教育学概論T人間と教育) A5月13日 

 今回の内容

「教育の原理」について考える。教育の本質的理解とは何か。「教育とは何か」という問いに答える。人間形成のパーツとそのプログラムとしての教育。教育の必要性はどのように説明されているのか。過度なロマン主義、「愛」や「神話」が説かれていないか。生物学的に考える(生理的早産説)。教育の目的とは何か。

 

  一回目の授業から一ヶ月もの間があいてしまいましたので、まだすんなりと授業に入っていく雰囲気ができていないかもしれません。前回、話したように「教育学」とはどういうものなのか、その全体を学んでいきますが、その中で細かい部分にも興味がもてたらそこを個人的に追究していけたならいいなという目的ももちつつ、その全体のガイドとして、様々なエピソードなりを入門的にお話ししていきたいと思っています。それで「教育学って面白い」「教育には注目してみたい」と思ってもらえたらいいと考えています。

 さて、「教育学」がある、学問としてありえるというのはどういう意味をもつのでしょうか。それはいうまでもなく対象としての「教育」というものがあるからなのですね。これはあたりまえのことですが、なんらかの対象があってそれへの考察が生まれ深められていくというのが学問でしょう。

 とにかく皆さんは「教育」を受けてきたし、また私も同じく受けてきた。被教育者であった。そして教育学が教職だと考えると、教員の立場・視点を学ぶ・・・、つまり教室のそちら側から私のいるこちら側へと立場を移す考え方だと思われることもあるのではないでしょうか。 ただし私はそれだけではないと考えています。「教師の視点」だけではなく、教師と生徒の双方の、その関係全体(そのもの)を見渡して把握する「見方」が必要だと考えます。「教育」と「教育学」を多様な視点から考える。なるべく客観的な、そして具体的に比較的考察という立場から考察していこうと思っています。

 さて、前回に、「教育」が大きく変革して、そして人間に多大な影響を及ぼすであろうということをお話ししましたし、また日本と米国とを例に比較して、どうやら国によって「教育」の考え方やらが少しずつ違っているのではないかということについてもみてもらいました。書いてもらったリアクションペーパーでも、皆さんの中で国立大学附属高校や先進校出身でそういう例えば米国にも似た教育を受けてきたかたもいますし、また外国から留学で来ているかたや海外留学の経験のあるかたでそういう教育を体験している人もいるわけです。そういう人たちのなんと9割が「米国式の教育の方がいい」と答えている。少なくとも日本の教育に多少の不満を感じているのですね。すると私も加えて大多数の日本の教育を受けてきた人(のうちの多数)も「日本の教育がいい」と答えてもいいようなものですがそうではないようですね。いったいどういうことなのでしょうか。もちろん「両者のいいところをミックスして」といったごもっともな意見もあるし、また「日本の教育に誇りをもつべきだ」という意見もありましたが、この約300人の日本の教育を受けてきた皆さんは「米国式」「日本式」「ミックス」の三つがほぼ同数だったのです。なぜこんなにも不満かなにかがみられるのでしょうか。他国ではこういう調査をやるとどうなのでしょうかね。

 とにかく世界中で「教育」が行なわれているし、しかし一方で十分な教育が行なわれていないとか、なんらかの事情で「教育」のための施設がつくられていないところもある。また、「まちがった教育」というのが批判材料としてとりあげられることがあって、例えば「軍国主義的な教育」だとか、「排外的な教育」を行なう国もあるわけです。あるいは個人的な教育としても「洗脳」などもそういうまちがったものと言われたりもするわけです。戦前・戦時期の日本の教育などはその例で、戦後には「それ」が批判されて民主主義的な教育が求められたのですね。批判され、つくりかえられたというわけです。しかし例えばインドネシアのパンチェシェラのように、さらに規範的な教育もありますし、日本だけが世界で特異なのではないともいえるわけです。

 さて、今日から「教育の原理」という部分から、つまり教育の原理的な部分から、ベーシックから学んでいきます。「教育」の歴史上、とくに「教育者の養成」が始まって以来、こういうものがつくられていまして、要するに「教育」の必要性が説かれ、その目標・目的や方法、内容、効果などが考えられてきたのです。「教育」が「なぜ必要」で「どのようなものが必要か」を考える。それをベーシックから学んでいきたいと思います。しかし、それはそのままをつめこむのではなく、例えばなんらかの「教育原理」の本に書いてある内容をつめこむというのではないのです。「学ぶ」というのは検証することと考えています。「それ自体」を客観視していけるよう、多面的・多角的視点から思考をしていきましょう。

