たとえばこんな話・・・
『扉』の話〜 The Door 2 〜
たとえばこんな話がある。
ここに一人の少女がいる。
彼女の名前は・・・・・・
「―――なによこれーっ!?」
そうだなぁ、仮に渡瀬 歩とでもしておこう。「なんなのよ、『これ』はっ!?」
朝の気だるさの中、ようやく起床することができたあたしは、目の前にある『扉』としかいいようのない物体の存在に気づき、叫び声を上げた。
「なに! なに? なに!?」
パニックに陥りながら、ベッドから抜け出そうともがく。
情けない話だが、混乱のあまり腰が抜けていた。
トントントン、という足音がして、あたしの部屋の入り口が開いた。
はっ、としたあたしは、
「姉ちゃん、どーした? 朝っぱらから大声出して」
―――――どたんっ!
ベッドから落ちてしまった。
「・・・・・・いったぁ・・・・・・―――ちょっと、ノックぐらいしてよっ!」
「んなこと言ったって、悲鳴聞いたからにゃ、直行しなきゃならんでしょうが・・・・・・。だいたい母親から言われたんだから、しょうがないっての」
ドアを開けた状態のまま―――ご丁寧にも部屋には入っていない―――パジャマ姿の弟は答えた。
「う〜・・・・・・」
あたしは妙に理路整然と理由を言った弟に文句も言えず、唸った。
「はぁ・・・・・・。で、どしたの?」
ため息を吐いて、弟は訊いてきた。再びはっ、となったあたしは未だにベッドの前にいる『それ』を指差して、言った。
「これよこれ!」
「はぁ?」
わからないのか、この馬鹿弟。おめえの目はフシ穴か?
「これって・・・・・・鏡か?」
ああ、もうっ、何を言ってるのだ愚弟は!
「姉ちゃんが写ってるだけじゃん。なんか変なものにでも見えた?」
確かに『扉』を突き抜けた先に、あたしがいつも格好を確認している立ち鏡があったのだが・・・・・・。(この時、『扉』の向こうが見えるという現象が起きていたのだが、このことにあたしが気づいたのは後のことだった)
「――――」
本気で怒鳴ろうとした瞬間、もしかして弟には見えてないのではないか? という予感がして、口は開いたが声を出さなかった。
口をぱくぱくさせたあたしを見てか、弟は、
「どーせ、寝ぼけたんだろ? それとも、夢で美人になったりしたの? それで現実とのギャップに耐えられなかったとか」
思いっきり失礼なことをぬかしやがった。
「この、ダアホ!」
あたしは素早く腕を伸ばし枕を掴むと、弟の顔面めがけ力の限り投げつけた。
「ぐはっ」
ストライク。
「歩、どうしたの? 朝から大声出して、近所迷惑よ」
今度は母親が現れて、諭すように話し掛けてきた。
「ねえ、お母さんは見えないの!?」
あたしは馬鹿みたいに縋りついて、訊いた。母親は目を丸くして、
「何? 何を言ってるの?」
と逆に訊いてきた。あたしは指を指して示したが、母親は気づいた様子がなかった。
「?」
「?」
弟と二人して首を傾げてしまった。あたしには妙にのん気に見えて、苛立ちまぎれに髪をかき乱した。
(ああ・・・・・・どうなってるのよ・・・・・・?)
