猫の話。
猫が居なくなった。
僕の家で飼っていた猫が居なくなった。
僕が三歳の頃、親戚の家の子猫を引き取って以来、ずっと一緒に育ってきた。
雑種で、虎柄で、無愛想で、昔はめちゃくちゃ家の中を走り回って家族を困らせて、ここ数年はめっきり大人しくなっていた、ユウと名づけた雄猫。
そのユウが居なくなってしまった。
僕はベランダで日向ぼっこをするのが好きだ。
母親は西日の差し込むベランダを少し嫌っているのだが、幼い時に夕陽に見とれたことがきっかけでベランダが好きになり、休みとなるとベランダに一日中居座っていた。
そしていつの頃からか、ベランダでぼーっと空を眺めている僕の近くにはユウが居るようになった。
揃って眠ったり、ユウだけ寝ていて僕は本を読んだり、ユウは散歩に出ていて僕だけ居たり、そんな関係で、ペットと飼い主という感じじゃなかったけど。でも、確かに僕たちには絆があったんだ。
でも、ユウは居なくなったんだ。
ユウが居なくなった日、僕は学校から帰って机にカバンを置くと、そのままベランダに出た。
その日はいい天気だったからだ。僕は気持ちよく読書でもしようと思っていた。
ユウは既にそこでとぐろを巻いていた。気持ちよさそうに眠っていた。
僕は起こさないようにユウを撫でた。反射的に、少し耳がぴくぴく動く。
そして座って本を開き、一度空を見上げた。
晴天のいい天気だ。そう思えるのも今のうちかな、と思った。
僕は少しずって、ベランダの影のスペースに動いた。
梅雨を間近に控えた陽射しは厳しかった。
陽は傾き、夕暮れまで僕は読書に勤しんだ。
西日が目を差すに至って、ようやく僕は本を閉じた。
もうすぐ母親の夕食の準備が終わるだろう。ベランダを後にしようとして、ふとユウが気になった。
ユウ、どこ?
ベランダは狭くは無いが広くもない。隠れるような場所はないが、ユウは勝手にベランダ側の樹から外に出て行くことが出来る。
歳を取ったせいか、最近は散歩に行くことも稀なのだが、たまには行くこともあるのだろうか。
散歩に出たのか。あんまり遅くなるなよ。
などと思っていると、ユウがまだ居ることに気づいた。
ユウは樹に近いベランダの手すりに乗って、下を眺めているように見えた。
「ユウ?」
僕の声に反応したのかしないのか、ユウはふい、と夕闇の空を見上げ、僕を見た。眼が合った。
――なぉーぅ
ユウが鳴いた。
「――ユウ?」
鳴き声を聞いたのは久しぶりだった。それが何かを感じさせた。
二度目の僕の問いかけには答えず、ユウは颯爽と樹に飛び移り、老年を感じさせない身軽さで道路へと降りていった。
「……散歩かな? いってらっしゃい。あんまり遅くなるなよ」
見えなくなったユウに、僕は見送りの台詞を言った。
それっきり、ユウの姿を見ていない。
いなくなった翌日は、まだ心配していなかった。
ユウがふらっと居なくなるのは猫故の行動で、これまでも幾度もあったからだ。
だから、ユウがお腹を空かせて帰ってきたときのためにいつも置いてある餌が減って無くても僕も母親も、特に何も思わなかった。
「珍しいわね」
と、母親が言った。僕もそう思った。
すぐ帰ってくる、そう思っていた。
その次の日になっても、餌入れの食事は減っていなかった。
母親は餌と水を交換しながら、首を傾げた。
僕もおかしい、と思った。
最後にユウを見てから、三日経った。
まさか、と思った。
「……猫は死に目を見せないって、言うから」
ぽつり、と母親が言った。
そんな、まさか。
四日目。餌は減った様子を見せない。
僕はユウを探して歩き回った。
ユウの縄張りは大体知っていたし、見回りのコースもいくつかは把握していた。
昔のユウは、今よりもっと活動的で、毎日見回りに出ていたような気がする。
探索中、思ったよりたくさんの猫を見つけた。その中にユウは居なかった。
昔、見ていた猫が居なくなっているように思えた。ユウは古参の猫になるのだろうか。
やっぱり、寿命なのだろうか。だから居なくなったのだろうか。
「…………」
涙が、出そうになって、我慢した。
いつか来るとは思ってたことだった。
だけど、唐突だったから。
猫は、どこまでも自由気ままで。
さよならも言えずに。
ユウが居なくなって五日目の今日、僕はまだユウを探して歩いていた。
心のどこかで諦めを覚えているけど、ベランダから眺めてばかりで外を歩くことの少なかったから、僕は新鮮な感覚を覚えた。
眺めるだけだと、マンションが建ったりしたぐらいで大して変化のないように見えて、その実、細かいところはたくさん変わっている。
公園の砂場が無くなっていたり、歩道が綺麗になっていたり、駄菓子屋さんが無くなっていたり、新しい家が増えていたり。
もちろん、変わらないところもある。
ユウと昔来た事のある丘は、相変わらずピクニックをしたら気持ちよさそうな草原のままだった。
気持ちのいい風が吹いて、少しユウとここで遊んだことを思い出したりした。
遠出してしまった、と思いながら僕は家路についた。
今日は日曜で、朝から歩き回ったからまだ日は高かったけど、余裕を持って帰りたかった。
この辺はニュータウンなのか、新築住宅が多い。その代わり、猫の姿は見かけない。
車の洗車をしている人が居るけど、その人以外には猫どころか人すら見ない。
閑静な住宅街と言ってしまえばそれまでだけど、新しい家は防音が良くて生活音すらもらさない。