 レジュメにメールアドレスとホームページのURLをのせておきました。世界中のいろいろな大学でオフィスアワーや授業時間以外に相談や質問ができる機会が準備されていて、その中では教員がホームページやBBS(掲示板)などで疑問などに応えていくということも行なわれています。私もこちらには授業でしか来ていませんので、それでそういう応え方も準備しておきます。何かあったら質問をしてください。授業中の質問も歓迎します。

 

  ○教育の原理(根本的な、本質の部分。その理論)→教育とはなんであるか、なんのためのものか?

 (1)「教育」とは何か?

 単純に「辞書」の記述をみてみると、日本の辞書(『広辞苑』)の「教育」の項には「教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動」とある。たしかにイメージされる教育とはこういうものであるとも思える。しかし、英語の辞典で「education(educe)」を引いてみると、「潜在する性能を引き出すこと」とあり、二つを比べた時に違和感をもつことになる。こちらもたしかにそうあるべきものと思えるものであり、この二つは日米の教育のイメージとして想像してもらったもの(前回の資料の写真)と符合する。すると、少なくともこの「二つ」の教育があるというのだろうか。違った考え方があるというのだろうか。しかし、私は、どちらの部分がどれだけ重くされているかという違いだけであって、両国とも「どちらかだけ」ではないのだと考えて欲しい。

 次に「教育」の辞書的記述では二つに分かれたけれども、実際に行なわれている「教育」がどのようなものかをみてもらった。図表(資料)にあるように、教育の内容は「国語・算数(基礎的能力)」「理科・社会(科学の初歩)」「音楽・芸術(情操・芸術)」「体育・技術(技術力)」といった「教科教育」の部分と、人間関係の経験をつんでリーダーシップ等を養うための「教科外教育」の部分とに分けて考えることができるでしょう。これは「(かっこ内)」の部分をねらいとする、人間の諸能力を発達させるための「パーツ」というかそのレシピだとも考えられるわけです。たしかにこれらを身につけたらすばらしい人間になれるでしょう。そしてこれはどこの「国」でも同じことが行なわれているともいえます。国語という母語が違うだけで、あとは同じです。数字の概念などが違うなどはないわけです。

 すると、「同じ」である。しかしさきほどみたようにとらえかたは「違う」ようである。「教育」とは何か?

 これはわかるようで、しかし簡単にうまく説明できないようにも感じるわけです。そういう問いへの答えを、これまでの「教育原理」ではどのように説明されてきたのかということをみていきましょう。

 

 (2)「教育」の必要性

 過度なロマン主義?

 「教育」についての言説を「過度なロマン主義である」などといわれることがあります。例えば「教育学者」の主張に対して「現実的でない」や「ロマン主義である」とでもいうようにいわれることがある。前回の授業でいったように、哲学や思想にはその立場の蓄積がありますし、心理学にも臨床の積み重ねがある。社会学にもデータ分析があるし、歴史学にしてもなんにしても、よってたつセオリーや資料が構築されているわけです。経済学でも精神分析でもみんなそうで、例えば戦争・紛争などに対して様々な立場からみた意見が発されて、そしてそれなりに説得力をもつものとなる。しかし、「教育の問題」についてはどうでしょうか。

 次回あたりにとりあげますが、例えば最近の教育で注目されていることに「言語」の問題だとか(斎藤孝さんという人の著書が注目されています)「脳」の問題だとか(澤口俊之さんという人の研究が注目されています)があるのですが、そういう論者は「教育学者」ではないのです。また、教育改革国民会議というものがありましたが、いちおう識者を集めて21世紀の日本の教育を考えていくというものでしたが、そのメンバーになっている人にも「教育学者」は少なくて、そして具体的な提言で注目される人たちの中には「教育学者ではないのに教育論を発表する人」などが出てきています。慶応義塾大学幼稚舎長の金子郁容さんなどがそうですが、その提案はなかなか勉強になるものです。考えてみれば教育学者ではなくても教育者ではあるし、学問の自由もあります。「教育」の問題は「教育学者」だけのものではありません。しかしそうではあるとしても、あまりにも「教育学者」へのニーズが減っているのではないかとも思うのです。具体的にTVに出演するとかではなくて、どうも信頼感というものがまだうまく認知されていないのではないかとも思うのです。「脳科学者」のところへ「教育」の講演の以来が殺到する。あるいは著書が注目される。それはそれですばらしいことでもありますが、実は従来の「教育原理」への不信の裏返しというのもあるのではないでしょうか。