ひどい寝癖がさらにひどくなっていくのにも構わず髪を乱していると、顔に疑問詞を浮かべていた二人が奇妙なものを見る顔つきであたしを見ていた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
思わず叫びたくなったが、自制した。これ以上何か(二人にとって)変な行動を取ると、頭がおかしくなったんじゃないか、と思われて、精神病院に連れて行かれるかもしれなかった。
正直、それは勘弁願いたかった。「うぅ〜・・・・・・」
通学路、あたしは憂鬱な面持ちで、小さく唸りながらとぼとぼと歩いていた。
振り返ると『扉』がいる。
「うぅ・・・・・・」
ずっとなのだ。朝、目がさめてからずっとあたしに付き纏っているのだ。
朝食、朝シャン、トイレ、洗顔、着替え。必ず目に入る位置に『たって』いたのだ。
朝食の時、ちらちらと家族の顔を窺ってみても、やっぱり誰も『扉』には気づかないで、黙々と食事を取っていた。
シャワーを浴びようとして脱衣室に入ったあたしは『扉』が、脱衣室の前のドアにいるのに気づき、意地でも何処かにどかそうとしたのだが(このとき、あたしは『扉』に触れるということがわかった)、全く持って動かすことが出来なかった。
幸い、脱衣室の外だったので服を脱ぐことは出来たが、浴室に入ると『扉』は脱衣室内に進入してきた。あたしは思わず、
「―――いい加減にしろっ!!」
と叫んでしまったのだが『扉』は動こうとしなかった。その声を聞いたのだろう脱衣室の向こうから、
「どーした、姉ちゃん?」
と弟ののん気な声が聞こえてきたので、あたしは、
「なんでもないわよ・・・・・・」
と言った。『扉』の向こうから弟の訝しんだ気配がしたが、無視した。
(まるっきり、ストーカーじゃない)
シャワーのお湯を浴び、あたしは憮然としながら、そう思った。
その後二回、着替えのたびに同じような行動をあたしと扉は繰り返した。
(胃が、痛い・・・・・・)
神経性胃炎になりそうであった。
結局、最後のほうでは家族みんなで、あたしのことを心配するようになって、何か悩みがあるのか、とか訊かれ、仕舞いには弟に「ヘンな薬に手を出してないか?」とまで言われた。(直後、弟には人中に肘鉄を入れてやったが)
「・・・・・・」
そのせいで、遅刻である。学校へは「家庭内事情で遅刻します」と母親が連絡していた。
(・・・・・・止めときゃよかった)
どんな顔して教師に顔を合わせればいいのだ。恥ずかしいったら、ありゃしない。
学校への連絡通り、急遽家族会議が開かれた。父親はさすがに仕事に行ったが、弟は学校を休んでいた。(いい口実になっただろう)
その後三十分ほど、相談という名の尋問が続いた。
ようやく開放された時には、一時間目を完全に諦めなければならない時刻だった。
(あ〜ぁ・・・・・・一時間目、古典だったのに)
好きな教科だったのに・・・・・・、と気分がどんどん落ち込んでいく。それもこれも全部・・・・・・
「あんたのせいだからねっ!!」
びしっ、と効果音が付きそうな勢いで、あたしは後ろをついてくる『扉』を指差して言った。
はっ、として周囲を見渡すと、登校時間から外れていることもあり誰もいなかった。
「・・・・・・はぁ」
安堵と落胆、両方のニュアンスを含んだため息を吐きつつ、あたしは向き直り歩き出した。あたしの通学路はそこそこ長い。徒歩二十分ほどかかる。
いつもなら友達と色々話しながら行くのだが、今日は一人だ。
自然、黙って歩くことになる。
「・・・・・・―――」
あたしは一人なんだから。独り言を言う癖なんて無いんだから。変な『扉』の文句を言いたい訳じゃないんだから。非生物の常識範疇外に文句言っても仕方ないんだから。別に妙に『扉』が気になるとかそんなことはないんだから。
自分自身に何かを言い聞かせる。それはもう必死に。しかし、
「・・・・・・うぅ」
我慢の限界とばかりに、知らずに唸り声もらした。
ちらちら、と視界の端で『扉』を捉える。そしていきなり、がばっ、と体ごと『扉』の方に向けた。
「・・・・・・―――何でっ!?」
『扉』はいなかった。
いや、いないのではない。わずかに影が視界の隅の方に入っている。片目が辛うじて見えているという端も端。
素早く首を回して、影の方を向く。―――いない。
視界の枠すれすれに入った『扉』を正面に捉えようと・・・・・・また視界の隅に。それも、左を向いたはずなのに右側の。
「・・・・・・くっ」
意味も無く焦燥にかられ、正対しようとあたしは、
「左? いや、正面ねっ!!」
フェイントを交えて、おそらく体育の授業でもこんな素早い動きをしたことがなかっただろう、と思えるスピードでステップを踏み、体の方向を変えた。―――いない!
(今度は本当に居ない?)
