は受け付けないという「性格」をもっています。それが「語られる」学力なのだと思うと意味がないじゃないかと思うのです。「下」に対してのみ働く概念。そんなものはたんなる「権力」でしかないと思います。これは私的な考えです。でも学界でも上の代とその下の代とが、私たちのようなさらに下の代を集めるために「どちらが正しい」「けしからん」「年寄り」「若造」とつまらないやりとりをしています。学生をとりこもうという教員もいる。やれやれです。そのために他の学問の悪口をいったりする人物もいたりする。私は「誹謗中傷」を生徒に対していう教員の大半は「人気とり」のためだとかこれまでの経験から思い込んでいます。この感想は事実とそう遠くはないと思います。
 皆さん、そういうときこそ、権力から「自由」になりましょう。
 ちなみに、日本と米国とを比較すると、日本人は小学校では子どもがうるさいのですが、中学・高校とすすんでおとなしく静かにあるいは無関心になる。大学だと・・・寝ていたりしてですね。米国では小学校というかプライマリー課程ではおとなしいのですが、徐々に主張や積極的参加をするようになっていって、ディベートじゃないですけど自分の意見や考えを打ち出すようにとなてくる、そういわれます。逆なんですね。これは今日、最初にいった主体性とも同じです。その中での自分をつくってくるともいえますね。さて、最近、高校や大学でもうるさいということはある。これは米国式の主体性なのか、あるいは学級崩壊で指摘される幼児化なのか、どちらなのでしょうか。(どちらかだけではないでしょうが)