教育学概論T(人間と教育) E6月10日

今回の内容
「わかる」という仕組みを考える。教育の意義は「伝わる」こと。受け取り側がわかること。

 

 前回にお話ししたことは、「脳」科学から考えてみても教育の必要性は説明できるということでした。「神話」ではなくてリアルさを求めていけばこういうところまでいきつくのではないかとも思うのです。澤口先生への「教育」に関する講演の依頼は多いそうです。教育学者ではない人のところへ教育の講演の依頼が集まる。そういうニーズがある。これは最初に「教育学」の信頼が失われつつあるのかもしれないといっていた状況そのものです。これは受け付けないことや批判する人もいるでしょうが、しかしこういう現在の「動き」というものも理解しておく必要があると思うのですね。そのうえで興味をもったら学べばいいし、勉強しておいてそれを批判したり、あるいは整理するというのもいいでしょう。とにかく様々な見方があるということを知るために、それこそいろんな「考え方」を紹介していきたいと思っています。

 さて、前回の最後にいいましたが、このいきついた考え方に従って「個体(生物)」として教育が説明されうるだろうけれども、しかし「社会的」にも必要で、とにかく価値観なりがつくられるというのは重要なことなのだから、だからこそ「教育」をみる目が必要なのだといったと思います。「脳」がすべてではなくて「哲学」なりも必要だということです。リアクションペーパーにあったそういう意見を紹介します。(受講者の女学生の意見の一部)

 「社会的な意味でも教育は必要ということ。人間は同じ『脳』でスタートしても個人的、社会的教育の違いによって、価値観も生き方も変わってくる。日本で育った私にとって、今のパレスチナやイスラエルが理解できないように。『教育』という言葉は『よいこと』のように思えるけど、人間にとって幸福でないことも『これは正しいことだから』と教育されると、教育された『正しいこと』を『幸せ』や『生きる意味』みたいにされてしまうことが怖いと思った。」

 こういうこともお伝えしたかったことの一つです。同じ学生さんの言葉だときっと「そうかぁっ!」とわかる人もいるのではないでしょうか。実は今日の話しはそういうことをも対象としていきます。

 とにかく澤口氏のは幼児を中心として「子育て」という部分(生命体としての営み)をいったのですが、この学生さんの意見にあるように「つくられた空間」(フィクション)としての社会(学校)での教育も対の意味で重要になるわけです(重要さが増すわけです)。

 

 さて、「教育」は余暇を条件として可能になって、そして文化などを築き、伝え、発達してきたということをいってきましたが、実は「伝える」という意味は「伝わった」という結果をともなって大きく意味をもつものなのですね。少なくとも「伝わる」ことをねらいとして何らかのものを「伝える」という意図的な作用が「教育」なのだといえるのではないでしょうか。

 

「わかる」という仕組みを考える!(教育活動における教授方法の意義)

 「教育」→意図的に伝達(「伝わる」ことが目的)→伝わらなければ意味がない

 「伝わる」というのは「わかる」(理解する)と置き換える方がピンとくるでしょうか。「意味がない」と言い切るのはどうかとも思いますが、しかしわからないよりはわかった方がいい。ですからまず「わかる」というのはどのようなことなのか、その仕組みを考えてみようと思います。

 それで最初に、まず皆さんが「わかった」と実感した時、気持ちだけではなくてそのときに何が原因でそう思えたのかというのを考えてもらいたいのです。例えば自分が過去に受けてきた教育において「わかった!」と思った時とそれが「わかった!」理由というのを考えてみるとどのような答えがでるでしょうか。まるっきり個人の意見ということでバラバラなものなのか、あるいは何らかの共通点がみられるのかということから考えたいのですね。

 だから皆さんにきくべきと思います。ところが先週の最後にでもそういうアンケートをとればよかったのですが時間がギリギリになって足りなかったので実施できないでいました。それで同じような質問を他大学(N大学)の教職の授業「教育方法論」という授業のやりかたを学ぶ講義の時間でしましたので、その答えを紹介することにします。それを皆さんがみて、これなら納得できるとか共通項を見出してくれればいいのですが。

 

 N大の学生さんに書いてもらった意見の中からいくつかをピックアップ・・・。

数学の図形の問題のわからなくて質問しにいった時、先生が「図はじっと見ていてもダメなんだよ。補助線を引いてみたり角度をかえてみるといいよ」といわれて実行してみたら確かに今まで見えなかったものが見えるようになって問題がとけた。

現代文を読んでいて、最初より作者が何を伝えたいかわかった時。先生が作者についての話しをしてくれた。




 

