第三回(4月27日)
 
 ※「前回、前々回と少し早く授業が終わりましたので、今日は30分ぐらいオーバーするつもりでやります」とアナウンス。もちろん「これは悪い冗談です」といい、発言の意味を説明する。タイムキープも教員の能力だし、しかも生徒の「やる気」をそぐ言葉もある。集中できる時間もかぎられている。有効な時間のつかいかたや方法が必要だと述べる(茶番的な導入)。
 ※前回の復習と、授業後の質問に答える形式からはじめる。初回のアンケートをもとに「高校と予備校との転換」を考え、問題視することで「解法」ではなく「本質的理解」の有効性と求められるべき「教育」について話した。その時、1991年から92年ぐらいを第二次ベビーブーム世代のピークでそこで高校が新設増設され、受験術中心に移り変わったと考えると述べた。それに対して「公立ではなくて私立のことであろう」との質問・意見をいただいた。よく考えられたよい質問であると思う。基本的には私立がもちろん「受験」強化の先端のイメージがあるが、公立でもこの時期に新設されたもの、つまり公費をつかって新しい建築をともなってたてられた「新しい教育」のエースとみたてられたものの多くには同じような現象がおこったと考えている。例えば総合制・単位制なども意味変容がおこって多くはそういう性質をもっているようである。エリート校というかモデル校として成果を出すことが優先される。見える成果は「私立優位の公立離れ」への対抗でもあるのでは。さらに教員の異動もあるが、教育界全体がそういう方向に向いている時、公立の現場でもそういう「(最低限でも)負けない」指導に変わっているのではないか。たしかに「公立」は何もしていない、とも父母に不満をもたれたりするし、その結果「私立」支持が多かったりするのも事実である。そうすると「公立は受験術・解法の教育ではない」のかとなるが、しかし「うちは教育の本質的な理解をやっています」という「特色」が説かれたのはあまりきいたことがない。学習指導要領もそうだし教科書もそうで、さらに入試もあって、周囲がそういう大勢にむかっていたのだから、その中で「勝ち組」「負け組」というのが出てきていたのだと考えている。・・・また必要ならお話しします。
 ※お願いと提案。デジカメで望遠をつかわずに教室の前後から板書をみるかたちで写真を撮る。サイズを変えないのは板書がどう見えるのかということと、スペースの問題を考えてもらうこと。そして教室空間にモニターもスクリーンもないので、本来ならプロジェクター等でパワーポイントやあるいはビデオもみせたいのですが、それができないのなら仕方がない。それであえてHTMLでホームページにします。パワーポイントでのプレゼン的にして、さらにこの教室以外の教室の風景も撮影して、それで「かわりにみながら勉強できる」方法を仮想になりますが試みます。URLも教えるのでみれる人は確認してください。またペーパーレスに反しますがあえて印刷してそれも配布します。それで雰囲気だけは感じてもらいます。授業の工夫というか、「つくる」ことを試みます。
 
