たとえばこんな話・・・
『扉』の話〜 The door 〜
例えばこんな話があるとしよう。
ここに一人の少年がいる。
「・・・・・・」
彼の名前は・・・・・・そうだなぁ、仮に窓辺 明とでもしておこう。
彼は今、目を覚ましたばかりだ。時刻は七時といったところ。窓のカーテンの隙間からは朝日が差し込んでいる。
今、彼はぼーっとしている。
彼は元々寝起きがあまり良くない方で、起床しても暫くはベッドの上でぼんやりしている。
ああ、ちなみに彼は二度寝は絶対にしない。
寝起きが悪い割に不思議だが、彼は全く遅刻をしないのだ。
「・・・・・・・・・」
しかし、いつもよりも彼はぼーっとしているようだ。
呆然、と言っても構わないが、彼は元々ぼーっとした感じなので区別がつけづらい。
彼の視線は自分から2、3メートル離れた所にある『扉』に向いているようだ。
『扉』である。
何の脈絡も無く、空間に『扉』が存在しているのだ。
「・・・・・・・・・・・・」
彼が、何だろうこれは? という疑問を覚えたのは、彼の目覚めからおよそ五分後のことだった。彼は登校した。―――『扉』と一緒に。
(他の人には見えてない・・・・・・)
と彼が気付いたのは、朝食の時だった。
制服に着替え部屋を出て、家族と席を並べたとき、どうやって移動してきたのか『扉』もまた、台所に来ていた。しかし何故か、家族は何も言わなかった。
まだ彼はぼんやりとしていたので、問い正すことはしなかったが、見えていないらしいことにはなんとなく気付いた。
さらに不思議なことに、『扉』がテレビの前にいたのにも関わらず、彼にもちゃんとテレビの内容が見えたのだ。
半透明になっているわけではないのだが、何故か見えた。
片方の目の前に紙を置いて、両目を開いた状態に似ている。と、彼はやはりぼんやりと思った。
「おはよー、窓辺」
「おはよう」
『扉』の向こう側から、友人が声をかけてきた。そのまま友人は『扉』をすり抜けて、昇降口へと向かう。
「・・・・・・」
どうやら、他の人は触れられないようだ。「きりーっ、気をつけっ、れーっ!」
『ありがとーございましたーっ』
三時限目が終わった。
相変わらず『扉』は存在していた。現在の位置は、教室後方の隅にある掃除用具入れロッカーの隣に、妙に慎ましい感じで『たって』いる。
「・・・・・・」
彼はもうすっかり目が覚めているので、状況を確認している。
一時限目の休み時間、彼は『扉』の外見をよく観察した。
その時『扉』はでんっ、と彼の机の前に居座っていたので、簡単に調べることが出来た。
目測で、横幅一メートル二十センチ、高さ二メートル、厚み十センチ、空中に浮いていて、床からの高さ七センチ。見た感じ木造で、金色のドアノブが向かって右側についていて、鍵穴もある。
古い屋敷にあるような、アンティークな扉であった。
二時限目の休み時間、彼は『扉』を触ってみた。
その時『扉』は、生意気にも教室の出入口と一体化していた。
ちょうどトイレに行きたかったので、彼は出入口を通った。通れないかとも思ったが、やや心構えをして友人と一緒に『扉』を通り抜けた。
すり抜けられたのだ。なかなか不気味な感覚だった。
トイレから戻ってみると、今度は廊下に『扉』は移動していた。「おかえりなさい」とでもいいそうな感じだったが、別の見方をすると「廊下に立たされている」ようにも見えた。
彼は手で触ってみようとした。
「・・・・・・」
さすりさすり。
触れた。さっきはそのまま通り抜けたのに、手で触ろうとすると触れるらしい。
触った感触は、間違いなく木材だった。微妙に湿気ていて、冷たい。
・・・・・・正直、良い肌触りだった。
そしてこの休み時間、彼は、どうやって『扉』は移動しているのか、を調べようと思った。
教室の隅にいる『扉』をじっと見つめる。
「・・・・・・」
見つめる。
「・・・・・・・・・」
見つめ続ける。
「・・・・・・・・・・・・」
・・・・・・動かない。
『扉』はロッカーの脇で、固まったままだ。先程まで教室のあちこちに移動していたのが嘘のように、一ヶ所に大人しくたっている。
こちらが見ていると動かないのだろうか?
