教育学概論U(社会と教育)A  2002年10月7日)

 

 

本日の講義のねらい
<社会−教育>(制度=システム)を理解する方法
◇「比較教育学」の研究方法
 ☆部分比較→並行比較
(日英の学校制度比較→英国の教育制度・社会)

 

 前回、講義のガイダンスとして「システムとは何か?」ということをお話ししまして、とにかく「制度」や「法令」を文章や形としてみるだけではなくて、それに関わっていくということまで考えていこうということを目的にすると言っておきました。「社会」というものを無視するのでもなく、「つくりものだから」といって他人まかせにするのでもなく(単なる「批判」だけでなく)、しっかりと考えていくこと。自分がどうしていけるのかを考えていくことが大事だと思います。これは(「社会改造のための教育」という考え方とは別ですが)「社会をつくる」ことでもあります。ですから、「それ」を考えるこの授業でもそういう考え方をしていってください。

 (−*ここからは一部のクラスでのみ話した)受講のルールを説明しますが、私は出席重視ではありません。ただし軽視や無視でもありません。「出席率」で受験資格を決めることはしません。ですから無理に出席して騒いだり、代返を頼む必要はありません。それから私語はやめてもらいます。ただし私語も注意しません。なぜならそういうことは「本質ではない」と考えるからです。

 出席を厳密にとるにはチェックを何度もしたりカードに印をつけたり、一人に直接一枚を手渡し、回収したり、あとは席順表を配って書かせてダブルチェックをしたり、ときに履修者の番号を書いた回覧板をまわしてそこに記名させたり、いくつか方法はあります。実際に毎回筆跡が違っていたり同じ人物のが複数出ていたりと、疑わしいものはきりがありません。そういうのをとりしまっていくのもきりがありません。そんなことよりはリアクションペーパーに質問や疑問やご意見を書いてそれを生かしていくことの方が重要と考えています。すべてに目は通しています。ですからそうやってわからないままにしておかないことの方や、確認しておくことの方が大切です。ご都合や考えもあるでしょうから、出席を他人に頼んだりといった余計な労力は省いてください。私は出席チェックのために来ているのではないのです。自分で考えて行動してください。

 また、私語ですが、これを「怒らない」ことへよく疑問が出されます。でも「怒る」のはたぶん「俺の講義をだまってきかないとは何事だ」という固定観念があるのだと私は考えています。ですから私語のおこらないような授業をしていくことに(それが目的ではありませんが)エネルギーを使っていきたいと思っています。そしてそれでも私語は出るはずです。では、何故、私語をしてしまうのでしょうか。そんなに悪気がなくても気付かずにしてしまうもの、そしてできる状況だからしてしまうものでもあるかと思います。まず私がやさしそうである。注意されない。大教室である。・・・そして周囲の私語をしない人も注意をしにくいかと思います。知人でもそうでしょう。悪く思われたくない。めんどうである。そういうのが実は「社会」の難しさでもあります。でも、私語が気になって勉強ができないという人もいるのです。ですから私はその私語をなくしていく必要があります。ですから「自分」で考えてください。他人に迷惑は少なくともかけない。そして本質的には難しいものを考えてわかっていくことを最優先するべきである。「自分」で考えてください。それが「社会」のことを考えていくということでもあります。(−*以上、「私語」について質問のあったクラスに話した)

 

前回の講義内容の確認

 前回はガイダンスとして、この授業で何を考えていくのかということをお話しして、先ずは身近な実感できることからということで、皆さんが「この授業」に出て「教職をとろうとする」ということがどういうシステム(仕組み、関係)なのかということについてみてきました。@「教職」をとるということが、A保証の一面でもあり、またB循環する関係にあるということをみてきたのですね。とにかく「制度」を知り、変えることができることを知る(社会をつくる)、ということを考えていきます。

 もう一例、「(1)教育制度における保証と、循環としての<「学校制度」と「社会」>」というものをみておきます。

 

