教育学概論T(人間と教育) C5月27日


 

今回の内容
教育を「可能とする条件」を、その起源にまで遡って確認する

 

 前回、「教育の原理から学んでいく」として様々な過去の教育モデル論を紹介してみました。例えば白紙や植物などに人間の成長や教育の必要性が例えられて語られてきたのですが、そういうものも「その当時」にはよかったのかもしれないし、意味をもちえたとは思うのです。しかしいま教育が「ロマン主義」と揶揄されるのは実は「その時のまま」の言説から進歩していないというか、考えていないからではないかと思うのです。私の立場は単純に「そういうものが悪い」というのではない。そうではなくて、その当時意味をもっていても変容なり少なくとも諸科学は進歩していくのだから、情報(知識)は更新されていくべきだといいたいのです。例えればパソコンのOSやソフトが更新されないままで、(それ自体が商業的な問題もあるでしょうが)世の中に対応できなくなってくるということです。もちろん「使える」し「正しい」のかもしれない。でも新しいものに対応やリンクできないならば、新しい問題(例えばウィルスなどがそうですが)に対応していけないわけです。不信感に応えていくには、常に根本への理解を深めて、そして土台をがっちりと確定しておくべきで、これは「自我」でも「自己」でもそういう「自分」というものをしっかりともつということでもあると思うのです。哲学でガダマー(Hans-Georg Gadamer)というドイツ人の学者が「地平」などという用語をつかってそういうことを説明しています。人間が何かを考え、行動し、判断するときにもつ「先入観」のことを「基盤」としていて、そういう基盤があるからわれわれは物事を理解していったり受けとっていくことができるのだということです。そういう「地平」というべきものがある。「先入観」が「固定観念」や「思い込み」「強迫観念」といったものと同様にマイナスイメージで考えられてしまうと困るのですが、私が皆さんと話が通じるのも(その通じる部分は)「先入観」や「基礎」ができているからです。日本語を話したり、きいたり読めば意味がつかめてくるということもあるし、話が数回にわたって連続されていくことによってやっとでもわかってくるのですね。同じベースともいえるかもしれません。その人ごとに独自の経験や要素なりもある。

 もっといえば「知識」でもなんでもいいのですが、そういうものの「歴史性」というものが問題だと思うのです。自分のなんらかの歴史性をもつ知識によって、物事を理解するときにそれを比較の対象としていくわけです。それには一致して考えられる(共感・共通)部分もあるし、しかし明らかに異なる部分もある。誤解してしまったり違和を感じる部分です。例えばいま私たちの生きているこの世の中と江戸時代とはやはり「違う」ということもある。共通している部分とそして異なる部分。でも比較によってそれに気づくし、いや比較することによって「本当にこれでいいのか」という考えの発展もでてくると思います。ガダマーはそういうことをいっていて、つまり私が思うには(私なりの解釈をすると)、古い教育の「考え」を考えもしないままでいると「何も気づかない」でいるわけです。ところが比較の対象として「いま」の学問界レベルや新しい情報を知っていけば、その問題というものに気づいていくということが可能になる。もちろん過去の歴史を考えるときに「いま」の視点から多様な判断をしていって新しい発見や問題点を理解していくことも可能なわけです。私にいわせれば「過去」のことも多様に解釈していくことが可能になるというか、これまでその「ものさし」すらも固定されていて「過去」の問題も見落としていたということもあったんじゃないかと思うのです。今回はそういう問題をみていきたいのですね。過去から何を見出していけるのか、そういうことを考えていきます。

 リアクションペーパーとして寄せられた質問・疑問に応えていきます。(略する。寿命についてや、可塑性について質問が多くあった)

 

(3)教育を可能とする条件、変化させる条件は何か?

 「子ども」の発見?