 そういうときに「教育学はロマン主義」などと揶揄されることがあります。「教育」の原点とはなんでしょうか。よくひとことで(ドラマのようですが)「愛」などといわれる。「アガペー」やエロスなど様々な「愛」の定義もありますが、しかしひとことで「愛」なのだといわれて、そしてそういうものだから「教育は必要なのだ」といわれると、これはこれでわかったような気にはなりますけれども、しかし十分に納得はできるでしょうか。私は「愛がいらない」とか言っているのではありません。そうではなくて、その「愛」とはなんであるのかとききたいのです。「愛」ときくと、なんとなくはイメージされるし、わかったような気にはなる。しかし、実際にどういうものがそこでいう「愛」というものなのかといわれたら、説明してみろといわれたら難しいですよね。こういうことばを「マジックワード」とよぶべきです。苅谷剛彦さんという学者がそういう指摘をしていますが、マジックワードというのは「それ以上の思考を止めてしまう言葉」です。なんとなくわかったような気になる。しかし考えると説明しにくい。説明しにくいのをごまかしているともいえるし、考えるとつらいことを楽しているともいえる。ここでは「愛」などがそういう言葉ではないでしょうか。「生きる力」「ゆとり」など、教育に対する言説は多くがそうだと思います。小泉首相にも頑張っていただきたいものですが、しかし出てくるフレーズはとても感情的であったり、政策というよりもキーワード的に語られるその理想はやはりマジックワード的なものとも思えます。なんとなくわかるけれども、実体がみえにくい。そういう言葉の意味をしっかりしていかないと何か信頼ができない雰囲気がひろまってくるわけです。従来のまずはじめに「教育は必要だ」という言説は、「なぜ必要なのか」「何のための教育なのか」「どういう教育が必要なのか」という切実な問い(疑問)への応答をなしていないというか、信頼を失っているのではないかとも思います。それでは、従来の「教育原理」の言説をみてみましょう

 「必要」と説明される理由

従来のテキスト類ではどのように記述されてきたかをみていきますが、まず最初に「教育の必要性がどう述べられているか」というのが示されていることが多いのですね。簡単に言えばそういう言葉なりが紹介され、引用されている。代表的なものとして哲学者カント(Immanuel Kant ,1724-1804)の言葉として、「人間は教育されなくてはならない唯一の被造物である」や「人間は教育されなくてはならない生き物である」などというものが紹介される。これはそう「言われてきた」ということではありますが、しかし「だから必要だ」と単純に直結するものではないのです。しかし多くのテキストで十分な説明がないままというものもありました。カントについてもルソーの影響や、当時の状況(社会的雰囲気)をも勘案して、それで記述の意味などまでを考えていけば「思想的」な面からなんらかの意義を抽出することは可能でしょう。しかし事実としては「教育の必要性」を大前提としていて、そのことの裏付けの言葉として使用されているにとどまっていたといえないでしょうか。逆に言えば「理由」など説明されてこなかったといえるのかもしれません。

もちろんカントの「人間は教育されなくてはならない生き物である」との言葉だけではなくて、むしろ対になる形で裏付けるための「必要な理由」が説明されたものもあります。その一つが「ロマン主義」としての疑念を(少なくとも)私に生じさせているものです。

「人間に教育が必要」ということを、他の動物とは違っているという点から指摘したものとして、「アヴェロンの野生児」や「狼に育てられた子」の記録といった「逸話」が語られています。私はこれを「神話」の類ではないかとも疑っております。「野生児」の話しは南フランスの約200年前のストーリーということになっていますが、4、5歳で捨てられて孤立したと思われる(つまり人間社会から離れて暮らしていた)少年がいて、保護された後にビクトールと名づけられるのですが、その少年の発達(知能や言語まで含めて)が同年代(12歳くらいで保護された)の子どもと比べて大きく異なっているということから、「教育という環境の影響(大切さ)」が指摘されるのですね(視覚と触覚の不調和などが指摘されている)。実際にメキシコのストリートチルドレンの状況などをみてきたこともありますが、現代でも「教育」を受けているかどうかでその発達過程は変わってはくるのでその意図するところは十分に理解することはできます。「教育がないとたいへんだ」といいたいのはわかる。「カスパーハイザー」でもなんでも、そういう視点の記述は複数あるのです。しかし後にみますが、それではこの物語以前、つまり200年前より以前はこういう「必要」とされる条件例はなかったのでしょうか。そもそも、そういうことが語られるということ自体にも意味があるのではないかとも思います。

