教育学概論T(人間と教育) F6月17日

今回の内容
「総合学習」(体験的学習)の中での「わかる」というシステム。そこから「授業」や「教育」を評価する。

 

 前回は、「わかる」ということのメカニズムを「心理学」の考え方や、また「哲学」の考え方からもとらえなおそうと試みたわけです。実際に「教育学」というのはそういう領域の知見をかりて成り立っているし、そういうものを理論的枠組みにしている。しかし、実際の「教育」ではそういうのが置いていかれがちのようにも思えて、実際にすべての授業がわかる授業ではないということになっている。それはすべてにわかるというのは理想であるとしても、それはめざすか注意していくというのは「いらない」ということではない。「わからない」よりは「わかる」方がいいわけで、次にどうすればわかるのかを考えていくことが必要となるということです。また前回、デモンストレーション(シミュレーション)をして、また図示して、・・・言語的なものと身体的なもの、いいなおせば「知的理解」と「感情的理解」というのがあって、その両者の深まりが必要といいました。言葉や情報から「わかる」方向と、感じることで「わかる」という方向。しかしどちらがよりわかるということではなくて、必ず深まっていけば一致に近づく方向にいくと思うのです。

 「仮想体験」というと「バーチャル・リアリティ」のことばがイメージされ、けっしていいことだけが考えられないかもしれませんが、前回に言ったそういうアタマの中での理解の「回路」があるとすれば、そこで「わかり」が増してくるというのは「実体化」してくるということだとも考えられます。あるいは「実体験と化していく」ともいえるでしょうか。しかしそうすると「体験こそすばらしい」となりかねません。今日の一つ目のポイントはここです。「体験」だけが教育ではないと私は考えています。実際に「体験重視」の考えは多いのです。ある意味、「心理主義」問い得るかもしれませんし、「個人主義」的あるいは「体験主義」といわれるものです。私は「それが悪い」というつまり反対の立場ではありません。そうではなくて、それだけでは駄目で、それだけを重視して他を軽視するのはもっと駄目と思うのです。それは歴史的にみて、後々にそういうことを皆さんにも納得してもらえたらなと思います。

 さて、以前に、「アメリカ合衆国の授業」の話をしました(配布資料のC)。児童中心主義の教育をしていて、教師が動くスタイルで、子どもが調べ学習をしていくなど主体的にすすんでいく授業なのですね。「個人主義」で「体験主義」的である。そして各種の「カウンセラー」などが充実している。例えば私がみてきた学校などでは少人数教室なのに補助の教員や、あるいはなんらかの問題を抱えた子には別にカウンセラーもついたりと、すごく手厚いのであう。これなど「心理主義」的といえるかもしれません。・・・「いい教育」にみえないでしょうか。そしてそういう教育をめざすべきと考えませんか? ・・・実際にそのように考えられていて、日本の教育改革の方向もそういう面をねらいとしているようです。

 しかし一方で「学力低下」などが危惧されてもいる。個人、個々バラバラにあわせた教育をしていって児童中心にしていくと、従来の価値観であるといわれるけれども「学力」なりは平均的には下がるといわれるわけです。これなどは「知育中心」「知能中心の教育」というイメージではないでしょうか。

 以上のことは「ふり」です。今日お話ししたいのはここから考えていくことです。これらの意見は「教育」でわかったことはどうかで言われているにすぎないと思うのです。つまり、知的理解で「わかる」ことを中心にすると「知能中心の教育」に直結されるようにイメージされないでしょうか。また「感情的理解」(身体的)で「わかる」ことを重視するのが「体験学習」や体験・経験主義に結びついていないでしょうか。今日はそういうところにくっつけて話していきます。

 

