窓のない、暗室のようなところ。
 上下左右周囲、唯一の出入り口である木製ドア以外、全てが石でできている。
 光が全く差し込まない暗闇の中、ぴちゃぴちゃと水音をさせながら、少女が人間の血を啜っていた。
 人間はまだ幼く、少年のようだった。
 人間の少年の首筋に歯を立て、少女は血を吸っている。
 口が小さいのか、飲み込む量が少ないのか、血液は首筋から垂れ、少年の服も少女の服も暗室の石床へと広がっていく。
 自らの服が汚れることに構わず、こくこく、と喉を上下させ、血を飲む少女。
 いや、少女といっても彼女は500年の時を生きてきた吸血鬼。
 紅い悪魔、レミリア・スカーレット。
「…………っ」
 血を吸っている吸血鬼の表情が苦しげなものに変わった。
 息継ぎを我慢するように、それでも血を飲みつづける。
 暗闇では人の眼に見えることはないが、明らかに苦しそうな顔。こぼれ出る血の量も増える。
「――――っ、げほっ、げほげほっ、……ぷはっ」
 吸血鬼が吐血した。吐血といっても彼女の血ではない。口に含んだ飲みこめなくなった人間の血だ。
 口一杯の血を吐き出しむせながら、吸血鬼は悔しそうに人間の身体を放した。
 盛大に血を撒き散らしたせいで、人間も吸血鬼も派手に血に塗れていたが、その量は見た目ほど多くはない。
 少年の顔から血の気は引いていたが、失血死に至るほどでもなかった。
「……駄目ね……。咲夜ー!」
 気だるげに呟いた吸血鬼はお抱えのメイドを呼んだ。
「お呼びですか」
 ジャスト一秒。ドアを開けた様子も無く、暗室の中にはメイドの姿が現れた。
「これをいつものように。……そこそこの味だわ」
「はい」
 少年を示して指示し、とってつけたように品評した。
 早速メイドは少年を抱え……ようとして、見当違いの方向に進み、壁にぶつかった。
「……こっちよ、こっち」
「失礼しました」
 主人の声に誘導され、少年の身体を抱え主人に一礼して、消えた。
 紅い悪魔(スカーレットデビル)の名に相応しい姿の吸血鬼は、ぼんやりと闇の虚空を眺めていた。





「……普通に入ればいいのに」
 と、よく言われるのだが、お嬢様は吸血鬼で光が嫌いだ。
 この部屋は窓の少ない紅魔館中でも特に光が入らないようになっているため、ドアの開閉での僅かな光が目立つ。
 よって時間を止めて部屋に入る。そうすると光の全くない状態のまま部屋に入ってしまうわけで。
「失敗失敗……」
 少しだけ赤くなった額をさする紅魔館メイド長、十六夜 咲夜。
 ちなみに片腕で少年の身体を支えている。器用である。
 時空を操る程度の能力を持つ彼女にしてみれば、大抵のことは簡単なのかもしれないが。
 広い廊下を歩く。少年の身体にはこれ以上血が滴らないよう、シーツが巻きつけてあった。
 やがて、一つの大きな扉の前に辿り着き、ノック。ややしてから返事がくる。
「……どうぞ」
 片手で大きな扉を開け、中に入る。
 中は図書室だった。ありえないほど広い。天高くそびえる本棚がなければ地平線すら見えそうなほど。
 ヴワル魔法図書館。ありとあらゆる書物が眠る場所。
「パチュリー様、いつもの処置をお願いします」
「わかったわ。書斎に運んでおいて」
 本を片手に、寝巻きのような格好の少女が半眼で言った。
「……まだレミリアはやってるのね」
 面倒くさそうに呟く図書館の管理人、パチュリー・ノーレッジ。100年ほど魔女をやっていて、いつも本を読んでいる。
 レミリアほどではないが長く生きていて、中毒的に読書しているため、魔力が高い。魔力は知識に比例する。
 咲夜は少年を書斎に運び、その後からパチュリーが入る。
 司書室の奥にパチュリーの書斎があり、ここにも本がみっしりと並んでいる。
 しかし、魔法の実験のためのスペースや、パチュリーのベッドなどがあり、プライベートな空間となっている。
 実験用スペースの広い床に、少年の身体が横たえられる。
「…………――――」
 本を開き、小さな声でぼそぼそと呪文を唱えるパチュリー。
 少年を中心に、魔法陣が浮かび上がり、ほどなく消える。
 詠唱も終わり、パチュリーは本を閉じた。
「はい、おしまい」
 ふぅ、とため息。
「この程度の魔法なら辛くはないけど、こんなに頻繁だと流石に面倒ね……。魔理沙に頼んで増血剤でも作ってもらおうかしら……」
 魔法薬って苦手なのよね……、とぼそぼそと呟く。
「それでは、失礼しますね」
 幾分血色の良くなった少年を抱え、咲夜は書斎を後にした。
「貴女も大変ね、咲夜」
「務めですから」
 メイド長の背中に声を掛け、肩越しに返事をされた。





