第七回(6月1日)
 新しい教育課程=「総合的な学習の時間」(総合学習)
 
 今回から「歴史的」考察ではなくて、教育実践の現場、実際の授業について見てもらいます。
 「総合的な学習の時間」は、今回の学習指導要領改訂で加えられた「授業(科目)」です。(全国の学校で)実施されるのは・・・、やはり決められてから実行までの準備期間も必要となります。例えば幼稚園では(「総合的な学習の時間」ではありませんが「幼稚園教育要領」の新課程が)2000年からすでに始められていますが、、小・中学校では2002年からの実施と・・・、つまり来年度からの実施となっています。ここから完全な義務づけというか、・・・つまり学校ではこの時間をおかなければいけないのですね。小学校3年以上でこの新しい授業時間が設定されます。週に3時間程度、そういう「授業」が行なわれることになった。例えば、月曜1時間目、水曜2時間目、金曜日5時間目のように・・・、これで週3時間ですし、あるいは月曜に2時間あって木曜日に1時間でもいいのですが・・・、そういうように時間割に入ります。
 
 先ず知っておきたい一つ目のことです。なぜ「小学校3年生以上」かというと、もう1・2年生には「生活科」という授業がつくられていました。前回の戦後6度目の学習指導要領改訂(1988〜90年)で新設されたものでして、臨時教育審議会答申を受け、「ゆとり」「自己教育力(学ぶ意欲)」「道徳心」が必要だなんていわれたのですが、・・・それで低学年の「社会・理科」を廃止して、かわりに「生活科」を置いたのです。1992(平成4)年から実施されました。今日受講している皆さんの大半は大学1年生ですが、ちょうど皆さんの一つ下の学年ぐらいからではないでしょうか。
 とにかく、この「生活科」は「理科と社会科のかわり」であり、それらを合わせたもの(「総合」?)として扱われたともいえますね。「総合的」な学習ではなかったでしょうか。今回のが3年生以上というのには、こういう「流れ」の上でのものともみることができます。その延長上というか、まさに「延長」しようというのか・・・、つまり「目的」「ねらい」はそんなに変わらないと思います。「ゆとり」(「つめこみじゃない」という意味において)、「自己学習能力」(学習習慣を身につける)、人権・環境・国際意識をつけるという意味においては道徳的な・・・、そういった同じ目的をもっていました。
 ここで問題なのは、・・・これはやってみて、成果としてよかったから、だから「小学校3年以上もやるんだ」というデータに基づくものなんでしょうかね。あるいは、やってみて、やはりまだ「足りない」と判断されたのか、それで「延長」とされたのか、そういうどちらかの動きもあったのでしょうかね。
 
 もう一つは、この「総合的な学習の時間」への「期待」です。今回の学習指導要領の最も重要な課題となっていたのではということです。なにしろ今、「学力低下が心配」と叫ばれます。
 まず来年から同時に「学校週五日制」として時間縮小が完全実施されます。単純に一日減るのですね。
 さらに内容も厳選・精選といわれて削られます。約3割をカットして、・・・しかし文部省(現・文部科学省)サイドからは「基礎的」なものを残して重視するのだから逆に理解力は増すのだなどと説明されています。「あとは応用力をつけさせる授業を」というのですね。その期待もこの「総合的な学習の時間」に向けられているのでしょう。しかし、内容はすごい減ると思います。例えば円周率とかπが「約3」にされるとか、複雑なものをなくしていく方向のようです。「計算機を使う」なんて現代的な方向性もあるようです。分数とかもそうですね。教えるのが遅く、そして少なくなる。いや日本史とかでも小学・中学と、あるいは学年間でも普通は重複するのですが、そういうのを「無駄」と考えてか整理している面もあるようです。重複してしつこかったけれど、それでなんとか理解できたということもあったのではないでしょうか。それが減らされる。繰り返して学ぶ機会が減る。・・・つまり、ついていけないと置き去りになってしまう危険性もあります。この時間と内容のカットはすごい大きな問題だと思います。
 さて、この「減らされた」という全体の動きの中でその分「入れられた」(増やされた)のが、この「総合的な学習の時間」なんですね。まさに応用力や学習習慣(「生きる力」?)をつけるものとして考えられた今回の改革の柱だと考えられます。
 
