教育学概論T(人間と教育) D6月3日

今回の内容
教育を「脳」科学から考える。生理学や社会生物学から「教育」をみる。

 

 前回まで、「教育の原理から学んでいく」として様々な考え方がありえることをみてきました。過去の考え方にも素晴らしいものはあるのですが、その当時には発見されていなかった知見はある。ですからなるべく新しいものまで含めて考えていって、それでなるべく説得力のある説明を探していこうと思う。例えば「ロマン主義だった教育学」ということを言いまして、「脱神話」ともいうべきことをしていこうと言ったのですね。多様な考え方をしていこうと言った。それで、そもそも「教育」を可能とする条件、変化させる条件は何かというところから考え出そうということにして、それは例えば「寿命」なり社会の発展、科学の発展などによって「人間」の暮らしに「余暇」がつくりだされてきて、それによって様々なことを思考したりつくりあげることができるようになった。そしてそれを伝えるということすらシステマティックになってきたのではないかと考えてみたのですね。

 これは、「子ども」というものが意識される、何か学ぶ時期のように意識されることを(子どもをそういうものだと考えるようになることを)可能にしたと思いますし、ある種の「発見」であったといえないかと思うのです。それで、その「余暇」という条件で考えてみることができるのか、ということを「歴史的」に考察する中で(ある時代を選んで)試してみようということにしたのです。有効な視座となりえるのか、証明してみようと思った。それで、「教育の起源」ともいうべきスタートラインに注目してもらいました。日本では文化のスタート地点ともされる「縄文時代」に「教育」が可能になったということがいえるのかどうか、・・・そういうことを「余暇」と社会関係に注目して考えてみたわけです。「定住」によって文化がつくられ、伝えやすくなった。いや、現に後世にまで伝わっている。そして、「世界観」もつくられ、ワタシ、ワタシタチ、カレラ、アナタ、アチラ、ムコウガワなどの考え方が育まれてきたともいえる。そういうお話しをしてきたのでした。

 もちろん現在の「教育」の直接のモデルなりがそこでつくられたのだということではなかったのですが、それでも広義での「教育」関係というのは生まれていたと思うのです。「人間」と他の動物の違いというのも以前に説明しましたが、「脳」から生まれてくる(絵で生理学的変化を説明)、ゆえに「早産」で産むしかないし、だとすると就巣性であるから留まらざるをえないし、とどまるということは分業や定着、養育が必要(または可能)となってくるということでもある。この人間の「定着」の理由はそういう性質・構造をもって産まれてくるからでもありますし、だから「余暇」がつくられて、文化や技術、科学、社会環境などをつくり出してそして発展されることが可能なのだと思うのです。

 いままでに話したことはそうやってつながります。そして今回は予告したように「脳」の構造や機能から「教育」というのを考えていこうと思っています。

(時間によって多少の話し方に違いがでています。当日のレジュメには以下のように書いてあります。

 −−過去の教育学は「マジックワード」や「逸話」を原理としていて曖昧な部分が多かったが、最新の情報に更新していかねばならない。人間に教育が必要な理由は、生物学的にも、医学的にも、生理学的にも、そして脳や心理学的な視点からも説明していくことができる。−−)

 