 配布資料(図)に「学校教育」の中身の意味と、そのシステムとしての意味を表現しています。私たちが受けてきた「学校教育」(あるいは「教育」でもいいのですが)の意味とは何でしょうか。私は「意図的」な教育の場であるということの大事さ(本当の意味)を知ってほしいと考えています。まず、引越し云々や転校の話として、どこに行っても同じ教育内容が保障されているということは既にお話ししています。私のように神奈川県生まれの人間が茨城県や山梨県に行ってもハンディは生じないし、また共通に話しあえる。世界でもそれは共通で、そもそも学力低下云々も世界や他者(あるいは過去らの比較対象)と比べられることによって意識されるのですけど、それはつまり共通の「ものさし」なりが設定できるということでもある。単純にいえば「数学」や「理科」の問題(出題)のレベルが同じであるから、学年や年齢で到達度が測れるし、比較も可能になるわけです。もっと平たく言えば、アフガニスタンでも日本でも米国でもフランスでも共通しているといえるわけです。その「共通」しているのは何かと言えば、「中身」(構成)だということです。例えば「教科」で「国語・算数・理科・社会・音楽・芸術・体育・技術」というものがありますが、これはどこの国にでも共通する内容ではないでしょうか。「国語」は国家の使用言語であり母国語ですから日本語・ハングル・ドイツ語・英語・ロシア語・スペイン語・ペルシャ語などと場所による違いはありますが、「ナショナル・ランゲージを教える」ということでは共通しているのですね。文字や丁寧な言葉つかいや、あるいは文学理解などもあるのでしょう。「算数」の数量概念が国によって違いがあるでしょうか。言葉が違うのみではないでしょうか。「理科」の科学知識に違いがあるでしょうか。水素、窒素、酸素、水などの構成や元素記号が違う解釈があるでしょうか。「社会」の「世界史」や「地理」の知識に、例えば温暖などの気候解釈に違いがあるでしょうか。もちろんナショナルな解釈や歴史観や国境などの問題はありますし、日本にも戦争責任や領土の問題があって他国との摩擦はあります。これも逆にいえば「共通」を求める動きがあるということです。共通の価値観がめざされている。ちなみに、「国語・算数・理科・社会」は人間にとって欠くべからざる能力ではないでしょうか。これで人間は考え、判断していくのではないでしょうか。

 例えば、私がいまこうして話している。それを理解できるというそういうこと。それが学校教育で身についたものだとしたら・・・。

 

 「私は今年の夏、横浜市のボランティア事業として、市内の中学生1・2年生の470人と船で函館に行って来ました。3泊4日で、いろいろあったのですが、とにかく横浜が気温32度だったとききに函館は26度でした。快適でしたね。そういう船旅に関わらせていただいてよかったです。やはりボランティアや地域との連係や奉仕体験をなんて言っても、言葉だけじゃなくて自分でもやってみないとよくわからない気がしたのです」。

 

 煙にまいたような話ですが、皆さんはこれをきいていれば理解できたことがあるでしょう。そのまま「函館に船で行った」レベルでまとめられてしまうかもしれません。しかし、よくきいて、もし「意味を理解する」ならば、そこで「国語・算数・理科・社会」の能力がつかわれているはずです。「国語」として日本語だから理解する。それに加えて「ボランティア」などの意味も考えて判断しますね。あるいは「社会」の知識としてでしょうか。中学1年生と2年生という概念も、そもそも経験的にわかっているけれども1年と2年が異年齢だとは理解できて、3泊4日という期間(つまり4日間とわかる)活動したというのが「数量」として判断できる。いろいろ比較して4日とか3泊とかが長いか短いか感じることもあるでしょう。「26度」ときけば涼しいと感じるのではないでしょうか。それは横浜(つまり皆さんのいる関東をもイメージして)が「32度」だったから、どちらが低いかわかるのです。これも比較の問題で、冬場の温度と比べれば26度が涼しいのか暑いのかは変わるわけです。これは「熱」という理科の知識でもあるし、社会科の地理・気候の知識でもある。「函館」ときけば「北海道」だと思うわけで、北で寒いのだろうと想像する。「函館」を「北海道」とわかるのは「地理」で学んでいなくてもテレビや雑誌ででも「地名」として入ってきているのかもしれない。それも「地理」という「社会科」の理解です。また船旅で約500人ときけばそこで豪華客船なのかとも考える人もいるでしょうか。そういうもののエンジンとか推進力や構造・性能の問題を科学的に考える人もいるでしょうか。・・・どうでしょうか。そういう多様な理解ができうる。もちろん「考える」ということによって理解がなりたつ。しかし、この「考える」ことで「判断」して「理解」していくのは結局は「国語・算数・理科・社会」の能力でではないでしょうか。これらが「主要な教科」とされるのにはこのような「意味がある」のです。

