教育学概論T(人間と教育) G6月24日

今回の内容
「教育の歴史」から「わかる」システムの変容を点検する。

 

 前回は、「総合的な学習の時間」(新しい教育)の授業における「わかる」システムを検証するということを試みてみました。「新しい授業」というように、あたかも特効薬のように期待されるけれども、しかし同様の教室の構成で、また同じように児童中心で、興味あることを調べて発表してという授業はあった。たしかにそれを読むとすばらしいじゃないかと感じられるわけです。しかし一方で学力が低下するのではないかとか、あるいはリアクションペーパーにもあったのですが「ついていけない子、消極的な子はどうなるのか?」という不安も感じられるのですね。

 ある意味で米国の授業方法(の一つといわれる)である「経験学習」の方法論ですが、しかし「あるもの」を輸入すればそれがすぐに単純に日本にあうのかという問題もあります。そういうことはおそらくかなりの人が感じていることと思う。それでも輸入することだけをおす論調もあるし、実際によく説明のないままに、少なくとも現場の不安をとるまでいたらずに今年度から導入になったわけです。

 私たちはしかし「教育学」を考えていくのですから、もう一つ違った考え方をしていきます。「これが日本にあうのか」ではなくて、「これ」というものが何かを考えて、もっと別のいいかたでいうと「本質」を知っておくべきと思うのです。実は「これ」を単純なカタチとして受け入れてきたから「はい回る経験主義」だの「つめこみ教育の悪影響」だのといった「対立」の言説が出ているのだと思います。実は「経験主義」というものをつくった人たちは、「経験だけ」とはしていなかったのではないかと思うのです。「知識重視」も「知識だけ」とはいっていないのではないか。そう考えています。本当はどちらもあって、それに足りない部分を強めていくという方法論で、最後には両面とも深まっていくというのを目的にしていたと考えます。

 なぜなら、「わかる」というメカニズムについて「知的理解」「感情的理解」について言ったように、「わかりやすさ」というのは入口のようなものであって、ある個人の中でその両面が深まっていくのが「わかる」が深まることだと考えるからです。この「相互」のものを、なぜ「片方」だけを強調することになるのか。おそらく主張した最初の人間の最初の意図が後に解釈されて変えられていったのだと思います。「意味変容」と呼んでおきますが、そういうことはありえます。ですから「経験か、つめこみ知識か」のどちらかではなく、本質的なものをわかった上で「いま、どちらかをアプローチとして応用していく」という考え方が必要と思うのです。これは「アメリカのものを日本に輸入してもそのままではあわない」というものよりも(よりは)「本質的」な考えに近いと思います。




 

知的理解(言語)        感情的理解(身体)
↓               ↓
教科カリキュラム        経験カリキュラム
(教師・教材中心)       (児童・経験中心)

 

 この板書のようにつながりがイメージされやすいと思うのですが、そう考えると「どちらかだけ」ではなくて、「どちらかが中心」であって結果的に両者が深まることが必要なんだととらえるべきではないでしょうか。ところが実際の教育改革ではどちらかに固定される。いや、教育学のテキスト類でも、これまでの歴史的展開をふまえていながら、どちらかを理想的と立場を明確にしていたりもするのです。それは研究や論者の自由でもありますが、問題は「本質」から考えているかどうかです。

 実際に今回のカリキュラム改革(学習指導要領)でも「学力低下懸念」の意見が強まれば、文部省は即座に「そういう意図ではなかった」「本当にいいたいことはあくまでも最低の基準なのであって、それ以上に勉強して(つめこんで)もいいのだ」とも言うのです。混乱はしているのでしょう。いや、それよりも「十分な説明」をしないで、あたかもその意志が伝わると楽観的に考えている、いや考えていないでものをすすめているとしかいえません。私がここでこうして授業をしている。私は皆さん全員に伝えたいけれども、皆さん全員に伝わるとは思っていません。いや力量不足はありますが、そうではなくて「難しい」ということは知っていて、でもだからこそ「伝わる」ように努力を続けていくしかないのです。「他人のことは完全にはわからない」というのは説明しました。でもだから「よりわかる」ようにしていくしかない。「キュウリ」を食べたからといってキュウリにはならない。キュウリを食べた自分がいるだけ。しかしそれで全てのキュウリを理解したのでもないし、キュウリの全てを食べたのでもない。まだまだ次々にキュウリがある。それを食べて、そして考えていって、そうしていくのみである。知識も同じですね。