教育を「脳」の構造から考える立場

 配布した資料は澤口俊之氏(北海道大学医学部教授)の論稿ですが、哲学系の雑誌に掲載されたものでコンパクトなものなので(授業で読みやすいと考えて)配布しました。他にも面白い(と私が思う)著書が数冊あって、『「私」は脳のどこにいるのか』というような人間の「自己」「自我」の問題を「脳」の部分や働きから説いたものや、『幼児教育と脳』というような「脳教育」という概念を提示したものまであります。今回のこの資料はその著書で展開されるお話しをまとめられたものととらえています。この『幼児教育と脳』という本は出てすぐに読んだのですが、なかなか勉強になりました。ようするに「脳」がどのようにしたら育つのか、よく育つのかということから考えていって、それで「教育というのはそのために必要だろう」と論じているのだとも読めます。こう考えるとこの教育学概論で扱っているまさに新しい教育原理の一つなのだとも思えるのです。他に『平然と車内で化粧する脳』というのもあって、最近の若い人たちの行動が変わってきているといわれることを「脳」の機能の状態から考えているというものです。先日(数日前)、ちょうどTVにも出演されてその話をしていましたが、例えば10歳ぐらいになるまでにしつけなり役割なりを与えられて厳しく育てられた子どもに比べてそうでない子は、大人になって以降に子育ての際でもそうですがなんらかの問題が出てくることがあるのではとのことでした。幼児性がでるということでしょうか。退行してしまったり、大人になりきれないとか、あるいは社会感覚が欠如していたりといったこともありえるでしょうか。これらも「脳」の障害とか損傷ではなくて、「教育」の問題といえますね。こう考えれば、「脳」の問題は「教育」の問題である。いや、「教育」の問題は「脳」の問題としてとらえなおしていけるのではないかということが澤口先生の仰りたいことなのだと思います。

 (資料は次のようなことが書いてある。『人間会議』Vol.5)

「『天才』をつくる『脳』」
天才を育てることは可能か
−子どもを天才に育てるにはどうしたらいいのでしょうか。

「天才」にもいろいろあります。「一つの知性がとびぬけて高い」ことを天才とするなら、それは育てるというより、生まれもった遺伝か、あるいは脳のダメージの問題です。例えばサバン症という「白痴の天才」といわれる症例があります。普通のIQは低いのですが、特に芸術、音楽や絵画などの能力が飛びぬけて優れているという例です。そのいい例が山下清さんですね。「脳のダメージ」といっても、それは微細なもので、胎児期にできる等の説もありますが、いずれにせよ脳のはたらきかたが普通と違うということです。遺伝、脳のダメージ、それから生まれたときの機能発達障害・神経発達障害の場合もありますし、環境ホルモンの問題もあります。そのような要因から発達障害がおこり、一万件に一件ぐらいの割合で、「天才」=特別の才能が発達するのです。
 私たちは多重知性という、いろいろな能力をもっていて、それらは相互に関係しながらも別個にはたらいています。そのうちの一つ二つが突出して、他の発達をおさえている場合を「天才」ともいえます。例えばエジソンは言語能力はだめだったけどクリエイティヴな能力が発現したといえます。つまり「育てる」というのではなくてたまたまもってしまったというより他はないのです。
 遺伝的ということでいえば、単純な量的遺伝やメンデル遺伝ではない「遺伝子の組み合わせ」によって天才になることがある。だから「鳶が鷹を産む」こともあるのですね。ですから本当の意味での天才というのはめったにいないのです。
 そのほか「天才」の育て方として思い浮かべるのが、「英才教育」です。しかし、これはやっても無駄だと私は思います。なぜなら、IQを目安とするのなら、幼児期から英才教育をすればあっと言う間に高くなって一四○以上にもなります。それは測り方が精神年齢と実際年齢の比であるからで、年齢が小さい程、一年の差が大きいのに、一年分ぐらい先に課せることもできるからです。しかし追跡調査によれば、この値は落ちていきます。結局は、受験勉強と同じような訓練でしかありません。IQテスト用の勉強をすれば上がるのですが、いずれ下がってしまいます。しかし基礎になる能力と考えるならば、八歳ぐらいまでにやるといい。絶対音感、多国語を話す能力、音楽・絵画の芸術的才能、スポーツ等、子どものころの英才教育は効果があります。これは神経回路の問題なのです。例えばバイリンガルの能力ですが、八歳までにネイティブな二ヶ国語に接しておく環境があれば大人になっても二ヶ国語を同じように話せる話バイリンガルになります。その根拠は脳の構造にあります。ブローカ野という言語に関する中枢の部分が、子どもの頃に二ヶ国語以上の環境に育つと同じ領域で二つや三つの異なった言葉を扱うのですが、八歳を過ぎてからだと、新しい言葉の領域が母国語用の領域の横に別につくられるので、なかなかうまくはたらかないのです。もちろん努力しだいで同時通訳になるような人もいますが。こうした「構造」に対する影響を与えるのは、子どもの頃の環境です。ですから生まれつき得意なことを幼児期からやれば、その能力はとても発達します。ただ天才になるにはどうしてもプラスαが必要なのです。
 子どもの普通の能力は、両親から遺伝します。例えば学校のテストの成績も子どもと親で相関するものです。幼稚園の段階では、子どもを見てもまだわかりません。ですから、ある幼稚園や小学校では、入学に際して両親のIQを測ったりしているのです。医者の一族がいたり、スポーツ一家がいたりするのも同じことです。環境もありますが、「向き不向き」の能力というのは遺伝しているのではないでしょうか。