 リアクションペーパーによると「わかる」ことを考えていくある意味の「効果」があらわれていると思います。「自分は本当にわかっているのか?」と意識して迷っている人も多くいる。「本当かどうか」を検証していくのはつらいです。「学生」から「教師」への視点の変換だけではなくて、それすらも客観視する大きなとらえなおしをこの授業では考えていきたいのですが、そういう自らを客観視することが可能かどうかはわからない。しかしそういうことを必要と思います。まえに言ったように私は「例えば」、女子高校にいましたがそこで教師と女子高生が交際するということを、「自分の身にもありえる」と思っておきたいのです。そう思うからこそ、だからこそ知った上で自ら「意志」してそういうことはしないという立場でいたい。いろんな不祥事で何がよくて悪いかモラルの問題がみられる現在こそ、ちゃんと知っていてしないのだというそういうスタンスが必要と思います。知っているようにいっていて本当は「自分」の行為のことも知らないでいる・・・、それでは客観視にはほど遠いわけです。 ですから、「知能」でも「体験」でも、そのどちらかではない。問題はどちらかではなくて、実際にわかるのかどうかだと思うのです。先週、「〇×の功罪」という例え話をしました。何かを「〇」=「正解」とすることで実は他の可能性が却下されている。ですから「知」「経験」も「どちらか」とすることには意味が感じられません。実際に世の中では「どちらか」を不毛にも争ってきたのです。そうやって争うのは「子ども」のためなのか、それともその勢力(主張者)自体のエゴなのか。なぜあるルールの中でのまとまりを選んでいかないのか不思議です。

 話がそれていきましたが、私の「わからない」授業が皆さんを迷わせてしまっていることをお詫びします。実際に本当にわかっているのかどうかはわからないまだと思います。でも、いつかわかったり、以前よりはわかってくるということはある。「本当」なんて「あるもの」は、それがなんであるかだって難しいので私にはよくわかりません。ですから「より、わかる」を探していって、「まだ自信はもてないな」と思って「わかる」ための考え直しをつねにしていって、それこそマジックワードをやぶっていったりいろいろ考え直していくのはいいのだと思います。おそろしいのは「わかっていない」なんて自分に不安を抱えて、どうせわからないなら「わからなくてもいいや」などと考えてしまうことです。それは不毛です。内省していって弱く考えていくのはあまりよくない。わからないから「わかる」をめざす。わからないから「わからないでいいや」とは考えずに、つらいけれども少しでもわかっていく道を選びましょう。それを楽しんでやっていければベストです。「マジックワード」の言葉も呪文のようにまどわせているようですね。私のいうことが、あるいは他者の言葉がマジックワードではないかと迷う人がいる。「疑い」や「惑い」を解けていない私が教員として力が足りないというのがある。しかし徐々にわかっていけばいいのです。「疑い」が解けるのが「わかる」ことと言いました。なるべくシンプルにしていってわかるようにしていきます。それでもわからない人はいるでしょう。それでもわかるようにしていくしかない。・・・ここで「大丈夫」「頑張りましょう」というひとことは、それはマジックワードではありません。

 

(1)「新しい教育」(総合学習)を「わかる」「わかった」という点から考える

 「総合的な学習の時間」とは

 「新しい教育課程」の目玉としてとりいれられたもので、今回の新学習指導要領の改訂の際の「柱」とされたものであり、「21世紀の教育の中心課題」としても考えられている。本年度(2002年)から小学校3年生以上、中学校で(週3時間ぐらいの割合)実施される(高等学校では2003年度以降)。TVや雑誌・新聞などでも話題になっているが、子ども主体の学習で「自己教育力」をつけるともされているし(資料D)、その一方で「学力の低下」が危惧されてもいる。文部科学省は「基礎の重視」と厳選・精選で逆に「必要な知識」は増すと説明されるが、現場は具体的にどういうことをしたらいいのかと混乱している。本日の話の結論をさきにいうと、これは「特効薬」として考えるのはよくないということで、なにか「いいもの」として過大に期待して「考えるのをやめること」がいけないということです。実は歴史的に昔にもこういう授業の試みはあった(資料B)。つまり「定着」しなかったということである。そこで問題が解決していれば、それが理想どおりの教育であれば、いま皆さんはそういう教育を受けてきたはずです。ところが違う。ということは定着しなかった。それがなぜなのかを考えていきますが、まずこの授業の「実践」を紹介して、そこで「わかる」という教育の効果の面から考えていくことからはじめたい。

 

 事例1:「ひつじを飼う」授業(神奈川県秦野市立上小学校)