彼がそう思い、一度視線を逸らしてみると、
「・・・・・・」
案の定、『扉』は移動していた。彼の目の前に。
―――――きーん こーん かーん こーん
四時限目開始のチャイムが鳴ったので、観察はここで終わった。
「・・・・・・」
彼は何事もなかったように、四時間目の授業(英語だった)に集中した。昼休みになり、昼食を手早く済ませた彼はいつものようにぼーっとしていた。
「・・・・・・」
窓の外を眺めていた彼は、視線を転じて教室の中を見た。
「・・・・・・」
そこには、『扉』が机と机との隙間を、見事な体捌きで移動している姿があった。
「・・・・・・」
先程の見られていると移動しない、という考えは違うようだ。
「・・・・・・」
再び彼は、窓の外に眼をやった。暫くすると、彼は席を立った。次は音楽の授業なので移動教室なのだ。
廊下を出て少し歩いたところで、ふと後ろを振り返る。
『扉』が、きっかり三メートル離れたところにたっていた。
「・・・・・・」
前を向いて少し歩いて、振り返る。
『扉』は、きっかり三メートルの位置をキープしていた。
また前を向き直して歩く。振り返る。
『扉』は、さも当然とばかりに三メートルの位置を保っていた。
「・・・・・・」
今度は、目を離さずに歩く。
「・・・・・・窓辺、何で後ろ歩きしてんだ?」
同じように教室移動していたクラスメイトが、彼を見て訊いてきた。
「実験」
彼はそう答えた。
「はぁ?」
クラスメイトは訳が分からない様子だったが、それ以上何も言わずにさっさと行ってしまった。
「・・・・・・」
『扉』は彼が振り返った所から三メートル離れた場所にいる。
しかし、彼は『扉』を見たまま廊下を後ろ歩きしているので、さっきまでの位置からは離れていた。
現在、その距離七メートル。
なおも彼は『扉』を引き離しにかける。
「・・・・・・・・・・・・」
『扉』は石のように動かない。そして今や、その距離は二十メートルに達しようとしていた。
後ろ向きに歩いている彼の脇を、女子生徒達が雑談をしながら通り過ぎていく。
と、ここで彼の視界に階段らしき影が入った。
思わず、彼はそちらに顔を向けた。確かに階段があった。廊下の端まで着いたのだ。
(・・・・・・しまった)
一瞬目を離した隙に、『扉』は彼から三メートルの位置に移動して来ていた。
『扉』は誇らしげに胸をそらすように、床からの高さを十二センチに増やしていた。放課後となった。相も変わらず『扉』は彼の側にいた。
帰りのホームルームが終わっても、彼はぼーっとしていたので、すでに教室に他の生徒の姿はない。教室は夕陽が差し込んで紅く映えていた。
「・・・・・・」
ふと彼は、『扉』の影はどうなっているのか、と気になった。
『扉』は彼の机の前方三メートル三十三センチという微妙な位置にたっている。
夕陽は、彼の左斜め前から差し込んできているので、ちょうど影が見やすい位置関係だ。
少しだけ身を乗り出して、『扉』の影を探す。
思いの他、簡単に影は見つかった。しかしその影もまた、『扉』と同じようなものだった。
影がある床と影がない床とが両方見えるのだ。
『扉』自体がそういう性質なので、その影がそうなっても何の不思議はない。そう彼は納得した。
「・・・・・・」
一体、この『扉』は何なんだろうな? と、今になって彼はそんな事を思った。
誰もいないので、彼はしげしげと『扉』を観察し始めた。
今日一日中彼の側にいたのに全く汚れていない。基本的に触れないので当たり前だが。
床との隙間に手を入れてみるが、やはり何も無い。
鍵穴を覗いてみた。
「・・・・・・」
中は真っ暗で、何も見えなかった。反対側に廻って、同じように覗いてみる。
こちらも同じように真っ暗で、何も見えなかった。
表側に戻って、黙って考え込む。
(・・・・・・埃でもつまっているのだろうか?)
何かで鍵穴をつつこうか、と手頃な細長い物を探す。しかし、
「・・・・・・」
下手に触ると駄目かもしれない、と思い、止める。ゴミの類ではなさそうであった。
腕を組み、手を口に当てて彼は考え込んだ。
「・・・・・・・・・・・・」
彼は、う〜ん、などと独り言は言わないが、そういう雰囲気で考え続けた。
見た限り、『扉』の鍵穴は一直線上に存在している。
なのに、その鍵穴から反対側が見えないというのは変だ。常識の範疇で、だが。
じっ、と鍵穴を見つめてみても、その先は見えない。
影、という生優しい暗さではなく、闇。そういうものの様に感じた。
「・・・・・・」
不意に、この扉を開けてみたらどうなるだろうか、という疑問が浮かんだ。いや、好奇心という誘惑にかられたようでもあった。
彼は腕組みを止めて、『扉』を直視する。
『扉』は無表情に、彼の視線を受けとめた。
「・・・・・・・・・・・・」
少しずつ夕陽が傾いていき、教室内の朱が密度を増していく。
遠くから、部活動の生徒の声がする。
時は決して止まらずに、流れ続ける。
しかし今、この空間はあたかも時が止まったかのように静止していた。
・・・・・・そして、それは唐突に終わった。
―――がちゃり
という音と共にドアノブが回り、『扉』が開いた。「―――――あっ」
〜The Door closed 〜
[Back]