「狼に育てられた」のはアマラとカマラという少女の姉妹であるということになっています。舞台はインドでゴタムリ村というところで狼の巣から保護された少女をシング牧師というのが育て、観察し、記録をとった、というものです。これは高校の授業の倫理などで取り上げられたり、有名な漫画(コミック)にも載っているということで、広く知られているストーリーです。アマラとカマラは狼に育てられたために人間社会になじめず、しだいに言語や知能などが人間らしく発達してきますがその獲得に遅れがみられたということと、その後の人生の哀しみなども描かれていて、まさに「人間に育てられないと人間になれない」ということが語られているわけです。これはわりと一般的に教育原理のテキストの中にとりいれられてきていた物語でした。

私はこの話が「事実」であるのか疑っています。しかし、「事実」かどうかを疑うことに意味があるというのではなくて、それを何も疑わずに「教育が必要」と受け止めることに問題があるのではないかといいたいのです。 シング牧師の語る記録は事実なのでしょうか。狼が6歳の年齢差のある姉妹をさらうことが可能なのでしょうか。姉妹ならば少なくとも片方は6歳児です。それまで人間としての知識や生活体験があったのではないでしょうか。だいたいそれなりの体重をもつ人間の子どもを口で運ぶことができたのでしょうか。いやそういうものは実際には姉妹ではなく時間差があったなどでクリアされたにしても指摘する村の名前が実際には発見されていないし、また第三者の証言もないのです。「写真がのっている」という。しかしどういう写真でどうやって撮影されたものでしょうか。狼が育てている現場をどのように撮影しうるのでしょう。生肉を食べる、四つ足、壁際や暗いところをこのむ、言葉が話せないでうめく、大人を恐がる、かみつく・・・。これらは自閉症や障害を抱えた方にもみられる点ではないでしょうか。見せ物屋やサーカスに売られて「何々に育てられた人間」なんていう出し物に出演された子どもなども昔にはありました。もちろんアマラやカマラの話がそうであるかはわかりません。狼が人間の子どもを育てることができるかの実験も不可能です。虐待になってしまいます。もっと前の、1600年頃のコメニウスの本にも「狼に育てられた人間」の話しは載っていて、それとのつながりも疑えます。いや、真似かどうかも証明は難しいのです。しかし事実かどうかも疑わしい。しかしその検証もされないできていたのです。

もちろん心理学や発達の授業などで「教訓」としてそういう話をすることもあるでしょう。また哲学的に「その子は人間に保護されて幸せになったといえるのだろうか」という問いの視点から書かれた論文もあります。「インド教育史に扱われていない教育史の本道的記述」という指摘をされるかたもおります。面白いきりくちはありえます。私は「狼」志向に注目しています。「ローマ」建国伝説も「狼」に育てられたという話です。「狼」は太古から人間の近くに意識され、恐れられ、崇拝もされた、そして子育てをする動物の象徴なのではないでしょうか。日本ならば「山犬」ともいえます。そしてもちろん身近な「犬」というものも通してイメージがつくられるのではないでしょうか。なぜか「ライオン」ではない。それは言説や文章、文化を残していったヨーロッパなどの近くに百獣の王がいなかったからではないでしょうか。こう考えるとストーリーの造られ方にも作為的な、そして文化的な条件を感じます。とにかく、・・・ここでいいたかったことは、「そういうこと」の真偽を考えずに、ただただ「教育は必要」といってきたということです。そうであったから「教育」を問われた時に、理性的で説得力のある説明ができないのではなかったのかと考えています。

とにかく疑いを解いて、そして教育の必要性を説く説得力のあるものを探していくべきじゃないでしょうか。

生物学的根拠 

そこでもう少し納得のいく説明が必要になります。「人間は教育されなくてはならない唯一の被造物で」「人間は教育されなくてはならない生き物である」ということは、人間は他の動物とは違うということでもあるわけです。それで生物学、動物学の立場からみて教育の必要性を論じていく立場があります。「動物に育てられたなら」という仮定の話ではなく、科学的に(生理機能としても)人間と動物とは違っていて教育が必要とされることを実証しようとしているのですね。