 これについては前回、医学の発達、宗教の超越、解剖学の発達、科学的な見方や生理学的理解によって、「子ども」というものが発見されたというか、教育が可能になってきたのではないかということをお話ししました。今回は歴史的に「教育を可能にした条件」というのを考えてみます。

 

 「余暇」という条件

 前回は「長寿」率の変化によって、人間の生活に「余暇」が生まれて、それではじめて「教育」が可能になったのではないかとお話ししました。「school」(学校)の原語シューレの意味が「余暇」というのもありますが、この「余暇」というのは成立させる条件として注目してもいいものだと考えます。

 資料の写真(図絵)類5枚をみると(前回使用したものを再び提示した)、「寺子屋で複数の師が同一教室で教授している絵図」、「明治初期の教員養成機関の授業計画(「助教法」という方法)」、「一斉教授の授業の教室配置図」、「米国の授業風景写真」、「総合学習での調べ学習授業の教室配置図」という順番に発展(展開・変化)してきたと理解できるのですね。「個人」の教育から「集団」の教育へと変化し、再び現在では「個人」の大切さが強調されてきているともいえましょうか。「ゆとり」などのスローガンにもあらわれていますが、「個人主義」や「児童中心(学習者中心)主義」、あるいは「自己教育力」が大切とされている。この変化は諸外国でも同様といえるし、歴史的にも、一部のものの教育から集団教育の実現というのが起り、後にその画一性への批判から個人重視の学習へと展開してきたという点でも軌を一にする。より正確には日本はかなり海外の教育を移入して発展してきたともいえるわけです。しかしそこからもう一歩進めて考えていこうということで、前回は医学の発展などにも注目してみたわけです。そして「長寿」によって「余暇」がつくりだされたことで「そういうような」変遷となったといえないかと考えていったわけです。

 もともとこの講義は「人間」という個人と、その変容の歴史をみてもらって、そこから教育の可能性や限界、あるいは関係に注目していこうじゃないかというものなのです。それでその考察の対象となる「教育」というものが「何によって可能となったか」「どのように関係しているのか」ということから考えていくことにしました。まず「前提」の部分からしっかりと考えていくわけです。それで「余暇」という条件があったのではないかといってきたのです。それは医学、科学、宗教・思想、政治などと関係している。

 しかし、「余暇」といいましたが、これが「原因」で「何かがおこった」といいたいのではない。単純な原因や犯人探しというのはあまり考察が深まらないと思うのです。「余暇」といいましたが、余暇が生まれたならそういう社会生活の場である「社会」の形に対応して形作られるのが「教育」であり、そうでありながら実は同時に「社会」をも形作っていくという面ももっているのが「教育」でもあるといえないでしょうか。少なくともそういう社会を生きる人間をつくるがその人間が社会を生きて、社会を構成していくという面もある。教育とはそういう機能や作用をもっているわけです。

 それで実際に寿命や科学もそうでしたが「社会」は変わり、そして絵図のように「教育」も変わってきている。そういう歴史的違いはある。それで、ではこのような「変化」をどうとらえるかといえば、その「最初」を見つけ出してみればいいと思うのです。見つけるというか、「余暇」などの条件ということから考えていこうということです。「教育の成立する条件」というのを逆手にとって「教育の成立した時」がどうだったのかをみていく。スタート地点を考えて、そのときの状態を考えていくことで、そしてその後の変化とあわせて考えることで、はじめて教育が可能になったのが何故かということが強まってみえてくると思います。歴史的に遡ってみましょう。

 

 教育の起源

 「教育の起源」というものは「教育史」の教科書などではどのようにいわれているのか、どのように考えられているのかをみてみます。普通「古代」のギリシャでの哲学や数学の発展などをあげて教育のはじまりととらえられ、「いま」の教育の直接の前身というかつながりを求めることが多いのですが、そういうシステマチックにまでいたっていないさらに「前身」的なものとして通説で扱われているものに次のようなものがあります。

 ○古代の成人式、日本の元服などの儀式

 ○宗教の儀式(例:キリスト教の成人洗礼など)

 ○物語(口伝等をのこしていくこと)

 なるほど、たしかに社会のルールを教えたり、歴史的ルーツや伝統を伝えたり、偉大な先人の教訓を伝えるということで、「社会化の機能」を期待されているのとも思えます。生活・文化を伝えて、「ひと」を人間という社会的存在に変えていくという作用をしているといえるでしょうか。逆にいえばいまの「教育」も儀式を大事にしていますし、多分に儀式的ですし、むしろキリスト教の洗礼や司式や教会のつくりまで「学校」や「教える」ということでは影響を受けているのでしょう。「伝える」場所ですし、伝え手と受け手、テキストに順序というものまで、宗教のシステムを吸収してつくりあげたのだろうというような類似点は多い。教育の技術や方法論としても共通するわけです。

