第二回(4月20日)
 
 第二回目ですが、今、前の席の人にきいたのですが、1年生にとっては「教育」「教職」の授業はこの授業が最初のものなんですね。つい他の授業もとっていて、教育についても知っているのだろうと考えてしまっていました。大学というのはそういう「専門」科目の集合体で、しかも選択してバラバラなわけですから、考えてみるとわけがわからないという状態がかなりあるんですね。自分が学生だったころのことをつい忘れてしまいます。最後にそういう話しもしようと思いますが、とにかく時にはすごい初歩的なことも話して、結果的に全体がわかるようにしていきたいと思います。
 それでシラバスにあったこの授業の目標をもう一回確認しておきます。


 
 現代の教育の現実的問題に焦点をあてて考察していく。「何をどのように教えるのか」という観点から、カリキュラムの構成、教材教具の開発・発展、学習の形態等に注目し、教育方法の意義と技術の理解を深めることをねらいとする。
 
 それで、シラバスにそって、今日は根本的に「教える」ということはどういう意味をもつのかというのを、皆さん自身の体験にてらして考えていきたいと思います。まぁ、そのために前回アンケートに協力をお願いしていました。
 
(1)「教える」とはどういうことか?
 ●「学ぶ」・「教える」ことの意味(学習・教育活動をふりかえって
@「教育」の意味。何に役立っているのか。・・・これは前回、説明しました。
 
A「教育」という言葉を『広辞苑』で引くと・・・、「教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動」とあります。どうも日本の教育観はトップダウンで「教えるんだ」という意識が強くあるんじゃないかと思います。
 
Bで、「教育」は英語でeducationというのは御存知でしょうが、例えばeduceという言葉の意味は、「潜在する性能を引き出すこと」だったりするのですね。なんとなく英語の方が「求められる教育像」のような気がします。前回、日本と外国との若干の差異は言いましたね。
 
※さて、それでは学習・教育活動をふりかえって、前回のアンケートをもとに授業をすすめます。「教育方法の成果」、「わかりやすさとは何か」ということについて皆さんにきいた答えを次のようにまとめてみました。
 
 
 アンケートの結果
史学科4、中文19、英文2、独文8、社会41、体育14、地理1、物理46、応用物理3・・・計138
 
 @メール、ネット利用は可か?
 A教育方法・技術のすぐれた授業はあったか?
 B教職で取得(希望)する科目(教科)は? 
  →→地理歴史・公民・社会・46人、国語・17人、中国語・12人、英語・8人、
    ドイツ語・4人、保健体育・12人、理科・物理・化学・49人、情報・4人
 
主な意見
<授業方法?>
(1) 学校の外へ出て地層を見たりした。
(2) 中学・理科で毎回実験や野外で散歩をした。
(3) 授業中に2分間休憩をいれて、そのかわり授業中は集中する。
(4) 聞く時間と書く時間をくれる先生。
(5) 教壇が見やすいように、机の配列をよくかえていた。縦一列だとみにくい。
(6) 机の並びが『コ』の字。
(7) 小学校の先生、生徒がパソコンのまわりに集まるアメリカスタイルの授業。
(8) 中学の数学でティーム・ティーチング。
(9) 小学校3年からパソコンの授業があった。 
(10) 物理の時間、黒板を利用した面談形式でのテスト(3人チームで、その場で考えて答える)をやっていた。理解は深まった。少しつらいときもあった。
(11) 小学校で燃えない素材の机上にアルコールを流し、火をつけて怖さを教えられた。
(12) 物理で(少人数)生徒が答えを書いてまわりに説明し、質問を受けて皆で考えていろいろな解法を出す。
(13) 特別礼拝や聖書講読の授業で、いろいろな人から話をきけた。
(14) 高校でクラス全員のいいたいことを書かせる先生がいた。
(15) 歴史の先生が教科書にない部分まで関連性のあるように教えてくれた。つながりがあっておぼえられた。
 
