教育学概論U(社会と教育) @ 2002年9月30日

 

 初回の授業のため、ガイダンスとして以下のようなことを話した

◇教育の「制度」「システム」を考えていく
◇「システム」とは何か
◇教育による社会改造案の考え方に注意する
◇事例:「教職」という制度と教育システム

 

(3クラス担当のため事例や話し方には違いが出ているが、話したことがらは次のような内容である)

 

教育の「制度」「システム」を考えていく

「システム」とは何か?

 今日がこの「教育学概論U(社会と教育)」の最初の授業ですので、この講義で今後、どのようなことを学んでいくのかということを簡単に説明することからはじめます。前期に「教育学概論T(人間と教育)」という授業を履修していた人は「私」のことを知っているでしょうし、授業のやりかたも知っていて、慣れているので自己紹介などは必要ないかと思います。ただ、継続して履修しなければいけない科目ではないので、はじめての方も履修していると思います。ですから乱暴に「前期に話したことだ」といって進めることをしないようになるべく注意しておきますし、今回も少し私自身のまわりのことから(自己紹介的にも)この授業のテーマである「社会と教育」についてお話しするということから始めていきます。前期にクラス(時間)によってはすでに例え話として(雑談のレベルで)話しているかもしれませんが、そういう場合でも「(今回の講義に)関係あるのだ」と受けとってきいてください。

 前期の「教育学概論T(人間と教育)」という授業では、主に「ひとりの人間」にとって教育とはどのようなもので、どのような影響があるのか、どのように接していけばいいのかということを考えてもらいました。例えば「教育が必要な理由」を動物学や生理学からみたり、「発達」とか「心理学」から考えて「伝わるメカニズム」とかを説明した。哲学や歴史の話しもしましたし、「脳」とか「医学」のことも言いました。いろいろな考え方がありえるというのをお話ししてきたつもりです。「教育」に関する基礎理論について学んでみたのですね。

 後期のこの「教育学概論U(社会と教育)」では、やはり「教育のおおよその話し」をするのですが、「社会」ということに注目してみていきます。もちろん前期で話したこととつながることが多いのですが、でも後期からだけでも個別の考え方としてわかるようにしていきます。ただし、「社会」と「教育」との関係を扱いますので「個人(人間)と教育」というものよりも少し複雑に感じるかもしれません。ですから難しいので、わかりやすいように何度も繰り返しながらゆっくりと学んでいただきたいと思っています。

 「個人」「人間」と教育の場合には、わりと生物学や自然科学的な考え方で判断することが可能ですが、「社会」になると「つくられた」もの(関係)ですから、そういう「価値観」「ルール」「法律」「慣習」などといったより複雑なものになるわけです。社会科学的になる。ですから、自分たちの生活・環境そのものの本質ともつながりますので、よく考えることが必要です。

 

 「本日の内容」ということを配布プリントに書いておきましたが、まず私の周囲の話からはじめます。私の父は戦争中にロシアで生まれ育ったハーフで、10歳の時に単独で日本に帰ってきた(引き揚げ)のですね。それから大人になって日本人と結婚して神奈川県に住むようになった(略)。それで私の兄弟は姉・兄・私の3人なのですが、父親の教育方針が変わっていて、中学から外に出して自立させるというものだったのです。姉は女の子なのに、多感な時期に中学でオーストラリアにと留学させられました。おばあちゃん(ロシア人)がオーストラリアに移住することになって、(日本があわなかったのですね)それについていった。英語は上達したようです。その後、姉は高校に行くのですが、あのアフガニスタンの女子校に行かされました。父は姉に「言語」を修得させようとしたのですね。たしかにペルシャ語を読み書き、話せるようになった。姉はロシア語、英語、ペルシャ語を操るのですね。いま考えればすごい能力です。

 ところが、アフガンの学校卒業を前にした時、当時のソ連軍の侵攻という事件があって、アフガンは内戦状態になった。映画「ランボー2−怒りのアフガン」などでは米国とアフガンゲリラが協力してソ連に対抗するのでしたね。皮肉にも「いま」は昨年のテロ事件以来、米国とその当時あらわれた(その時には英雄だった)アルカイダとが対立している。何が善くて、何が悪いのかよくわからないわけです(そういうものも「社会」です)。アフガニスタンが復興して、女性が教育を受けれるようになったとよくニュースに出ていましたが、その「女性が最後に受けた教育」(20数年前になる)がうちの「姉」が通っていた高校なのですね。本当は貴重な体験だったのですが、うちの姉はそういうものを社会にうったえていく気も能力もないようです。そう考えると古賀家の教育方針は失敗だったかなと思います。