 たしかにこれらに「教育の原点」があるかもしれない。

 しかし、ここでもう少し考えていきましょう。この授業では簡単にものごとに納得しないでできるだけ考えていこうということにしています。では、その「生活・文化を伝え」て「『ひと』を人間という社会的存在に変えていく」ことを可能にしたのは何かと考えてみましょう。何故、そういうことが可能になったのか。それが「余暇」ではないかと思うのです。先週いったことはそういうことです。「長生きで余暇ができた」というより、「余暇が増えて、変わってきた」といいたいのです。

 単純にテキストに「教育の起源は大昔の成人式などの儀式だ」と書いてあるからといって、そのままその言葉を記憶して、自分の知識としてもそれはそれでもちろんいいのです。しかし、その「儀式」がなぜ必要で、そしてそういうことが全体で意味をもつようになったのはそれこそどういう意味で、またそういうことが可能になったのはどういう理由によるのかと、考えていける部分はまだまだあるのです。

 例えば、「社会化」されて「人間」になるというのはどういうことなのでしょうか。ちなみに天才チンパンジーで有名なアイちゃんは、数字や形を判断するパターン思考にすごく優れていまして、計算能力等が発展していて驚くべきものがあります。その子どものアユムくんというのがいるのですが、私はこのアユムくんにそういう能力が才能として伝わっているのかということや、あるいは人間による訓練だけではなくて親子関係や仲間(集団)の中で「教育」や「伝達」というのがありえたならすごく進化論や生物学・生態学的に興味深いことだと思うのです。ちなみにチンパンジーは「エイプ」でして「モンキー」という尾っぽのあるいわゆる「猿」ではありません。人間の進化の過程に近い「類人猿」の類が「エイプ」でして、つまり「猿が進化したのが人間」という進化論的に語られるものは「訳語」として間違いです。映画「猿の惑星」も訳語として誤りですね。まぁ、人間にかなり近い能力をもちうる生物です。しかし、そういうパターン思考の優れたチンパンジーでも、寿命が長生きすれば50年に及ぶものもいますし、しかもかなり身体がゆるやかに大きく変化する(「小猿のような」状態から「ゴリラのような」状態にまで変化する)という点でも似ていますし、学習能力も大きい。もちろん餌づけによる訓練ではあるかもしれない。飼育はもちろん愛情や叱咤との組み合わせですが、動物と人間はいっしょにはできないという意見もあるでしょう。それでもいちばん近いのは彼らです。しかし、彼らでも、実は「将来」志向という能力は著しく欠けているというか、これが難しいところなのです。