ポルトマン(Portmann,A)という動物学者の「生理的早産」という学説があります。ポルトマンは様々な動物を分析して、その「お産」の状態に着目していきました。哺乳類のうち高等な生物は妊娠期間が長く、子どもの数は少なく、そして産んだ後に巣を離れて活動するという「離巣性」という特徴をもちます。強い動物ほど危険性が少ないと考えられるので長く妊娠したり、数が少なかったり、すぐに巣の外で活動して親についてまわることが可能というのは、TVなどで野生動物の番組をみればイメージできると思います。ライオンなどもまさしくそうですね。犬だって子どもの数は少ないし、すぐに蠢いて親の乳を求めたり、成長もはやいわけです。それに対して下等な生物ほど、逆に妊娠期間が短く、子どもの数も多く、そして親から餌をもらって巣にいついている状態(就巣性)にあるといえます。小動物のネズミの類などがイメージされるのではないでしょうか。

以上の説明は納得いくのではないでしょうか。しかし、「人間」はどうなのでしょうか。人間は「高等」であるとイメージされるはずです。まるで万物の長のように。しかし考えてみれば人間は、妊娠期間は長いし一回に産む子どもの数も少ないのだけれども、しかし産後の状態はすぐに活動などはできないで「巣」にいる状態(就巣性)ではないでしょうか。生まれてすぐに親と野原を歩く姿などはないわけです。むしろ赤ん坊(乳児)の状態の時はほとんどの動物の同時期に比しても弱い状態にいるのではないでしょうか。

このように人間は動物学的に奇妙な状態で生まれてくる動物といえます。そしてある個人ではなく「人間」一般が恒常的にこのような状態で生まれてくることこそが「人間に養育が必要」な条件をつくりあげていきます。そして最弱の状態から文化や社会という環境の中で教育されていくことによって「高等」の立場へと大きく変化していくことが人間の特異な点なのです。このように通常化してしまった「早産」かのような状態を「生理的早産」といいます。人間は「早産」で子どもを産み出さないと「脳」などの構造上、母体内に置いておくことが危険なのです。体外でだいたい1年間ぐらい育てて、それで他の動物の産出時に追いつくのだともいえると思います。直立二足歩行とそして体形的にも早産しなければならない構造なのです。そういう「脳」や構造をもって生まれてくることは次回にまたお話しします。

このような考え方ならば、少なくともまやかしではなく納得していくこともできるのではないでしょうか。人間は生物学的に弱く早産で生まれるから養育が必要で、そこで保護者によってsocializationやmodelingなどの効果を得て育っていくことでパーソナリティが安定していく。自我なども芽生えてくるでしょう。社会に育てられないと生きていきにくい時期があるから明確に「大人」と「子ども」が分かれる。すぐに「成人」にはならないわけです(他の動物と比して)。だから「教育」が必要とされてきたとは考えていいのではないでしょうか。   

教育の目的 

さて、教育の「必要性」が語られてきたことをみてきたが、この「必要」というのは「何かのために必要だから教育するのだ」といういいかたでもあるわけです。「必要」じゃなければやらないというか、少なくとも義務や公のことにはできないともいえる。人間は何かが必要だから何かをするのではないでしょうか。マルクス主義とかいうのがあって、人間の本質は「労働」であるとかいわれていたこともあるのですが、本質というか「必要」だから労働するのじゃないでしょうか。その証拠に僕はロシア人と日本人の三世(クオーター)ですけど、ソ連時代の社会主義の国では全ての労働に対して同一の保証をしていったところ働かない人がでてきた。余計に働いても稼げないのでは働きません。「余剰」などはつくれないのです。そのために奥さんがパートタイムジョブをするというようなことが起きた。労働することが本質ならそうではないんじゃないですかね。やはり資本なり生活の現実のために働くわけです。

話がずれましたが、「必要」だと思えるからできるのですね。逆にいうと「必要」というのにはなんらかの「意図的」な「目的・目標」がたてられているわけです。これらの目的をクリアできるから、そのために教育が必要だと、あるいはその結果得られるんだというのですね。

もっと簡単にいえば教育が必要というけれど、「何のために必要なのか?」ということです。だから教育目標というものがある。もちろんすでにいったように、国語には国語のねらいや目標があり、数学にも社会科にもそれらはある。そういうものも目標であり目的です。「何のために」「何を教えるのか」ということで、「何を」の中身として「教育内容」があるわけで、それが国語や算数の中身であったりもする。それを「どのように教えるか」という教育方法の問題も重要です。どうしたらわかるのかを考えて、教える方法を構成していくこと、それ自体も「教育学」の重要な要素なので授業でも扱っていきます。

