「猿の手ね」
私が箱を開け中身を晒して数秒後、彼女はそう言った。
猿の手? と、私が耳を傾げると、知らないの? と問われた。
頷くと彼女は視線をそれに向けたまま指を振った。ふわりと人形が動きだす。
「三つ願いを叶えてくれるっていうマジックアイテム、というか呪術物の事。さらに正確に言うならそれにまつわる物語」
そして彼女は語りだした。人形が踊りだし、劇が始まる。
とある国から流れてきた猿の手に老人が願いをかける。妻と息子と三人の裕福で幸せな彼らにとって叶えるべき願いなどなく、細やかな願いとして金銭を望んだ。それが本当なのか試すつもりの軽い気持ちの願いは、果たして叶えられることになる。息子の事故死という過程を以て。
次に老夫婦はその息子の命を返してくれと望む。そしてその夜、家の扉を叩く音がした。息子が帰ってきた、と扉を開けようとする妻に対し、不吉な予感に苛まれる夫は最後の、三つ目の願いをかける――
「――と、まあ要は、」
願いは叶える。――だが、望まれない形で。
「そういう話。ちょっとした幸せを望んで大事な幸せを失い、それを取り戻すことは叶わない。ランプの魔人とか集めて揃える玉とか聖杯とか、願いを叶える魔法のアイテムは色々あるけど、そのダークパロディ版ね」
ひらひらと彼女は手を振り、劇の登場人物を演じていた人形達が一礼して下がっていく。
さて、どうしよう――
○ ● ○ ● ○ ● ○
私――鈴仙・優曇華院・イナバは気配に敏感である。
能力柄、常に多くの情報を受容し、処理している私とって世界は永遠に打ち寄せて来る波に等しい。常人にしてみればそれこそ気が狂うほどの情報を浴び、それを把握することで干渉することも出来る。物質も、精神も、空間すら、私に狂わせられないものは無い。
それで薬売りへ行く途中、数日前までには何もなかったはずの道端、迷いの竹林を抜けて人里へ出る道筋の外れに、何かが落ちていることに気づいたのだ。
「……なんだろ?」
薬箱片手に立ち止まった。警備も仕事の内なので確認しなければならない。
出来れば危なくないものだといいなぁ、と思いつつ道脇へ入り、気配を辿って少し歩くと、それはあった。
竹林の木陰、まるで誰かの失せ物のように木製の小箱が落ちていた。
「…………」
むぅ、と独りごちた。少し空を仰ぐ。茂る竹の葉に日光は遮られているが私の眼には関係無い。太陽と月の位置とでおよその時刻を確認した。道草は薬売りの仕事に差し障らない程度にしなければ。
後に永夜事変と呼ばれるようになる事件、そのどたばたが一段落して永遠亭は変わり始めた。閉じられていた館は開かれ、師匠は薬師としての力を人里へ施すようになった。見慣れぬ薬、薬師、薬売りと、里の人々から警戒されてはいるが、師匠の力によって里の医療水準は向上した。
まあそんなことはどうでもいいのだが。
「ふむ」
何気なしに、そしてそれなりに警戒しながら木箱に手を伸ばした。妙な気配は消えない、が危険は感じない。そのまま手に取った。
思いのほか軽い。振るとからからと乾いた音。漢方の木の根の類を連想した。
蓋を開けずに箱をあちこち眺めてみる。特にこれと言って記述はなく小奇麗で、まるで人が使った形跡がない。
誰かの失せ物だろうかとも思ったが、それにしては落ちていた場所が不自然だったし、ここ数日、竹林への来訪者は確認していない。
「これはもしや……」
ここでようやく、流れもの――漂流物である可能性に思い当った。
幻想郷には時折、そういったものが現れる。結界の仕組みなのか、あるいは人為的な気まぐれなのか。いずれにせよ外から流れ着くものに節操は無い。物であれ、人であれ、概念であれ。
現れる場所も基本的に不特定。誰にも気付かれずにそのまま朽ちていくことも多い一方、館の倉には月関係の物がいつの間にか増えている気がする。流れ着きやすい場所を狙った蒐集家も居て、うちの嘘吐き兎もその部類に近い。
「師匠もこういうの好きみたいだからなぁ」
持ち帰ってみるのが良いのだろう。多分。
「――っと」
肝心の中身を確認していなかった。箱自体が封印の意味があるようでこうして手にしていても薄い魔力しか感じず、軽く視ていても内容を掴めない。別に強い力が籠った危ない感じはしないのだが、存在感は妙にある。