 

 「国語」「算数」は「基礎的能力」のための教科です。これが判断の基礎となるでしょう。言葉・伝達と数量・形態の概念。「理科」「社会」は「科学の科目」です。大学には「自然科学」「社会科学」があるから「社会科」を「科学」といってもすぐに納得されるでしょうか。地学や気候や地軸や天体、地形も科学知識なら、経済や政治などのシステム、あるいは科学の歴史・文明についても「社会科学」というものなのです。そして人間は他人の話や情報を「基礎」の力でききとって整理していって、そこをさらに「科学」の知識でもって考察して判断していくことができる。そういう人間の「能力」を想定してこの科目はつくられているのです。

 他の科目ももちろん人間の能力です。そういう諸能力を要素ごとにのばしていくことで発達させていくのだというのを「意図」しているのが学校教育です。「音楽」「芸術」という情操的・芸術の能力というものも大切ですし、「体育・健康」や「技術」という操る技術も必要です。

 

 そして「教科」以外に皆さんが学校でよかったこと、得たものとしてきかれればあげるのが「部活動」や「生徒会」での活動、あるいは先生がよかったとか友だちができたとかですかね。そういうものも「学校」にはある。「教科外」活動といいますが、他にも清掃や給食、ホームルームなどいろいろあるわけです。これらは「人間関係」を円滑にしたり、何らかの特殊な技術や体験の場であったり、リーダーシップや責任感をもったり、協調性を養ったりということが意図されてはいるのでしょう。もちろん清掃や給食のない場所もありえるけれども、基本的に世界中の学校にこういう体験の機会が設定されている。清掃や給食は衛生や栄養の面でもあるし、しつけや集団行動や「時間感覚」を身につけるということも意図しているのでしょうか。そういう効果はあります。

 

 さて、こういう「知識・技術」と「人間性・協調性」を身につければそれはすばらしい人間かもしれません。たしかに理想的な人間かもしれない。もちろん「『全部』を同じく身につけるのだ」と考えるか、「いちおう全部教える用意はあるけど、どれか特筆すべきものがのびればいい」という考えかで「教育観」による教育の違いがでることも予想されます。全面的発達というか「画一的」なものか、あるいは「個性」重視かになるでしょうか。国によってそういう教育観の違いがある。

 