★・教育活動における教授方法の意義
 「教育」をはじめて学ぶ人に説明するのは難しいのですが、「教育」の目的についてはその定義やなんかもお話ししました。もともと「教育」は個人で伝えていたときには「技術」「知恵」などを伝えていけばよかったのですが、少し人間が多く集まって生活するようになるとそこに「文化」という共通の知識・発明物が生まれます。この文化を「伝承」することで人間は大きく発達してきたともいえますかね。コペルニクスやガリレオ・ガリレイが「アース(earth)」を球体(つまり「地球」)だと言った。それ以前の宗教観とは違っているのですね。そのために牢獄にもいれられたし、しかもその発見は長い綿密な観察の上でのものだった。でも皆さんは「あたりまえに地球」を知っている。いつ教わったんでしょうね。小学校低学年ですか。とにかくガリレオ以上というか、そこをスタートライン(土台)にしている。文化が伝わるというのはそういうものです。日本語が喋れて書けるのも文化です。その文化を伝承するのも教育です。しかし、彼らのおかげで「教育」も少し変わってきたともいえるかもしれない。「地球」を実証したのはマゼランやコロンブスなど航海をして地球を横断(一周)した者たちです。そしてそのせいで「世界」がわかってきた。多様な人種・文化・発明・・・。それで変わってきます。日本だって種子島鉄砲伝来やキリスト教文化などで城下町とかの形態や生活も変わった。戦争も変わるし科学の内容も変わる。医学も変わる。解剖なんてそれこそ神をもおそれぬ行為ともいわれた。いまではクローンですか。・・・とにかく発展とグローバル化の果に、複雑な国際システムの現実があった。「社会」として結合していく必要があった。システマチックに・・・。それでシステム化というか「社会化」の役割も必要になった。「社会性」を身につけた国民・市民を育成することが重大課題となった。だから「国語・算数・理科・社会・・・」と初回に書いた図がありますが、あれで「社会に生きる人間」を育てるのですね。それも目的です。
 もし、このように「教育」で「伝承」することと「社会化」をすることが目的であるのなら(そういう「効果」が期待されているのなら)、逆にいうと「伝わらなくては意味がない」「社会性が身につかなければ意味がない」ともなりますね。その意味で「伝える」「身につけさせる」方法が必要となります。「教育の方法とその技術」はそういう意味でも決定的に重要となります。
 ちなみに、前回のアンケートのように「教科」の教えかたも問題でしょうが、もう一つは教員の人間性や熱意に関する依存というか共感も多かったですね。そして学校時代の思い出として「交友や人間関係」が大きいのだとしたら、「人間関係やリーダーシップ」に関する体験も「社会性」のためには重要です。そしてあたりまえですが「経験的な授業」や「実習」のみでなく、結局は両者そろっている「教員」とがいちばんうまく「教育」がなりたつはずでして、それを理解しておくことが「教育」職としても必要で、また必要な資質であるとも思います。
 次にシラバスの大きな柱の2つ目に今日から入ります。歴史的理解ですね。
 
 
(2) 『方法、内容等に関する歴史的展開』
 ●近代教育方法論の成立と展開(西洋・日本・方法論、内容論の関係及び学習形態に注目して)、
 
1、伝える方法(知識を教える方法)
 基本的に人間が人間にモノを伝える方法としては次のようなものがあるでしょう。人間はそういう能力をもったことによって、後世にも文化をのこしていけたのですね。
 
◆話す・・・直接の対話、講話、講義、説法、説教、講演。口述の方法。間接的には口伝。
      例えば民間伝承、物語等。
◆文字(読み書き)・・・教科書、掛け図、黒板、等、授業用のもの。記録も可能。
      大量印刷技術の発達、鉛筆、ペン、ノート等の発明・普及により中心に。
・図絵(写真)・・・図鑑、百科事典・動植物図鑑、写真集、等。視覚的に理解。
・もちろん他の記憶機器もある。
 
 「日本」は「ニホン」か「ニッポン」かという世界史・地理上の例をあげました。「音」と「文字」で伝わっていくのですね。「茶」の例もあげました。また、佐藤秀夫という日本大学の教授の研究に明らかですが「鉛筆」や「紙(ノート)」等の発明・普及によって、現在のような学校教育での「授業方法・形態」が可能になったともいえますね。人間は上のような方法で「情報」を伝承していた。
 
 
2、伝える形態(教える形式)
 そして形式ですが、はじめは学校などという皆が集まって計画的に時間割の内容を教えるというのはなかった。それが必要になっていくのは、そういう「社会」になっていったからですね。長寿とか、複雑な社会システムだというのはお話ししましたが、最初は特定の者への伝承から、しだいに大勢への一斉授業へとかわっていったわけです。大衆化していったともとれる。とにかく「数」によっても教えかたは変わります。
 