 さて、姉は卒業前に国や学校がなくなった。それで即刻帰国となりました。「教育(学習)の権利」なんてものは「戦争」などの前では無意味になります。戦時中は日本人学徒も大戦に出陣したり後方支援にまわされたりしましたし、例えば昨年の「9.11テロ」事件直後、米国内の大学等への留学生のうちイスラム教圏からの学生が強制帰国されたり、あるいは何らかの被害にあったという。「学習(学問)の自由」などというものが排除されたのです。「テロリストの危険性がある」という「国益(国民を守るため)」という意見ですね。難しいです。ちなみに今、日本でも北朝鮮との国交問題で「拉致事件」報道に反応して「在日朝鮮人」の方への無差別の暴力があったとか報じられる。なげかわしいことです。すると「日本は戦争責任を果たしていない」と「どちらが悪いのだ」と指摘される。「やったらやりかえされる」という同列に比べるものでなく、別問題としてどちらも悪いには(良いか悪いかといえばですが)決まっているのではないでしょうか。最近はそういう重い問題がありますね。

 さて、姉はなんとか無事に帰国しましたが、高校を卒業前にしてだったのです。高校がなくなってしまったのでしかたありません。そこで神奈川県内の学校を探しました。転校しようとしたのです。しかしことわられました。3年の二学期途中にあたる時期というのもありますが(3年二学期までの成績を進学時などに学校から提出することになる)答えは「高校1年生からやりなおしてください」というものでした。「制度が違うから」というお答えもありました。たしかに、インターナショナルスクールもそうですが、外国の現地学校というのは、「一条校」という日本の法令(学校教育法第一条)に定められた学校課程とは区別されます。各種学校として扱われることになります。「いま」でも同じです。しかし「いま」なら海外帰国子女への考え方は違ってきていて、おそらく「補修」をつけるとかの配慮をしつつ、おそらく試験ぐらいはしてくれるところも多いはずです。とにかく当時は公立・私立を問わず、姉を受け入れてくれるところがなかったのです。なるほど「制度」が違うならばしかたがないのかもしれない。

 関東近県を探したが無理でした。ところが全国にと探していくと、秋田県にある私立高校が3年時から編入でと受け入れてくれたのでした。姉はまた親元を離れることにはなりましたが、無事に転校して卒業しました。

 さて、この話しは実話ですが、何がいいたいかというと「制度(システム)とは何か?」ということが問題なのです。問題は「できた」ということです。そしてもっと問題なのは、「できることなのか、できないのか」ということを知らされていないということです。行政側も知らなかったり、市民も知らない。そうすると知っている人だけがいい目を見るというか、知らないことで損をする人もいる。別に転校や留学だけの問題ではなく、おそらくたくさんのことがそうやって無自覚になっていると思います。「意味がわかっているようでわかっていない」状態なのだともいえます。少なくとも、わかっておく必要はあるでしょうか。そういう「社会」に対するスタンスを「教育」というものから考えていきたいと思います。

(−*−クラスによっては、私の中学校時代の「学区」の話をしている。「略記」する。東京都が公立学校の「学区」撤廃をめぐって動きだしているし、市区レベルでの先駆的実例はあった。基本的に義務教育課程で「学区」は固定的であったが、しかし私自身は学区外の「公立中学」へ入学した。スポーツをするためであったが、そういう例は現在でも多くみられる。問題は「できた人」と「できないままの人」がいたことと、「できることを知らない」ということである。イレギュラーとされていいのかという問題もある。以上、略して記した。)

 

教育による社会改造案の考え方に注意する

 この講義では「『制度』を知り、変えることができることを知る」、つまり「社会を知り、社会をつくっていける」ということを考えていきます。配布した資料に辞書の記述が載せてありますが、教育制度とは「教育目的を実現するために社会的に公認された、教育に関する組織や作用などについての体系」で「教育法制」の他に「学校教育制度」「社会教育制度」「教育行政制度」も含みます。「社会と教育」というタイトルから、なんらかの法令や制度を「読んで」学んだりすると予想されたかもしれませんが、−−もちろん資料としてそういう法令類も読んでもらいますが−−そうではなくて「社会」と「教育」の仕組みを意識してみていくということをめざしています。