 さて、これらの「学校教育」が行なわれる「学校」というのは「個人」が通過して(通学・就学)「社会」に出ていくという「システム」であると考えられます。もっといえば「a学校」−「b個人」−「c社会」の間でシステム関係があるし、それによって「国家という社会」があるレベルで(求められるように「正常」に)機能して(保たれて)いるとも考えられるわけです。学校の制度とは「成人」になるまでの必要な知識・技能・習慣・文化・社会性なりを修得させておくことを目的とするのでしょうが、これはまさに「社会人」をつくるということでもありますね。学校を出て自ら選択して「社会」(就職なり)へと歩んでいくことで、これは他人の集合体である社会の中で自らを相対化する術ともいえる。そういうための役割を「学校」が果たしているのだとしたら、つまり「b個人」が「c社会」に出て生きていくためには「a学校」を経過しなくてはならないし、「c社会」としても「a学校」に「b個人」を教育するということの役割付与と期待とをしているわけです。そう言えばあたりまえのことですが、実際にまた「c社会」はそのための環境整備や後押しを「a学校」に対して行なっていく。例えば税金等をつかうにしても、予算や補助金の問題もありますし、あるいはパソコンを配って整備してネットワークを築いたり、教員対象の研修や、地域社会や企業の参加などもあるわけです。そういう人材を育てて欲しいとの要求とともに後援をしていくという関係にある。そういう支援があるから、「a学校」も「b個人」をリクルートできるし、「b個人」も「c社会」という出口めざしてそこにニーズが生じる。そしてそれらの関係の中で、皆さんが学校に義務教育課程は通うことによって、ある程度の共通の知識なりをもちえた文化圏が保たれるようになる。1年生から上級生という段階や先輩後輩、それに教育者というのがいて(構造や層があって)、クリアすべき課題やルールというものがあることを身につけていく。何時から何時まで、何日はこういうスケジュール・・・等が他者との集団の中で身についていく。そういう「機能」をもっているのですね。これも前回のと同じくまるで生き物のような面もあって、どれかが死んでも全体が機能しなくなるという面ももつ。しかし本当に個人として納得できるものなのかを考えていくということは忘れてはならないと思うのです。今日は、そういうことも「制度」をみることで学んでいきたいと思っています。さっき言いましたように「画一」か、「個性」かというような「教育観」が国家によって違うというのならば、それによって「国家」の思惑が影響しているともとれるわけです。「学校」が国民をつくるシステムならば、「画一」的につくられてしまうことも、「個性」的につくられてしまうこともありえる。そしてこの「画一」でがんじがらめだと思うことも、我慢して思うこともあれば、他者と比較して「あちらよりは窮屈だ」と感じられてということもあるでしょう。もしかしたら他者と比較したら「そうでもなかった」というのもありえるのです。今回はこの「比較」というのを通して考えていきますが、それは日本が他と比べてどうかという結論を感じてほしいのではなくて、「そういういろいろな見方がある」ということを実感して意識していってほしいと思うのです。

 

 

(2)「学校教育制度」とは何か?

 <社会−教育>(制度=システム)を理解する方法として、これからいくつかの方法を紹介していきます。それらの方法で<社会−教育>を理解するだけではなくて、それを使うことによってその方法の有効性をも考えていきます。今回から、「比較教育学」の研究方法を紹介します。「比較社会学」といってもいいのですが、「教育」についてみていく方法論を試していきましょう。続いて今後、社会学、法制学、統計学、文化人類学などを紹介していきます。前期の科目「教育学概論T(人間と教育)」でも、「教育学」を幅広く理解していくために「生物学」「生理学」「心理学」「医学」「大脳神経学」「哲学」「歴史学」などを紹介しました。後期の<社会−教育>については「社会」を考察する学問を応用していくことが必要となります。





 

★「比較」という考察の方法
 @単純比較・・・部分と部分を比較(制度比較、時代比較など)
 A並行比較・・・ある程度の流れを比較
 B関係比較・・・他との関係性を比較
   *@〜Bの「どれか」ではなく、本質理解のために考察を深めていくことが必要

 