 さて、なぜ「どちらか」に固定されてきたのでしょうか。本当にそうやって繰り返されてきたのか、それはなぜなのか。歴史的に考えていきましょう。これから3回ぐらい、いろいろな見方をしていきます。

 

(1)近代教育の歴史から考える

近代教育内容の変遷

 (プリントと板書で図示)近代以降、明治期以降にいまのような「学校」というものがあって、子ども(国民)すべてが就学するべきだということが実現されてきた。以前に絵図で見たように、江戸時代は教育を受けることのできる子とすでない子がいましたし、共学でもなければ、そもそも武士階層と平民階層の身分差があって、教育の内容も違っていたのですね。教育が「社会」で生きていくために、縄文時代で見たようにその社会に適応していくための儀式や装置であったとしたなら、江戸時代には身分階層もあったから、それぞれに別途の教育があったし、均一な教育の保障などは必要がなかったのです。ですから私たちのいまの教育の直接のスタート地点は「近代」に遡ることができると思います。それで最初の授業で、「江戸時代と明治時代とは変わった」と言ってきました。教室の風景が変わっていたのですが、今日は「教育の内容」の違いに注目してもらいます。「教育の内容」というのは簡単にいうと「教科」でして、よく「国語・算数・理科・社会・・・」と簡単に私が台詞で言っているものだと思ってください。その「国語・算数・・・」がどうやってできてきたのか、最初からそうだったのかと見ていくと、初期は違っていたのです。

 近代以前の江戸時代は封建制国家でして幕藩体制下の教育でしたが、身分階級差があり、武家には藩校などの教育機関があった。儒学・儒教道徳や武術などが秩序や家をまもるためにも必要とされた。漢籍などの知識教養も必要とされたでしょうか。庶民には寺子屋などの教育機関(学校)があり、そこでは、読・書・算などの基本的なもののみ教えられていた。読み書きの能力や計算などは丁稚奉公などに必要な教養であったのですね。「お江戸でござる」とかのTV番組でイメージされるかと思います。このように武士は武士を継ぎ、農民は農民、商人は商人、町人は町人というバラバラのものであって現在のものとは違っていたのです。

 これが幕末の動乱を経て、とくに開国して明治維新を迎えて、明治以降に新時代となって大きく変わってきます。それまでは「鎖国」していて封建制が維持されていましたがそれが崩れた。諸外国と開国してその情報が入ってきて、特にすすんだ近代文化というのをとりいれて「富国強兵」していかねばという危機感もあったかと思います。「文明開化」といって外国の情報が入って流行する。それまでのものを「一新」される。それで「国民」という考え方もめばえたし、さらには平等に国民に教育を実現するという必要も感じられた。しかし日本にはそういうものはなかった。韓国や中国もそうです。なかったところに新しいものをつくる。そのときどうするかといえば、あるところからもってくる、輸入しかないわけです。外国の情報を翻訳する。外国人を招いて学ぶ、あるいは海外留学して学ぶ。とにかく外国から輸入してモデルとして、そこから始めた。明治5年の「学制」というのは法体制が整う前のものですが日本最初の全国を対象とする教育法制でした。そこで教科とされて示されたのは、「綴字、習字、単語、会話、読本、修身、書牘、文法、算術、養生法、地学大意、理学大意、体術、唱歌」であったのですね。この図表には見方(ルール)がありまして、上から重視された、多く教えられることになっていた科目になっています。体術や唱歌は体育や音楽にあたりますがそういうものが準備できなかったのでしょう。字を綴るとかの国語が重視されたといえます。しかし、今からみると随分と違和感があります。こういうものが資料として出されて、さらりと考えずに流してしまうと「わからない」と思います。ですから違和感があったら考える必要がある。「綴字」は文字を綴るのでしょうし、「習字」はいまの習字と同じなのでしょうか、とにかく字を書いて習うものです。「単語」はなんらかの単語を覚えていかせるものだったのでしょうか。「会話」の授業も考えられていた。「読本」は文字のとおりなら読書。「修身」は道徳を教えるもので、身を修めることで礼儀作法などを含みます。「躾け」という文字も「身を美しく」という同様の意味ですね。「書牘」はフダを書くという意味で手紙などを書くようなものでしょうか。「文法」はそのまま。「算術」は算数、「養生法」は健康・保健のことを教えます。地学・理学はそのままでしょう。

