教育学概論T(人間と教育) H7月1日

今回の内容
歴史(2) 「教育の循環」・・・哲学から考える歴史性

 

 前回は、「近代教育史」の中で「教育内容」の変遷をみてもらって、そこになにやら「拝外主義」と「排外主義」との間でのジグザグがあったのではないかと考えてみたわけです。もちろん「歴史は繰り返される」とか「歴史を知らないおろかさ」などという言説はこれまでにもあったのですが、私がこの授業でとりあげているのはまだあくまでも「モチーフ」としてです。一つの「見方」ですし、「絶対視」や「マジックワード」に気をつける授業なのですから「絶対」とそのままに受け止められてもまだ不十分です。そうではなくて、何かしら「大きな」あるいは「複合した」見方でみると、それまでとは違った感じにとらえられるということをまず知ってほしいのです。前回に言ったように、ただ「ある時期」や「あるカリキュラム」を文字や情報として受け止めて、それを記憶しても、それは断片的な知識にしかすぎません。「『それ』を『それ』自身としてみる」というのは大切なのだけれども、実はこの方法では実際には「『それ』を『それ』だけとしかみれない」ということがあるのではないでしょうか。実は「それ」をちゃんと知るには、「よく知った」上で「『それ』を『それ』自身としてみる」ことが必要だと思うのです。難しいかもしれないけれども、例えば一般的な「知識」というのは表に出るまでにたくさんの「証明」の作業が行なわれてきていて、その作業の過程すべてがいっしょに表に出ているのではなく証明された「結論」としてのその「事象」が「知識」として出ているのですね。前に言った「他人のすばらしい授業案」はその人の成功の一面が出ているのであって、その人の思考やそれまでの過程が出ているのではないから、「その部分」だけを真似しても「イコール」にはならないのといっしょです。だから「それ」ということだけを顕彰してはいけないというか、「それ」というものをもっとよく知っておいて、それで「それ」を深めていくことが必要で・・・、それではじめて「それ自身」を大切にみていくこともまた可能なんだと思うのです。これは「よく学ぶべき」程度のことを言っているにすぎないのですが。

 さて、リアクション・ペーパーでは「歴史の話しは難しい」という人も多くいたのですが、これについてはいろんな角度から何度も繰り返してやっていきますので、まずはなんとなくからでもわかっていければいいのです。

 

(1)近代教育の歴史から考える(続)

近代教育内容の変遷

 前回にお話ししたように、近代以降、明治期以降にいまのような「学校」というものがつくられて、いまのような形の「学校教育」「授業」というものが始められた。近代以前の江戸時代は封建制国家であり、武家には藩校などの教育機関、庶民には寺子屋などの教育機関(学校)があった。単純な「読・書・算」などの基本的なもののみ教えられていた。明治5年の「学制」は最初の全国を対象とする教育法制であったが、教科として、「綴字、習字、単語、会話、読本、修身、書牘、文法、算術、養生法、地学大意、理学大意、体術、唱歌」が示されていた。これはある意味「国際性」のあるもので、逆に言えば日本の教育には即さない部分もあった。「国語」系科目が多いといいました。ですから、明治12年には「教育令」というものに改正され。「読書、習字、算術、地理、歴史、修身・・・」となって、ある種実状にあうようにされ、また全体の教科も減らされていた。財政的な問題や、自由民権運動の風潮もあったのでしょうか。これもまた教育の「改革」が行なわれたということですね。

 しかしさらに「改革」は実行され、翌明治13年に「教育令」が改正され、「修身」がトップにされ、「重視」されだす。この路線が続いて「天皇制(儒教)道徳」を強化する方針がますます進められ、明治23年の「小学校令」では「修身」筆頭に続いて「体操、日本地理、日本歴史」等も特徴的といえます。教育内容の限定の動きが見えますし、軍事教練や教科書制度とも重なっていく。この年(明治23年)には「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)が発布され、天皇制による国民教育の方針が打ち出されたというのが大きいと思います。こうしてみると、明治13年以降は統制・管理が強められていったともいえます。

 ところが、その後、反動といえるかどうかわかりませんが、明治期後半から大正時代には「大正自由教育」という、いわゆる「新教育」という運動が流行することもありました。当時の文部省の政策が手詰まりになったというか、自由にさせていた一時期であったと評価されるべきなのかもしれません。しかし定着はかなわず、昭和16年「国民学校令」には「国民科」として「修身、国語、国史、地理」があり、「体錬科」では「体操、武道」があり、またかなりナショナリズム色の強いものになっていた。総力戦体制ともいわれる時期に向かい、戦時期のかまえをつくる教育にこの時期なっていたのですね。そういう時代的変遷があった。