 「比較」ということは物事を判断するときに普通にしているわけです。例えば学生時代にアルバイトをしようと考えて、それでマクドナルドとモスバーガーというバイト募集をしている店があるとする。どちらもハンバーガーショップです。両方が募集しているのを知った時、何で選びますか。どちらかが時給700円、どちらかが740円だったとする。「時給」で比べたら高い方を選びませんか。これも「比較」です。似たような職種で似たような場所にあるなら、比べて何かで判断をする。しかし、これはあくまでも単純な「比較」です。比べないよりはいいかもしれないが、単純で部分的すぎる。実際には「740円」の時給の店は「土曜・日曜も入ること」を条件にしていたり、なかなか休みがとれないなどがあるかもしれないとしたらどうでしょう。「700円」の方はいつでも自分のペースにあわせて働けるとしたら・・・。こうしたら判断が変わってくるのではないでしょうか。いろんなことを複合して、総合的に判断していく。もしかしたら同じ食品を扱っていても原材料の仕入れとかでコストを削減しているからアルバイトをたくさん雇えて、気楽に働かせてやっていけるという店もあれば、きっちりと少数のアルバイトで社員なみの仕事を与えて運営していくことでコストを下げている所もあるかもしれない。そういう背景までも考えていったらどうなるのでしょうか。また別の例えでいいますと、新大阪駅に新幹線が二台停まっているとする。それが東京行きの「こだま」と「のぞみ」だとして、「こだま」の方が料金が安くて、おまけに出発時間が先だとします。単純に東京をめざして新幹線に乗るのならば、料金で選びますか。出発時間で選びますか。実際には後から出発する「のぞみ」が先に東京に到着するのだとしたら、・・・その時の自分の状態もあわせて判断するのですよね。「比較」はしているし、「比較」は必要です。ここでいいたいのは、二つ。まず、「部分的比較」だけでなく「並行」して複合的に比較を深めていくこと。それによって「止まった」状態ではなくて「動いた」ものとして、できるだけ実質的に(また全体的に)みることができるというのが一つめです。もう一つは、「それだけ」ではやはり「比べただけ」にとどまってしまいます。その比較したものから「一般的」に適応可能な原理として取り出していくこと。その原理でもって他の問題を応用して解いていくことができて、はじめて「比較」の方法が有効たりえるということになるのです。

 「一般的な原理」はすぐに出てくるものではないかもしれませんが、まず今回単純な部分比較をして、「比較考察」を試すことからはじめていきます。

 

☆部分比較→並行比較

(日英の学校制度比較→英国の教育制度・社会)

<事例>イギリスの教育改革

1979年のサッチャーからメイジャー時代(保守党政権)以降の変革には「教育の民営化」「学校選択制」「教師の成果賃金制度」等があり、日本ではその導入がすすめられているが、全体的な意味(政治、社会的な文脈など)が違っているので「そこまで」考えなければ本質的理解になりえない。

 

 まず「イギリス」というのは「いわゆるイギリス」としてお話ししておきます。資料にあるようにテキストに普通に「イギリス」と書いてあることが多いのですが、正式には「ユナイテッド・キングダム(UK)」という方が正しいと思いますし、さきのサッカー・ワールドカップでも有名選手がいたことで知られていますが、「イングランド」「ウェールズ」「スコットランド」「北アイルランド」という4つの地域からなるし、地方分権が進んでいて地域ごとに法制・制度等も異なります。例えば教育でいえば「イングランド」では大学が3年間なのに対して「スコットランド」では4年間となっている。ですから「イギリス」という一つの共通して全体で統一のものというのはないと考えていただきます。ここであげる制度等は全体の8割以上の人口が集中している「イングランド」(に「ウェールズ」を加えて)を事実上「イギリス」と言っていると考えてください。

 その「イギリス」の教育制度改革と日本の教育改革で共通しているといわれる部分がある。「イギリス」の制度を採用したと思われる箇所がみられるわけです。ならば、それを比較しておこうと。

 単純に「イギリス」と「日本」を比較すれば「他の国の教育制度」に関する理解や知識も増えるし、興味も出てくるでしょうか。それだけでも意味はある。次に、もし「イギリス」の影響として今の「改革」があるというのなら、その原点をみておこうじゃないかと。日本にあうのかどうか、あるいは問題がないかどうかと考えていく。日本にあうようにしていくべきか、あるいは問題が大きいのでやめた方がいいのかと、様々な判断をしていくこともできる。そこにも「比較」の意味がある。しかし、実際には私たちは「イギリス」のことをまだまだよく知らないのだから、もっと考察を深めていかなければいけない。その一歩であるというのを意識して今回は単純な比較をしていきます。それで「イギリス」に興味がもてて、それで個人的に調査をしていくような人が出てきてもそれもまたいいわけです。