共通因子「g」の能力が重要
−先生はなぜ教育と脳の関係にこだわっていらっしゃるのですか?

 理由は二つあります。私は脳の「前頭連合野」を専門にしていて(下図46の部分)、ここが「人間」の中心だと考えています。しかし、今はそこの部分のはたらきが悪いとしか思えない人が増えているのではないかと思うのです。そのことで、はっきりわかっている部分として「g」というIQの説明をします。個別的なIQ(言語・空間・論理的推論能力)は、一つが高ければ他も高い傾向があります。ですからそこには共通する因子があるのではないかと考えた人がいます。その因子を「共通(general)の一般的因子」と名付けたスペルマンという人は、これを「g」と呼ぶことにしました。「g」が高いと個別(普通)のIQも高いという傾向があります。しかし普通のIQが高くても必ずしも「g」が高いとは限りません。
 「g」が高いと、一般的に社会的な成功に結びつきます。逆に低いと人生の失敗をする可能性が高い。犯罪を犯したり、高校を中退したり、仕事が続かなかったり、離婚をしたり、そういう傾向にあることがわかってきました。しかし普通のIQは、人生の成功とさほど関係がありません。追跡調査でもそれは明らかで、普通のIQが一四○以上の人でも、突出した業績は残していません。アメリカではそういうIQの数値化がよく行なわれているのですが、もっとネガティヴには、IQが高いほどストレスでアルコール中毒が多いという例もあり、深刻な問題です。
 「g」の能力は、脳の全体にあるのではなくて「前頭連合野」の中心(四十六野)で活動するということが二○○○年に発表された研究(ダンカンらが雑誌『Science』で報告)でわかっています。しかも前頭連合野にダメージを負われた患者さんは、理性は失うし将来の展望がないし、集中力も独創性もなくなっています。幸福感や達成感もなくなるようなのです。未来志向的な努力をしたり社会的な関係をつくっていく能力に欠けてしまう。前頭連合野というのは、様々な多重知性をたばねる「監督」あるいはて「オペレーティング・システム」みたいなもので、多様な知性をうまくつかう場所なのです。だから、この部分の働きを高めることが「よき人」をたくさん育てるために重要です。
 二つめは私自身が子どもをもったせいで教育について深く考えるようになったからです。「ゆとり」教育とか「生きる力」とか言われても目に見えないではないですか。観念的な世界です。だから私は、実態のあるものから、能力を解き明かしたいと考えたのです。
 我々は脳というのを「メモリー・ベースド・アーキテクチャー」と言っています。「メモリーに基づいて情報を処理する」という性質があるからです。情報を処理するのには知識と経験を蓄えておく必要があるのです。つめこみ教育はダメだと言われますが、ベースになる知識があって、それらが、有機的に結びつくことで優れた能力が発揮されるのです。子どもの方が記憶力は抜群だしデータベースをたくさんつくれます。メモリーは多いほどいいのです。つめこみ教育のやりかたが拙いというのはわかりますが、適切なつめこみ教育をしないと脳はだめになります。

IQではなく、PQを育てる
−「g」の能力を伸ばす方法はありますか?

