第九回 (6月15日)
新しい教育課程=「総合的な学習の時間」(3)
今日は少し文献コピーを読んでもらいます。配布資料が多いのですが、あまりその場で読んでもらうという授業は好きではないのですが・・・、まぁやってみてください。
前回、「わかろう」とするから「わかる」んだということと、「わかる」とは仮想の体験として「実感」できることで、過去の経験を尺度にして測っているのだと言いました。「想像できるから理解できる」。相手の気持ちも理解できる。「親身になって」とか「自分の事のように感じる」とか「相手の立場にたって考える」とかいわれるのもこの一部です。・・・だから「わかろう」とする好奇心を刺激する方法が重要ですね。
体験ということをもう少しいえば、「自転車に乗る」ということで例えればですね・・・、あれは何か「コトバ」で方法を理解しているのでしょうか。サドルに何度の角度で座って重心をこうかけて・・・とか、地面に対して何度の角度でハンドルを握る手首はこうで、肘はどうするとか・・・、ペダルを片方が踏み込んでる時、反対側の脚はどうするとか・・・、そういうマニュアルどおりに乗るのでしょうか。そうすると乗れるのでしょうか。・・・いや、おそらく補助輪からはじまるとかがあるかもしれないけれど、「乗れた」から「乗れる」ようになるんじゃないでしょうか。へんな話ですよね。でも「乗れた」から「大丈夫」と確認して、コトバにするのじゃなくて乗れるようになっていくんじゃないでしょうか。・・・経験ですよね。すくなくとも実感ですね。
だから難しいのですが、やれてから「気づかせる」という方向もあるのではないか、そしてそれがその後の学習動機になっていくこともあるんではないかと考えているのです。
難しいのですが、いいましょう。前回、皆さんに生徒の立場になって「総合的な学習の時間」の企画案(アイディア)を提案してもらいました。どうでしたか? 難しかったと思います。時間がないというのもあるけれども、やったことのないことを短時間で考えるのはまさに経験がないから実感がわかないことでしょう。しかも事前の授業で真意がどこまで伝わっているかも難しいですね。・・・でも、とにかく難しかったと思います。
前回の資料の大道小学校なんかでは、黒板に先生が「アイディア募集」と書いて、皆で授業中に話し合いをして出てくるんですよね。おそらく先生がうまく引き出していってる面もあると思います。なにしろ「撮影」されている授業ですから事前準備もあったことでしょう。・・・でも、だからとにかく難しいのはあたりまえです。
だから、実際には少なくとも最初は教員が「ひきだす」「リードする」形ですすめるのだと思うのです。その中でその後の興味啓発を行なうというか、やりかたや楽しさを「実感」させてそれでつくっていくという「気づかせ」方がありえると思います。今日はそういう「導入」というか「スタート」時点のことを見てもらいます。教員はどうしたらいいのか・・・。
先ず、皆さんの意見をいくつか打ち込んできたので見てみましょう。
◆前回の企画案アンケートの結果(一部)
タイトルのみ
原爆誕生の経緯と、保持及び使用の意義について | なぜ日本は平仮名、片仮名、漢字の三種類の文字があるのか |
世界を知ろう!(世界の生活環境・宗教・食文化) | 世界の国について調べる(政治、宗教、気候、日本との関わり、価値観の違い) |
今日の財政の危機をいかにうまく解決するか | 情報社会に追いつけ!(ホームページ、メール) |
みんなで世界旅行〜!(隣国、韓国、中国、ロシア。小説、食べ物、留学生との交流) | 食文化(アジアの食文化、調理法、材料、国の主食) |
高齢化社会の実態を知る(老人ホーム、公共の場、町の段差など。祖父母聞き取りから) | 東京近辺の文化的施設(博物館、美術館、動物園、公園など)をめいっぱい活用しよう |
資源の再利用(ゴミのリサイクル) | ごみのポイ捨てについて |
中学生の社会体験(職業体験。日本語学校、福祉施設、病院、工場・・・) | 自分の目は自分だけのものではない(盲人理解) |
映画を創る君とぼく | 松山の環境に対する情報公開について |
世界の宗教あれこれ! | 世界の健康法 |
