第八回 (6月8日)
新しい教育課程=「総合的な学習の時間」(2)
 
◆前回の復習
・・・なぜ、「総合的な学習の時間」についてこの授業でとりあげるのか?ということを話しました。「21世紀の教育の中心課題」と考えられているし、「学習指導要領改訂の目玉である」から学ぶんだということでした。2002年度から小学校3年生以上・中学校で実施される(高等学校では2003年度から)。一つの「教科」ではあるが、その教育方法論・教育観が現在求められるものである。さらに、基本的にはデューイ以来の経験的学習の方法であり、他の教科学習にも有益である、と話しました。そして、●歴史的には、日本の教育史上、3度目の試みともいえる、●その共通する動きとして、前改訂時に「生活科」の導入が実施されていた、 ●「ゆとり」「学校週五日制」「教育内容三割削減」の中で新設される意味、期待、●新しい教師が求められる(負担も増える)。そういうことをみてきました。
また増田『総合的な学習の時間』のすぐれている点ですね→原理・経験・統計の他に「教育の成果」を追跡取材していることに注目したいと述べました。その教育がどういう効果を残したのか、それが数年後に、あるいは人生においてどう「生きる力」になったのか、とでもいうようなことに注目したいのだということです。何も証拠なくそういうものが語られ過ぎている・・・、情緒的で観念的ですね。それを、その証言をひろっているのがこの著書のすぐれている点です。
 
 「授業における教師の役割、あり方。「学ぶ」とは何か。授業とは何か。わかるとは何か?」・・・そういうことに注目したいと前回述べましたが、「教え方」は「教え込み」ではなく「自己教育力」をつけさせることをこそ目的としているのだといえますね。今回の学習指導要領改訂の柱はそういうものでした。
 
 ここで「コロンブスの卵」的発言をします。
 「わかる」というものは、ただ「見る」「聞く」ではなく、「わかろう」と考えること(理解しようとすること)で「わかっていく」(知的好奇心・興味)ということをいいたい。
 馬鹿にしたようなコトバにきこえるかもしれません。しかし、そういう事実はあるのではないでしょうか。例えば私がここで話している。・・・以前、話はきくことが大切だという話をしました。しかし、もっといえば「きく」だけじゃだめなんです。「わかろう」と思ってきくことが必要です。
 私が前に座っている彼と話をします。「私」と「彼」とで自己紹介をしあう(試す)。・・・「彼」の名前、学年、出身地、趣味、聴いてる音楽、スポーツなどについて「知り」ました。「知った」というか情報を得ました。「彼」も「私」の情報を得たのですね。
 これは板書をすると・・・(絵図で示す)こうして会話しているのですね。そういう事実があった。ここで「わかる」とは何かというと、例えば「私」のアタマの中で「私」と「彼」が会話しているシーンがほぼ同時に再現されているというか、そうドラマが演じられているのだということなんです。漫画の「ふきだし」のようなものですね。その人の「思考」ですね・・・。そして「彼」のアタマの中でも同じようなシーンがあるわけです。
 しかし、このシーンというのは個人の「思考」ですからズレがありえます。なぜかというと、自己紹介であったようにお互いが相手をまだよく知らないからです。つまり・・・、アタマの中で本人は「本人」が演じているのですが、「相手」も自分が仮想ととして演じているという状態なわけです。想像といいましょうか(「彼」のアタマの中の思考の「私」は「彼」の想像する「私」であって、「私」そのものではないですね。「彼」が「私」の身になって演じているのだといえます。逆に私のアタマの中での「彼」は「私」の想像であり演技であるわけです)。
 わかりましたか。つまり「わかる」はずがないのです。でも短い時間でも「わかる」部分もありますね。少ない時間でも「わかる」部分。逆にいうと「わかってもらえたんだな」と思う部分。・・・これは「共感」できたりして共通の経験があったり思いが重なる部分です。物語を読んで感想をいいあっても同じ感想ってあるわけですもんね。もちろん誤解もありえますが、それは経験が重ならない部分というか、演じられない部分というか、想像が追いつかない部分だったりします。
 「わかりましたか」。「わかる」ということが。
 このように「体験」「経験」が重なると想像できて実感できるのです。前にガリレオの話をしましたね。ガリレオの発見したことを「体験」したことを、自らの仮想体験として実感しているじゃないですか。「わかる」とはそういうことですね。
 しかし、「わかろうとしない」と「わからない」ものです。
 今、「私」と「彼」とのやりとりでいいましたが、皆さんの立場でも同じです。話に加わっていない皆さんはまるでドラマを観るようにこの二人の会話をみていた。つまり皆さんのアタマの中でこのシーンがあり、出演している「私」も皆さんが演じて想像する「私」なわけで、「彼」も皆さんの想像で演じている「彼」なのですね。両方とも想像なわけです。これは・・・、よっぽどのことでないと「わかりません」よね。でもドラマや小説ってそうでしょう。共感したり、自分の思い入れがあったり・・・、そういうものですよね。関心のないシーンだと目にうつってもわからないというか流したりもするでしょう。
 ・・・こう考えると、他人のやりとりや、知識がなぜ「わかる」のか、といえば、アタマの中で仮想体験として実感できるから「わかっていく」のですね。すると根本的に「わかろう」というスタンスで臨まないと、いや「わからなくていい」として流しておくと「わからない」のが事実でしょう。
 「わかりましたか」。「わかる」ということが。
 人をくったようないいかたでしたが、「わかろう」とすることが大切です。
 そして、そのためには「わかろう」と授業に臨ますことと、それを本人の習慣としてもらうことで、「わかっていく」能力をつけることができるわけですね。自己教育力とはそういうものではないでしょうか。つまり「知的好奇心」を刺激するというか、そういうすすめかたが重要となりますね。
 もちろん、「知的好奇心」とかでワクワクさせるには、徹底したドリルで覚えさせてから後で応用で「気づかせる」という方法もあるわけです。教科内容によってはそれもありです。はじめから「自主的」というのが難しい場合にはそうやって提示して選択させるか、あるいは模範や操縦によって「目覚めさせる」という手段も有効かもしれません。
 