 これは単純に「遊ぶこと」です。肉弾あいまみえて遊ぶ。様々な工夫をして遊ぶ。テレビゲームをやるのも頭をつかいます。しかし、進化生態学からいって「g」は基本的に社会生活や人間関係のための能力です。だから複数での遊ぶ方法がいいですね。缶蹴りとか昆虫採集とか。昔の遊びはそういう効果があったのです。八歳ぐらいまでは遊ばせればいい。ただしつめこみ教育も重要です。

−先生は「PQ」を育てろとおっしゃっていますが、それはどういう意味なのでしょうか?
〇「前頭連合野の能力」(Pre-frontal Quotient)ということです。「g」はその能力を測定できる一部分のことで、未来志向性や独創性、集中力など、他のいくつかの能力を総合したものがPQです。前頭連合野は理性や感情のコントロールもします。PQは、IQやEQ(Emotional Intelligence:心の知能指数)よりも重要な能力であると考えています。実際にはEQを含み、「感情emotion」をコントロールしますが、PQは、行動もコントロールするのです。つまり、人間の最も本質的な知能で、様々な能力を全て統合する力なのです。ですから、この能力を高めることが、問題行動−例えば、引きこもりとか自殺とか、暴力、最近ではDV(夫婦間暴力)や幼児虐待などという現象が取り沙汰されていますが−を解決するひとつの手だてになるのではないかと思うのです。PQが高ければ、本当の意味で「頭がよい」ということになり、社会的にも成功しますし、人間らしい人間になります。ですから、PQの能力を高めることが、人間の育児や教育の基本だと思っているのです。もっと言えば、PQが伸びれば、日本も世界もよくなるものだと楽観しています。
 育児や教育には価値観の問題もからみます。例えば「人を幸せにする」という、人間の本来の価値観、いわば「本能」にしても環境の影響でもてなくなることがあります。例えば児童虐待で大きなダメージを受けると、セロトニンを中心とした脳内物質が減り、海馬という部位がダメージを受け、母性愛がなくなります。こういった本能は適正な環境がなければ発現しないのです。哺乳類はほとんど環境に依存して本能を発現させていきます。環境によってはかわってしまう。
 おそらく子どもの頃からの環境のせいで、今は「お金があれば」とか「楽しければいい」という価値観に縛られています。価値観はは本来重層的なもので、最も高次な価値観は前頭連合野で担われています。しかし、近頃の人々の多くは、前頭連合野より下位の脳領域が担う「快/不快」「楽しい/楽しくない」のレベルで価値判断しているのです。楽しくなくても、一生懸命やって充実感を得るとか、大きな壁を乗り越えて喜びを感じるとか、まさに偉大なことを人間はします。そういう高度な意味での楽しさをもたないで、欲望のままに生きている若者が増えてます。だからこそ今、高次な価値観を担うPQを発達させることが必要なのです。(以下、略)

 

 この論説で語られていることは、「天才」や「頭がいい」というのはどういうことかという問いへの澤口氏なりの答えを出しているわけです。荒っぽい言い方でいいますと、「従来のIQよりもPQの方が大切だ」と言っている。IQは知能テストで量られる数値でして、用語の意味は文中にも書かれています。PQとは「前頭連合野の能力」(Pre-frontal Quotient)というように書いています。要するに、IQが高いというのは「あるテスト値が高い」ということでもあってそれはそれで一つの指標とはなるけれども、それ用の勉強をすればすぐに伸びるし、おまけに一時的なもので定着はしないというわけです。それゆえ、「天才」や「頭がいい」とはいえないのじゃないかというのです。その点、様々なIQ全体を高めて統括するようなものを「g」(共通の一般的因子)といいますが、その「g」をも含むもの、そういうものを束ねる部分が脳の「前頭連合野」という部分にあって、その部分の脳の能力を「PQ」と呼ぶというのですね。感情や判断力、コントロールする力も含む、まさに「人間」の本質的な部分だというのです。暗記や計算ではなく、考える力といってもいいかもしれません。そういう能力が高まっていくことを「頭のいい」人といえるのではないかと言っているわけです。当然、「自分」の心と身体をコントロールして、多重知性を使い分け、バランスよく調整していく能力を発揮するのですから、それは人間らしい人間、あるいは社会的に成功する人間であるとイメージされないでしょうか。ですから、いまの教育にはこういう力を育てることが必要だろうというのです。「生きる力」「ゆとり」等はマジックワードだといいました。しかし澤口氏の考え方ならばもっと具体的にいえるのですね。「脳のここの部分にある、こういう力」というように説明が可能なわけです。