大きくは教育の目的として、「個人的教育目的」「社会的教育目的」「文化的教育目的」という三点があげられます。「個人的」は個性を育て伸ばしていくということや子ども中心の考え方に立つものです。もちろん個人の成長のために必要なのだといわれるからピンとくるわけです。「社会的」には社会人や社会の構成員(国民)を育てる目的はあるわけです。私のようなあいのこ(クォーター)でも日本人として日本の教育を受けて日本を理解しているからここで日本語でそういう概念なりを伝えられるし、皆さんも日本語の能力がみについているからそれを受けとれる。交換可能な状態にあるし、そうして日本人としてこの社会で暮らして生きていくわけです。それに社会の安定のためにもある。たしかにそう悪い人間をつくるのではないし、共通のものを知っていくからそう悪いことにはならないで社会が不安にならないといえる。「文化的」は文化が伝わっていくというためにある。

例えば最初に「火」を発見した人がそれを他の人間に伝えなかったらどうなったでしょうか。最初というか、他人に伝えるという慣習がなかったらどうなっていたでしょうか。そうなったら火を使える人と使えない人がいて、偶然手に入れた人はいるかもしれないけれども不便な状態です。火があるから食料を保存したり、調理したり、衛生上もいいし、動物から身を守ることもできたし、様々な加工のエネルギーにもできた。いまでは火をおこす必要はなくて、何かをひねったり、ライターがあればことたりるわけです。そういう発明品なりが伝わって使えるようになっていることが文化といえないでしょうか。そういうものが伝わっていることが教育の成果ともいえます。

「火」が「教育」というのは納得いかないかもしれません。ではガリレオとコペルニクスの話をしましょう。みなさんはガリレオを知っていますね。皆さんはガリレオの上にいます。歴史的偉人をスタートラインにして生きているのです。皆さんは「地球」を球体だと知っている。地球儀をみても理解できる。しかし地球を「球体」だと発見して提唱していったのはガリレオやコペルニクスなのです。マヤやエジプトや中国の文明でもカレンダーをつけて天体の観測が行なわれていましたが、彼らも観測をしていって「地球」が球体で、そして太陽の周囲をまわっていることを発見しました。「地球」は「earth」といってそれまでは「大地」と考えられていた。「まるい」ならどうやって立っていられるんだと批判も受けたし、当時の神学観からすると「惑星」という考え方は「神への冒涜」でもあった。牢獄にも入れられるわけです。「大地」や「海」には「果て」があると考えられていて、だから「海」に遠く旅に出れないというのもあったのですね。でもコペルニクスらの提言は大航海時代に世界一周が実現されていって、マゼラン、コロンブスらの活動によってうらづけられたのです。そこには造船や航海の技術発展があった。科学の発展によって神が死んだともいえますかね。幾何学や力学の発見なども影響して、ルネッサンスを迎えて中世的世界からの脱却(発展)がみられます。世界がかわっていくのです。

日本にもその結果はきています。宣教師ザビエルや種子島に鉄砲伝来などがあって、日本の戦争や権力や、生活形態も変わってきました。城や町が変わるのですね。山城ではなくて、堀をめぐらして距離をとり(狙撃をふせぐ)そして籠城しやすい平城になっていって、周囲の経済生活も変わってくるのです。地域との交流のありかたもかわってくるし、近世への転換がやっぱりきたのですね。そこには生活(政治)・技術・思想・知識の変革もあった。新しい民衆(国民)も必要となってきますね。新しい政治形態、新しい流通経済にあった人間。新しい知識に対応していく人間。新しい教育が必要になってくる。これが世界の共通の流れではないでしょうか。新しい個人、社会、文化。

難しい話しにきこえるでしょうか。ようするに皆さんはガリレオらが必死に実証したことをあたりまえにしてその上で暮らしている。ガリレオやコペルニクスの発明は「文化」として「社会」に吸収されて伝えられて「個人」のあたりまえの知識になっているのです。そういう意味で「教育」の成果でもあるわけです。いつ認識したのか、どういう授業があったのかは覚えていないけれども、たしかに常識として共有している。そういうものも「教育」の一つの効果なのだと理解していけるのではないかと思います。

 (リアクションペーパーを配布・回収)