 これを、「山」のようなカーブではなくて何か周期的なジグザグではないかと言ってきました。だいたい20年間隔ぐらいで反動的に逆のスタイルになっていくというのは偶然なのでしょうか。あるいは私が意図的にそういう部分だけを抜き出しているのでしょうか。今回は「戦後」とも比較して並べてみると予告しておきました。

 

「学習指導要領」の変遷

 日本の教育のレベルや、学力などが問題になると、よく「欧米に比べて創造力が欠けている」とか「個性的人材を育成していない」等とも指摘される言葉がみられます。その時にこの「学習指導要領」によって教員の裁量や自由が制限されているのだからといわれる(こともある)。これは「総合学習」の時に言ったと思うのですが、教員の自主性や教育する権利として、教育内容を決定していく能力も求められてきたのですが、現実には「できる教員、できない教員」という差がありそうです。いや「個別差」を出そうと言っているのですが、それがそういう「差」に出てしまう可能性があるのですね。さて、日本の「学力」は問題なのでしょうか。まだまだ世界的にみて「高い」という見方もあれば、「低下傾向」という見方もありえる。さらに「平均は高くても、個人的にみたらどうなのか」という言い方もある。こういうものはすべて別問題として考えることなのでこの授業では扱いません。いろんないいかたがありえる。あるいは議員などが例えば「国旗国歌を必ず儀式の中に位置づけるべきだ」などと主張する時に、この「指導要領」に載っているということを争点とすることもありますかね(エピソード省略)。

 さて、教育改革が叫ばれる時、その対象とされやすいのが「教育基本法」であり、またこの「学習指導要領」でもあります。実際に今年度からの新指導要領の実施は「三度目の教育改革」などとも呼ばれていますが、現実的な「日本の教育」は戦後においてはこの学習指導要領が担ってきたともいえるでしょう。

 この「学習指導要領」はナショナル・カリキュラムというのが特徴ですが、マイナス面だけでなく、プラス面もあります。もちろん全国で平均的に子どもが知識を身につけているということもあるでしょう。「転校しても格差が少ない」とかもよくイメージされます。イギリスでも米国でも日本のこのカリキュラムが注目されたこともあります。問題を一面でみて「賛成・反対」で語ると結局は繰り返しにしかならないと考えるので、ここは「良い」面もあるのだろうととらえて、そこからできるだけ多角的に見直しておきたいと思います。

 戦後の1947年(昭和22年)に「学習指導要領・一般編<試案>」として発行されたのが最初でした。戦時期までの国民学校令に基づく学制をかえ、1947年3月末に「教育基本法」及び「学校教育法」が制定され、いわゆる「6・3制」といわれる現行の学校教育制度が開始されたのですが、その全国の小学校・中学校、及び新設されることになった高等学校の教育内容の基準を示すものとして構想されたものです。1947年4月からの実施となったのですね。しかし、注目すべきは「試案」と明記されていることです。文字通り「試案」であったのですね。

 桜井よし子さんなどの意見は私も好きな部分も共鳴する部分も多いのですが、あの人たちでも少し違うと思う部分があって、それはすぐに「米国からおしつけられた」(例えば戦後の憲法等)と表現することがあるのですがけっしてそういう面だけではなかったと思うのです。例えば戦後の日本の教育刷新は「占領下」ではあったけれどもかなりの数の「日本側委員」という代表者たちが議論に参加していたのです。もちろん「規制されていただろう」などの制限というものはあったかもしれませんが、単純に「強制」とはいえないと思うのです。むしろ「その後」の方が問題だと思っていますので、簡単なことばで「そういう受けとり方」が一般化されるようになってしまう可能性もある。だから僕はそういう評価にも賛成しない立場です。