車と環境 | 携帯電話の必要性について |
お茶で見る世界 | 様々な危機的状況の対処法 |
障害者の生活について | 自分たちの町(市)の問題点はなにか? |
民族紛争 | 戦争の作り方 |
世界の遊びの比較 | 世界の屋根(文化、気候、資源の理解) |
他人の気持ちを理解する(高齢者と障害者) | 点字の普及、障害者の施設 |
島根県の高齢化 | 老人になってみよう |
自主映画をつくってみよう | 雑誌出版体験 |
いつも食べているものについて考える(買い物、歴史、地理、農作業) | 野菜づくり(栽培、観察、収穫、調理、肥料づくり・ゴミ減量化) |
自分を知ろうよ!! | 仕事ってどんなこと? |
地球を守る(環境、エアコン、スプレー) | 汚染され続ける川 |
登山(事前調査、登山、映像、レポート) | 海は汚れている |
健康づくりのスポーツ | 釣り |
泥まみれ | 税金の使い道 |
縄文(弥生)人になろう!! | 恐竜などの化石発掘 |
どうですかね、難しいということが表れていますね。まぁ、いいなぁと思えるもの、これならできるなと思えるものもありました。かなり地域的なことから始まっているものもありますし、それはそれで必然性も現実味もあると思いました。また、社会科や理科、数学などの合同合科的にできそうだなぁと思えるものとか、内容に興味がもてそうだなと思えるものもありました。しかし、一方で、似通ったものや、あまり考えたと思えないもの、短い記述で箇条書きでてきとうに書いたと思われるものもありました。もちろん能力やタイプも人それぞれでしょうからそうは言い切れませんかが、しかし苦手でも「考える」ことは辞めないで下さい。
コメントを少しあげます(ここでは略する)。
ちなみに難しいけれど、何でもやらないで避けるよりは、やっておいたらそれでできていくことだってあります。あきらめないでいきましょう。
もう一つ、資料として、高校の授業で生徒に各自の関心あるテーマを調べさせて、決めた時間内に自由に発表させた時のレジュメを配りました。これは「世界史」のテストまでの授業範囲が終わったあまりの時間で「各自のモチベーション」と「刺激」のためにやったというものです。ちなみにこの「クレオパトラ」作品をつくった女子高生は一週間でこれを仕上げてきました。それは今回のアイディアとは違って年間計画ではなくて、むしろ「調べ学習」と「発表方法」の部分ですけど、・・・それにしても一週間でこのぐらいのものをつくります。皆さんにもできないことはないです。・・・ちなみにこの「クレオパトラ」に関する内容ですが、教科書や簡単な辞書に記述されてるレベルじゃないです。ヒエログリフで周囲に書いてある文字にも意味があるし・・・、クレオパトラの遍歴とか子どもとか・・・、もと社会科教師の私でも知らないというか勉強になりました。
このように、他にもピラミッドの作り方とか、ハムラビ法典のもとでの仮想裁判とか、・・・社会科(歴史)の時間内ですけど自由に学んでお互いの発表を「実感」「共感」しあっていました。だからこれが「総合的な学習の時間」と重なるというか、一部の要素を含んだ教育方法でもありますよね。これを実際にどう全体的にももう少し加えて行けるのかが問題になります。
とにかく教員にとって、重要ではありますが、しかし、「授業のスタート時」に生徒に「問題発見」を促す(知的好奇心・興味をあおる)のはそんなに簡単なものではありません。自ら「問題発見」するのは難しいといいますか、やはり与えられたものへの「問題解決」「対応」に慣れてしまっていると思います。ですから同じ生徒という多くの作品や意見・アイディアを並べて比較することで「実感」できることはあると思います。そのアイディアをいきなり出すのは難しいし、しかも個人差はあるでしょう。だから「教員」にとってそこの壁を突破するのがまず第一かと思います。
今日はそこのところを話すのが目的です。次の資料を見てください。
増田『総合的な学習の時間〜その可能性と限界〜』の12ページから28ページまでですが、ここは前回も言った「すぐれた部分」です。つまり大正自由教育を戦前に受けた人の証言です。