 人間は将来の「夢」をもちます。例えば皆さんが「いま」夢をもっていないといっても、子どものころには将来を思ったり、やりたいことなどはあって、成長した自分の姿や周囲を思ったりはしたのではないでしょうか。憧れている人がいて、その人の物語なりをみて、そういう「道」を理解する。「苦労する」でもいいのですが、あることを達成して幸せを感じるために何か我慢したり、そういう「さき」のことを思う(考える)ことができる。これが人間に顕著にみられる能力ではないでしょうか。そういうものは「社会」という中で生きていく中で養われることも多いでしょう。動物も何かに際して行動を踏みとどまったり、躊躇することはある。しかし人間は直接の場面ではなくて「みえない将来」をみることでいろいろな判断をしていく。そういう特色があるのです。チンパンジーでさえ、数時間さきのことまでしか思考して判断することはできないといいます。長く生きるというだけでなく、そういう社会の仕組みや関係の持ち方、将来の展望までをも考えていくというのが人間の特色であり能力なのかもしれません。「ひと」といったのは、ある単独な類人猿の一体として生きる場合を私は意図しました。「人間」というのは「漢字」の語義的にも「社会や複数の人の間で生きていく」ということをイメージして使っています。複数の関係を、例えば家、地域、学校、部活、外の交友、職場など、同時にさえ複数の関係をもちえてその中で生きていく、まさに「間」で生きている。生きざるをえないことが普通にわりと行なわれているそういう存在(もちろん動物にも家族や集団社会はあるのですが、複雑さや価値観について多様で対価などの置き換えもあることなどが違う)。そういう点で動物と違っているかもしれません。ただし最近の孤独の問題や、過剰な敵視、あるいはモラル低下などが問われる時に思うのですが、人間関係というのをもちにくいと悩み、あるいはそんなのはどうでもいいと考え、自分がよければいいのだと考え、またあるいは何も考えず他人を傷つけるというような行為を目にすると、それは「将来」を志向していなくて「その場」がよければいいという「好き−嫌い」「快−不快」レベルで動いているのではないかと思うのです。「動物並み」というのは動物好きな私にはつらいのですが、人間としての能力というものをもう少し考えて判断する必要があると思います。人間は(動物も)その場で「快」を求めるのは欲求としては当然ある。「楽しむ」方がいい。しかしそれが同じ文字でも「『楽』をする」になってはいないでしょうか。なんらかの将来の目的のために努力や苦労や忍耐力をはたらかすことを「楽しむ」そういう主体性というものが必要なのではないか。「努力」「根性」「忍耐」「我慢」というものが何故こんなにもあたかも古臭いとさけられるのでしょうか。実はあなたが思うそういう批判の気持ちや行動それ自体もかなり「社会」でつくられている(風潮となっている)のに、「社会でつくられたイメージだから僕は従わない」とチームプレーや我慢などを批判する。話が横道にそれましたが、人間の能力を発展させていくというのは大切です。つらいことから逃げない、それは授業でいえば何事も簡単に信じないで考えを深め続けていくということでもあります。

 さて、「社会」に生きる「人間」というものがなんであるかということですが、そういうように周囲や自分を知って、過去や将来を考え、そして環境にはたらきかけ、技術などを受け取り、また使いこなして伝えていく。ひとりよがりでない、そして動物でない、「人間」というものはそういうものではないでしょうか。

 これは「自己」「他者」を理解するということでもありますね。「他者」である皆が同様にそれぞれ「自己」であることを理解する。でも「自己」という自分がいて「自我」がある。「人生」「生き方」の問題を考えるということでもありますし、「自然」とは何かと考えることでもある。「技術」「科学」の問題もそう。こういうものは「哲学」の問題でもあるわけです。こういう「哲学」のようなものをもつようになったのはいつからでしょうか。それですぐに「古代ギリシャ」に遡ることが多いのですが、私は「自我」や「自然」の問題を少し別の角度でみていきたいのです。

 

 「縄文時代」に「教育」が可能になった?

 前回に見てもらったグラフは日本人の寿命でしたが、そのいちばん古い位置は「縄文時代」でした。もちろん縄文以前にも人類は誕生していたし、生きていたのですが、いちおう考古学や歴史学の発見でいえば「日本で最も古い文化」が残されている(つくられたと思われる)時代が「縄文時代」だとされるのです。

 おそらく歴史の授業で学んできたように「縄文式土器」などがあって、竪穴式住居や貝塚などが発見されて「家族単位」や「村落・集落」があったとされている。遺跡が発見されていて、記憶に新しいところでは捏造疑惑事件などもありました。ちなみにあの事件は私としては別の示唆を受けています。「自分にもおこりうることとしてみていく」という立場です。あの事件後、考古学会はすぐに「他の遺跡は大丈夫、疑惑はない」と発表しましたが、あとで調査が進んで被疑者が関わったほとんどの遺跡に疑惑が浮かんできた。学会は十分な調査をしないでまずは権威や価値観を大事にしたのじゃないかとも思うのですね。ただ、私はだからといって「考古学会がだめだ」では終わりたくないのです。自分の周囲にもありえる「人間の問題だ」ととらえたいのです。なぜなら昨年の「狂牛病」問題の時、厚生労働省や農水省の大臣は何をしましたか。「他は大丈夫だ。安全だから買って食べてくれ」というパフォーマンスをしただけで、その後同じく問題が出てきて、一気に信用を低下させました。そしてその時は他人事だったところで今年は外務省や防衛庁が当たり年でしょうか。疑惑がでてきて、内部調査で時間が過ぎて、やがて問題が漏洩して信用をなくしていく。そして国会議員の「疑惑のデパート」騒動。そして攻撃側の議員もつつかれて、比較してみればせこいとはいっても間違いを重ねていたという「認識不足」が出てきている。これらが示唆的だと思うのです。