<関係・ひとがら、熱心さ、等>
(16) 放課後、わからない部分をつきあって教えてくれた。  ★4人
(17) 教え方がわかりやすい先生がいた。  ★3人
(18) 担任がよく話しをきいてくれた。 
(19) すごく熱心で私たちの気持ちを理解してくれた先生がいた。
(20) 殴ったりするけど、けっして見捨てない先生。
(21) 部活に熱心な先生がいて、精神的に成長した。
(22) カリスマ性があった教師。
(23) フレンドリーな関係の先生。  ★2人
 
<関係・距離感、遊び、等>
(24) 小学校の昼休みに児童と一緒に外に出て遊びを教えてくれた。
(25) 小学校の時、教室に遊具を置いていた先生がいた。
(26) 小中学校では「ゆとり」教育で遊びが多くあった。
 
<学校以外の授業>
(27) 塾の先生がわかりやすく教えてくれた。   ★2人
(28) 河合塾の先生。問題の文章から話を発展させてくれた。
(29)予備校の教師がうまかった。教え方が面白い。実験やPCも。サテライトも。★5人
 
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 ちなみに「いなかった」「特になし」という答えも多かったです。そのなかにもいろいろあるのでしょうが、とりあえず今回は具体的な答えをひろってみました。(1)(2)は野外観察、(3)(4)はめりはりのあるというかタイムキーピングのうまい先生ですか。(5)から(7)は教室内のスペーシング能力ですね。そういう工夫があったと。(8)から(12)まではいろんな方法の試みですね。(13)(14)はいろいろな意見を言ったり聞いたりといった授業。(15)は広い知識をもった授業と感じたのでしょう。あと教員の「ひとがら」がいいと感じたものが(16)から(23)ですね。これが多い。厳密には「教育方法」ではないけれども、結局は「人間」ですね。それも事実です。理解とか熱意ですか。遊んでくれるとかは(24)から(26)です。
 そこで今日は、「学校以外の教育機関」での授業が工夫もあってよかったという感想が多かったことに注目したいと思います。(27)から(29)がそうですが、共通した意見がいくつかありました。これがどういうことなのか、「教育方法」というかどういう教育が行なわれていてどういう意味があるのかを考えてみたいと思います。
 
 
予備校と学校とのねじれ(転換)
 ●大学入試の激化・・・ベビーブーム世代により高校増設。競争。
            「入試問題の解法」に走る高校教育。
            「本質的理解」へ転換する予備校。「教養」こそ合格の近道。
            「理解する型」と「納得しないと型」
 