いま、現場の教員からも「遊ばせるだけにならないか」とか「学力低下が心配」と不安の声があがってきていますが、それに対して文部省やそれを推進する側は「大丈夫」「心配ない」というだけで説得力のある説明がなかったのですね。単純にこれまでの教育で培われてきた「学力」は、これまでの教育を減らすのですから当然ともに「低下」するのは事実じゃないかと思います。「基礎基本に限定して重視する」といっても省かれた「無駄な繰り返し」部分の教育効果はなくなってしまうのですからなかなか期待通りにはなりにくいんじゃないかと思います。まだ「そんな学力はやめるんだ」とはっきりいうならいい。そうするともっと親や学校は混乱しますけれども・・・。とにかくかみあわない議論なのですが、そうではなくて本当は「教育の効果・成果・結果」があるんだと示せばいいおです。
普通は数字として偏差値や進学・就職率なんかがこれに当りますが、それだと結局は小学校は中学校のために、中学校は高等学校のために、高等学校は大学のためにあることに、大学は就職先のためにあることになってしまいます。あるいはある小学校にいくのはある大学へいくための一部だというそういう設計図ですね。・・・それが問題でもあったのでしょう。
だから、ここで私がいう成果とは、この教育を受けてどうなったんだという成果です。教育が人間形成だとしたら、どういう人間になって、そのなったときにふりかえってその教育がどういう効果を自分に与えてくれていたのか・・・、そういう将来的な視点を、そういう証言があればいいのです。数年単位じゃなくて、数十年にも及ぶ・・・。実際にある小学校で自由教育を受けていた子たちが普通の中学校に行き、一年目は成績も悪かったけど応用や発想の段階になって2年生以降はすごく成績があがってきたという事例もあります。そういう事例を具体的に示す方が大切です。
それで、増田さんの本ではその日本での初期の導入の証言があるのでそういうものをみておく必要があります。以前にみた「日本式」か「欧米式」かの間をゆれ動いてきたように、その両者を実際に受けた人がその人生においてどう感じたのかを、何かを得たのかを語ってもらう・・・。そういう試みですね。皆さんに一度目の授業で「これまで受けてきてよかった授業・教育は」と訊いたことのように・・・、自分が何に学んで何に支えられて、何が自分の力になったのかをふりかえってもらうことです。
増田さんがラジオで「総合的な学習の時間」について放送したところ、西村さんというリスナーの方からお便りがあったそうでして、その西村さんの手紙には自分が昭和10年頃に受けた「合科教育」のことが綴られていたとのことでした。それで追跡取材をしたと・・・。
滝野川小学校の1〜3年の時に金子先生という担任の先生がそういう授業をしていたというのですね。当時、そういうことを目的とした教育だとは「生徒」たちは意識していなかったのだそうです。しかし、楽しく、いろんな活動の中から授業が構成されていたのですね。・・・教員の見えない努力、課題の構成能力が問われるということです。
「自由な遊びのようだった」「時間割もなかった」、と語られます。
例えば、アイスキャンディーをつくるという「シーン」・・・。
「二・二六事件の日、あの日は大雪でね。金子先生が、“明日はアイスキャンディーを作るから、割りばしを一本持って来い”って言うんですよ。翌日、みんなで試験管を持って校庭に出ると、金子先生が“きれいな所をみうけて雪をとってこい”って言うもんだから、校舎の裏とかみんな必死になっていい場所を探してね、試験管にギュウギュウに雪を詰めて先生の所に持っていったんです。そうすると、先生がイチゴジュースをかけてくれてね。そのあと各自持って来た割りばしを試験管に差して、その試験管を先生の所に用意してある大きなバケツ・・・その中にも雪が入ってたんですけど、そこに突き立てて固まるのをみんなでじっと待って、そっと割りばしを試験管から抜くと、まさに真っ赤なイチゴのアイスキャンディーができたんです。
“先生のバケツの中の雪には塩がいっぱい入っているんだと。塩を加えるとうんと冷えるんだよ”
そう金子先生がおっしゃってね。とにかく楽しかったし、おいしかった! 今でもその赤いアイスキャンディーのことは鮮明に覚えているんですよ」(18〜19ページ)