 さて、「人間らしさ」というものを考えてみましょう。「人間」は他の動物と違ってどのような能力をもっているのでしょうか。どのような違いや特徴があるのでしょう。あるいは「人間であるとは」と問われたとしてどのように答えられるでしょうか。

 人間は「理性」をもっている。だから普通に生きていけばそう悪いことはしようと思わないし、他者を傷つけたりしない、そういう判断力などがある。善悪の判断などです。そして「将来の展望」というものがある。チンパンジーのアイちゃんの話しはしたと思いますが、やはり前回の「余暇」と同じで人間は将来像を考えることができるというのが大きな特徴ではないかと思います。そから「集中力」。もちろん動物的な集中力や執着心というのはありますが、人間の集中力というのはもっと複雑な関わりの中でいろんなものを分けていって力を尽くせるという能力です。それから「独創性」も顕著です。動物と比べれば際立っている。あとは喜びを感じる「達成感」や「幸福感」を感じるということが「人間」の特徴ではないでしょうか。

 しかし「脳科学」の本にはよく書かれている事例なのですが、ある人の頭部に杭が刺さってしまって、その人は頭部を損傷した・・・、具体的にいえば「前頭連合野」の一部分を損傷してしまったのですが、するとその人はそういう能力「理性や将来観、集中力、独創性、幸福感、達成感」などに問題が生じたというのです。理性や判断力がなくなった。とうぜん集中力がなくなり、何かを継続したり達成を喜ぶ感情もなくなって、他者や自分の幸福も考えられなくなってくる。将来のことなど考えようもない刹那的考え方に陥ったというのです。誤解をされかねない言い方ですが「人間らしさ」の能力を失った。つまりある意味で人間でなくなったともいえるのです。ことわっておきますが、これは「脳」に障害を負った人が人間ではないというのではありません。人間に特徴のある部分の能力に障害が出ているのだということです。

 ある部分にダメージを負ったからこうなったのだとすれば、その「ある部分」に「人間らしさ」があるのだとも考えられます。そこが「前頭連合野」でして、ですからそこに「人間の能力がある」と考えられ、「PQ」(前頭連合野の能力)というのがそれだろうと。そしてその能力が高ければ社会が不安にならないし、よくなっていくのではないかというのです。そういう能力を育てるのが本来の教育ではないかともいっている。

 実際にはもっと複雑で、逆に別のある部分に損傷を負った荒々しい人がおとなしくなったり性格が柔和になったりすることもあるといいます。これなどは部分によってはそういう能力を「抑制」している箇所もあって、偶然にそういう抑制が吹っ飛んだのだろうともいえるわけです。実際に治療などで脳のある部分を切り取ったり損傷を加えるとある症状が回復するというのもあったのですが、そういうもののうち破壊的な治療法は数年で禁止になっていたりもします。極端にいくと「脳」を改造して天才や超人をつくれるのではないかということにもいきついてしまう。ですからここではそういうことまでいっているのではなくて、少なくとも脳のある部分を育てないと社会の将来も不安にあるぞということなのですね。「脳の構造」から考えてもふさわしい時に教育が必要だということです。