 この図はいろんな教育学のテキストに載っている日英両国の「学校教育制度」の図です。単純に比べると、斜線部分の「義務教育」部分がまず違う。日本では6歳から15歳の9年間ですが、「イギリス」では5歳から16歳の11年間となっている。日本より1年はやく就学して、1年あとまで義務教育がある。ここで比較してみて気づいてくれればいいのですが、「日本は教育に手厚い国」なのでしょうか。義務教育期間で考えれば、「イギリス」の方が「熱心」に感じることもないでしょうか。

 次に「学校」の名称はともかくとして、日本では一律に小学校6年間、中学校3年間となっていて、その後高等学校等へ行くという経路ですが、「イギリス」では「幼児学校」2年間→「下級学校」4年間→その後「グラマースクール」「モダンスクール」「コンプリヘンシブスクール」という三つの学校のどれかへ5年間行き、カレッジを経て大学に入るようにも見える。ファーストスクール→ミドルクールという違った名称のものもあるらしい。日本の「6・3制」義務教育とは違って、「2・4・5制」とも(大きくは)いえますが、複雑そうでこの図だけで判断するのは難しそうである。

 

 「この図」で教えられることとしてピックアップされるのは「大学進学」をめぐる制度の違いです。日本は単純に(そして一般には)<小学→中学→高校→大学>と進んでいくし、また義務段階の「小学→中学」を出たものが誰でもそのまま進んでいって大学における高等教育を受ける(受験する)資格をもっています。ところが「この図」では「イギリス」では「下級学校」卒業後、「グラマースクール」(伝統校)か「モダンスクール」(新進の進学校といえるか)に進学しないと「大学」に入る道がないように思えるのです。もっといえば「総合制中等学校」に入ったものはシックスフォームというカレッジどまりか就労するということになる。もちろん日本でも就労や進学は選べますが、「問題」は義務教育期間の「11歳」の時に「大学」に行けるか否かが決まってしまうのではないかということです。日本でイメージすれば「中学校」に格差があって、「決められた中学校だけしか大学進学の道が閉ざされている」となったらどうでしょうか。「11歳」で人生が決まるともいえないでしょうか。「11歳試験」というのが「イギリス」では問題になってきたのですが、「11歳」で人生が決まるとして、その判断はどこでされるのでしょうか。11歳の子ども本人がそのような選択をする。ありえないことではありません。しかし、実際には「親」や「家庭」というものがその判断に関わっていくのではないでしょうか。「イギリス」にはこのような「二系統」(「大学進学」のコースと「就業を選択」するコース)みられ、その分岐点が11歳という時期に、義務教育期間のさなかにある。ここから「身分制」というのが残っている「階級社会」の名残であると指摘されます。たしかに「11歳」で将来を決める受験があるのだとしたら、そのための準備や理解が必要でしょうから、そういう教育に熱心な家系のみ「大学」に行くということが可能になる。すると大学卒業者という何らかの資格を得るのはそういう家系の者のみになる。すると延々とこれが「再生産」されていくことになりかねない。ここではさらにお金のかかる「私学」はあげられていませんが、実際に有名私立学校(パブリックスクール)の学生は9割は大学に進学しますし、オックフォードとケンブリッジという有名大学に進学することが多く、エリート教育というのが行なわれているのですね。パブリックスクールで教えられる学科が入学試験に出るというために、公立の学校で学んだ学生には明らかに不利があるということもあります。もちろん「私学」の受験・進学ということはある意味日本でも同じ部分もあるとは思いますが。

 日本と「イギリス」の違いがみえてきたでしょうか。誰もが進学機会をもつ日本と、11歳という時期で分けられていく「イギリス」。日本は受験熱の強い国だというイメージが、「イギリス」と比較してみるとどうでしょうか。すごく「教育」に熱心な国にみえてこないでしょうか。そして労働者層とエリート階層とが「教育」−とくに「公教育」で分けられてしまうとしたならば・・・。

 ここで考えるのを止めてしまったら「イギリス」は「おそろしい国だ」で終わってしまいかねません。あるいは「日本と違う」という感想で終わりになってしまいます。

 