静かな昼下がり。
そこに爆音が響いた。
「な――」
ガス爆発、だろうか。僕のすぐ近く、アパートの一階の角部屋から火が出て、壁面が吹き飛んでしまっていた。
「火事だ!!」
誰かが叫んだ。爆発に気づいて、誰も居なかった住宅街に人が現れ始めた。
消防署に電話だ。消火器はどこだ。怪我人はいないか。アパートの住人は早く避難を。
呼びかけが、連続する。呼応して、火も大きくなっていった。
まず、隣の部屋の住人が飛び出してきた。と、同時に小さな爆発音。黒煙が上る。
二階の住人も煙を見て、逃げ出してくる。
まずいことに、階段があるのは爆発が起きた部屋の近くだった。
激しく煙が上っているのを見て子供を抱えた女の人は怯んだが、意を決して階段を駆け下り、脱出した。
ところが飛び出してきたところで足をもつれさせて転んだ。
僕は駆け寄って、身を起こさせた。もうちょっと離れさせないと危ないかもしれない。
しかし何やら子供の様子がおかしい。
「みーが! まだ、みーが中にいるの!!」
切羽詰ったように、みーが! と繰り返している。
「まだ子猫なのっ! 助けなきゃ……みーが死んじゃうぅ……」
そう言って、泣き出してしまった。
「やだよぉ……みー、死んじゃやだぁ……」
泣きじゃくりながら、子猫の名を繰り返す幼児。
既視感。
『死なないで、ユウ……死なないで』
フラッシュバック。
(ああ……)
まだユウを引き取って間もない頃のことだ。子猫だったユウが病気になった。
弱々しい姿を見て、幼かった僕は本気で死んでしまうんじゃないかと不安になって、泣いて願ったんだ。
そんな僕の様子を見て、母親はもし死んでしまってもまた猫を飼ってあげるから、と言った。
そして僕は答えた。
「違う、僕はユウじゃないと嫌なんだ」
僕は一目散にすぐ近くの洗車していた人の駐車場へ駆け出した。
そこには予想通りバケツがあり、さらに運良く水で満たされていた。
迷わず、僕は水を頭から被った。走り出す。
勢いそのままに、火元近くの階段を一気に駆け登り、半開きのドアに飛び込んだ。
まだ、火の手は回っていない。
「えっと……」
アパートの間取りは部屋数も少なく、そう広くも無い。
果たして探しものは、すぐ見つかった。
居間の隅のバスケットの中で、すやすやと眠っていた。
僕は片手で持てるほどの子猫を抱いて、キミがみーかい? と呟いた。
「――うわ」
どん、と爆発音と衝撃が響いた。のんきにしている場合じゃない。
片腕に猫を抱きなおして、玄関の外に――
「熱っ――!!」
肌を刺す高熱の痛みにうめいて、僕は玄関の中に舞い戻った。
水に濡れた服から湯気がたっていた。隣の部屋まで、火が回ってきている。ここも熱気が酷い。
気づけば、煙の量も格段に増えていた。早く逃げないと煙に巻かれる。
「やばい……」
死ぬ気などさらさら無い。脱出の方法を考えないと。
炎の音の中、小さく、みぃ、と鳴き声がした。子猫が目を覚ましてしまったようだ。
「――――」
どうする? もう一度、階段を駆け抜けるか……?
みぃ、と再び鳴き声。つい目線を向けてしまうと、子猫と目が合った。
「…………」
何が何でも脱出しなくてはならない。
と、その時子猫が目線を転じた。向いた先は、ガラス戸の開きっぱなしになっているベランダ。
ベランダの先には、樹が。
「そうだ。……いけるか?」
ここは二階だから、失敗して落ちても死ぬことは無い。そう僕自身に言い聞かせながら、走り出した。ベランダに向けて。
脳裏によぎるユウの身のこなし。大丈夫だ。ユウには出来た。
そして僕は飛び出した。
まずジャンプしてベランダの手すりに脚をかけて、さらになるべく勢いを殺さないように跳ぶ!
(――届けっ!)
樹はベランダから何メートルか離れていた。――が、伸びていた枝に自由な右手がなんとか引っ掛かった。
ぐり、と右肩が捻られて、痛んだ。引っ掛かった右手も、勢いと体重を当然支えきれず滑った。
「うあ」
尻餅をついた。が、直接落下よりはマシだっただろう。多分。
しかしここも火元に近いため熱い。僕は立ち上がって塀を越え、隣の民家に入った。
左腕の中の子猫を見る。無事だ、よかった。
みぃ、と鳴き声が聞こえて、ほっ、と安堵の溜め息を吐いた。
どこか遠くから消防車のサイレンが聞こえてきた。
僕は民家を出て、飼い主である子連れの女の人を探した。
「あっ、みー!」
大きな声がして、子供が駆け寄ってきた。
「はい」
子猫を渡すと、嬉しそうにみーは鳴いた。子供も嬉しそうに抱きしめた。
「それじゃ、大事にするんだよ」
そう言うと僕は火事場を後にした。
家に着いて、僕は自分がすっかり汚れていることに気づいた。
煤はもちろん、洗車用のバケツはあまり綺麗ではなかったようだ。
これはお風呂に入らなくては、と思いながら靴を脱ごうと玄関でしゃがみ込んだ。
――なぉーぅ
「え」
今の鳴き声は。
「――ユウ!?」
僕はそう言うとドアを開け、外に飛び出した。
ドアの前には、ユウが何食わぬ顔で立っていた。
まるで、なにおどろいてるんだい? と言ってるかのように。
「生きて……」
いたのか、と言う言葉を途中で切って、僕はただユウに近寄って、撫でた。
この五日間、どこで何をしていたのか、ユウもまた僕と同じように汚れていた。
「長旅ご苦労さん」
そう言うと、僕はユウを抱いて家に入った。