試薬添加前の溶液、励起していない状態のマジックアイテム、そんな印象。
「んー……」
開けるか開けまいか思案する。手持ちの道具は普段の携帯薬と人里用の薬箱で、解析には足りない。しかし、大概の物なら自身の眼と耳だけで事が足りると思う程度には自分の能力に自信を持っている。
現に、今こうして持っている箱を目指してするすると伸びてくる糸を視界に収め――
――――糸だ。
それが探索用の魔法の幻視であると直感した瞬間、反射的に指先に発生させた乱波長で断ち切ってしまっていた。
「あ……」
反省する。逆探知も解析もあったものじゃない行動に後悔する。こういうところがそそっかしいと注意されているのに。直前までのは
まあいいか。きっと蒐集家の誰かだろう。トラブルになっては堪らない、と位相をずらし存在濃度を低下させながら、さっさとその場を離れ人里へ向かった。
竹林を抜け、里の守護者である上白沢慧音を訪ね、これから薬売りの仕事をする旨を伝えた。てゐあたりは普段から人里慣れしているのでしれっと入っているが、私はあまり慣れていないため、ここで一拍置くことにしている。
彼女の家は人里の外郭にあって、彼女は寺小屋を開いたりと人里と親しく、病気や病人の情報を得ることも出来る。今は特に病人は居ないらしい。一昨日に熱を出したお婆さんが居たが薬を服用して既に治ったそうだ。どこの誰かを確認して一応診ておこうと思う。礼を言って里へ向かおうとすると、ついでだからと言って、僅かな距離だが一緒に行くことになった。
正直、有り難い。竹林暮らしが永く、人里には慣れていないのだ。いざ立ち入るのは勇気というか気合が要る。一旦入ってしまえば仕事があるので何ともなくなるのだが。
上白沢宅から人里までの数分間を二人で歩く。しばらく歩いたところで、私はここで、と慧音は踵を返したが、私は何となく理由を察したので、気にすることなく別れを告げた。
よし、と軽く気合を入れる。自身を切り替え、仕事を始めた。季節の変わり目に行う置き薬の確認は一度では間に合わず、今日行うのは薬売りを始めて最初の定期確認の、この時期最後の一回だった。
あらかじめ決めていた順番で家を巡り、戸を叩き、挨拶をし、薬箱を出してもらう。中身を確認し、使用分をチェック、補充する。使った薬によっては具合を尋ね、問診をする。
ごめんください。薬屋です。薬箱を見させて頂いてもいいですか。はい。そうですか。ありがとうございます。
傷薬が減りやすい子供、頭痛持ちの女性、関節が悪いお爺さん、酒好きの男性、等々。家々で違う薬の減り方に置き薬の量を調整する。持病でよく薬箱を使っている家もあれば、信用出来ないと埃を被っている家もある。
淡々と、滞りなく仕事は進む。色々と言葉を交わすが特にこれと言う事は無い。
余計な物は見ないように。余計な事は考えないように。仕事に集中し、そして眼を抑えている。狂気の眼は並の人間が直視するのは危険で、人里に入る際は制御を強め、外界の認識力を低下させる。自然と能力は内側に向いた。
「ふぅ……」
都合二十件ほど回り、昼休みを取る。人気の無い平屋の脇に積まれた材木を見つけると椅子代わりに腰掛ける。弁当を頬張り、水筒のお茶を飲み一息。
道順を確認するために周囲を見回すと、広場の方で子供達が集まって歓声を上げていた。何となく理由を察したので、すぐに視線を外した。
「さて、と」
ごめんください。薬屋です。薬箱を見させて頂いてもいいですか。そうです。なるほど。でしたら――
そして、午後の仕事も差し障りなくこなした。収穫の終わり際で傷薬の減りがまだ多かった。それと季節の変わり時で体調を崩す人もちらほらと居たようだ。一応、師匠に報告しておこうと思う。
軽くなった薬箱。一仕事終えて安堵の溜息。里の出口を目指して歩を進める。持ってきた薬は不足しなかったので、この時期の薬売りは完了だ。ただ冬を越すまでの三ヶ月でどれだけ減るかわからないので、緊急出動はあるかもね、と師匠は言っていた。
流行り病とか起きませんようにと思いつつ歩いていると目の前を、子供の一人が精巧で見事な人形を持ってはしゃぎながら走り過ぎて行った。
それを横目に、どうするかなぁ、と思い、目を閉じる。
目蓋の裏には竹林で幻視した魔法。透明な――波長の加減で七色に輝く、操り糸。