 さて、実際にも1947年の最初の「学習指導要領」の序文には「この書は、学習の指導について述べるのが目的であるが、これまでの教師用書のように、一つの動かすことのできない道をきめて、それを示そうとするような目的でつくられたものではない。新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教科課程をどんなふうにして生かしていくかを教師自身が自分で研究していく手引きとして書かれたものである。」として「完成品」ではないことと、ある種の「ガイド」にしかすぎないことが明記されていた。当初はそのような性格のものだったのである。この時にはカリキュラムに「自由研究」等が入り、特別活動の重視というか経験重視の考え方が表れているし、また「社会科」という科目自体、戦前の修身、国史(日本歴史)らの偏った「人間形成」の反省として民主的人間の育成のために構想されたものであり、「総合的」かつ「生活体験」に即した授業が重視されていたことがわかる。ここいらの改革は「現在」の構想と似通ったものがあるのではないだろうか。そして「経験」的社会科がなぜ「暗記」科目として嫌われやすいものとなってしまったのかという「意味変容」にも注目しておきたいと思います。簡単に言えばこの時にも「学力が低下する」等の言説があり、やがて改革されてきて変容してきたという一面があったのです。

 1955年の改訂時には「試案」の文字が削除されています。単純にいえばこれによって「試案」ではなくなったという根拠がつくられた。「ガイド」や「任意」ではない。つまり「規程」とされていったという変化がここに表れている。「教育内容」もここいらからいくつか改訂されていきます。

 1958年の小・中学校の部分の改訂では「道徳時間の特設」というのが特徴的です。この時期、科学技術教育の重視(教育内容の現代化)という一面があり、学力の充実というのもみえますが、「道徳」や規制の重視もみられます。例えば「官報」に告示されるという発行形式になった。法令ではないけれども、「官報」にその内容が告示されることによってあたかも「法制」のような統制力をもち、教育課程というものに「拘束」があると主張される根拠になったのです。上の「試案」の削除と同じく「意味の変容」がおこっている(つくられている)といえるのではないでしょうか。実際に文部省やある種の議員たちは「学習指導要領は法令と同じく遵守すべきものだ」から「それにのっている日の丸・君が代は国旗・国歌と同じだ」という主張をしていました。しかしその「根拠」は自分たちがつくってきているわけです。国民的議論や公約で選挙などで民意をはかったものではないのですね。恥ずかしい話ですが私の元親戚の議員(文教)でさえそういうものを「根拠」としていました。勉強が足りないのか意図的なのか。前者ならまだゆるせます。

 さて、注目はこの改訂で「道徳」が主張されますが、その実施が同年の10月からとされたことです。いま、教育改革で緊急に「今年の何月から」などとされることがあるでしょうか。移行期間などがおかれるはずです。それをすぐにやろうとする。よほど実施したかったのでしょう。他の内容は2〜3年後からなのに危急とされた。これは明治期に似たものがなかったでしょうか。同じではないけれども「教育令」が明治12年に発布されて翌年、すぐに「修身」を筆頭にする必要が問われてさらに改訂された。あれも「道徳」という内容でしたが緊急のこととされたのですね。ちなみに学制から7〜8年程度後(のち)のことでしたが、この改訂も7〜11年ぐらい後のことだったのですね。

 この路線は続いて、1968〜70年の改訂では「教育内容」がもっとも過密になった時期といわれています。小学校から関数や集合が教えられ、そして教育内容に「神話教育」が含まれるようにされた。もちろん国語の教材というのはあるでしょうが、この「神話」は戦前の天皇制につながるからと削除されたものであったのです。天皇の「神格化」というのに日本古来の神話が利用されたというのはあった。だからそれを削除した。しかし戦後教育が開始されて約20年でそれが復活とされたわけです。この時期には1966年に中央教育審議会答申として「期待される人間像」として「愛国心」と「天皇に対する敬意をもった若者を育てる」という方針が打ち出され、物議を醸したことがありました。これなどは明治12年の元田永孚の意見書などとも共通するのですね。日本の将来を憂い、愛国心を強調する。欧化の風潮を嘆く。その資料は後でみてもらいます。

 この時期は日本が戦後の高度経済成長に向かい発展する時期でもあります。1964年の東京五輪を招致・開催し、万博や新幹線開通、あるいは高層ビル建築などがあらわれた時期。日本が自信を取り戻し、戦争を乗り越えつつあったといえるのでしょうか。1953年、池田・ロバートソン会談で「自分の国は自分で守る」などの言葉が出て、日本の再軍備化というのがはじまったのもこのころです。いわゆる「逆コース化」と称される時代。これなどは米国との講和条約・安保条約の問題が影響していて、また冷戦も含めた米国や世界関係という条件や都合も関係しているものなのですね。私としてはこういう改正の方がむしろ米国や一部の層のご都合でつくられていると思うのです。

 もちろん単純に戦前の体制への復活ではないのですが、しかしそういう「規制」「管理」なり「日本人らしさの強調」が教育に導入されようとする。それが同じぐらいの時期に同じような言説とともに導入されようとなっているようにもみえるのではないでしょうか。