 そこで次に「イギリス」についてもっと知っていく必要があります。少なくとも「イギリスの教育」についてもう少し学んでおかないと、「停まっている新幹線」を比較しただけで終わってしまうのです。「イギリス」の教育がなぜ「この図」のようになっているのか、もう少し説明してみます。

 

 「イギリス」の教育制度の流れを表示すると次の資料のとおりになります。

 イギリス教育制度

法規・提言・政権等

事    項

1880

教育法

5〜10才(小学校段階)での義務教育制度

1944


 




 

●5〜15才(後16才に延長)まで無償義務教育の保障(中等教育を全ての者に保障)。●「教会立学校」をボランタリースクールとして公営化し統制し、LEAのカウンティスクールと合わせて公営学校として義務教育を担わせる。●18才青年までの多様な延長教育の準備

1965

教育・科学省(労働党政権)

11才テストの廃止と、中等教育による差別化廃止の方針を提起。

1970

教育・科学省(保守党政権)

上記通達を廃棄する。

1974

教育・科学省(労働党政権)

上記(廃棄した)通達を復活する。

1976

教育法(労働党政権)

グラマースクールの廃止決定

1979

(保守党政権)

1976年教育法の廃止(*サッチャー政権)

1983

提言(労働党)

私立学校を「無償で公正な教育制度への大きな障害」と批判。

1988


 

教育法(保守党政権)


 

サッチャー公約後1年で法律化。●ナショナル・カリキュラムとナショナル・テストの設定。●ガバナー制度。●地方財政経営による財政権限の学校への委譲。●グラント・メインテインド・スクールの創設。●シティ・テクノロジー・カレッジの設立。●オープン・エンロールメント・システム導入。●大学制度改革。●ILEAの廃止。

1995
 

ブランケット氏(後の教育・雇用大臣/労働党)

「試験による選別」と「グラマースクール」への反対の立場を強調。
 

1996

教育法(保守党政権)

幼児教育へのバウチャー制度導入

1997

(労働党政権)

上記制度を廃止

1999
 

(労働党政権)
 

●サッチャー政権下の目玉であるGMスクール制度を廃止。●グラマースクール存廃をめぐる地方投票の法律制定。

2000

 

3月。グラマースクール存廃をめぐる地方投票第一回実施。

 

 1880年に「小学校段階」での義務教育制度が成立するというのは「日本」とそう変わりはありません。1944年に「中等教育」にまで義務就学期間が延長されたのも日本の戦後改革とそんなに変わらない時期といえる。当時の「先進国」とされる「イギリス」と日本の教育制度にはそうは大きい差はないとも考えられる。しかしその後の教育改革の「争点」をみると「イギリス」独特の問題が浮かび上がってくる。「グラマースクール」を廃止しようとする方向と、その廃止に反対する方向で二つの政党が争っている。政権を握るや改革を断行し、政権を奪回するや政策を否定してまた改革をすすめる。数年単位で大きな方向が変わるというこの「政治的争い」に直結するダイナミズム。このように「教育」の問題が扱われることは日本ではピンとこないかと思います。それだけ「イギリス」では「教育」が「社会」(国家)にとって大きいものなのですね。二つの政党とは「保守党」と「労働党」です。「保守党」がエリート層を代表し、「労働党」が労働者層を代表する。マーガレット・サッチャーというのは「保守党」で支持率の高い首相でした。フォークランド紛争とかのあった当時で、戦時期にナショナリズム傾向が高まるということから圧倒的支持率を得た人物で、「教育改革」として「人材育成」を進めるとしてエリート中心・学力重視路線にすすんだとも言われます。その当時の改革が1988年教育改革で、現在の日本の教育の「学区撤廃」や「大学制度改革」に通じるものであるし、「ガバナー制度」なども注目されているのです。

 今日はここまでにします。次回にまた、「教育」と「社会」の関係として「社会的再生産」の機能があるのではないかというのを「イギリス」をみることから考えていきます。  (リアクションペーパー配布→回収)