そんな幻視をさせる魔法使いなど、人付き合いの少ない私には一人しか心当たりがない。
「ごきげんよう」
人里の出口で待ち構えていた人影から声を掛けられた。
「今日は蒐集家の時間?」
訊くと、ええ、と肯定する金髪の人形師。
魔法使い、アリス・マーガトロイド。
「貴方の仕事が終わるまで暇だったから、臨時興行してたけどね」
「人形、あげたりするんだ」
「離れてくれなかったのよ」
ふぅん、と頷く。何か意外だった。人嫌い、とは思わないけど。
「私だって意外だった。人里で仕事してる貴方なんて、何の冗談」
そんなに変なのか、と首を捻る私の横にアリスは並び、人里を後にした。そのまま二人で歩き、竹林の入り口まで辿り着く。私は人里に入るにあたって掛けていた制限の最後の一つを外した。
「――それで、」
横目を送る。人形師に気負った様子は無い。
「どうするの?」
訊ねた。私が拾った箱を狙ってきたに違いないのだから。
「んー……」
対するアリスは思案気に言葉を探す。――探しながら、二体の人形を密かに準備させている。
その慎重さを感じさせる様子に、逆に私は滲ませた警戒を薄めていた。積極的に争う気配ではない。こちらの警戒への反応だ。
「とりあえず中身が気になるかな。欲しいかどうかは内容次第。広域探査に偶々引っ掛かっただけで、それが何なのかは全然知らないんだから」
実を言えばそれが漂流物であることすら確信を持てていなかった、とアリスは申し開いた。探知出来ていても魔法を遮断されたから捕捉までは出来なかったから、急いで現場に駆け付けたところで、立ち去る直前の後姿を見つけて追跡、ということらしい。
仕事中や前に絡んでこなかったのはとても有り難いのだが、中身を訊かれても私もまだ箱を開けていないのだ。そうと言っても彼女は引き下がらないだろうけど。
「…………」
撒いてしまうことも出来る。里で待ち構えていたのは私が薬箱を手にし、里で薬売りをしていることを彼女が知っていたからだし、永遠亭まで逃げ込めば彼女は追い縋らない、かもしれない。彼女は師匠や姫様と単独で遭遇することは避けている節がある。しかし永遠亭が開かれた今、訪れること自体は容易で、さらにお二人があっさり私との面会を認めてしまえば拒否権は無くなる。
(師匠達は逆に面白がるかもしれないし……)
あれこれと想像してみるが、どう考えても箱の内容次第である。大した価値が無くて肩透かしになれば骨折り損だ。
(むしろ……)
いざ面倒事もなった時、タチの悪いブツだったら、と考えると危険かもしれない。師匠は面白半分で私を実験体にするのを厭わないのだ。たとえ師匠にその気が無くとも私にはそうとしか思えない。
騒いで危険物が露呈してからでは隠蔽出来ない。密かに正体を掴み、その上で自分に被害が出そうに無いモノだった場合のみ、師匠に提出するのが一番安全な選択肢ではないだろうか。我ながら卑怯な考えだ。
うん、と頷き、一応の結論を得た私は、横をのんびりと歩くアリスに提案した。
『それじゃあ、私の部屋まで来てくれる?』
なんて言ったものの、思えば自室に誰かを招き入れる、なんて事は初めてだった。師匠や館の兎、勝手に忍び込んだ魔法使いは除くけれど。
放置してあった勉強道具や薬を片付け、さらに自分の物ではない雑貨を棚に上げたり引き出しに突っ込んだりする。健康グッズとか戦闘飛行機の模型とか、師匠から貰ったよくわからない物とてゐがいつの間にか置いて行った物の類である。もしかしたら何かしらの意味があるのかもしれないが、よくわからないので仕様がない。
卓袱台の上から物を退け、埃っぽい所に台拭きを掛けたところで、入って、と待たせていた彼女に声を掛けた。
失礼します、と入ってきた彼女に座布団を出すと、彼女は静かに正座した。
初めてのお客様に不思議な感覚を覚えたが、私は師匠に仕事の報告をしなければならなかったのでその事を伝え、例の小箱はどうするか迷ったが卓袱台の上に置いて、部屋を後にする。
師匠への報告は滞りなく終わった。私はお茶を載せた盆を手に部屋へ戻り、
「お待たせ」
と、部屋を出てから約十分、部屋の様子は全く変わっていなかった。
アリスは二体の人形で手遊びしていて、その人形達は私に気づくと――恐らくそう言う動作をするように彼女が操ったのだ――私に一礼して、彼女の背後に隠れるように消えた。