 予備校が授業がいいという人が多くいた。イメージ的転換があるのじゃないでしょうか。
 「予備校」のアイデンティティは「合格率」しかも「偏差値の高い」あるいは「志望校」への合格を多く出すということであると思います。それは事実だと考えます。
 すると単純には「合格のための勉強」「受験術」「つめこみ」になっていそうなイメージがあるんですね。そうやって批判された時期だってあったはずです。ところがこうやって支持される。これは、受験術やつめこみが好きだからじゃないような気がします。
 アンケートの答えを確認はしていませんから答えてくれた人の本意はわかりません。ズレているかもしれません。知人が予備校教師とかにもいまして、取材した話しもありますので、そこから私が考えた「予備校と学校とのねじれ現象(転換)」と教育の本質ということについてお話ししましょう。
 つまり、おそらく「本当に面白い」授業をしていると思うんです。きっと工夫されたすばらしい授業をやっているんじゃないですかね。わりと意識もある人が多いですから。
 で、なぜ「逆転現象」がおこったかというと、おそらく皆さんもその世代かもしれませんが、第二次ベビーブームの人たちが高校に入学し大学受験生となるとき、・・・1991年・92年ぐらいがピークだったと思います。バブルもはじけていないときです。
 その時期、全国で高等学校もどんどん新設されて、そして競争が激化します。大学入試が厳しくなってくる。そのときに大学入試の実績をあげないとPTAからも、県の教育委員会からも突き上げをくらうんですね。おそらくそう考えて、そういう構造があって、その時期ぐらいに教育は本質的なことよりも入試問題の「解法」を中心にするべきだとなっていってしまったんじゃないかと思います。予備校のおかぶを奪ってしまったとこがある。
 「解法」は「解き方」、「正解の出し方」です。「意味を考えるよりも正解の出し方を」に走ってしまった。入試が緩和されておさまるかと思ったら、身についた習慣はなかなかとれないんだと。そう思うんですね。
 だいたい「正解」というのには限界があります。例えば入試問題で、幼稚園で「花瓶」「牛乳ビン」「お碗」を提示して「花一輪」を渡して幼児にふさわしいものにささせる。正解は「花瓶」とするんですね。でもこの学校のトイレだってジュース瓶にいけてある花を見たことありませんか。それは「花をいけるために作られたものはどれか」という問いがあれば、それを主目的とするのは「花瓶」ですよね。でも、渡されるだけ。それは家庭の生活レベルでもみているんだと疑われるかもしれない。悪問ですね。
 それと有名だと思いますが「雪」が融けたら何になるかという問い。「水」だけが正解だとすると、発想として「川」とか文学的センスのあることを発想してもそれは「×」なんですね。・・・もし、こういう○×で一つだけの正解を決める教育なら他の発見や発想は却下される。
 これは最後にいいたいことなのですが、大きくわけると、生徒というのには教員にとって「理解する型」と「納得しないと型」というのがあると思うのです。素直に信じて理解してついてくるタイプと、自分で納得しないとついてこないというか疑問をもってクビをひねっているタイプ。単純に外見とかじゃなくて、そういうタイプ分けはできるかもしれない。
 教員にも台本というか今日言っておきたいところというのがあると思うんですよね。シナリオというか・・・。私がいま、こうして何もみないで持たないで話してるのも、それはある程度自分の中に蓄積したものがあって、それを対応させて話しているんであって、だから話がとぶのですが、それでも私は今日はこういうことを言おうというテーマはあるのですよ。まさにこれも言おうとしていることなのですが・・・。
 教育実習とかで指導案というのを書かされます。まさに授業のシナリオです。導入に何分つかってどういうことを言って、板書をこう書いて、ここで教科書の何ページを読んで、それで発問する。おそらく生徒からこういう答えがあるはず・・・、だからこうすすめる・・・。そういうシナリオです。授業の展開ですね。現場でも学期ごとの指導計画なんかは提出していました。そうやって、教員は授業に慣れていくんですね。
 で、発問の答えすら予想しています。そういう答えを引き出すということでもあるし、そういう質問を用意するということでもある。そしてもっといえば、重要なのは「やりやすい子」に答えさせることかもしれません。答えの常識的な子、自分の思うとおりの反応をする子。予定どおりの答えを出してくる子。教員の言うことや教科書の記述を信じて理解してくれる子。これを「理解する型」ととりあえず呼びます。それに対して、疑ってかかるというか、都合のよい答えを出してくれるとはかぎらない子もいます。納得するまで動かない。かわった発想というか、むしろ本質的というか。ユニークというか、・・・でも予想外のことを反応されると教員のシナリオは崩れます。自分が対応できないと今度は全体への信頼もゆらぐ。それで教員はそういう子を見分ける能力を持ちます。というか、どうしてもそういう子をさけるようになる。さけられて発想をつぶされ、「×」と評価された子は余計に疑いをもち、そして執着を失って離れていきます。「評価されにくい」というのが現実ではないでしょうか。もしかしたらこちらの方が表面的ではなく、深く考えているのかもしれないのに。
 教育が内面の能力を引き出すものだとしたら、こういう子に対してもちゃんと対応できなくちゃいけないと思います。・・・ですから、皆さんの中にも疑問や、授業でわからないという人は多くいると思いますから、そういう人はメールか、あるいは授業後に遠慮なくつかまえてきいてください。
 
 で、話しをもどすと、予備校でどういう授業をやるかとなって、高等学校でどちらかというと答えの出し方に教える傾向が偏ってきた。予備校でやってきたものを高等学校でやってしまった。同じことを予備校でやっていったらだめなんですね。存在理由が減る。そこで、考えて、何をやっているかというと、本来学校でやっていたその教科の「本質的理解」をきちっとやれるような授業をしなくてはならないとなった。
 
