第四回(5月11日)
(2) 『方法、内容等に関する歴史的展開』
 
 前回、撮影した写真をつかって、仮想の「スライド(あるいはパワーポイント)」式授業のようなものをつくって、ホームページ上に立ち上げました。ゴールデンウィーク中に立ち上げたものですが確認していただきたいと思います。
 今回はそれを、その一部を印刷(プリントアウト)したものを配布します。仮想でスライドのようにその番号どおりに場面が展開すると考えて、「見て」ください。
 なお、クリックによって他のページに飛んだり、戻ったり、さらに実際には動きもあったりします。こういうものも今のパソコンの機能では簡単につくれます。ワープロの延長のようなものですので、学校現場でそういう環境・機器があれば、ぜひトライしてみると、生徒の目をひきつけやすいかとも思いますし、また今後求められる授業技術(の一つ)になるかとも思います。
 
 URLは、 http://www5b.biglobe.ne.jp/~koga1999/houhoukari01.html から始まります。
 (このホームページのトップページの<授業>をクリックしてもOKです)
 1枚目は、「教育の方法・技術論」のタイトルです。「次のページ」ボタンをマウスポインターでクリックするとジャンプしますし、それぞれ「前のページ」へ戻るボタンもあります。
 
 2枚目はシラバスのページです。その中の「授業のねらい」の部分に「次のページ」ボタンがあり、それによって3枚目にとびます。
 
 3枚目は「この授業のねらい」の部分が箇条書きで整理して書かれています。「学習の二本柱と教職の意味」という部分をクリックして次の4枚目にジャンプします。
 
 4枚目で「教職課程における教育の方法・技術論の位置」を示し、また本授業の柱となるものとして「教育方法の歴史」と「新しい教育方法・授業の試み」の2つを考えていくことを示しています。
 
 5枚目は「授業の方法」を考えるために、まず前回撮影した写真でこの教室の全景をみてみることを試みています。「教室と人数」というスペース(空間的条件)を考えてもらうためです。固定された3人掛け机で多人数がつめこまれ、動けない状態であり、しかもビデオやスクリーン等の設備がない。もともとモニターがないし、おまけに階段教室じゃないから黒板と教壇があっても遠く、スクリーン程度では後方の席では見えないということを・・・、そういう規制される面を見せたかったのです。続いて・・・。
 
 6枚目は、写真(画像)を連続で流します。本来ならそこを連続再生するつくりにしますが、今回はプリントアウトを意識したホームページ(html)構成にしたので、縦に並べています。教壇から見た教室の風景、多人数で前を向いて座っていて、そして後方との距離があること・・・、板書が同じ倍率(つまり肉眼)でどのように違うかを見せました。前列と後列の差が明らかです。おそろしく板書を大きく書くと、量が書けない。箇条書きやバランスが悪くなるし、頻繁に書いたり消したりになる。そして音響的にも聞こえにくいし、さらに「指し示す」タイプの授業も困難になる。後ろを向いてしゃべっても話は聞き取りにくいはずで、距離が遠いと同じことになる。だから大人数教室の授業には実際には多くの制限があるのだということを示しました。次は・・・。
 
 7枚目は好対照の条件の教室です。「少人数」のゼミ方式の授業、これは参画型授業が可能です。グループ討議やディベートなどもできます。変化ある授業が可能でしょう。そして「機器環境の充実」があれば、コンピュータ教室の写真を使いましたが、「実習」形態で、また様々なソフトや機材をとおしての授業展開が可能です。スペース的な問題で「教え方」の可能性が増えるし、逆に限定されることを理解してもらうためにつくりました。そして・・・。
 
 8枚目は「米国の授業」風景の写真です。初回、第二回と話をした米国の教室の構造、その授業風景を示しました。動きがあることや、児童中心主義・問題解決学習・経験学習・調べ学習といわれるものがなぜ可能なのか。まず見えやすいものとして「教室構造」をみてもらいました。生徒の座り方、機器、教員の動き、授業の進め方などから日本の一般的学校との差を理解してもらおうと考えました。日本の教室環境とどう違うのか、何が変わるのかを考えていただこうということです。
 