中学の歴史の授業で、歴史の中で理由を答える問題は先生が自力で理由を考えさせて、一人一人の答えを見てくれた。暗記だとなかなか覚えられないけれど、そういうふうに自分で考えた問題はテストでもスラスラ解けてわかったと実感できた。
 

歴史でその出来事がなぜ起こったかとわかったのは、図を書いたりプリントを配ったり、ビデオをみせてくれたりといった熱心な指導があったから。


 

塾の先生が化学で、化学の反応式が簡単につくれたり、とても詳しくわかりやすいプリントで図表がたくさん書いてあった。先生の人柄がとてもよく、私たちが勉強しようという意欲を出させてくれた。
 

高校一年の化学で先生がわかりやすい簡単な具体例を出してくれた。すごく身近な事を例にとって先生自身が理解した方法を説明してくれた。その先生は化学がとても好きで色々な本を読んでいたみたいで理解しやすかった。

生徒のわからないところをわかろうとしてくれた先生。ゆっくり丁寧に話してくれて、一人でもわからないというと、その人のわからないことをきいて解説してくれた。


 

数学で立体の説明でスポンジを切り取って説明してくれた時、よくわかった。




 

小学生の頃、三角すいの体積は円柱の三分の一であることがわかった。→先生が中が空洞の三角すいと円柱と砂を用意して実際に生徒に入れさせて証明した。
 

数学の授業で例題を解いた後、練習問題をやった時に問題の解法を物語的に論理だてることができた時「わかった」と思えた。 

 

テスト前にわからくて先生にきいてわかった。授業をきいてわからなかった時はきいているだけで考えていなかったからだと思う。

 

地理の授業でそれぞれの国の特長(文化、宗教、経済、政治、地形、気候など)を先生が例え話や写真、新聞記事などでわかりやすく説明してくれた。

国語・古典が大の苦手だったけど短歌・俳句の情景を書いて説明してくれた時、絵にしてくれることで頭で想像することができて詠んだ人の思いが理解できた。

実際に目でみたり、経験したりした事と合わさってわかった。例えば物理の慣性の法則など。

 

地球の自転と夏冬の関係をボールを使って説明してくれた。


 

三角形の内角の和をパズルをつかって教えてくれた。また三角形の図形をひっくりかえしたりしてみかたを変えたり。
 

 

 この意見には共感する人も多いのではないでしょうか(実際に当日のリアクションペーパーにはそういう意見が多く見られた)。いくつかの事例は具体的な技術が記されていますが、読んだ私たち(他の読者)も「これならわかるだろうな」と「納得」できる。いろいろな工夫をしてくれて、熱意をもって誠実に教えてくれた先生のことを「いい教師」だと思い覚えている。あたりまえのようではあるけど、これをあらためて考えてみるとどういうことなのでしょうか。次のようにいえないでしょうか。

 「人格」や「信頼」と結びついている?、教員のテクニック(「抽象化」「例え」「レトリック」「実験(での証明)」)、がある。

 なぜ、「信頼」を感じるのでしょうか。なぜ「工夫」があるとよりよくわかるのでしょうか。あたりまえのように思えるこのことも、考えてみれば説明をするときに迷いがでてくるのではないでしょうか。「教育」は「わかる」ことを目的とした行為ならば、この「わかる」メカニズムや「わかる」時の関係を理解しておく必要があると思います。

 (図で説明しましたが)人間が他人と会話をかわしてその内容を理解し、あるいは相手のことを理解するのは5つの図で示したようなことが起きていると考えられます。これは「私」と誰かが(前列の数人:タムラさん、セキさんらで実演をする)会話してみせるとわかります。一つ目の図がそれです。まず「会話」しているそのもののシーン。皆さんがそちらで見ているのがまさにこのままなわけです。この時、次の図のようにお互いの頭の中で「同じシーン」が再現されているのだと考えられます。演技が行なわれているともいえるし、それは想像でもあるといえるかもしれない。この時、相手の役割は「自身」が演じているのです。なぜなら自分は相手自身ではない。想像にしかすぎないし、相手の考えがそのままにはわからないということです。お互いに自分は自分です。再現されている自身のことは「本体」としてあたりまえにはわかっている。しかし(アタマの中の)「相手」は自分の「客体」なのです。想像でしかないし、わからない。しかし次の図のように会話を交わして相手のデータ・情報を得ていくとまるでモザイクが外れていくかのように相手のことがわかってくる。理解が増してくるわけです。この時、きっかけとしては共感をもったり、あるいは想像にリアリティが増すキーワードから理解が深まったりもするわけです。次の図ではさらに第三者がいて、それはまさに「私」でも「タムラさん(3限めの場合)」でも両者とも「他人」なのですから、それは両方とも「第三者」の中では「客体」なのです。ですから余計に難しくてわからない。いや、きいていなければ、いや根本的には「わかろう」と注意してみていなければ「わからない」のだと思います。これはコペルニクス的発現だと思うのですが、基本的に「わかろう」としなければ「わからない」のだともいえるのです。これを間違えると「学習者側」の責任にのみして、「最近の子どもは勉強をしない」と一方的に学生の責任にするようなむきもありますが、私がいっているのはそういうことではありません。少なくとも「わかろう」という意欲は大切だし、それをもたせることが大切だろうということです。興味でも知的好奇心でもいいかたはいいのです。そういうものは必要です。最後の図にその「わかる」システムを図解しました。心理学的には「転移/逆転移」などとも説明されることでも共通する面があります。自分の内面に相手を再現して実感を深めていくということが起きていく。そのわかりかたにはレベルがあるといえます。