 そして、「実感」や観念の世界は「仮想体験」であり、自分の「経験」で想像・理解するということをスラスラと言ってきました。・・・これは本来「体験」「経験主義」での重大な意味だと思います。「実学」というコトバだってそういう意味も含むものでしょう。「実感」できるということ、「興味」をもつということ・・・、これは「経験」として理解するということであります。だから「理解」と「経験」とか「実感」でつながるのです。そういうふうに得た知識は「実感」としてしっかりとした「チカラ」になるのだという考えですね。それで、経験主義の教育もあるし、今回の「総合的な学習の時間」もあるのです。
 結局、そういう授業のためには、教師は次のようなたちまわりが必要ですかね。
 
★「導入」(動機付け)・・・問題発見を導く、促す→問題解決へ向かわせる→考察後、報告→討議を経てフィードバックさせ→次の問題発見へつないでいく
★「助言」(アシスト)・・・できる、できない、あるいは方向をアドヴァイス。気づかせる。報告のマネジメントを注視してあげる。
★「支援」(サポート)・・・資料収集、時間外・学校外の行動、講師や取材依頼等、クラス全体の課題でもあるから一員として後方支援する。
★「論駁」(指導)・・・評価の後、注意点や問題点・課題は指摘してあげる。その課題を次回に解決するようにもっていく。
 
 さて、増田さんの著書に紹介されている実践例ですが、その授業の年間の流れをザッと書くと次のようになります。
タイトルヒツジを迎える会 (上小学校)
目的「環境」理解。動物の特徴の違いと飼育から生活・環境問題までを理解する。
概要農家からヒツジを借りて飼育と観察。小屋づくり、餌づくり、毛を刈ったり、・・・・・(略)
展開1ヒツジを飼うことに決定するまで。
展開2ヒツジを迎えるための勉強、小屋づくり。
展開3ヒツジの体重を測る方法を考える。掃除や堆肥小屋も。
展開4ヒツジとの共生、命の尊さをしる。・・・(略)
まとめ・・・(略)
 