見事なものだと素直に思う。まるで生きているかのような動きだ。彼女の手から伸びる不可視の操り糸が視えなければ、生きていると信じてしまいそう。人間の子供達に人気なのも納得だ。
「そういえば子供にあげた人形って……」
「私が作った単なる人形よ。別に危ない呪いとかも仕掛けてない普通の人形」
「製作に掛けた費用……装飾とか材料とか手間とかは良かったんです?」
「同じようなのはたくさんあるしねぇ。思い入れがある人形でもなし」
後に彼女が爆薬を仕込んだ人形を投げることを知るわけだが、普通に考えれば人里に害を為すような真似をするはずがなかったのだ。
そういう約束事であるし、彼女が態とそれを破る訳も無い。
「慧音も居るし、下手な事出来ないわよ。……まあ、そろそろ、ご開帳と行きましょう」
「そうね」
ようやく本題へ入り、少しの期待と警戒を込めて、彼女の目に促された私は木箱に手を掛けた。
――――猿の手ね。
――――猿の手?
箱に入っていたのはミイラになった小さな動物の腕だった。直接それを眼にしても、やはり恐怖を感じない。ただ妙な力が込められているのはわかった。
アリスはそれを猿の手だと言い、その概要を話してくれた。
「――と、まあ要は、」
願いを叶えるアイテムなのだ。しかし歪んだ形で、という注釈が付く呪いのアイテム。
彼女はさらに諸説を語ってくれた。願いを叶える回数の違いや願い掛ける際に怪我を負うなど、いくつか派生があるらしい。
「でもこれって全部『お話』なのよね。私は本で読んだだけで、これが本当に実物なのかはわからない」
猿の手は作り話に過ぎない。だがこれはその実物かもしれないのだ。
ありえない話ではない。実際のあった物を作家がフィクションとして表現したかもしれないし、とんでもない力の持ち主が、物語に合わせて作ったのかもしれない。あるいは外の世界で、猿の手と思われた物が幻想郷へ来たことで『本物』になった、ということもありえる。
「どうやって判明させればいいんだろう」
「実際に願いを叶えてみるのが一番だけど、話が本当だったら願いなんて掛けたくないわね」
と、何気無しにアリスは猿の手を手にとった。
そのままじろじろと見つめ、裏返したり、軽く指で叩いたりしていた。
「触った感じも、特に異常無いなぁ」
うーん、と悩む彼女に対し、手持ち無沙汰な私は箱の方を見てみることにした。
「…………」
やはりどこにでもありそうな箱だ。小奇麗で何も書かれていないのが不気味な程度だ。箱の封印も外から術を掛けられていただけだったのか、開封したことで解けてしまっていて、本当にただの箱になってしまっていた。
封印されていたことを考えると、単なるミイラという線はないはずなのだ。力は感じるし、単なる漢方薬ではあるまい。
しかし、願いを歪めて叶えるのが本当なら迂闊な真似は出来ない。師匠や姫様に頼った場合でもこちらに被害が回ってくる確率で分が悪そうだ。もしくは気にも留めずに世界の危機のトリガーを引くかもしれない。
いっそ見なかったことにしてアリスに押し付けてしまった方が気楽だろうか。確か彼女の知人関係に未知の道具を探るのに便利な能力を持っている人が居たはずだ。
何だか面倒だな、と溜め息を吐いて、箱を置いた。と、アリスが、
「――ねえ、貴方の眼で、これを視てくれない?」
と言ったので、私の眼は彼女の持つ猿の手を注視した。
可視光、不可視の波長、幻視――可能な限りのスキャンを試みるが、やはり妙な気配だけを感じるに止まった。何らかのポテンシャルを秘めているのが確実視出来るぐらいだ。
「駄目。私の眼でもわからない。何かの力は秘めているはずだけど、ベクトルが違うのかな……」
私の能力は物理と精神に寄っていて、概念感覚はあまり修得出来ていない。未知の次元で何か力が働いていたとしても、それは能力的な死角に位置する。
「ふぅん。……じゃあ、本物だったら、悪い事にならなければいいわね」
「どの程度タチが悪いのかわからないのも怖いなぁ」
そもそも願いを叶えてくれるのかすら怪しいような気がする、と内心で苦笑しながらアリスに所有権を譲ろうと口を開く直前、
「私はもういいわ、これ。貴方にあげる」