 一つは「知的理解」で言語レベルでわかる部分です。もう一つは「感情的理解」で非言語レベルで感じる部分、あるいは身体的理解の部分ともいえます。前者はデータや情報を知識の部分、言葉・文字の部分でわかっていく、考えていくという部分です。例えば「富士山登山」の話しを私がすれば、その中で知識として知っている部分や、既存の別の経験に近い部分から(その知識を)置き換えて理解できるようになるというわかりかたがある。後者は「感覚」「感じる」部分です。言葉じゃなくて天才的に肌で感じるなどのわかりかたはあるわけです。しかし、そういう天才肌の人は例えばスポーツのスーパースターでもそうなのですが、「言葉」はもっているのでしょうか。それを言葉にして説明して、他者に伝えていくことがうまい人でしょうか。しかし、そういうフィーリングのわかりかたはある。これは従来「経験の方が大切」などともいわれやすい一面でもあります。そういう話しは次回にします。

 この二つのわかりかた。両者を深めていって「より、わかる」ようになっていくのです。会話でも「知識」でわかる部分と、そして「感覚」の部分。そういうもので対象をとらえていって実感していくことが「わかってくる」ということだと思うのです。図の「ふきだしの中(観念の世界)」の相手と実体とが一致していくということです。単純な質問としてありがちなのが「どちらがより深い理解なのか」というものだと思いますが、両者の接近・折衷と深まりが問題なのです。

 

 もう一つ、受けとり方の「わかりかた」のパターンというかタイプがあると考えています。大きくは二つに分けられると考えていて、一つは「理解型」と呼んでいますが教師のいうことや教科書の記述をそのままに「わかって」しまうというものです。すぐわかる。こういう人が生徒だと教員はやりやすいというのがあります。例えば授業をすすめていくのにひじょうに「予定調和」的で都合がいい。質問をすれば予想したとおりの、あるいは期待したとおりの答えが返ってくる。

 二つ目で逆なのは「疑問型」と呼んでいますが常に首をひねって「わからない」とか「何故だ」と疑っているタイプです。なかなか納得しないし、わかりにくいという部分もある。これが授業では「わからない」と疑問を連発するので教師にとっては扱いにくいというのもありそうです。予想を外れる疑問が発されたりもする。だから教員は都合の悪いこのタイプと距離をとってしまうこともありえる。こういう子が置いていかれて「疑問」のままにされると「わからない」と感じて、そして勉強嫌いになったりもするかもしれません。しかし、もしもこういう子が疑いが晴れていったならば、「わかる」し興味が増してくるのではないでしょうか。ですからこういうタイプの疑問に応えていく授業というのが本来は必要なのかもしれません。クイズ形式や問いかけながらしていく授業、あるいは興味をひきつける導入などが重視されるのはこういうメカニズムがあるからです。もちろん「導入だけ」ではだめですが(実際に「導入」のみに時間をかける授業は多いのです)。しかし従来、「解法」中心の「○×を分ける」のみの授業や試験が多くはなかったでしょうか。そういう授業や価値観のもとでは疑問型がついて来れないのです。(幼稚園の入試問題や小学校の設問について話したが、クラスによって違うので掲載しない)

 さて、この二つのタイプというのは「人間」が完全にどちらかに分かれるというのではなくて、個人でもある教科やある教師に対してはどちらかで、別の面では違うタイプであるというように、「程度」の問題なのかもしれません。私は数学では疑問型でわからないままでした。でも社会科は理解型です。その中でも「地理」について疑問型でしたが、ある時に疑問が解けて「わかって」きました。そういう面があるのではないでしょうか。そして、そう考えれば、先ほど述べたものもわかってくるのではないでしょうか。