 昨年、見学してきた上小学校の「ひつじを飼う」授業をとりあげます。「ひつじ」を飼うことを中心として、その世話をしていったり生態を学んだり、地域と交流を拡大していったり、といったようにテーマを広げていきながら学びを深めていくというものです。まずなぜその授業をここでとりあげるかというと、実はこの学校のこの授業は数年前に取材され、ラジオや雑誌に掲載され、本にもなっているのです。しかし私が注目したいのは「昨年」取材したのは、別の先生が別の生徒(学年)を対象にして、しかも同じ学校内で行なうということに興味をもったのです。つまりある種こういう授業の成功は「教師個人」の力量によるところもあると思うのですが、しかしそれではこういう学校の事例をいくら紹介しても、それを模倣するだけでは・・・その教師に力量がなければ効果的でないと思うのです。「なるべく本当にいいと思える教育」を探すのならば、その「教育」の何がいいのか、どういうところに本質があるのかを考えていかなければいけないと思うのです。単に取材結果を紹介し、それを真似するだけでは、結局は本質に近い部分は伝わらないのではないかとも思います。「教育をする側」がそれでは「伝えられる」側の生徒にちゃんと効果がでるとは思えません。ですから、できるだけ本質をみていきたい。例えるならばいま、ワールドカップで盛り上がっていますが、トルシェ監督が辞任した後、その成果はいつまで残るでしょうか。まるっきりゼロからやりなおすのでは、つくりあげられたものは文化的にもなっていないし、消費されただけです。ちゃんといいところは受け継いでそこをまたスタートラインにしてさらに進んでいくということが必要でしょう。スポーツが強い国と弱い国。そういう受け継がれて基盤になっていくものが造られて、その上にいることができるのかで「効果」は違うと思うのです。あるイベントの時だけ一過性の夢のように盛り上がり、その後しぼんでいく。ありがちですが、それはきっと本質的な体系になっていないということです。

 それでこの上小学校では3年生が入学時に「ひつじを飼う授業があった」ことを思い出して、自分たちもやってみたいと提案して、その担任の先生が試行錯誤しながらいっしょにそういう授業をつくりあげていったのです。これは同じ学校内のことですから、特定の教師が移動して不在でも「本質」の部分が残っているのかどうかで何か影響が出るというのをみていける好例と思いましたので取り上げるのです。

 写真のように(資料F、G、H、I)羊を二頭飼って、その観察日誌をつけ、また他の府県の学校で同様の実践をしている学校と交流しながら「学んでいく」というものです。たんに学校で動物を飼うというのなら兎でも鶏でもなんでもいいのですが、その地域の農家の特色として食肉用の羊を提供してもらって、自分の住む地域のことを理解していこうということがあります。ひつじの生態を調べ、そのルーツや例えばニュージーランドの様子を学び、適する気候や餌、あるいは飼育小屋を考え、そして造り、また体重を量ったり、羊毛を刈ったり、それを加工したり、様々な活動をしていく。そこには外国地理や歴史、社会科、生物学・理科、あるいは小屋づくりで技術科の勉強があり、体重計測には算数の知識を使っていくし、力学や物理学やら応用があるわけです。そして他校との交流や成果の報告のためにデジカメで記録をとり編集していく。情報の機器の使い方を修得します。またそもそもその「構想」「筋道」(資料G、H)を考えていく「問題解決」の方法を考え、さらにクラス皆の話し合いでやりたいことを決めていくという連帯感なども学べるわけです。ウェビングなどと呼ばれる形式で、年間の授業計画を教師も交えて考えていく。もちろん教師はまかせっきりではなくて誘導していく面も必要です。できることとできないことをしっかりと教えて、それで生徒が判断していって納得できる関係を築いていく。しんどい作業ですがたしかにうまくいけばなかなかの効果があるのだと思います。

 さて、この注目した上小学校の実践はうまくいっていたのかというと、違う教員が違う生徒を相手に必ずしも同じではない内容をしたにしては(考えつく部分の共通性は当然ある)うまくいっていると感想をもちました。効果は早急に出るとは思わないので「感想」といいますが、何がそう思わせたかというとまず「子ども」がやっている内容を「わかっている」ということです。知識ということをいいたいのではなくて、なんのために何をやっているのかをわかっているのです。注目される先進校ですから視察も多く来ます。取材日もそういう公開授業の日で子どもたちへの質問時間もあり、地方の先生たちがたくさんの質問をしました。それを小学校3年生がしっかりと応答するのです(資料J、K)。プレッシャーをかけるわけではありませんが、小学生の彼らは皆さんよりも平均的にパソコンをうまく操ります。コンピューター室を利用して、例えば「総合」の成果を記録して、データを収集管理して、ホームページをつくってアップロードもする(資料L、M、N、O)。もちろん個人的に大学生ですごい技術の持ち主はいますが、そうではなくて「全体」の問題です。「自分たちは小学校時代にそういう教育がなかった」というでしょうし、「子どもの方が語学も機械技術も修得しやすい」というのもあるでしょう。しかし「必要」と自覚して使えるというのが優れたところだといいたいのです。小学生の彼らはちゃんと一回「企画書」や「設計図」をつくって、それをもとにして自分で入力してホームページをつくっていきます。構成能力やプレゼンテーションの感覚が身についているのです。それは「必要」だからなのです。彼らの授業は「ひつじを飼う」であって「パソコンを使う」ではないのです。彼らは「ひつじ授業」のために必要だから「パソコンを使う」のです。この「必要」というのが「やっていることを理解している」ことだと思うのです。この視点から構想していけば、「ひつじを飼う」ことで国語や社会科や理科、算数だって意味づけられます。そういうふうに考えてこの学校では授業が行なわれているのです。ですから、この学校の「ひつじを飼う」部分だけを真似しても他校ではこうはいかないのじゃないかとも思います。