 しかし・・・、新しいし、期待されているけれども、そして来年度から実施されるけれども、「今までにない」ものだし、マニュアルもないので現場は混乱しています。「経験」とか「興味」とかいっても難しいのです。どういうような授業をすればいいのか困っていることでしょう。・・・ここ数年、「総合的な学習の時間」関係の図書、雑誌、ホームページ、記事等が増えてきました。書店や図書館でも多く見ることができますね。・・・定着するまで数年間は様々な問題も出てくることでしょう。
 皆さんが現場に出るころ、高校出も2003年以降から実施されますので、どこの学校でもこの授業があることになります。だから経緯を見ながら、さきに知っておく必要があります。
 何故なら今後はそういう教員が求められるからです。これからの教員はたいへんです。採用の困難に加えて、さらに即戦力が求められる。そして新しい試みへの対応が求められるでしょう。・・・そういうものが全部まわってきます。
 例えば外をまわる(見学とか観察)。とびまわる子どもたちとふれあう。情報ツールを使いこなす。授業で発表用に機器を使う・・・。これが「若いんだから」と求められることも多いことでしょう。ですから・・・、この「総合的な学習の時間」を教育の授業としてとりあげる必要があります。
 
 ちなみに、これまで、この授業で「アメリカの教育」と言ってきた「日本の教育」とは違うもの、あるいは「コメニウスやヘルバルトとは違う」という言い方でいってきました「経験カリキュラム」・・・、これが「総合的な学習の時間」のめざすモデルかもしれません。前回配布したプリントのGに「児童中心主義」とありましたし、これまで言ってきたアメリカの授業風景やインターナショナル校の授業における「調べ学習」もそういうものです。そして日本の歴史上ではこういった米国式と日本式との間をジグザグに揺れ動いているんだとも言ってきました。そして、現在の改革は、その目標はこっちに行こうとしているといえますかね。
 「経験カリキュラム」は従来の教師中心の注入型授業を批判して出てきたものでして、子ども観・教育観の変革があったのだということです。ジョン・デューイという米国人の教育家の手でつくりあげられ普及されたんだといいました。子どもの個性(個別)や自発性・自己表現の重視というのがポイントでした。
 そして日本でも過去にこの導入が試みられ、デューイのラインで新教育運動として明治中期以降に入ってきたいわゆる「大正自由教育」の自学主義と、二度目は第二次世界大戦直後の「生活経験主義」という学習観でしたが、これらはいずれも定着しなかったのですね。前者では日清・日露・第一次世界大戦と続く時期で西欧思想を排する方向性に向かったのと、後者では学力低下なども問題視されたのですね。それから数えて三回目の導入になるのが今回の「総合的な学習の時間」です。前回までと違って特定の「一教科」とされたことで実現を可能にしやすいかと思います。「全てをそういう教え方に変える」のではなくて、そういう「一つの教科を加える」という方法にしたのですね。全面的な反対がでにくいし、しかもこの授業は成績をつけないことになっていますので「どうしたらいいのかわからない」という現場の教師もとりあえず発想を工夫してやってみなさいという方向にもっていかれているのだと思います。まぁ、それはともかく、三度目の試みであり、その三回とも「生活経験・地域社会の現実問題などを重視」するなど、共通した手法というか方向性をもつものでありました。
 