 別に私はモラリストではないのですが、なぜ人間はこういう問題を抱えるのでしょうか。それは「自分にもおこりうる」と認識していないからです。問題であるということがわかっていない。わからないのです。「他者感覚が必要だ」などという人間もいますが、「自分にもおこりうる」と考えなければ本当には何もわかっていないのだと私は思います。私は極端にいえば女子校にいた時代には「女子高生と交際して結婚することもありえる」と認識していました。認識した上で「でも私はしない」と意志していたのです。問題をわかって、そして対処していく。知らないで、気づかないで比べてみれば何が悪いのかが判断できないような状態になるよりはいいと思います。だから授業でも「教育」というのをいろんなできるだけ多様な視点からとらえ考えていこうじゃないかといっているわけです。

 さて、「縄文時代」にはそれ以前の時代との違いがあった。それは縄文式土器といわれるような文化が発達したということです。それが可能になったというのは、あるいはその証明としてもなのですが「定住」したというのが大きく影響していると考えます。「土器」は貯蔵や器、あるいは調理やまた時には祭にも使われたかと思います。しかしそれを造ったりする工房や、あるいは持ち歩きに便利かどうかを考えれば、また使い途として想像されることから考えても「定住したであろう」ことが推察されるわけです。それでそれ以前の時代とは明確に区分して「縄文時代」と名づけられた。

 集落の遺跡や埋葬の状態、貝塚などからもそれは裏付けられていますが、とにかく「ムラ」というものを形成して住んでいた。もちろん生活の生業は「狩猟採集」中心ではあったわけです。前時代と大差はないかもしれない。縄文後期に農業が入ってきたと目されていますが、基本的には「狩猟」生活であったろうと思われるわけです。

 さて、「狩猟」をしている時、もし家族という単位で狩猟生活をしているならば、その時に住居がないならば「移動」しながら狩りをして暮らしていくということになります。実際にそういう生活をしていたのでしょう。集団で動物を狩るということをしていたと思うのです。この時、家族で移動するとしたらおじいちゃんもおばあちゃんも、お母さんも小さい子どももいっしょにいて、戦力になる範囲で狩りに参加していくと思われます。老齢でも若輩でも男女差もなく、少なくとも移動の生活をしていた。母親が乳児を抱いていたら狩猟には足手まといです。高齢者も同じでしょうか。幼児もそうであったろうと思います。若い夫婦なら戦力にはなったでしょう。「父母と若者が狩りに行く」というのがいちばん効率がいいのです。

 それが可能になったのが「定住」と「村落」がつくられたことによるのだと思います。家ができて、あるいはムラができて、老人や子どもが残ることができた。戦力外の女子どもも残る。戦力になる男女が狩りに出かけ、その間、留守番をしている。家族を超えた集落なら、貯蔵庫や工房などで働くこともできたし、近隣の森へ木の実などを取りにいくという班もできたことでしょう。助け合いなどもありえます。戦闘で働き手を亡くしても、集落ならば生きていくことが可能になる。まさに「社会」の原型かもしれない。そういうものが前時代までの「移動」では不可能であったと思うのです。

 そして老人と子どもが残ったのだから、老人はその経験を生かして技術を伝えたり子育てを請け負うことも可能となったでしょう。なにしろ「縄文文化」という「文化」があったのですから、そういう技術を「伝えていく」ことが必要ですし、それが「定住」によって可能になったと思うのです。

 前回、縄文時代の寿命が短いといいましたが、それは平均であって、長生きしていく人もいて、しかしそういう人が生きていくには定住生活の中で役割に適応していく必要があったと思うのです。どうでしょうか。これは「余暇」という条件があると考えられます。移動生活なら足手まといでいずれ朽ち果てていくべき老人が、そして戦力外の(また将来のムラの戦力としての)子どもが「定住」によって「解放」されて、「教育」という関係が可能になった。寿命自体は短くて一般的たりえないかもしれませんが、少なくとも前時代に比してそういう「余暇」ができて、それによって次の弥生・古墳・王権時代と展開していくまさに前段階となっていたと思うのです。新たな文化をも構築していくことが可能になった。「余暇」という概念からみると、日本では「縄文」にそういうものが可能になったのではないかと予想しています。