 プリントにしたのは以上の部分です。あとからまた追加していきますので、どんな展開になるのかはまたチェックしてみてください。
 
 以上のことから説明したかったのは、米国の「教え方」と日本の「教え方」ではどう違うのかに注目してほしいということです。
 黒板(ホワイトボード)に向かわないで生徒同士が向き合う座り方の写真を載せました。また、職員室ではなく、各教室に先生がいるというか、その先生の部屋にもなっていることと、調べ学習と発表が中心の授業がいくつかあるということを述べました。とにかくこのプリントではなくて、カラーの鮮明な写真でみれば、より雰囲気は伝わるかと思います。
 また、ゴールデンウィークの最終日(5月6日)にインターナショナルスクールの「フードフェア」(公開文化祭のようなもの)に行ってきたが、そこも教室の構造が同じであったということも報告しました。ある教室はディビッド・ルームであり、また別の教室はスーザン・ルームでもあります。それぞれの先生の名前がつけられてたりもすることがある。授業の場だけではない。そして少人数である点も同じです。だから動きがとれることをいいました。
 もちろん日本の教育でも40人前後が多いとはいえど、もう教育委員会の判断によっては20人学級にしてもいいわけですね。しかし難しい。もちろん統廃合や過疎化の関係で実際に少人数しか生徒のいない学校も都内や地方でもあるのですが、・・・とにかく学級定数を減らしてその分「教員を増やす」のは、可能ではあるけれど予算措置の問題もあってなかなかできないのが実情です。もちろん契約形態を変えて、期限付きとかの限定条件のもとに、あるいは試用期間かのようにして教員を採用したりもありますが、思い切っての増員加配は困難です。あったとして若い教員に求めるのは「荒れた学校の抑え役=カンフル剤」の役割ですかね。ひじょうに不利な条件だと思います。そして日本ではさらにティーム・ティーチングや複数担任制ですら、どうしても退職校長の受け皿的に・・・、「ベテラン」導入なんてことになっている弊害もみられるのではないでしょうか。これが本当にあったらどうなるでしょうか。教室数は増えない。40人学級である。そこに担任がいる。これは1対40です。これにもう一人教員を増やすと、たしかに計算上は2対40となって、一人にとっては20人担当となる。しかし「スペース」的にはむしろ増えて41人から42人になるというのが実際です。しかも年齢の上のベテラン教員による無意図的圧力があったら、チームを組む若い教員のストレスはむしろ増えるのではないでしょうか。
 もちろん私は退職校長が悪いと決めつけてはいません。若ければただいいとも思わない。ただし、「教育観」を問わないで「計算上」だけ帳尻合わせしても、何も解決しないし、それじゃあ何も変わらないと思います。とにかく「授業」は、「教育方法」はスペースという条件によって規制規定されるし、可能不可能なことはある。「教育改革」において考えるべきはそこであり、ただただ「経験的学習」や「心の教育」、「ゆとり」と叫ぶだけではいけないのですね。実際に可能なことを考えて行かなくてはならないと。
 
 そしてもう一つは皆さんは最初のアンケートで聞いたようにこれまで受けてきた教育で、学校でそんなによかったと思ったことは少ないのかとも思います。予備校の方がよかったという意見や、また授業がよかったといっても方法より先生のパーソナリティの方がよかったという意見が多かったですね。また、おそらく「家庭」「学校」「地域社会」のうち、これまでの人生で「学んだ」と思えるのはどれ?と訊けば、・・・実際にやっていないのですが、おそらく半数が「家庭」で親や兄弟家族に支えられたことをあげ、半数は「学校」と答えると想像します。で、それは人生的なこと、生き方を学んだり影響を受けたことを答えると思うのです。・・・何がいいたいかというと、おそらく「家庭」は無意図的な教育が行なわれる場所で、つめこみや競争が強いられることが少ないという「楽」「快さ」があると思います。「学校」は以前にも言いましたが「公の教育機関」であり、公平性ゆえに「意図的」な教育機関なのですね。意図的ゆえに強いられると感じられることも多いし、また教師側も強いらざるをえない現状がある。「解法」中心の教育ということについて第二回でお話ししました。でも、「半数」ぐらいが学校を支持すると読んでいるのはなぜかといいますと、おそらく学校内での人間関係・・・部活動や生徒会、ホームルーム、あるいはいい教師との出会い、交友関係・・・、そういうものに救われて「快さ」を感じ、そこから「学んだ」(つまり「得た」)ものが多いと感想をもつ人が多いと思うのです。皆さんはズバリそうではありませんか。学んだと思うことはそういう「経験」や「出会い」ではないでしょうか(人間の「理解」というのが「共感」的なものだとすると、まさに自分の身になってというか、他人の経験を仮想的にわかったように思っていくことだと思うのです。「実感」できることといいますか。その点で、単なる形や式ではなく、「教えられた」「学んだ」と思うこと、そう影響を受けるまで意識することとはきわめて「人間的」なものになるんじゃないかと思います)。
 さて、何がいいたいかというと、学校内でのこの「教科」ではない「教科外」の人間関係の面は、・・・つまり単純にいえば交友関係等は成績とは関係ないし、意図的に指導されるものでもないし、マニュアル化・テキスト化されて教え込まれるものでもないですね。つまり意図的教育機関の学校の中での「無意図的」な部分である。ここが問題だと思います。「教育学」や「教育原理」的には「意図的無組織的教育」が理想といわれたりするのですが、まさにここがその部分ともいえますね。意図的に集められた学校の中のそういう組織的じゃない部分・・・。ですから、こういう「無組織的」なそして経験的・出会い的、参加的な面が、逆サイドの「意図的教育」である「教科指導」に入っていけばいいのですね。それが可能かといわれれば、その一つの形と私が考えるのが米国の例を出した「参画型の学習」です。基礎学習の部分を規定して、それプラス教え方と教育観を変えていくこと・・・。それが求められる「教育」の形であり、「方法」だと考えます。2002年から実施の「総合的な学習の時間」とはそういうものが「求められているのだ」と、「教育学」の立場から私は考えます。
 