 「経験主義的教育」については前回アンケート式に答えてもらったのですが、やはり私が講義でうまく伝えきれていないようでした。「教師の経験で教えるというのはどうか?」という疑問の答えがありました。・・・根本的に「教師の経験を話す」のがこの授業ではないです。もちろんそういう内容も出てくる可能性はあります。ただ、これは生徒の側から考えさせるというか、生徒自身に経験させるというものであって、根本的に違います。
 例えば、高知県土佐市の小学校なら「地元のヒーロー坂本龍馬について調べたい」と子どもが提案したりするとします。「日本史」の授業の一環としてでもいいのですが、「自分たちで調べる」・・・これは教科書を読むとかの安易な方法ではなく「教科書以上のものを調べて発表する」ということです。いろんな本を読んだり、また「地理」の授業でもいいのですが、「高知県」がどういう地理的条件にあったのかとか、その産業形態や人口、あるいは県民性の問題とかですとか、そういうものを龍馬を調べながらやってもいいのですよ。歴史と地理の共同ですね。私が前回の授業で例え話に言った「金八先生でやっていた」というのもこういう「共同」のことです。「人間」かなにかのテーマで、各教科担当の先生がかわるがわる授業をしていたのですが、文学・小説に書かれた人間、保健・健康面からみた人間、音楽、芸術、科学・・・、なんでもありですね。まぁ、そういうように先生方にお話ししてもらうのもそれが生徒側からの提案だったり、あるいは必然だったらそれでいいのです。まぁ、そういう「地域」とかなんらかのテーマにそって「問題」を提示させ、それを調査させて、まとめさせて、それで発表までもっていってもらう。そしてその発表をきいた感想を述べあったり、それをまとめさせたり・・・、そうやって生徒のやる気を喚起し、自ら望んで学ぶという姿勢を身につける方向にもっていくこと・・・。それを目的とするのが「経験主義」的な教育です。「生徒自身が太陽」というのは、そういうことなのですね。「受容」ではないということです。
 ここで皆さんの記述の中から模範的な解答を一つ紹介しましょう。
 
 「生徒に発見・計画させその解決作業を通して知識・経験を得させる等、教育の中心が教師ではなく生徒になる。つまり学習者の経験、周囲のことから出発・組織していく授業になり、これに作業等を取り入れた点ですぐれている。だが、これは生徒の思考・応用能力をのばしたりするのはできるが、限界があり、幅広い知識を限られた時間に伝える教育(授業)にはなりにくい。」
 

 
生徒の興味
<問題発見>

 
仮説・見通し
<問題解決>

 
発表・討議
<成果報告>

 
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国際理解、情報、
環境、福祉・健康

 
 
 この「国際理解、情報、環境、福祉・健康」というものについて、これに関わるものをテーマとして選んで学んでいくのが「総合的な学習の時間」です。この4テーマが与えられたものです。なるほど、すると「総合的な学習の時間」とは、「国際理解、情報、環境、福祉・健康に関して総合的に学習する時間」なんだということもできますね。
 まぁ、日本の社会科、地理歴史、公民の単元もその目標はこういうものになってはいます。普段なら教科書の内容を(少し資料を加えるなどして)考える・覚えるだけでした。それを児童・生徒が主体的に参加しながらやるというふうにするのですね。
 皆さんのこの授業の一回目のアンケートで、「予備校の授業がよかった」という答えが多くあって、二回目の授業ではそれに応えて「なぜ学校の授業がだめなのか」をやりました。つめこみ、記号、暗記の授業はねむいですね。参加型や興味のもてる授業の方がいい。これはあたりまえです。少人数で参画型の方が大学の授業だってよく感じることでしょう。心理的にロールプレイングやったり・・・。教師だってその方がやりやすいもんです。でも、この授業も講義式でやりにくいかもしれませんが、・・・だからアンケートに応えていろいろ変えたいとは思います。何人かに何か課題をやってもらってもいいのですが、・・・まぁ、少し参加できる方向を考えてみます。
 ただし、「考え続けてもらう」という意味で、皆さん自身で参加して下さい。この「総合的な学習の時間」や「経験主義」の話を皆さんはきいた。そして皆さんがそっちの教育の方がいいと思うのなら、この授業においても一方的な受容は求めないで考え続けて下さい。今日は資料を読んでもらって、次回、いろいろ書いてもらいます。その際にちゃんと「いい答え」を真剣に考えてみてください。
 さて、配布した資料を見てください。さっきも言いましたがこの「総合的な学習の時間」は一つの教科です。過去の試みは全教科を対象としたためか批判されて消えた。歴史的偶然もあったのでしょうが10年ちょっとで消え、定着しなかった。後発国で輸入の文化を独自性で吸収していくという反応があったのですね。それでダメだったのを「生活科」で試したのかどうか、同じく単独教科として今回導入された。各学校の独自性が出ると思うのですが、「いい、わるい」も出てくると思います。
 で、この教科には専門の教員免許はない。教科教育法の授業もないです。求められるのは「工夫」ですね。それが「教育方法であり技術」です。まぁ、経験的学習なのだと考えて、とにかく理解して各自が発展させていくものです。それで、この「総合的な学習の時間」の内容と教え方の事例をみることで、そこにある意味、授業における教師のあり方を考えてもらおうと思います。なぜならべつに「総合的な学習の時間」以外でもいいものならば応用可能なわけだからです。それで学力もつく・・・、そういう方法・・・。興味をもって進歩していける、自己教育力のつく授業方法。そういうものを学んでいきます。感想はどうもってくれてもいいです。先生がたいへんだとか、それこそあたりはずれがありえますが、でも、いい・・・。自分が常にいいものを求めていけば、間違ってたら正していけば・・・、それで授業は進歩するのですから・・・。
 授業における教師のあり方とは何か。「学ぶ」とは何か。授業とは何か。
 「教え方」は「教え込み」ではなくて「自己教育力」をつけさせることある。
 以上のようなことをとりあえず考えていきましょう。
 