◆個人指導・・・一対一で伝える。口伝等、技術の修得には十分であった。古来、西洋で哲学を学んだり、技術職の師弟関係における伝承も宗教の教え等も基本的には口伝中心であった。
◆少人数指導・・・一対少数人数での教授では、口伝の他に、地面や石板に文字や図を書いて説明するなどの方法が有効であった。書物ができて以降、ある書物や文学等を講読して討議する輪講などゼミ方式、ディスカッション形式などが可能になった。あるいは教師の問いに答える問答法などもあった。
◆多人数の集団指導・・・共通のテキストがないと多人数には伝えにくい。また自学次週にも教科書は有効である。教科書を読み、書かせる方式が定着した。基本的にはPC機器を使用する授業でも共通のテキストを読むか書かせるかというリテラシーの面では同じである。また基本的には機会の公平・平等にもなる。 
 
 
 *学校の歴史についてもう少しみてみましょう。
 @古代には、ギリシア古代都市の哲学スクール、アカデミア等があった。プラトンやアリストテレスらの哲学者・教養人がいたように学問があった。ただ一部の政治をも司るような人たちの「知識人の教養」のためのものという限定があった。
 A中世のヨーロッパではキリスト教の宗教思想が絶大なものとなっていく。不安ゆえに大衆が宗教思想をもつ。この時代には僧職が特権階級ともいえるものであり、その一部の僧職のための学校があった。 
 Bルネサンス期には、第一回目にガリレオについてお話ししたように、宗教観の転換というか、科学の発達があった。宗教改革があって、世界観も変わり、実学が流行して私塾がつくられる。日本で言えばちょうど徳川時代の学問熱のような状態である。
 C絶対主義国家が確立する。他国を知る。その中で支配する側とされる側がわかれ、国民統一と軍事力をつけるための強制教育が行われる。国民教育というか統一が必要となった。
 D産業革命期が訪れる。資本主義化というか、王政等の古い国家ではなく、貿易等で経済力を増す国、工業化によって国力を富強した国が「近代化」された国としてクローズアップされだす。工場労働問題との関わりで国民に知識を与える必要が主張され、子どもへの教育の必要性が説かれるようになった。これは日本の明治時代等にも同じことがおきている。
 E公教育制度の確立は、以上のような流れを経て、19世紀後半に初等教育の義務化という形式で達成された。義務・無償・中立性の3原則が公教育の特徴です。
 
  一部の者への伝承から、大衆への教育へと変わってきた。
 
 具体的な資料もみてもらいましょう。資料Aは『小学教師必携』という明治6年の「学校教師用のテキスト」です。明治5年から日本の学校教育ははじまったので、実質的に本当に最初期の教師マニュアルです。「物」の最初の学年、いまでいう小学校一年での「五十音」の教えかたを見ました。「五十音図」という掛け図を使用しての「示教法」(指教法)という方法でした。教科書のないときにはこれが有効です。「算術」は算数なわけですが、その「数字」の教えかたで「塗板」(黒板にあたる)と「石盤」(ノートにあたる)をつかって問答形式ですすめる方法もありました。資料Bは『小学授業必携』という明治8年の同じく教師用テキストです。「人体の問答」の箇所をみましたが、物体を指してその名称や機能を答える・覚えるという方法でした。また同書には「師範学校」(いまでいう大学の教職課程の授業)でやってるこの方法を全国の小学校でやるんだとありまして、当時の教員は「小学校で教えることをそのままを習う」というのが実情でした。なぜならそれ以前には「教師を養成する」とか「資格」などはなかったわけです。小学校すらなかったわけですから・・・。最初だから即席だった。教えかたもマニュアルどおりだったわけです。資料Cは『小学讀本』という小学校のための教科書です。明治8年のものをあげておきました。極めて初期のものです。小学校のためにつくられた代表的な教科書です。英語でいえばReadindの授業ですね。その部分に植物図や動物図をあげていて、博物というかいろんなことの名称や意味を知る・・・、それによって言葉と知識をつけるというのがこの授業でしょうね。動物にはライオンや豹など日本にいないものの「絵」もあった。実物がないから「絵」で仮想体験というか代用するのですね、そういう限界と問題を含む教科書だったし、そういう教育だったわけです。これらが初期の学校教育でしたが、批判を受けて改良改善の試みを受けながら「教育方法」「教育内容」は変わってきています。次回以降、もう少し歴史的に考えていきましょう。