 さて、違和感として、「国語」系が多くないでしょうか。「綴字、習字、単語、会話、読本、書牘、文法」と7つが国語です。いまの「国語」でこんなに分けて教えたりはしません。いや「日本語」にはこんなに分けて教える必要はあるのでしょうか。実はこれは「輸入」の性格がでています。米国のように英語が国語なら(他の言語も同様)アルファベットの組み合わせで「ことば」になるので、それを基本として綴ることや、書き方を覚え、組み合わせた単語の意味を知り、会話の能力を身につけ、本を読み、文法を教えていくというのはわかります。私たちが英語を覚えるのもそうやって学ぶわけです。スペリングから始まって、グラマー、コンポジションなどがありましたね。これは実はそういう米国の小学校の教育の「直訳」だったのだと思います。福沢諭吉らの著名な人物が中心になって文明開化の風潮がつくりあげられていく、その時、「英語」「英学」の重視がうたわれた。洋学=英語重視の時期もあって、この最初の教育案にもそれが直訳として表れたのだと考えます。もちろん直接、これがそのまま全国で実施されたのではないけれども、実施がめざされてとりいれられたのだと思う。これがスタート地点でした

 その数年後、明治12年には「教育令」というものが考案されて「学制」が改正されました。「かわるもの」とされたということは「学制」に変えなければならないと考えられた部分があったということです。「読書、習字、算術、地理、歴史、修身」があり可能なら行なうものとして「罫画、唱歌、体操、物理、生理、博物、裁縫(女子には)」があげられていた。何が変えられたか。「国語」系がやはり七つに分けられているのは無理があったのでしょう、日本語にあうように「読書、習字」の二つになったのです。そういう実状にあうようにされた。実状といえば全体の教科も減らされている。これは明治10年前後には西南戦争まで内乱が続き、財政的にも不安定であったことや、自由民権運動の風潮があって自由化がさけばれていたなどもあったのでしょう。ある意味で「学制」より簡易化されたともいえる。そしてこの「読書、習字」になったのは江戸時代の寺子屋の「読、書」に戻ったともいえないでしょうか。そういうようにもみえます。

 しかし次回に詳しくは見ていきますが、この改正ではまだ不足だと思う人たちもいた。それで「翌年」の明治13年に「教育令」が改正されるのです。こんなに短い周期で変えられるということは、そうとうに変えなければならない理由や理想があったということです。「修身、読書、習字、算術」あとは随意で「地理、歴史、罫画、唱歌、体操、物理、生理、博物、裁縫」となった。「修身」がトップにされた、つまり「いちばん重視して教えるべき」とされたのです。「修身」は「道徳」です。つまり「道徳」が足りないと考えられた。そういう意見があったのです。天皇側近の元田永孚という人物の意見を次回に見ていきますが、当時の自由民権運動への対策もあったと思います。ようするに「最近の若いものはモラルが欠けている」「天皇制(儒教)道徳を」という提案でしたが、開国路線を進めていた政府側も「自由」「民主主義」(国会開設運動)がすすめられると自分たちにとっても不利益であると考えてか、歩み寄ってこの「国家主義」的路線へと転化したのです。これが「学制」から8年目、だいたい10年ぐらいでこういう反対が出てくるともいえましょうか。