 「自己」や「他者」、「自我」や「自然」などの意識もこのころにつくられたと考えています。なぜなら「ムラ」というものがつくられ、例えばカコイか何かで周囲が囲まれていて、中には複数の住居と、貝塚と、あるいは日時計などの柱類(建造物?)や工房、あるいは貯蔵庫、もしくは祭礼の場所などもあったかもしれません。カコイの内側に社会があった。つまり「カコイ」の内があるということは、カコイの外側もあるのですね。「ウチ」と「ソト」、もっといえばおそらく「コッチ」と「ムコウ」という感覚が芽生えたと考えられる。「ムコウ」には採集に行くような近くの森だとか、水を確保するための川だとか、あるいはそういう外のフィールドは「狩猟」の場でもあった。ムコウの「さらにムコウ」などもあるわけです。もっとムコウの「山」なども見える。そのヤマを越えたことがなければそのさらにムコウを想像するでしょうか。あるいは山のムコウになんらかの神秘的な世界を考えたりもするでしょうか。コッチとムコウと、さらなるムコウと見えないセカイ。他の村落もあれば「コチラ」と「アチラ」、その間の地形(自然)などという概念も生まれてくる。そういう中で「縄文の世界観」がつくられてきたと思います。ワタシ、ワタシタチ、カレラ、アナタ、アチラ、ムコウガワなどの考えが育まれてきたと考えます。そういう考え方、思考というものもやはり定住や集団社会というものでつくられるものなのではないかと思うのですね。「哲学」的なものも登場してきたと思います。

 さらには交換もあった。経済もあった。実際に黒曜石などがとれるはずのない場所で発見されるなど「移動」があった例は見られますし、土偶らの「カタ」ではないのですがそういうものの流通というものはあったようである。海のモノ(貝殻など)が山の地域で見つかったり、なんらかの交換や交流の跡というものが想像されることもある。そういうものが「交換」されたとしたら、そこには「経済」的なものもあったのでしょう。石器を専門とする技術職などもいたかもしれません。そういうように交換や経済(的なもの:初歩)があったのだとしたら、そういう社会というものはわりと今にも共通することがありえたのかもしれません。もちろん「そのまま同じ」とは考えていませんが、「社会」の中で「人間」が育ち、生きていった中で「文化」や「技術」が形成され、哲学的思想も生まれたかもしれない。そういう「文化」として形作られたものは「受け継ぐ」「伝える」というものがあったはずだし、社会内分業などもあったろう。おそらくそういうものは「定住」という「余暇」というもので可能になって、それによって子どもらに伝えていって次代を形成していくことが(社会で生きていくことが)できるようになったのだろうと考えます。

 「縄文時代」を今回みてみましたが、この「余暇」というのはキーワードの一つになりえるのではないでしょうか。もちろん現代では、戦争をアップ・トゥ・デートに映像でみれて、例えば大使館亡命事件などがそのまま映像で伝えられる、そういう時代です。ある意味で時間的な速度や情報の分量は大きくなってきている。「余暇」というものもそういうものの影響で変わってくるかもしれません。きっと「意味」が変容はしてくる。少なくとも「教育が可能になっている」上で、この情報の波の中でそう生きていくか、受け入れていくかというのが次のテーマとなってきていると思います。今、「教育」があたりまえになってきて行なわれている改革が「ゆとり」なわけですが、この「ゆとり」というのは「余暇」とどう考えあわせていくべきか、そういうものも考えてみるべきでしょうか。それならば「教育の質・内容・方法」などについても見ていかねばならないのかもしれません。話がそれましたが、今回は「余暇」というのが教育を可能とする条件としてなりたつかどうかを、歴史的にある時代を設定してみて検証してみました。次回は予告していましたが「脳」科学から教育を考えていきます。

(リアクション・ペーパー配布と回収)