 それでは資料『総合的な学習の時間〜その可能性と限界〜』というものを先ず見てください。これは増田さんという高校講師にして取材者ライターの方が書いた本ですが、まずこの方が文部省にきいたこの「総合的な学習の時間」に関する説明をみてください。「やってみたい! 知りたい!」ことを「体験させて下さい」・・・それによって「生きる力」が身につくんだという説明ですね。それで不登校やいじめや学級崩壊もなくなって学校が楽しくなるという・・・。
 実は増田さんがこの文部省のある局長にインタビューしたとき、私も同じ会場にいました。ですから本当にそう答えていました。増田さんは「これは本当にできるのだろうか」と疑問視して、それでこのような本を書いたのですね。
 「生きる力」「心の教育」「ゆとり」ってものが、さっき述べた「国際理解、情報、環境、福祉・健康に関して総合的に学習する時間」で解決できると考えているのですね。具体的には国際理解すること、情報をつかいこなすこと、環境に対する理解を深めること、福祉の精神や健康の意識をもつこと・・・が「生きる力」「心の教育」「ゆとり」の答えだともいえます。なるほど・・・。
 増田のこの本の内容は目次をみていただけばわかるように、1章で総論・歴史的な話をし、2章で実践報告を載せています。3章に「学力低下論争」とでもいうべき対談ですね。それを掲載している。そういう内容です。
 ちなみにたくさんある本の中でなぜこの本を紹介するかというと、少し優れている点があるのです。それは自戒の念もこめますが、学者の書く本や、たんなる教員、あるいはライターの書く本とは違う点があります。
 はっきりいって、学者の本はあまり面白くありません。面白いものを書こうとしないというのもありますが、パターンが同じになりがちだからです。
 学術書には大きく三つのパターンがあります。1・原理的研究、2・事例研究、3・統計分析・・・。「原理的研究」はこれこれこういうものだとその理念や理論を述べるものです。これは学者に多いです。不登校の理論、いじめとはどういうものか、とか、そういう定義付けのものですね。まぁ、実践的でないと批判されます。次の「事例研究」は実践的ではありますね。ルポライターがよく書くタイプで、〇〇学校の教育とか、不登校児Aの追跡、とか、あるいはいじめ殺人の犠牲者の人生を取材から解きあかすとか・・・、そういう具体的な例です。たしかにそういう極端な事例からも教育のなんたるかは知ることもできるでしょう。まぁ極端すぎるということもあります。「ある教え方」だけを報告されてもある種宣伝になってしまいますし、偏りはありますね。さいごの「統計分析」は文部省(いまは文部科学省)らがよく報告するものですが、実態の全対数を出すものですね。貴重ではある。まぁ資料を提示するという点においてですね・・・。だいたいこの3パターンになっているでしょう。いくつかを含んでいるかどれかだけか・・・。そういうものです。
 ところが増田さんのは違います。ある意味、1章は「原理」、2章は「事例」、3章で「全体」という同じ構造にもみえます。そういう要素を含んでいます。まぁバランスもいい。しかし強調したいのは、特筆すべき点は・・・、ライフコース追跡があるということです。