 ただし、これは「教育で社会を改造していく」ということではありません。 もちろん結果的に「社会」や「教育」を知って、それで関係をとらえなおしていったり、改革や様々な事項に際して適切にはたらきかけていって「社会改造」に結びつくことはあるでしょう。しかし「社会改造」を目的とする「教育」となると少しズレが出てくると思うのです。前期の授業ではやや詳しくみたのですが、誰もが「教育」を改革して「社会問題」を解決しようとします。「国の将来」を憂いだりするのです。しかし、毎回の「改革」がそうなのだとしたら、それはその時の政府及び行政、あるいは省庁の「社会観」であり「教育観」であったとしたならばどうでしょうか。毎回のやりとりは達成されているのか、あるいはされていないのか。あるいはニーズが変わってきているからしかたないとするのか。おそらく「社会」というもの(そのときの制定側−「上」が考える「社会」−ようするに個人よりも組織)を優先すると、あまり実効性のない改革になってしまうと思うのです。少なくとも被教育サイドもしくは教育者(臨床)側−「下」の方が納得や実感ができないままになっているのではないでしょうか。「制度」は「知らない」と損をするといいましたが、「わからない」「考えない」制度では損を(というか無意味)するのみです。「教育」がそういうものの手段とされているというのを私は「反対」する立場なので、あえて「社会改造のための教育」という考え方にはとらわれたくないと思っています。

 

事例:「教職」という制度と教育システム

 それでは、今日は導入として、身近な問題から「システム」として「教育」を考えていきます。資料@とAは、皆さんが今この講義を受講(履修)していることとつながりますが、「教職免許」をとるというのがどのような仕組みになっているのかという構図を図示したものです(図表は略する)。

 皆さんは資料@にあるように免許法施行規則に定められた科目区分に従ってこの授業をとっているのです。(A)「教職の意義等に関する科目」、(B)「教育の基礎理論に関する科目」として(b−1)歴史・思想、(b−2)発達心理、(b−3)社会学・制度・経営論、(C)「教育課程及び指導法に関する科目」として(c−1)各科教育法、(c−2)特別活動、(c−3)教育方法論、(D)「生徒指導、教育相談及び進路指導等に関する科目」として(d−1)生徒指導・進路指導、(d−2)カウンセリング論、(E)「総合演習」、(F)「教育実習」をとる必要がある。教員になる必要条件であり、必要な能力と考えられたのですね。

 簡単にいいます。教員としての義務感や意識は必要です。「教育」を歴史などから理解しておくことや、教育の対象が身心ともに多様であることやその構造を知っておくこと、そして法令など社会的な考え方を理解しておくことも必要と考えられる。教科の授業のやりかたが重要ではありますが、教員の仕事はそれだけではないのですね。部活や様々な活動も担当するでしょうし、自分の教科だけではない「教え方」そのものも理解しておく方がいい。そして相談にのることもあるでしょうし、悩みを解消してあげるべく努力もする。応用力が必要ですし、即戦力として授業になれておく必要がある。このように考えられて計画されたカリキュラムです。前期の「概論(人間と教育)」は「(b−1)歴史・思想」の部分にあたりますし、後期のこの「概論(社会と教育)」は「(b−3)社会学・制度・経営論」の部分にあたる授業をします。

 たしかに「教員」にはそういう能力は必要です。必要と考えられたから、そのための授業がある。だから希望する皆さんはそれを履修して単位をとって、そして大学卒業資格とともに申請して、それで教職免許を取得することが可能になる。そういうシステムなのです。

 さて、これは一見これで、わかったように思うのではないでしょうか。しかし「そういうシステム」になっているのが何故なのか、そもそも「そういうシステム」というものをどういうものなのかと説明できるでしょうか。実は「わかっているようでわかっていない」のではないでしょうか。

 資料Aは「A−大学」、「B−教職希望の学生」、「C−教員を求める現場(小・中・高等学校)」の関係(システム)を図示したものです。中心に「A」、両サイドの左に「B」、右に「C」があって、<B→A>、<A→C>、そして<C→A>、<A→B>とも矢印がついていて行き来する関係がある(循環している)。中心の「A−大学」には「(大学←認可→行政)」と記しておきましたが「認可」されることによって大学が行政の意図に応え、またお墨付きとして保証されているということを示しています。何を保障されているかといえば「教員養成の公式システム」としてです。「A−大学」には、上記の「資料@免許法施行規則に定められた科目」がそのまま入るのです(黒板に図示)。皆さんが受けている教員になるための「そういうシステム」というものの構図を図示してみるとこのようになる。その<資料A「A」、「B」、「C」の関係>図の周囲を囲った太線は、その関係で保たれている世界の外枠です。

 「保障」(保証)とか「保たれている」とか「システム」というと難しいのですが、皆さんはこういうシステム(関係)のルールの枠内で合格して資格を認定されようとしているのです。もっと簡単にいえば、「A」は「大東文化大学」で、「B」は「皆さん」、「C」は「優秀ないい新人教員を求める現場(学校)」ですが、それには次のような関係がある。