 ちなみに「つめこみも必要」ということも「脳」の構造や機能から説明されています。何が悪くて、あるいはいいことなのかに説得力があるのです。ちなみに飛行機がなぜ自由に飛んでいくことができるのかと話しましたが、あれは翼の昇降板部分が気流や角度を計算してコントロールしているのですし、鳥の羽根と同じように「指」のような構造にもなっているのですね。コンピュータにいろいろな情報を詰め込んで、それをもとに分析判断していく。ロボット工学もそれで発達していて、かつては鉄腕アトムのような歩行するロボットは困難と思われていましたが、いまはASIMOのようにスムーズに歩けるものが開発された。かつては対応ごとの反応しかできなかったものが、メモリーというものをもちこんだことによって様々な対応とスムーズさが可能になった。私たちの知識も同じで、様々な経験やデータが蓄積されて、それをもとに判断をしているのだといえるわけです。

 人間は前回にもいいましたが「白紙」で産まれてくるのではない。なんらかの「構造」をもって生まれてくるわけです。澤口先生の考え方ならばおそらく、「人間は『脳』の構造をもって生まれてくる」となると思います。だから「教育」が必要で、どういう教育が必要かを考える時には「脳」の機能や構造、あるいは発達というものも考えておくべきではないかということです。

 さて、別紙で私が「生理学・発達」の状態と、「教育・学校課程」、「心理学的・知能発達段階」、「教育思想のルソー『エミール』の記述」という各項目ごとに、年齢ごとにならべ比較する表を配布しました。「生理学・発達」の欄は発育急進期や男女の思春期スパート期などの成長の過程や、あるいは大脳・神経経路発育、内臓器官の発育、骨格筋の発育という段階、または代謝などについて示してある。「大脳」についても脳鞘化やその完成の年齢などが示してあります。それをベースに他の項目をあわせてみれば、小学校や費来マリースクールがはじまる年齢(知的・意図的教育)や例えば鍛練的体験・部活動などがはじまる時期、あるいは社会人として独立していく年齢というのにもそれなりの整合性がみられるようである。知能の発達段階もピアジェ的理解ではありますが、感覚運動的知能(反射的行動)や前概念的象徴的思考(描画や言語的思考)を得たり、直感的思考といってかたちなどを覚えていくのになぜいいというのかがやはり「機能・構造」の問題として生理的にとらえうるのです。「具体的操作」の段階で小学生でもあるし、さらには大脳の大部分の構造の完成というのに関係もあろうかといえるでしょうか。『エミール』での12歳までの内的発達というものや、例えば15歳以降青年期までの教え方も15歳ぐらいでヒトの脳がほぼ完成しているということにも対応している。もちろん中学から高校へという部分でもある。つまり、これまでバラバラに得られてきた知見も、それなりにそうまちがってはいないというのがまずはあります。「社会科学」として経験で蓄積されてきたものも、こうして比較してみれば「自然科学」的にも裏付けられる。それは臨床といえるかどうかは別として、やはり長い間「観察」されてきたという成果であるからです。しかし、その「経験」だけで納得した気になって、考えないということはあまりよくないと思うので、それならば社会科学的なものの有効性をさらに意識するためにも自然科学的なものや医学的なものまで交えて、つねに考えていこうじゃないかということなのです。今回のお話しはそういうことです。

 医学や自然科学、あるいは「脳」ですべてが説明されようとも、しかし社会科学や哲学なりは重要さを失いません。なぜなら、そういう構造をもって生まれてきても、世の中の価値観なりは社会でつくられていくからです。言葉もそうです。すると結局はこういうことですね。「生成や存在・機能としても人間には教育が必要だ。これは『脳』科学からもいえることである」・・・。そして「さらに生まれてきた社会の中で価値観なりに影響を受けて育っていく。そういうものを教えるのが教育だとしたら、やはり『教育』の内容や存在は重要なものといえる」。(以上のような内容でした)

 (リアクション・ペーパー配布と回収)