  さて、今日もまた具体的な教授の例と、そして歴史的な教え方の例をあげてみます。
 プリントの英文のものは、先日インターナショナルスクールに行って買ってきた教科書です。幼稚園・小学校・中学校課程の全部のを買いましたが、その一部をあげておきます。
 
 「算数」の教科書をあげましょう。なぜなら『論争・中流崩壊』(「中央公論」編集部・編、中公新書ラクレ、2001年)というなかなか面白い本があるのですが、その中で学者さんでさえ、米国に留学するまで「数学」の英語での教え方がわからなかったと書いてあったからです。たしかに「(その国の)国語」で各教科は教えられるわけですから、それでこれはいい機会だと思いましたし、どう違うのかを見るためにここにあげてみました。
 
 まず「WRITE THE NUMBERS」でして、「数字」の「書き方」です。教え方としては、まず一番上の欄(模範)に「0」とあり、その横は空欄で何も「絵」がないのですね。そして右側に「zero」と書かれていて、その右横の欄に「0」と書き込まれている。下を見ればこの右横の「0」と書き込まれた欄が空欄なので「答え・解答」欄なのですね。つまり「zero」とは「何もない状態」で数字では「0」と書くのだということですね。例えば「ヨット」の絵が1曹書いてあって、その横に「1」という数字と「one」と英語で示してある。その右横の空欄に「1」と書き込ませることによって、「one」(いち)は「1」と示すのだと理解させる(覚えさせる)のですね。「2」の数字の横に車が2台で「two」、これで「2」と答えさせる。以下、three、four、five・・・と、「3、4、5・・・」と数字と数の概念とを教えて、算数の基礎をつけさせるのですね。
 
 次の問題は「HOW MANY?」として数を数えさせる問題です。カウントさせて、その数を書きなさいという応用です。鳥が10羽だったり、カードが20枚だったりするわけです。その数字を解答欄に書かせるというもの。
 そして次に少し高等になって、数の概念といいますか、それを順番付けする作業です。比較してどちらが大小かを考えるものですね。Skillsとして「identifies ordinal numbers」「understands expanded form」「uses (greater than) (less than) symbols correctly」とあります。考える際のExamplesとして、「ordinal numbers - first, sixth etc.」「expanded form - 467 =400+60+7  63>60, 60<63」と例示があります。発問は「Directions: Choose or write the correct answers to each question.」として「1. Rewrite in the correct order:」とあるのですね。そして、「Fourth」「Sixth」「First」「Second」「Third」「Fifth」を並べ替えさせます。
 続いてRoundingとして四捨五入といいますか、「Round the following numbers to the nearest ten, if the number has 5 ones or more, round it up to the next highest ten.」として、「For example, round 26 up to 30. If the number has 4 ones or less, round down to the nearest ten, such as rounding 44 down to 40.」と例示します。それで「18」「33」「82」「49」といった数字の近い十の位(ケタ)を答えさせるのですね。さらに条件を変えて次に「Round to the nearest hundred. if 5 tens or more, round up. if 4 tens or less, round down.」として、「243」「689」「490」などとして、それぞれ四捨五入させます。
 以上はほんの一部ですが、英語圏といいますか、そういうところでの現代の教科書を例としてあげましたが、もちろん日本のものと大差はないですね。共通している。あたりまえとはいえます。言葉の違いだけで「数」はかわらないのですから。
 