当時、生徒であった西村さんはこう語っている。この「遊びのような活動」と感じていたものが、実は綿密な計画上の授業だったと知ったのは数十年後だったという。金子先生は小学校3年生までで移動したが、その後1980年に没されるまで『月間理科の研究』に連載されていた小伝と、その遺稿にその授業案が載せられていたという。
なお、滝野川小学校は都下ではわずか三校のみの公立ながら新教育を実践していた学校であった。1年から6年までもちあがりクラスで時間割もない、ということと、さらには次の記述にも注目したい。
「教室には大きな丸テーブルがいくつか置いてあって、五・六人ずつそのテーブルを囲んで授業をするんです。席も男女交互に座ります。出席簿は生年月日順。・・・(略)」(22ページ)
この「風景」はこの講義で何度もやってきた米国の小学校の例やインターナショナルスクールの例と一致しますね。まるで結婚式の披露宴会場のような、中華料理店でもカフェテリアでもいいのですが、そういう向き合い方・・・。この時期の日本で導入されていたわけです。また、内容に関して次の記述にも注目したい。
「その丸テーブルの上に金子先生がみかんを山盛りに置いて、“自分たちで、好きにしていいですよ。食べてもいいし、よく観察してください。そして観察したことを、ノートに書いて発表して下さい”っておっしゃったんです。・・・(中略)・・・そこに絵を描く子もいたし、八百屋へ行って値段を聞いてくる子もいた。“みかんのへたをとったあとの星のような模様の数は中の袋の数と同じです”なんて発見をしていた子もいました。そうしたことをノートに書いて発表しあうのです。たくさん発見のあった人がえらいとほめられました。」(22〜23ページ)
「たくさん発見のあった人がえらいとほめられました」というのは、たくさん発見した者が上でそれ以外は下ということではなく(つまり「たくさん発見のあった人」おみ偉いのではなく、逆に少なくてもその努力は認めなかったことはないと思う)、単純に「いっぱいある。よく調べたな」ぐらいのほめかただったろうと思われる。ちなみに金子先生の指導案にはこの「みかんの観察」について、「子どもは叱られたことは忘れるが、一度ほめられたことは忘れない。どんなに小さなことでもほめて、その上に建設していくことである。このあと、あぶりだしの学習をさせたが、なかなか面白く発展した」(23〜24ページ)との記述があった。この授業は教師の側からはたらきかけて「させている」ものだが、各々の課題が綿密に関係づけられ、面白く生徒の興味をひきつけながら発展させていけるようになっている。「考えさせる」授業といえるのではないか。そういう工夫のある授業であった。
ちなみに、このクラス(椿組)の授業は、昭和13年3月に金子先生ら新教育を行なう数人の先生が異動したことでガラッと変わったという。時は日中戦争開戦の翌年であった。クラスは男女別で編成がえとなり、時間割も、時間(時限)区割りもはじまり、「規律一点張りの管理体制の学校生活」になったそうです。このころ「自由の方がいい」と思っても口には出せない雰囲気であったと証言が書かれています。
なお、この小学校低学年のわずか三年間の仲間がその後も同窓会を開き集まっているということでも(70数歳までも)何か特殊なものを感じます。西村さんは授業以外のことですが次のように話しています。
「金子先生の教育は私の人生を左右した気がするんです。お話ししてきたように、五段階のような成績をつけたり、時間割や教科書に縛られたり、ひとつの価値観を押し付けるようなことはありませんでした。子どもの興味・関心はその子どもによっていろいろで、それを認めてくれた。人間の価値は、学校の成績以外のところにあるといったことを教えてくれていた気がします。
私は、あの時代のことを思い出すだけで、今でもエネルギーがわき出てきて、いろいろなことに挑戦する勇気がもてる。頑張って生きていこうって思えるんです」(28ページ)