 「わかっている」という面では、彼らは質疑時に「他の学年」の試みについてもしっかりと把握していて、それを答えていました。少人数の地方の学校というのはあるにしても、他学年や他のクラスの学びまでわかっているというのは脅威でした。皆さんは他のゼミなりで何を学んでいるか関心がありますか?  日本の大学生は自己主張をしないと国際的に言われます。それでディベートをやれとかいわれませんか。たしかに米国の人にきくと、米国では小学校(にあたる学校)に入学した時は一般的におとなしいのだそうです。それは人種や広大な地域という関係もあるかとも思います。しかしやがてハイスクールぐらいになると「主張」ができるようになってきて、大学だとそういう授業も多いという。そして卒論以外に「スピーチ」もテストであったりもする。これに対して日本では小学生ぐらいがいちばん無軌道でにぎやかで、それが中学・高校と静かになって無関心になるのでしょうか、大学生になると授業中に寝ていてとなってくる。なぜなのかは置いておきますが、しかしこの上小学校の子どもたちは欧米の教育なみの成果がでているともいえます。ちなみに学力についてはたしかに中学にすすむと、他の小学校出身者と違った環境だったせいか最初は高くはないらしいのですが二年生ぐらいの時期から「調べ学習」をしたりしてリードして学び、成績も上昇していくという報告もあります。これは少なくとも小学校時代の教育が自分の力になっていると考えられるのではないでしょうか。

 

 事例2:「アイスキャンディーをつくる、みかんの観察」授業(戦前の新教育・滝野川尋常上小学校)

 上小学校の過去の事例が紹介された本に、過去の同様の教育の例が証言されています。「定着」しないで繰り返されるのだとしたら、それは本質(大切にする部分)を見落としていたからだと思うのですが、この過去の事例からその本質を探っていきます。もともと「ひつじ」の事例がラジオで紹介された時に反応の手紙があって、証言者の西村さんという方が「昔、同様の教育を受けた」と投書し

てきたということです。その証言の一部を読んでいきます。

「おたよりにも書いた、アイスキャンディーのことね。二・二六事件の日、あの日は大雪でね。金子先生が、“明日はアイスキャンディーを作るから、割りばしを一本持って来い”って言うんですよ。 翌日、みんなで試験管を持って校庭に出ると、金子先生が“きれいな所をみつけて雪をとってこい”って言うもんだから、校舎の裏とかみんな必死になっていい場所を探してね、試験管にギュウギュウに雪を詰めて先生の所に持っていったんです。そうすると、先生がイチゴジュースをかけてくれてね。そのあと各自持って来た割りばしを試験管に差して、その試験管を先生の所に用意してある大きなバケツ・・・その中にも雪が入ってたんですけど、そこに突き立てて固まるのをみんなでじっと待って、そっと割りばしを試験管から抜くと、まさに真っ赤なイチゴのアイスキャンディーができたんです。
“先生のバケツの中の雪には塩がいっぱい入っているんだよ。塩を加えるとうんと冷えるんだよ”
 そう金子先生がおっしゃってね。とにかく楽しかったし、おいしかった! 今でもその赤いアイスキャンディーのことは鮮明に覚えているんですよ」
 (増田『総合的な学習の時間−その可能性と限界』オクムラ出版。16−17ページ)

  そしてその後、この遊びのような授業が当時(昭和初期)数少ない「新教育」の実践であり、「合科教授」ともいわれるものであり、実は教師により綿密に計画された上で実践されたものであったと語られています。高齢になった後にまで影響を及ぼし、知識としても残る「授業」。教育の効果というのは本当に後までみないとわからないのだともいえますが、この授業はいい効果を出しているので