彼女の方からそう言われ、私は為す術も無くミイラの腕を受け取ってしまった。
「え……」
「私にとって興味深いモノじゃなかったってだけよ。中身を確認出来たら満足したわ。願いを叶えるアイテムって魔法使いにとっては大して魅力的じゃないのよね。そのプロセスがわかるならともかく、不思議な力で解決されても意味が無い。それを探るのが目的の魔法使いも居るでしょうけど、私には必要無いわ」
それに、と肩を竦めた彼女は薄い笑みを、もしかしたら悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「ここまで来たのは箱の中身だけじゃなくて、ちょっと貴方にも興味があったから」
「へ?」
「ああいや変な意味じゃなくてね。いつも上の二人の後ろに居たから、あんまり話してないでしょ」
それでちょっと気になって、と彼女は言った。
驚いた。いや、驚いた。彼女は他人に興味を持たないのだと思っていた。実際、彼女はあまり他者に踏み込もうとしない性格のはずだ。今こうして私への興味を示すこと自体が有り得ないと言っていい。
「人里での貴方を見てたら、つい、ね」
漂流物なんて忘れて別に帰っても良かった、と言う彼女の気を何が惹いたのか。人里での私に何か特別な事でもあったというのか。
よほど私の表情が茫然としていたのだろう。彼女は笑みを深めて、
だって貴方――人間が好きじゃないでしょう?
そう、言った。
「――――」
絶句した。問い掛けは断言だった。そして卑怯だった。
婉曲な言い方をしているだけで、彼女は私は人間が嫌いだと、そう告げていた。
「…………」
言葉を失ったのは彼女の言葉が間違っていないから。
普段は意識していない。言われなければ思い出さない。しかし確かに私は人間を苦手としている。いや、嫌っている。憎んでいると言ってもいい。
私にとって地上の人間は敵であり、仇だった。
月への侵略者であり、味方の玉兎を殺した仇。
それはもう過去の事柄で、この幻想郷の人間とは関係無いはずだけど、刷り込まれた定義は消えない。それが苦手意識となって表に現れるのだ。
しかし、何故、わかったのか。師匠と姫様が私の話をいくらかしていたのは聞いていたけれど、それと人里での様子だけで私の無意識下の感情を断言出来るのか。
別に私が人間を嫌っているからどうと言う問題は無い。人間を好む妖怪は多くはないのだから。
だが、わからない。どうしてなのか。
何で私が人間を嫌っていることがわかったのか。
何で彼女がそれを私に伝えたのか。
見透かすはずの私が見透かされたことに、屈辱に近い恥辱を感じる。
ぎしり、と手に力が入り、持っていたミイラの感触を思い出した。
「――――っ!」
慌てて力を緩め、猿の手を箱に戻した。
ふぅ、と息を吐いた私にアリスは苦笑して、そして言った。
「私も人間が苦手だから」
だから気づいた、と。
関わる事が怖いから、一歩引いてしまうから。
貴方が同じように一線を画している事に気づいたし、そして私と貴方じゃ決定的に違うことにも気づいた。
「私は人間が苦手だけど、好きみたいなの。だけど貴方は人間が苦手で、好きではない」
ああ、それはわかる、と私は思う。
彼女は人間の振りをするほどに人間に近い存在であろうとする。実際、とても人間に近い存在なのだと私の眼には映っている。だけど、根底の部分で――魔法使いである事を差し引いても――人間ではないのではないか、と疑問を抱かせる部分をその身に潜ませている。
「貴方の師匠が薬売りをさせているのは、その人間嫌いを克服する為でもあると思う。私のお節介かもしれないけど、貴方はあの二人に比べてこの
そうなのだろうか。そんな事、意識した事が無いし、その必要があるとも思えない。
だって、私は月の兎なんだから――
「…………」
なんだから、なんだと言うんだ。
思考がざらつく。ノイズが走る。
咄嗟に顔に手をやり、片目を覆った。
苛立ちが、波長を乱している。落ち着け。
「どうしてこんな話をするのか、って顔ね」
「……ああ」
「釘を刺す為よ。その手が本物で、貴方が本気で人間を嫌いなら、願いを叶えるかも知れないから」
猿の手は、願いを歪めて叶える。
歪んだとしても、願いは叶えられる。
じゃあ、最初から歪んだ願いなら――?