 この後、反動もあります。そういうものに対抗する組織的運動も騒動もありました。1970年代末にはまず「教え込みすぎ」が反省されて「ゆとり」という考えが出てきた。受験教育の弊害というものの指摘ともいわれますが、その評価はともかく「教育内容の過密」をゆるめ、また習熟度別教育という考え方もでてきた。いちおう「個性」というラインから出てきた考えでもあった。80年代にこの路線がすすめられ、1988年の戦後6度目の改訂では「ゆとり」がすすめられ、そして現今の7度目の改訂にとつながるのです。この88年の改訂のもととなったのは中曾根首相直属の諮問機関である臨時教育審議会の答申だったのですが、 ここで小学校低学年での「生活科」の導入というのがあり、これは現今の「総合的学習」にもつながるものでしょう。高校で「社会科」が「地歴」「公民」に分けられたのは、「総合」されていたのでは足りないから「公民」(倫理や人間形成)と「地歴」(日本人育成)とにしたとも考えられるのですね。「格技」を「武道」にしたのも伝統重視という点ではいいのですが、ある種戦時期の国民学校令を考えればその教科名とも一致するのですね。事実としては避けられたものに戻ったという点です。とにかく「ゆとり」の一方で教育課程審議会は「道徳教育の充実」を過大にしていた。

 2002年の本年からの実施となった「ゆとり」の教育改革は1990年代にまとめられたもので基本的にはこのラインぞいのものです。しかし一方で1999年には国旗国歌の法制化がすすめられ、あるいは2000年当時の総理の「神の国」発言、2001年にはやはり現総理の靖国神社参拝問題などがありました。閣僚の核兵器保有や徴兵制度に関するオフレコ発言などももれ伝わる昨今、日本の教育がそのように今後変化していくのかと気にしないではいられません。

 

(2)教育の循環−−哲学から考える歴史性

 資料B−1、B−2、B−3というふうに前回に比較したものを簡略化して要点をあげておきました。B−1は「対外の問題」です。「外」のことですね。江戸時代「独自性」→明治5年「国際性(直訳)」→明治12年「やや独自性みられる」→明治13年「独自性(道徳重心傾向)」→明治23年「国家主義(天皇制)」→大正期「国際性(新教育)」→昭和16年「国家主義(軍国)」→戦後・昭和22年「国際性(民主主義)」→・・・(以下略)というジグザグがみられる。B−2は「対内の問題」です。国民教育観の問題ですね。同じく「管理」→「自由」→「自由」→「管理」→「管理」→「自由」→「管理」→「自由」と動いた。B−3はその背景です。「封建主義」、「文明開化」、「経済的問題・民権運動」、「自由民権運動対策」、「教育勅語」、「世界的な新教育運動」、「世界大戦」、「占領下教育」というキーワードがあてはまるでしょうか。

 

 ニーチェ(Friedrich Nietzsche)という哲学者が私は好きでして、ニヒリズムというのを発展進化させていった人物で現代思想にも大きく影響を及ぼしている人物です。「神は死んだ」という台詞で、既存の道徳たるキリスト教精神というものが「ルサンチマン」という奴隷的なものにすぎないものであると指摘したり、科学思想や社会主義思想なども同じように批判していったのですね。そういう既存の価値観に無意識に隷属するのではなくて、自分の内側に求めて思考をすすめていって「生」自体を肯定してとらえなおしていくことが必要であるといったのですね。「神が言ったから」とか「神のため」ではなくて、自分のために自分で考えて、そして常に歩みつづけていくということを論じているのです。そうやって生きていくことを「超人」という名でも知られる思想でも示しています。すばらしい考えと、影響をのこした人物なのですね。

 そのニーチェは「永劫回帰」あるいは「永遠回帰」という究極の思想をその後期にのこしています。それは「人生」の倫理なり判断なり、あるいは価値観をもつときに、「人生」やその出来事が何度でも繰り返されるものとして受け止めるという考え方なのです。当時の宇宙論にも影響を受けていると思いますが、永遠の宇宙の中で、可能性としては何度も別の場所で、別の時に「同じ」生成なり出来事なりが起きていると考えられる。そうであるならば一人の人間の人生も「そのとき」というものが何度か繰り返されているものであるかもしれない。いや、「いま」は実は何度目かの繰り返しであるともいえる。その繰り返しの「気づき」すら何度も繰り返されているという考えなのです。