 それから10年して明治23年の「小学校令」ではこの路線がますます進められた。「修身、読書、作文、習字、算術」に「体操、日本地理、日本歴史、図画、唱歌、手工、裁縫」となった。「修身」が筆頭なのは同じですが、「体操」がかなり重視される位置に来て、実際に兵式体操など教練めいたものが行なわれるようになってきている。地理・歴史に関しても「日本地理」「日本歴史」というように教育内容を限定していってナショナリズムを統制する方向へ向かっているようにも思えます。現実にも明治19年には(資料・年表)「教科用図書検定条例」が出されて、教科書検定制度が始まり、内容の統制が強化されたのですね。これは明治36年には国定教科書制度の成立として頂点を迎えます。いちばん重要なのはこの年(明治23年)には「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)が発布され、天皇制による国民教育の方針が打ち出されたということです。日本人は古代天皇制以来の家族国家(社会)であるとして、統合とそして道徳的関係の重視とが求められた。明治26年には祝日・大祭日儀式規程によって(資料・年表)天皇の「御写真」や「君が代」を斉唱するなどが「教育勅語」の奉読とともに必須の日課としてとりいれられ、国民統制がすすめられていくわけです。明治5年の学制が直訳の欧米化路線だとづれば、20年後には真っ向対立の国家主義的路線に行き着いたともとれる。これを国際性や独自性という視点から考えてもいいし、拝外か排外かで考えてみてもいい。そういう違いがあった。年表で読みとれるように、明治13年以降は統制・管理が強められていくのだともいえます。

 ところが、それからずっと統制一辺倒だったのではなく、明治後半や大正時代には「大正デモクラシー」に代表される自由な風潮・文化というものも海外から導入されてきた。それは明治から時代が移り変わったということもありますがちょうど当時「新教育」という運動がヨーロッパで流行していたからだともいえます。日本の教育政策もまた反動がでて、ここは自由にさせていたというのもあったか、あるいは日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と戦争もあり、ある意味で帝国主義の世界で戦う一方での交流というのもあったし、留学生の影響というのもあった。大正時代は15年間だけでしたがそれを含むやはり約20年間、ある意味で「拝外」「国際的」「自由」な教育というのが入ってきた。玉川学園や成城学園などに代表される自由教育や経験学習的な実践が行なわれていたし、前回の昭和初期の「新しい教育」もこの流れにそったものです。

 しかし昭和16年になると「国民学校令」というものは「国民科」「理数科」「体錬科」「芸能科」というカテゴリーに分化されていましたが、「国民科」では「修身、国語、国史、地理」となっていて、やはり「修身」が筆頭で「国史」などが強調されていましたし、「体錬科」では「体操、武道」が行なわれていた。総力戦体制ともいわれる時期に向かいますが、日本的で国粋的な、そして軍国的な教育と思えないでしょうか。大正時代に自由な風潮といっても、たしかに海外と同盟であったり情報収集であったりはしたけれども深刻な対立はあったし、しかも関東大震災などもあり「自由」にはいききれなかったのでしょう。また同じぐらいの年数で反動的なかたちになった。ウルトラナショナリズムというのは抵抗があるかもしれないのですが、しかし少なくとも戦時期のかまえをつくる教育にとなったのです。この後、日本は太平洋戦争・第二次世界大戦に参戦し、敗戦を迎えることになる。戦争中は疎開といって田舎に児童を逃がすということがあり、満足に教育はできなかったわけです。いや、後の軍事力として確保する意味があったのではないかとも思います。ある学生は学徒動員で戦場に行き、また沖縄のひめゆり学徒ではないのですが女学生は後方支援にまわされたりもした。徴兵や戦時中というのはありますが、そういう悲惨な時代に突入した。

 ここまでみてくると、つまりたんなる「山」のようなカーブではなくて何か周期的なジグザグを感じられないでしょうか。だいたい20年間隔ぐらいで反動的に逆のスタイルになっていく。

 そして時間がなくなったので雰囲気だけみてもらいますが、もしも戦後の私たちの教育が同じようなジグザグやカーブを描いているとしたらどうでしょうか。私たちの受けているこの教育は歴史的にみたらどういう評価ができるのか。(資料の図表)実はかなり同じように「海外の情報」導入から始まり、10年前後で「道徳・モラル」の不足が憂慮され、20年後ぐらいには「日本らしさが足りない」と愛国心がうったえられる。それを抑制する自由化の動きや国際性という運動が出てきて、しかしやはりまた同じぐらいで「日本らしさ」や「モラル」が問題視される。ざっと大きくみると、同じようなカーブを描いているといえないでしょうか。そうするとこれからはどうなるのでしょうか。不安をあおるつもりはありません。戦後の日本の教育については次回にお話しします。今日は、周期的なものへの気づきというのが一点目です。これは歴史を広角でみるから可能になる。「教育」に関わっていく上での判断力を養う考察法の一つと考えています。 

  (リアクション・ペーパー配布と回収)