こういう部分は感想ですから思い入れもありますし、そのままにすばらしいと受け取ることにも注意は必要です。しかし、それにしても、皆さんにも書いてもらったように「こういう教師でいてほしい」という態度そのものに近かったように感じますね。なんにしろそれが後々まで思い出に残っているというのはすごいことです。ちなみにそのクラスのメンバーは様々な職業に就いたようで、なかには数年前に亡くなった五社英雄(映画監督)さんもいたんだそうです。
さて、簡単に内容を紹介しましたが、この(金子)先生のやりかたはどうでしょうか。授業のとっかかりからミーティングでもなんでもして話し合ってきめていく手もありますが、必ずしもそうではないのですね。といいますか、それではある程度の「関係」なしではうまくいかないような気もします。かなり「できる・できない・やる・やらない」の差が出るんじゃないでしょうか。
皆さんに前回「どういう立場で教員はいてほしいか」とイメージしてもらったところ、「何もしないでいてほしい」「見守るだけでいい」「自由にさせてほしい」という意見が多かったんですね。これでいいのでしょうか。
おそらく「子どもの主体性」の授業だから、そうイメージしたのだと思います。でも「見ているだけ」でいいなら、別に何も悩まないし、教員は「楽」なはずです。連絡や助言や調整をするにしても、それじゃ教員はあまり必要ないですね。・・・そして皆さん自身、あまりすぐにスラスラといいアイディアがわいてきたわけじゃないですよね。考えるのは難しかった?
だからスタート時の「導入」は重要だといったのです。これからそういうことをしていくというか、そういう皆の考えを尊重していくという「方向づけ」を、そういう意味でモチベーションをもっていくようにしないと、ただただ「自由」にしてもうまくはいかないと思います。通常の授業でもこれは大事ですね。「こういうことをこれからやるよ」と言ってすすめる。この「総合的な学習」では「これからどうやっていこうか」とポイントごとに考えを求めることでしょう。少なくとも大きな方向づけをしてそれで「皆の意見をききながら、皆で考えていくよ」とすすめかたも告知しておく必要があるのではないでしょうか。皆の意見を集約してというのが難しいのであれば、それをイメージさせて実感させ、慣れさせることが必要ですね。「考える」こと(方針・今後の方法)を「考え」てもらう。
それに多くの意見を集めて、そこから選んでいってもいいのですが、「やりたい」ことと「できる」ことは違うという問題もあります。「こうしたほうがいい」と思うことだってあるはずです。また他者の意見に方針が行けば、それ以外の人が外れやすくなるのも、無関心になる人がでてくるのもまた注意すべきことです。人間、怠惰なものです。自分のやりたいといったことでも興味がうすれていくことがあります。そういうものを、どうやってまとめて、全体として創造していけるのか。いろんな発見や知識をちりばめて「実感」させていけるのか。そういうものをまとめていく能力が教員に求められます。だからたいへんです。
どんな問題が出てくるか。どんな調べ方が可能か。なにがわからないことなのか。興味をひきつけながら・・・、そういう大きい範囲でのガイドの能力。悩みますしアドリブ能力の差もあります。だから、方向づけとして、「そういうことがいいのだ」「こういうことをやっていくのだ」という理解を求めることが必要です。
この授業(方法論)は全体の授業、教育についてですから、とくにそういう応用面やマネージメントの面をこそ考えていきたいものです。
現実に一時間の授業は、その具体的な設定単位としては、45分から50分です。そういうひとまとまりがある。そしてやみくもにではなくある程度のテーマや単元ごとにも、まとまりというか意味があるべきですね。これは定期試験だとか学期ごととかのわりあいでもいい。そしてまた年間での方向性というか、大きな意味設定があるわけです。
それぞれの中に起承転結といいますかストーリー的流れ、「目的や導入から例えて提示して実感させ、そこで疑問をもたせて考えさせ、また応用させて発展させて、もう一度意味を考え理解を深める」といったことがあるわけですね。一回ごとの授業でもそれがあり、数回のまとまりの中でもそれがあって、そして全体・年間でもそうなっている。それぞれのテーマもあるけど、それがまとまって中期のテーマのなかに位置づけられ、それがさらにまとまって全体の知覚の一部となる。そういう関係ですね。