 この考えは「究極」であって、なぜなら「繰り返し」と考えると「運命」というか「どうせなるようになる」という無気力なものになるかもしれないのです。しかしニーチェはそうではなく、(まさしく「超人」が必要なのですが)「繰り返される」と決断の時に覚悟して、何度でもこれを選んだ自分を肯定して生きていく。「このすばらしい人生をもう一度」と思えるように自分で生きていくというエネルギーが大切だと言っているわけです。他人のせいにしたり、たよったりもしない。そうではなくてしっかりと「自分」として生きていくというのですね。考えることであり、動くことであり、生きることそのものである。これは究極の倫理観であり、また行動原理にならないでしょうか。

 さて、ここで「繰り返し」に注目したいのです。ニーチェのいうのは「人間」単体のことかもしれない。しかし、経済などにも変動の循環があることは知られているし、流行・ファッションなどにも、また文学などにもそういう循環の波がある。そして「教育」も循環ではないかとみられる動きがあるとわれわれはみてきたわけです。はたして、そこで繰り返されているのだとしたら、それは「永遠回帰」の運命だからしかたのないものなのでしょうか。・・・違いますね。運命としてではなくて、「考え」「意志」なくてはいけないのです。単なる反応や反動ではなくて、もっと「それでいいのか」と考えなくてはいけないのです。デリダやドゥルーズらが『ニーチェは、今日?』という本を書いていますが、そこでも後のニーチェ学者たちによって「社会の循環」への応用というものが示されています。ニーチェは作品中に「既存の権力」に対して、あるいはそれに盲従する人々に対して、「洪笑」「笑う」ということを書いています。『ニーチェは、今日?』では「パロディ」として示されている。

 つまり、私たちは政策をたてて実行する側の人ではないけれども、そういうものに盲従するのではなく、ちゃんと学んで考えて知って、それを見極めていかねばならないと思うのですが、そこでどうしようもない問題に直面したときに、それを無視するでもなく私たちの意図を実現させるための一つの方法として「わらう」ことがあると思うのです。つまり、その無知なる部分を、かわいそうな部分をわらってあげる。例えばあまりにも似た選択、適応反応としか思えない立派な意見に出会ったらそれを笑ってあげて、それでその笑われたものが意識して修正されていけばいいのです。難しいのですが、明治12年の元田の「若者の品行を憂い、愛国心涵養を叫ぶ」意見と、昭和41年の中教審答申の「戦後の若者の衰退を指摘し、愛国心復興を叫ぶ」意見とは似通っています。しかしお互いに意識してはいないはずです。ラストの資料としてあげた「新しい歴史教科書」の序文に「歴史」を学ぶこととしてすばらしいことが書かれています。それは「学び方」としてすばらしいことなのですが、しかし「現在の道徳で裁く」ことはやめようと言っていますが、それはそのとおりだけれど、それで「過去のことはいいことだ」と美化することにつなげていくのならそれは本末転倒だと考えます。多様な見方の一つや、客観的な判断が必要ですが、少なくとも「被害者意識」「敵意」を賛成・反対の両者が持っているのは問題です。その時点で「現代の歴史教育の軟弱化を嘆き、愛国心ある国民育成を叫ぶ」という意味で上の意見と同様になってくるのではないでしょうか。いや、もっといえば小泉総理大臣の言葉や行動なども、もちろんすばらしい人物なのでしょうし彼自身が考えたものだとは思いますが、そういうものと同じではないか。するとあれだけ故事を引用する人も、同質性を理解していないのかもしれない。たしかにこれまで言った意見は異なる。けれども関係や反応としては循環したものといえないでしょうか。もしそうならば、その「すばらしいご本人の独特のご高説」を笑ってあげればいいのです。それはあまりにも考えが足りないのではないかと。なぜなら、循環を理解していないじゃないかと・・・。そうやって笑ってあげること。それを私はニーチェから学びました。

 もちろん笑うだけではいけないのですが、この「哲学」の分析概念からみると、「歴史」というのが違った、多様な見方が可能になってきます。単純に「教育内容」を並べただけの「事実」ではなくてそれを「比較」してみる。次にはその「比較」したものを「哲学」なりの概念をつかって分析し説明していく。それによってみえてくるものがあるのではないでしょうか。今回はそういう考え方のお話しでした(クラスによっては次回の授業で扱う「資料」の内容をいくつか読んでいる)。

 (リアクション・ペーパー配布と回収)