 しかし、これは前々回に「資料A」としてあげた『小学教師必携』という明治6年の「学校教師用のテキスト」の「算術」の教え方と変わらないという事実があります。「数字」の教えかたで「塗板」(黒板にあたる)と「石盤」(ノートにあたる)をつかって問答形式ですすめる方法といいましたが、「数字図ヲ授クルニハ先ヅ数字ノ読方ヲ習熟セシメ、然ル後、算用数字ト交換シ教ヘ、悄々熟スル後ハ、塗板ニ比較シ書シテ、之ヲ読シメ、又ハ教師、口ヅカラ呼デ、生徒各自ノ石盤ヘ書シムベシ」という初歩の初歩はまさに共通していますね。同じなのはあたりまえなのですが、考えてみれば日本の最初の学校で行なわれた授業といまの初歩の授業は大差ないのです。「教え方(教育方法・技術)」と「内容」は変わっていないともいえる。
 
 次回以降に説明しますが、この明治期のテキストはペスタロッチ主義という当時最新の教育方法だったのです。それをもとにそれまでなかった「学校教育」という多人数相手の一斉教授が可能となったのですね。ペスタロッチというのは教育学では有名な人名なのですが、どういう人かはまた別にお話しします。しかし、疑問はこのペスタロッチが普及させた教育がいまも行なわれているということですね。まぁ、その意味ではそんなに教育は変わっていませんし、「教え方」というのもそんなに急激にまるっきり変化してしまうということでもありません。幼児期に家庭で「言語」を学ぶのだって、それによって知識を重ねて応用にまでしていくことだって、考えてみれば同じことですね。その効率性というか順序はそんなに変わるものではありません。「コロンブスの卵」的なもので、それを意識して整理したというだけでもあります。規則正しく示したということです。それがいまも生きている。だから・・・、歴史的に学ぶことの意味もあります。確認は可能ですから。
 
 そして、今回もう一つ資料をあげました。「一斉教授」における初期の形態・教育方法として「助教法(モニトリアルシステム)」というものがたいていの国で最初に行なわれたのですね。近代になって国民育成のために全国に「学校をつくった」。しかし「つくった」のはいいけれど、過去の教育とは違うわけですね。目的も一部の階層・エリート教育ではないし、対象とする人数も年齢も違う。その「重要」とされる学校を「つくった」はいいけれど、しかし施設のみあってもしかたないのです。そこに「指導者」(教師)がいなくては・・・。もし、運良くすぐに理解があって「生徒」が集まっても、教科書教材が準備できても、建物も完成しても、そこに「教える人」がいなくては「教育」はなりたたなかった。しかも、その「教育」ははじめてなのだから、その「教育」を受けた者がいたとは思えない(多くない)わけです。「知らないことを教える適格な教員」・・・、それが最初からいたわけがない。とりあえずは寺子屋の教員等で代用したのですね。それで教員養成が急がれることとなった。
 最初の「教師養成」はそのような状態であり「間に合わせ」的でした。効率よく「教員不足」を補う必要があったのです。それで「助教法」が行なわれました。他の国でも最初はこのシステムがとられたのです。その意味で「批判」されましたが後の教育普及のための「条件準備」の役割を果たしていたと思います。
 資料で明治5年の「学制」構想時の文書である「教官教育所ノ定律」をみてもらいました。「助教」というコトバがありました。時間割もありました。単純にいうと「授業内容を一人しかいない教師が25人の助教に教える」。その教わったとおりのことを「助教が生徒に教える」というものです。伝言ゲーム的なものとも思えます。これはイギリスでベルやランカスターという人物が普及させた初歩的一斉教授法です。日本にも米国を通じてかこれが入ってきました。まさに「工場生産」的なお手軽な教育方法でした。財政的にきつい時期に学校を普及させるためには効果的な方法であったのですね。資料としてあげた辞書にコメニウスという人物の名前があります。これも次回、説明します。とにかく「稽古所ノ図」という図面にも明らかですが、教師は一人で中央に位置し、授業は「助教」という上級学年などのできる生徒(monitor)が担当の生徒(4人の助教で15人の生徒)を教えるのですね。問題点も明らかですね。「質」の問題は大きい。あと形式的というか安易です。その時きいたことを直後に伝える。時間的に十分に理解できているとは思えません。そして方向性ですね。質問等の双方向性というものが考えられていない。知識を伝えるというきわめて一方向でさらに初歩的なものだったという限界があります。もちろん問題があるからどこの国でもこれが「行なわれた後に」批判されます。それで十分条件として登場した「養成された教師」による「授業」がはじめられるようになるのです。その教師によってはじめられたのがペスタロッチの教授法でした。とりあえずは教師が教示物を使用して教える授業が成立したわけです。
 あとは次回に・・・。