 教科書を読んだだけでも読み取って「わかる」者もいれば教員が普通に話しただけでも「わかる」こともある。そして上の例(N大生の解答)は「疑問型」がその「疑いが晴れた瞬間」と考えることもできる。疑いが晴れて「信頼」がめばえる。その時、教員は何をしてくれていたのかということです。

 →次のような例を紹介した。

 ★「三角形の内角の和」について

 @授業で口頭で「三角形の内角の和は180度になる」と言った時、それでわかる人もいる。

   「わかった」気になってその台詞「三角形の内角の和」を記憶しただけの場合もある。

    受け取り方が「理解・予定調和型」・・・記憶力の低下や試験範囲の終了とともに忘れ去られる可能性もある。

 A教科書に書いてあるその台詞の文字を読ませる、あるいは黒板にその台詞を書いてノートさせる。

 B「絵」を書いたらどうだろう。わかりやすい90度・45度・45度の三角形ならば計算できる。

 Cあるいは教科書に三角形の図形が載っていれば分度器ではからせて足し算させるというのも実感は増す。

 D大きい三角形をつくって切って並べて証明して「みせる」ことで「わかった」という思いが強まる。

 E全員に自由に様々な三角形を配って、それで実験させて証明させれば、これがこういうものなんだと実感がわく(疑いがなくなっていく)。

 (他に、ボールを使って、地学の火山帯やプレートテクトニクス理論、あるいは地殻、地震の問題を教えて、また理解した説明などを紹介した。)

 

 さて、わかるということは、あるいは「伝わる」ということは、例えば「糸電話」に例えてみればわかりやすいかと思います。「A」と「B」とで会話をして情報が伝わる。これは「A」というコップからつながった糸を通して「B」というコップにものが伝わっていくということと同じだと思うのです。これは「A」というコップに向かって話した言葉がトランスミッターで振動に変換されて、その振動が媒介である「糸」を伝わり、「B」コップに伝えられて再び振動がトランスミッターで声に再変換されるということです。この「再生」を「再現」といっていいかもしれない。すると変換して伝える「糸」の部分も重要になる。この「糸」が断ち切れていると伝わらないのです。もちろん「A」コップも「B」コップも必要です。これをさきほどの図に対応して考えてみれば二人の人間が 「A」と「B」とに当てはまるわけです。「A」が教師なら、「B」を生徒として、生徒は伝えられたことをアタマの中に再現していくことで伝わっていくわけですから、生徒自身の受けとり方ももちろん重要です。しかし、その「再現」可能性をあげるためには、たんなる暗唱復唱ではなくて、教師のレトリックや例え、あるいは教材の工夫などが大切になる。そして相互の「糸」というコミュニケーションラインがつながっているように信頼関係を保ちながら、それが増していくように考えていかねばならない。むしろその「ライン」を有効にしていって、さらにわかることで増していくためにも教師の働きかけや技術は必要でしょう。そのときに時には知的理解から、時には感情的理解から、時には疑問を解いていくカタチでと、最終的に「よくわかる」ように意識していく必要があるわけです。

 このようなことが「わかる」ということのメカニズムであり、技術的にわかっておくべきこだと考えます。

 ようするに、簡単には、そして完全には「わからない」のですが、それでも理解度は増してくる。だからこそ、理解を常に深めていくようなものが必要となってくる。哲学者の考え方としては、例えば「キュウリ」の通になる、キュウリのことをよく知るというのはどうでしょうかというものがあります。「あなたはあの美味しいお店の本物のキュウリを食べていない」なんていわれることもありえるでしょうか。「本物」かどうかは別にして、たしかに食べていないのですから、食べている人よりは経験も実感も少ない。そしてそのキュウリを食べたとする。しかし、それはキュウリをわかったといえるのでしょうか。極端にいえば、われわれは「キュウリ」を食べたからといって「キュウリ」になるのではない。つまり完全な「キュウリ」などはわからないのです。難しいけれど、完全に相手のことや話すこと、あるいは文章の理解はありえない。そのひとにはなれないのです。私は私、そこにいるのは「キュウリを食べた私」という一歩すすんだ姿なだけです。しかし、そもそも、キュウリはまだまだあるのです。厳選素材、幻、なんでもいいのですが長野にも北海道にも、佐渡でも福井でも北関東でもどこでもいい。いろいろあるわけです。それを一個一個食べていく。それを「食べた自分」というようになっていくのみです。ですから終わりはないし、しかし進んでいく。ある「状態」がいいのではない。つねにそれに向かって進んでいくしかないというのが「理解」や「わかること」だと考えます。

 今回は「わかる」というのがどういうものなのかという話でした。次回に実際の「授業」というものをとりあげて考えていこうと思っています。

 (リアクション・ペーパー配布と回収)