はないでしょうか。だとしたらそれはなぜなのかというのを考える必要があるわけです。

「祖母から、“清子さん、時間割は?”と聞かれたことがあるんですが、私は答えられなかった。よく先生の話を聞いてこないからだとしかられたんですが、時間割はなかったんです。教室には大きな丸テーブルがいくつか置いてあって、五・六人ずつそのテーブルを囲んで授業をするんです。席も男女交互に座ります。出席簿は生年月日順。教室では金魚や亀を飼っていて、窓辺には水栽培のヒヤシンスなど草木が並んでました。
 冬のある日、その丸テーブルの上に金子先生がみかんを山盛りに置いて、“自分たちで、好きにしていいですよ。食べてもいいし、よく観察してください。そして観察したことを、ノートに書いて発表して下さい”っておっしゃったんです。 (上同書、20ページ)

  この描写は「授業の形態」を示したものですが、時間割という特定の教科を越えたものであることや(「総合的」といえるか)、「テーブルを囲んで座る」というのは「米国の授業風景・机の配置」(資料C)とも一致し、また上小学校の構造写真(資料K)とも一致します。そうすると上小学校のように「先進校だからできる」のであり「うちでは無理だ」とはいえないわけです。やりかたで十分

に可能であるということです。そして調べと発表があるというのでも共通しているのですね。

 この「みかんの観察」学習では、絵を描く子もいたし、八百屋へ行って値段を聞いてきたり、あるいは「“みかんのへたをとったあとの星のような模様の数は中の袋の数と同じです”なんて発見をしていた子もいました。そうしたことをノートに書いて発表しあうのです」とも証言されている。発表しあって皆の共通の知識としてとりいれ、あるいは反省によって考えを深めていくように工夫がされているし、子どもの関心の先読みをして調べてもいるのだろうがおそらくどのようにしたら子どもが興味をもってのぞみ、そして調べてわかっていくのかということを前提にしていると思う。

 

 授業の評価

 今日、話した事例はなぜ成功したのだろうか。読みとれるのは「教員」のすばらしさかもしれないが、しかしそこにいきついてしまうと結局は「個人差」として解消されてしまうのではないでしょうか。それではトルシェ後の日本を占うということにはならないのです。もちろん「個人」の努力ですが、「なぜよかったのか」「どこがよかったのか」という共通の知(本質)を取り出して、そこが必要なのだと考えていくのが「教育学」の本来のありかたなのだと考えます。

 結論としてさきにいいましたが、これは「知的理解」だけでも「感情的理解」だけでもない。どちらかだけではないのです。「知識重視の教科学習」ではないし、「経験重視の学習」のようにみえるけれども「それだけではない」のです。この場合、「それだけ」というのはこれを模倣してただただ「ひつじを飼ったり」あるいは「アイスキャンディーをつくる」ことをした場合、それだけ(経験するだけ)になるおそれが強くあると思います。

 ただ経験させる、あるいは子どもの自主性にまかせる、教師はサポートだけで口を出さないなどとなると、「教師」はいらないのじゃないでしょうか。それでいいならば教員養成など不要です。そうではなくて、これらを成功の事例というのならば、彼らはちゃんと「経験だけ」ではなくてそれを活用して「学ぶ」ことを教え、知識の必要さも教えているのです。そういう工夫があった。どちらかだけではなくて、子どもの勉強や学習を意味あるものとすることを考えているわけです。

 この「総合学習」には賛否両論がありますが、私としては「やる」となったのだからこそ、ちゃんとやることを考えていくべきだと思っています。やればできるし、できた人たちがいた。何がいいのかをちゃんと抽出していって、何をすべきかを考えていくようにするべきです。「論争」からそういう揺らぎが出ている。実は「論争」の帰着するところは極論の可能性が多いと思います。本質のところに近づいていって話していかないと意味なく「やったり、やめたり」になる可能性があります。次回はそういうところを「歴史的」にみていきます。(個人的には、他の「教科」の知識の実践・実験の場として連係してこの「総合」の時間を設定していけばかなり可能性があると思っています。上小学校の子どもたちがパソコンを使いこなし、ディベートや国語能力にあふれ、算数の成績もすぐれているということを考えれば、結局は「なんのために教育はあるのか」という意識が問題なのかもしれません。)

 (リアクション・ペーパー配布と回収)