難しいですね。テレビドラマなんてそうですね。延々と一話完結で続いていく大衆娯楽番組もありますが、たいていは1クールという期限があって、そのなかで毎回のドラマの中で恋愛や出会いや別れや事件や問題が展開していくのですね。最終回のフィナーレに向かって・・・。でも毎回そのなかにもそれぞれ展開やその回ごとのストーリーがはじまってまとまる面もあるわけです。・・・。
この1時間の授業が「小目標」だとしたら、単元ごとテーマごとのが「中目標」、最終的な年間通してのものが「大目標」です。そういう一話・一回ごとの授業にも、そして全体にも(学習者にとって)意味をもたせる「問題構成能力」が重要になってきます。
とにかく、文学作品を読んで、読み深めて、そして全体として理解していくようなものです。1章ごと読んで学ぶことはあります。連載された小説などはそうやって一つずつワクワクさせます。そして後半へつなぐ気づかせや興味を引っ張るものがありますね。そして最後まで読んでまたなにかがわかったように感じる・・・、あの感覚。
難しいですね。またこれは少し具体的な話をします。
とにかく教員の能力としては「問題構成能力」(マネージメント)と「教材の工夫」が必要です。これは従来の授業でもなんでも必要ですね。その「配分」と「開発」が必要ですが、従来のものとこの経験的学習ではその割合に少し違いは出ているかなとは思います。「教科教育」タイプだと、あらかじめ選択された教科書の構成を中心に年間の授業計画がわりふられますね。さらに「教材」も教科書以外にも準備されるものもある。おまけになかなかそれ以外のものをつかってすすめる余裕がない。なぜなら複数クラスで同時に同じ内容をやっているのであまりにも他の先生と違うことをやると全体でのバランスが崩れますね。だから「クレオパトラ」の例じゃないけれどあまった時間にやるしかない。そういう教員の創造力がいかせられないものかもしれません。逆に「総合的な学習の時間」ではこの二つの能力が求められます。教員自身の「創造力」が求められているともいえる。つかってないものをつかうのは難しいですね。皆さんが突然いわれたらアイディアを考えつかないのと同じで・・・。まぁ大人の背中を見て子どもが育つというのなら、やはり何もしないのじゃなくて教員の「創造力」が試されます。
・・・うまく説明できていないのですが、増田さんの「アイスキャンディー」の部分を今から読んで(15分しかなかった)それで読み取った感想を書いてもらいます。あまり読ませる授業は好きではないのですが、これは読んでもらうために用意したコピーです。読んでください。
なお、追加として、「この本を買うように」というおすすめの仕方は嫌いなのですが、比較的に安くて面白い本があるので紹介します。
教員は、もし誘導というか、興味の方向へと導くのであれ、そしてそれがしんどい作業でさらに創造力が問われるのならば、やはり「教養」は広くもっておいた方がいいですね。
そういう本なのですが池上彰『ニュースの大疑問(最新版)』の講談社+α文庫、800円です。これはNHKの番組「週刊こどもニュース」のネタを書いたものなのですが、この番組は面白いです。へたな授業よりも子どもには楽しい勉強となる。なぜなら出演者が子どもですから共感・実感しやすいですね。ていねいな教材もつくられるし・・・。さて、皆さんは野球大リーグのロサンゼルス・ドジャースのチーム名の意味は知っていますか? 知ってる人がいたら、尊敬します。ジャイアンツが巨人、タイガースが猛虎、これはわかりますね。ではドジャースは?
ドジャースのドッジはドッジボールのドッジで「避ける」という意味なのですね。すると「ロス・アンゼルスの避ける人たち」となります。強そうじゃないですね。・・・でも意味があります。ロスの街は路面バスがすごいのですが、みんなその密集というか合間を避けて道路を渡るのですね。それが「ロサンゼルスっ子」なわけです。そういう伝統的・文化的な意味があります。・・・私も知らなかったです。
正直にいってこの番組から学ぶことも多いです。