左右の視界の端に意識を向けても、その影は無い。とその時、視界の上の方に・・・・・・
「・・・・・・・・・・・・――――――っ」
あたしは糸が切れる音が聞こえた気がした。
人間という動物には色々と不可思議な性質というか、体質と言うものがある。
何かを途中で止めると、続きが非常に気になったり。怖いのに、わざわざ怪談を聞いたりと、まあ、理性ではわかっていても止められないというものだ。人間とは理性の動物である、と誰かが言っていたような気がするが、これは明らかに矛盾しているだろう。しかし、それが『そういうもの』である以上、その衝動に駆られてしまうのは仕方無いのだ。
だから、だから・・・・・・見えるか見えないか、というギリギリの領域にあるものがどうしようもなく気になってしまっても、それは人の常であるから仕方がないことなのだ―――
『うっとーしーのよーっ!!!!』
あたしは心の中で、心の限り、心の底から絶叫した。「くはぁ・・・・・・」
やたらと親父臭い溜め息をついて、あたしは机に突っ伏した。
「起立」
「へっ? あ、ああ・・・・・・」
しまった。ショートホームルームの最後の挨拶を忘れていた。慌てて立ち上がり、控えめに「ありがとうございました」と皆に合わせて言う。
「はぁ・・・・・・」
今度こそあたしは机に寝そべった。そのままだと顔が汚れるので、腕を枕代わりにして。
放課後、である。
はっきり言って、今日の授業内容は覚えていない。ノートこそ機械的にとったが、上の空であったことを自覚している。
もはや諦めすら感じながら、突っ伏したまま眼を動かす。
(ああ、いたいた)
何メートルか離れたところに、朝からずっとあたしを付き纏っている『扉』がいる。
・・・・・・何と言うか、もう慣れた。
苦笑混じりに考えて、眼を閉じた。あれだけ授業に集中してなかったにも関わらず、いやだからこそか、あたしは無性に眠たかった。
(ふぅ・・・・・・)
夢を見るように今日の出来事を思い返した。
校門の前で、ようやく視界の端でうろちょろするのを止めた『扉』に蹴りを入れたり、昼休みに弁当を取られるんじゃないか、と思うぐらいずっと不動の姿勢で側にいられたり、掃除時間中、邪魔に感じて思わず雑巾を投げつけたら素通りして『扉』の向こうの友達に当たったり、それで今度、その友達にはおごることになったり。
(今日はついてないなぁ・・・・・・)
まどろんではいるけど、眠れない。今日幾度となく吐いた溜め息をまた吐きながら、顔を起こす。
いつの間にか教室にはあたし一人だった。
まだ夕方と言うには少し早い時間、空はまだ青いのだが、教室には誰も居なかった。
「あれ・・・・・・?」
いつもなら教室で予習や課題をしているクラスメートが居て、喧騒に包まれるはずなのだが。
「・・・・・・・・・」
水を打ったように静か―――
隣のクラスからの音も遠くに感じて。
まるで一人、世界に取り残されたような・・・・・・
「・・・・・・・・・」
―――むしろ、異世界に放り込まれたような。
「これは・・・・・・あなたのせいなの?」
『扉』はそこにいた。いただけだった。何も答えなかった。
はあ、と実に十三回にも及ぶ溜め息を吐いた。
(非生物に話しかけるなんて、だいぶまいってるなぁ・・・・・・あたし)
この妙な現象は偶然だ。きっと今日は提出物も何も無かったのだろう。それが偶々、隣のクラスも同じで。それで今日はみんな見たいテレビや用事があるのだろう。
だから、誰も居ない。と、その時、
―――かちゃり
という音がした。「な、何・・・・・・?」
後ずさりをしながら、誰も居ないことを感謝した。
あたしは妙に引きつった表情をしているということが、容易に想像できたからだ。
わずかな物音にここまで反応してしまうとはお笑いだが、あたしは正直、冷や汗をかいていた。
「・・・・・・」
本の少し、『扉』があたしの方に近づいてきた、ような気がする。
「うっ」
無言のプレッシャーに圧される。元々『扉』は喋らないが、この場合の沈黙は意味合いが違ったように感じた。汗が背中を伝う。
「・・・・・・・・・」
より辺りが無音になった。それだけにさっきの音が際立った。
本当に『扉』が近づいてきていた。なめくじのような速度だが、数十秒前よりは近い位置に来ていた。
「・・・・・・・・・・・・」
そして、手を伸ばせば届く位置まで来ると静止した。
それ以上の変化は無かった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
静寂な時間が続いた。とても長い間。
ついにあたしは観念した。
「・・・・・・何よ! 開ければいいんでしょっ!? 開ければ!!」
破れかぶれで、あたしは無造作にドアノブを掴み―――それを回して、押した。
呆気ないほど簡単にドアは開いた。
そしてその先に広がるのは―――
「――――――あっ」
〜 The Door II closed 〜
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