 あくまでも略しているというか箇条書きなのですが、「環境」の理解でもあるし、生命の尊さを知る教育でもあり、心の教育でもあるともいえますかね。とにかく子どもたちで共通の体験をしたということなのですが・・・。
 まず飼うことに決定するまでに企画を練っていく段階ですね。そこで様々な話し合いがあり、アイディアを出し合う・・・。次に決定したら、皆の企画として取り組み、係を分けたりして、例えば調べる係とか、餌を考える係、小屋を設計建設する係とか・・・、さらに年間の計画を考えていきます。また例えば体重の測り方・・・、これもいろいろ考えて試すのですね。水にいれてそのあふれた量ではかるとか、シーソーで測るとか天秤で測るとか・・・、数学・物理学的考察が発展する。さらに糞尿処理のために堆肥小屋をつくって農家と共同して、協力も得る。地域社会の産業、生活との連携ですね。さらにヒツジの毛で羊の人形をつくるとか・・・、地域のケーキ屋さんが羊型ケーキつくってくれたりクッキー教室をひらいたりヒツジ祭りをひらいたり・・・、ヒツジの歌をつくったり・・・、いろいろありました。そうやって周囲の社会とかかわっていく・・・。
 そうやって子どもたちが学んでいくのですね。
 確かに「学力」にこれが反映するのかはわかりません。そういう意味では「学力が心配だ」という意見も理解はできます。しかし、子どもたちはなにを得るのでしょうか。楽しく共同して、地域とも連携して、動物の飼育のたいへんさと楽しさと大切さを知って、皆でなにかをやることを知る・・・、もしこれがなんらかの形で人格形成に今後いきていくとしたならば「教え込むモラル」や叫ばれる「心の教育」「地域・家庭との連携」などよりも実効はあるかもしれないですね。まぁ、この時点で評価はするべきではないかもしれません。
 さて、もう一つの資料、横浜市教育委員会の冊子ですね。それに大道小学校の例として国語における障害児に関する文学作品の理解のために、街のバリヤフリーを調べたり、施設に行ったり、アイマスクをして歩いて視力障害の人の気持ちになってみたり、点字を学んだり、盲導犬のことを学んだりという実践が紹介されています。もう一つの中学校の例はゴミ問題についてですね。それで、1ページめの写真の黒板に「なにを学んだらいいか考えてみよう」という先生からの問いかけが書いてあります。そこで生徒たちが意見を出して、それで授業をすすめていくのですね。
 
 さて、その資料も参考にしてもらいながら、同じように皆さんに考えていただきます。次の問いに答えてください。
 
〇高校(あるいは中学)時代にこの「総合的な学習の時間」が新設され、実施されていたと考えてください。その「生徒」としての立場で、「やりたいテーマ」を考えて下さい。 そして、どのように「調べ」たり、活動していこうか「計画」を練ってみてください。可能か不可能かはともかく、教師やクラスメートを納得させるプレゼンテーションとして、「企画」を考えて下さい。(そういう教育を受けてきた経験のある人は、そのことについて書いてくれてもいいです。)
 
  (高校・中学)・・・どちらかに〇をしてください。
 タイトル「               」

 分野(国際理解 ・ 情報 ・ 環境 ・ 福祉・健康)・・・分野に〇をしてください。

 全体の概説・・・「                          」

 計画(いくつかのトピックごとに)・・・目次みたいなものです。

 調査(学習)方法・・・計画ごとに調べ方を考えて書いてください。

 発表の方法、まとめ方・・・どういう形式で発表するか。

 仮まとめ・・・どういうことが得られると思うか。
 
 
 そして、心理テストぎみですが、最後に「教師にはどういう立場、態度でいてほしいか。何をやってもらいたいか」。生徒の身になって考えて書いて下さい。