 いや「ライフコース研究」とか「ライフサイクル」とかそういう名称をつかった研究はあるのですが、そんなのと違うのは、・・・ある一人の人生や民衆の人生というか生活基準を追うとかじゃないのです。増田は「教育問題が難しいのは、『すぐに答えが出ない』からです。受けた教育の結果が出るのは、十年、二十年先。子どもが成長してどのようなおとなになるのか、さらにそこから社会の一員としてどんな活躍をみせるのか。もちろん、時代背景も変わっていきますので、その時点でよかれと思って行われた教育でも、その結果まで予測するのは困難な・・・(略)」と書いていますが、つまり私が前にいったジグザグの変化の中で、その両方というか実際に受けた人の取材をしているということです。これこそ証言者じゃないですか。上の意図というか政策的に変えられた中で、当時批判された教育が後々までどのような影響を及ぼしたのか、そういうものまで調べないと・・・、本当に「教育の成果」をみたことにはならないのですね。そういう長期的な展望が本当は必要です。増田さんのこの本の第一章にはその証言が収録されています。どんな「総合的な学習の時間」の著作よりもこの本がすぐれているのはここでしょう。私自身、こういう取材ができていないので、「教育」を研究するものとして本当に反省しております。
 大きな課題です。もう当時の教育を受けたものの証言をひろうのも難しくなってきますから・・・。
 あと、第三章の対談は苅谷剛彦さんが登場していて、「総合的な学習の時間」を擁護する立場の浅沼茂氏と討論しています。ラジオで放送されたものの採録ですが、これがまた貴重な意見が多くあります。
 以上の二つの点でもこの著書のすぐれていることが指摘できます。しかし第二章の実践事例も参考になります。国立教育研究所の奈須先生もおすみつきを与えている内容が紹介されています。そういう意味で完成度の高い本です。このコピーは一部ですが関心のある人は図書館等で探してみてください。
 事例の一つは秦野市上(かみ)小学校の「ひつじを飼う」事例です。ひつじを飼うことになる・・・、では「ひつじ」とはどういう動物なのか? そこから始まります。何を食べるのか、餌はどうするか考える。気候はどういうところに住んでいて、小屋とかはどういうものを準備すればいいのか。糞尿の始末はどうするか。どのくらい大きくなるのか。近所迷惑にならないか。危険性はないか。・・・それで準備をはじめます。
 小屋をつくったり、またもらってきてから散歩したり世話したり、毛を刈ったり、体重をはかったり・・・、生物学でもあり数学でもある。そして授業時間意外にも世話しなくちゃいけませんね。夏休みとかだってめんどうみないといけない。・・・事件もありました。エアガンでいたずらされたことがあった。それで危機管理には危険回避にはどうしたらいいかと考えて、夜回りとかあるいは小屋の構造を変えたりとかもした。糞尿も堆肥小屋をつくって肥料にしたり・・・、そうやって「問題解決」を繰り返していくのですね。最後に1年間で授業は終わってしまう。そうしたらこの羊は農家に返します。そしていずれ屠殺されて羊肉として調理されて人間の胃袋に入るという現実もあるのですね。生物の命の尊さですか、そういうものまで見せるべきだという大人もいましたが、さすがにそこまではしませんでした・・・。まぁ、そういうことが紹介されています。
 もう一つの千葉県高砂小学校の紙スキと紙パックの再利用・リサイクルといった環境に関する学習からも多く学ぶところがあります。
 そういう事例・・・、こういうものが「総合的な学習の時間」の教育内容と方法です。
 もう一つの資料は横浜市教育委員会でつくられている冊子ですが、昨日行って、授業で使いたいとお話しして150部もらってきました。ここにも小学校・中学校の事例が載せられています。
 今日は時間がきましたのでまた次回にこの資料をつかって説明します。