 ここのところ、お嬢様の食事の回数が増えた。
 血入りの紅茶やケーキだけで済ませていたことを、直接人間から摂取するようになったのだ。
 何故? と訝しみつつも、増えた分の食料を確保しなければならない。
 別に食用の人間の追加調達ぐらい難しくはない。人間の里から拝借してもいいし、あちら側からさらってもいい。
 しかしどちらにしても、それなりに手のかかる。お嬢様の眼鏡に適うかどうか、とか。
 里の人間はなにかしら力の素養があることが多いので概ね良モノであるが、数が少なく、その手の防衛手段も備えていたりする。
 あちら側、人間界からさらうのは、まず結界を抜けることに労力を費やす。時空を操れる分、そこらの妖怪よりも自由に出入りできるけれど、それなりに面倒だ。そして、あちら側の人間には当たり外れが大きく、また都合よくさらえるかというとそうでもない。時間を操れば連れ去るぐらいは簡単だが、下手に足がついて幻想郷の存在に勘付かれては大事だ。
 いくらか悩んだが、結局あっち側から拝借することにした。
「どうせお嬢様のことだから、死ぬまで飲めないでしょう。パチュリー様に頼んで、治癒と記憶操作をして、返してしまえばいいんだわ」
 殺してしまったなら、その時はその時。
「なんとかなるでしょ、人間の一人や二人」
 よし、いくか、と紅魔館を出て、博麗神社も通り過ぎて、ちょいと時空をいじって結界を抜ける。
 人間界に出たことを確認すると、時間を止めて、人間界用の服に着替える。
 周囲の空間をいじって、目視されないようにして、人間の街へと空を駆けた。
「いるいる。ほとんど妖精みたいね」
 適当なビルの屋上に立ち、久方ぶりの人間界を眺めて堪能する。
(独り暮らしの若い人間あたりが、妥当かしら……。迷子の子供とかでもいいわね)
 完璧で瀟洒なメイドは、地上に降りて、品定めを始めた。
(あー、お土産なんにしようかしら)
 そんなことを考えながら。