◆「B」は「C」に到達したい。(皆さんは、教員になりたい)
◆「C」は「B」を募集している。(現場はすぐれた教員を求めている)
◆両者間を仲介するのが「A」(システムの基幹)
※「A」という基準・ルールを判断材料にして、「B」と「C」の連絡が成立し、それによって「社会(教育界・学校社会)」という外枠内の世界がうまく機能して保たれている。

 

 このように全てが揃って機能しているのです。システムとはまるで「生き物」のようなものにイメージされるでしょうか。たしかに例えば「国と国(国家間)」の関係も個人と個人の関係のようなもので、「国家」自体が一つの生命体のように思えることもありますから、一つの社会や組織も似ているところはあります。「A」が心臓、「B」が脳、「C」が内臓だと例えてみれば、心肺機能によって血液が循環することによって脳も内臓も機能するのだし、あるいはどれかが欠けても結果的に組織は滅びるともいえるでしょう。脳死、臓器不全、心停止、どれも壊滅的です。枠内の「世界」が人間のボディだとすれば生きていくための「循環」や呼吸みたいなものが「システム」とも考えられる。それは事実に近いと思います。たしかに「皆さん」という入学希望者がいなければ「大学」は運営できなくなります。また「現場」という学校がなくなれば当然「教職」というニーズもなくなって、皆さんがそういう目的をもって入学することがなくなるからこれも「大学」が運営ピンチです。いまは中心として両者のニーズに働きかけて機能しているけれど、それがなくなれば大学自体の存続も厳しくなる。もちろん「大学」がなければ、このシステム自体が変わらなければならない。とりあえずこのシステムによってある程度は良質な教員つくりが保証され達成されてきたという面もあるはずです。やはり「命」をもっているかのように支えあっている関係です。

 ただし、気をつけなければならないのは、この「システム」は生き物ではないということです。この「システム」を守るために健康のためのダイエットのごとくどこかが切り詰められたらどうなるのでしょうか。いやシステム全体の中の「基幹」は「(この図では大学という)組織」なわけですが、「組織」をまもることが「システム全体」をまもることだと解釈・判断された時、犠牲になるのはどこでしょうか。「皆さん」や「現場」であっていいのでしょうか。つまり「大学」がもし、怠惰になって、本当は「いい教員養成のための授業環境」を準備すべきなのにそれを削っていったり更新しないままでいたりすると、力をつけることが滞る学生や即戦力を求める現場が裏切られることにもなる。もちろんそれは学生の意志や現場も受け止めて鍛えるということが必要で「他人任せ」(無責任)であってはならないのですが、もしも「組織」運営のみが最重視されたとしたらどうでしょうか。「個人」よりも「より多くの人のため」などと言って「大きいもの」をまもろうとする構造。何らかの会社で不祥事が発覚した時、後に「会社ぐるみ」というのが明らかになってしまう場合もありますが、たいていは「そこの部署や個人」の責任に帰すということがみられないでしょうか。学校の不祥事でもそういうのはないでしょうか。あるいは政治家の不祥事でも一時「秘書がやった」などの言葉で無関係をきめこむことが多くみられた。あるいは今の外交関係はどうでしょうか。北朝鮮の首席はなんといったか。「一部の先走りした個人の行為であって、国家としては無関係。なおその個人はすでに処罰したのでご安心を」というようなことではないでしょうか。オフレコで日本の首脳側ももしそういうこと(人命より国益優先)を言っていると伝わったらどうでしょうか。民主主義でも多数決を優先して正論の少数意見をまったくの無視をするというのがはたしていいのでしょうか。米国や英国がイラクを「大量殺傷兵器を保持し開発しているから危険」と言いますが、いちばんそれを保有している自国は危険とは認識していないのでしょうか。そういうものも「世界システム」としてあって、例えば米国内で消費される製品の多くは国内ではコストが高くてつくらないのですね。それで「周辺(辺境)」の国(アジア、アフリカやイスラム教圏など)で賃金を抑えて作らせる。近代以降に多くみられる関係ですが、米英はその「周辺」側の立場にはなったことがないのでなかなか理解不可能と思います。それが争いの種となる。しかし米国には米国内というシステム関係もあり、国益だとか統合であるとか、複雑な問題です。様々なシステムが重曹的になる。例えはいくらでもありえます(「不登校」などについて話したクラスもあるが略する)。

 とにかくシステムや組織優先にならないように、そうなっていて理不尽な場合には(問題がある場合には)、その「システム」自体を考え直す必要があるわけです。システム自体が進みすぎて、本来の目的である「私たちの生きる社会の保障のため」というものから逸脱してしまわないようにみていく力と、そして社会関係(システム)をどのように築いていって、どのように運営していくのがいいのかを考えていきたいと思います。

 

 今回はガイダンスということでここまでにいたします。

 (*アンケート配布→回収)