悪い方へ解釈する必要も無く、悪い事を願うなら。
より不幸をもたらす叶え方をするのだろうか。
「――――」
それが、怖い、と人に近い魔法使いは言った。
魔法使いは猿の手はもういいから帰ると言った。
心配するぐらいなら持って帰ればいいものを。そう思ったのが顔に出ていたのだろう、
「今日の事は、無かった事にしましょう」
ばつが悪そうに彼女はそう言って背を向けた。その言い草に私は嫌味の一つぐらい言ってやろうと、
「……それならこれにお願いしましょうか?」
猿の手を手にして言っていた。
「――痛っ」
不意に、引っ掻かれたような軽い痛みが走った。
「え……?」
驚いて猿の手を落とした私の手には、一筋の薄い傷跡がついていた。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
声に振り向いたアリスに平静を装って答えながら、落とした猿の手を拾って箱に戻し蓋をした。彼女が特に気づいた様子はなかった。
館の出口で立ち去る直前に彼女が残した台詞は、
「貴方はもっと里の人間達に感謝されているべきだと私は思う。それだけの事を貴方はしている。だから、もっと――」
最後を言いよどんでいて聴き取れなかった。
そして、部屋に戻った私はまじまじと箱を眺めた。
「……本物?」
アリスが語った話の中に、願いを掛けられる際に持ち主に傷をつける、と言うものがあった。この手に出来た傷跡が果たしてそれなのか。いや、そもそも傷が無かったのに傷跡が出来るはずがない。
驚いたのは何の気配もしなかった事だ。猿の手が私に傷を、いや、傷跡をつけた時、私の眼は何も捉えていなった。それはどんな力を以って願いを叶えるのか、私にはわからないということ。
「…………」
○ ● ○ ● ○ ● ○
夕暮れ迫る空をアリスは自邸目指して飛んでいた。
「…………ま、仕様がないわよね」
浮かない顔で呟く。
我ながら柄にも無い事をやってしまった、と思う。
お節介にも程があるし、意味も無い。
「いや、意味はあるんだけど」
だが空回りだったかもしれない。そう考えると首を吊りたくなる。代わりに人形が首に縄を下げている。
「うーん……」
これもまた呪いみたいなものだろう。
恐らくあれは運命改変の類の呪術物。あの吸血鬼の能力に近く、見てわかるようなものではあるまい。
「悪い事にはならないでしょ。多分」
まあ気をつけること越した事はないが、呪いが怖くて人形師やれるか。ああ、偶にはあの子も出してやらないとだなぁ。また髪の毛伸びてるかなぁ、と家で箱に封印している人形を思い出したりもする。
一人でぶつぶつと言いながら、
「――一応、本物みたいだしね」
溜め息を吐いて、彼女は自分の――三本の傷跡が走っている――手を眺めた。
○ ● ○ ● ○ ● ○
私は猿の手を師匠達に知らせないことにした。
危ないから、ではない。猿の手は願いを三つ叶えるまで持ち主からは離れないという話があった。それを覆すには持っていることを拒否する願いを掛けなければならない。
だったら拒否すればいい、とも考えた。
だけどどうしても手放すと決心出来なかった。
――願いを、叶える。
そこにどんな罠があっても、手放すのは惜しいと思ってしまったのだ。
きっと使わない。使ってはいけない。
そう思っていても、捨てたいとは、思えなかった。
「…………」
いつか捨てられる日が来るのだろうか。
それとも、使いたくなる日が来るのだろうか。
アリスに釘を刺された今となっては些細な願いも私の無意識を拾い上げ、悪い予感しかしないのに。
それでも叶えたい願いがあるのか、私は。
「……平穏に暮らしたいだけのはずなんだけどな」
それこそ過ぎた望みだと悟るのはずっと後の事だった。
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