「たまには日の光も浴びろよ。吸血鬼の館だからって遠慮することないぜ」
 と、友人に言われて以来、思い出したように日光浴に出かける習慣があり、本と日傘を持ってパチュリーは日光浴が出来る所を目指し、館を歩いていた。
 日光浴をするはずなのに日傘を持っているのは、直射日光は厳しすぎるからである。
 大体いつも、テラスの日陰や庭の木陰あたりで日傘を差すという二重防御で読書している。
「パチェ、出かけるの?」
「いいえ。ちょっと外に出るだけよ」
 偶然、館の主の吸血鬼と遭遇した。ぶらぶらしていたらしい。お抱えメイドの咲夜も居ないし、暇なのだろう。
「ふぅん。今日は最悪の天気よ」
「それはどっち?」
「快晴」
 彼女にとっていい天気とは、満月の夜か、せいぜい曇りの昼間。
 最悪の天気は、言ったように快晴か、雨の日。
 吸血鬼の弱点、日の光、流れる水。
 もしかしたら彼女も出かけようとしていたのかもしれない。日光のほうは日傘をさせばどうにかなるらしく、神社に出かけることがある。
 日傘程度で大丈夫とは、流石に500年生きているだけはある。小食で、吸血下手で、服を汚しまくるくせに。
 そこで、ふと思いついて、訊いてみることにした。
「ねぇ、レミィ。何で直接血を吸ってるの? 小食の貴女が」
 そんなことをしなくても、食事は足りていたはず。服だって汚すし。
「咲夜の手は煩わせるけど……。小食の吸血鬼は様にならないでしょう? だからよ」
「大食の吸血鬼よりはマシだと思うわ」
「それには同意する。けどね――できないのと、しないのでは違うわ。大は小を兼ねるかもしれないけど、小は大を兼ねない」
「…………」
「まあ、咲夜が忙しくなって遊べなくなったのはつまらないから、適当なところで諦めるつもり」
「……ふぅん」
「何か言いたげね」
「吸血鬼のカリスマ、というやつを貴女みたいな人も気にするのね、なんて思っただけよ。人じゃないけど」
「…………。……まあ、否定はしない」
「それじゃ、私は行くけど」
「私も。じゃあね」
 別れて、しばらく広大な廊下を歩いた。
「……本当は、誰か眷族にする気なのかと思った」
 魔女は呟き、脳裏に、紅白の巫女が浮かび上がった。
「さて、と」
 読書読書。





 再び、暗室にて。
「咲夜ー!」
「はい。すぐに片付けます」
「頼むわね。それと」
「はい?」
 呼びかけと、その一秒後に返答。
 いつも通りのやりとり、にみえたが。
「もう、追加の用意はしなくてもいいわ」
「わかりました」
 こっそりと安堵の、単純に面倒ごとが減ったことに対する喜びの、ため息をつくメイド。
 主人は気づいていたが、気づいていない振りをした。
 メイドは気づかれているだろうと見当をつけていたが、気にしなかった。
「それと――」
 衣擦れの音。立ち上がる気配。
「――口直し、させてちょうだい」
「はい」
 一歩、二歩、近づく。
 メイドは、静かに深呼吸をして力を抜き、服のリボンとボタンに手をかけた。
 衣擦れの音。服がはだける気配。
「ん……」
 主人の背丈に合わせるように少し身を屈めたメイドが、くすぐったそうに声を漏らした。
 主人が猫のように鼻を首筋に近づけたため、鼻息があたったのだ。
 ぺろり、と悪戯に舐める。
「っ……」
 我慢するメイド。くすり、と笑う主人。
 そして、狙いを定めて、吸血鬼特有の鋭い牙を立てた。
 瞬間、痛みに耐える。それほど大きな痛みではない。
 小さな二つの穴のような傷に口をつけ、こくこく、と少しずつ血を飲んでいく吸血鬼。
 あふれ出る血のほうが多く、とろとろ、と二人の服が汚れていく。
 二人は自然に、互いに抱き合うように、腕を回していた。
 静寂と暗闇のなか、時が止まったように、二人は抱き合っていた。





「やっぱり、貴女の血は美味しいわね」
「恐れ入ります。……お嬢様、少しだけ食事の量が増えましたか? 口直しにしては、貧血気味です」
「あら。やっぱり努力はしてみるものね。面倒だけど」
「面倒だけど。さて、後片付け、と。あと服も替えなくては」
「ああ、そうそう」
「?」
「今日は、ドアを開けて出て行きなさい」
「わかりました」
 と、メイドの声がしたと同時に、姿が掻き消えていた。今日の食事と一緒に。ドアは開いていた。
「……そういう意味じゃない」
 苦笑した。
 真剣なのか、惚けたのか。
 きっと、本人は真剣なのだ。
「やっぱり、人間って使えないわね」
 だからこそ面白い、とその表情は語っていた。


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