 一見すると予備校と高校の役割の逆転みたいな現象です。
 ただしこれは「教育として正しい立場」を求めたとかじゃないと思います。これも受験・合格に役に立つのだと思います。
 私も高校教師時代、数人の進学希望者の特別講習とかをやりました。ニーズに応える授業をやりました。志望校の過去問を取り寄せ、数年分を見ます。社会科だった私的にはその大学の出題傾向がよくわかる。だって今は入試問題を河合塾とかが作るとか外注もあるけど、それ以外はだいたい学部の教員が出題するわけです。経済学者や哲学者、あるいは史学でもどんな人がいるのか、それで読めます。倫理はどういう人物が多いか、どういう出題形式か、経済・商売・農業・産業等の資料問題の分析とか、戦争の歴史問題など・・・、出題傾向は読めます。
 英語だってそうですね。シェークスピアの研究者とか英文学専攻の人なのか、あるいは言語学者がつくっているのか、そういう傾向の差は読めます。すると本質的に理解していたり、広く浅くでも教養をもっていた方が役に立つのですね。しかも選択肢というかマークシートですからあやしい答えが用意されていて、全然関係ないものがいくつかと正解と怪しいものという組み合わせになっている。クイズ番組じゃないですけど、かなり限定されているのです。「考えかた」、例えばイメージで熱帯、乾燥、食物、降雨などをつかんでいれば地理でもなんでも正解に行き着く可能性が増えます。英語もその文学の内容を知っていれば意訳で正解する可能性も増す。実は「教養」は合格率にも関係するのです。事実、予備校ではそういう授業をやっているはずです。あとはテストでふりかえさせられる、反省と全体像とを理解(再認識)させられるというのが大きいのかもしれません。必要さが実感できる。通う必要もあるわけですから、やる気もあるというのも事実でしょう。でも、教員がそれに応えるべく「われわれはやっている」というプライドをもっているのも事実です。
 今日の授業の前にきいたのですが、気になっていたのですが、皆さんの多くは1年生ではじめて「教育」について学ぶんですね。そして「教育方法」は教育の「一部」であるから専門的ではある。だから何も考えずにただ授業を「あたりまえに」「このぐらいのことは知っているだろう」とすすめることもありえます。大学は確かに「専門的」学問の集まったところです。でも、それで理解できるんでしょうか。いや、それでもわからなきゃならないのだろうけれど・・・。カリキュラムの「総合科目」があるのはそういうことのためなんですね。「教養」を広める。リベラルアーツというやつです。
 「大学が面白くない」という人も多い。教養部がなくなったというのが影響しているかなとも思います。「ちょっと違った、期待外れであった」という想い。「人生の根源に触れるような話し」・・・そういうことが学べるのじゃないかと思い、それで来たなんて人もいるのじゃないでしょうか。全員がそうじゃないかもしれない。なんとなくという人もいるだろうし、大学を出ればと就職のことを考えてとかもあるでしょう。でも、基本的には若い時には何かを求めているわけですね。学ぼうという欲求がある。その意欲に応えるためには「専門」にしてもそれこそ少し「教えかた」があるのではないかと、「教育方法論」を考える時に私はそう思います。もちろんこの授業は「教職」科目で中学・高校での授業のためのものです。直接は・・・。ただしあえて多少「教養」の一つとして「も」いけるような科目ではありたいと思っています。
 難しいかもしれませんが、何回かやっていって、徐々に理解していければいいです。最終的にはちゃんと身につけていけるよう考えていきますので。
 あと、今後なんですが、予備校はつぶれないために努力をしてるんだともいえます。つぶれない学校側は努力を怠ったのでしょうか。それはうまくはいえません。ただ皆さんが教職に立つころにいは、いえもうすでに学校もつぶれてしまうことがあります。だから変わっていかなくてはいけませんし、変わるんだと思います。その意味で、本質理解にしろ教育方法にしろ、これからまた変わっていくものです。もちろんその時には予備校もかわるでしょう。これからの教育に適した教育方法がどういうものか、それを学んでいくことも目的の一つです。