フィジカルインスピレーション



 ちょっと気になる人がいる。
 同じクラスの男子だ。
 名前は三崎進一という。身長は並で、細身で、実は結構筋肉質な身体をしている。
 いつもどこかぼーっとしてて、体育が嫌いで、特に球技が嫌いで、その割に運動神経が良い彼の事が気になる。
 得意教科はわたしと同じで物理。テストで一位二位の取り合いをしてたりする。
 何故、彼が気になるのかはわからない。なんとなく、『通じるモノ』があるような気がするのだ。
 告白しようか、と思った事もある。この気持ちが恋なのかどうか確信は持てないけど、気になってます、と言ってもいいと考えたりする。
 彼の事を気にし始めて、二年半も経っている。これは流石に恋と言ってもいいだろう。
 ともかく気になるのだ。
 とてもとても気になっているのだ。
 でも、どうしても最後の一歩を踏み出せないでいる。
 わたしが、普通の女子高生とは、違っているから。

 教室の中に人間が四十二人。その内二十二人が男で、十九人が女。大人が一人で、あとは子供。大人は教師で、子供は生徒だ。
 チョークの本数は十三本。真面目な掃除当番がきちんと取り替えたようだ。
 画鋲の数は……およそ三十五本。教室後方の壁にその大多数が刺さっている。男子生徒がダーツのように遊んだのだろう。
 わたしの机の上に、ノートと教科書が一冊ずつ。半開きペンケースもある。机の中には、ノート七冊、A6サイズの教科書四冊、ペンケースが一個。こちらのペンケースは予備だ。
「…………」
 わたしがそこまで認識すると、“閉じていた”眼を開いた。
(ふぁ……)
 眠気覚ましに、と思ってやってみたのだが……まあ、そこそこ程度しか効果は無かった。
 時計を見るとあと十分ぐらい。気合いを入れなおして、授業に集中した。

 わたし――観空茜は、五感に頼らず物の存在を感知することができる。
 壁越しに誰がいるかとか、箱の中に何が入っているかとか、よくテレビの超能力である透視のようなものだ。
 わたしの場合は視るわけじゃないから、透視とはちょっと違うと思う。
 物心がついたときには既にこの能力はわたしにあった。
 そのせいか、ちょっとわたしは他人よりも整理整頓にうるさい。そのくせ、時々自室を(もちろんきっちり整理された)ぐちゃぐちゃにしてしまう。
 その辺の心理は自分でもわかってない。逆らえない衝動に突き動かされるのだ。
 その話は置いといて、だ。
「あのね……後ろから『だーれだ?』なんて、面白くないからね」
 弁当を摘まみながら私はぽつり、と独り言のように言った。
「あはは」
 笑いながらわたしの後ろにこっそり回りこんでいた友人が隣の席につく。一緒に昼食というわけだ。
「茜って、しようとする直前に絶対止めるよね。なんでわかるのかなぁ?」
「勘よ。勘」
「鋭すぎるわよぉ」
 訊いてくるが、私はそっけなく答える。面白がって、半ば習慣化したように、彼女は「だーれだ?」をやろうとするのだ。
 迷惑なことこの上ない。お化け屋敷とか、嫌いだし。
 いつものことなので、その後は普通の雑談だ。今日の授業のことや、来週末に控えている全校行事の球技大会とか。目新しい話題は今週末のバレンタインデーだった。誰彼にチョコをあげる、告白しそうな人といった話をしていると、そこに、
「あ、そだ。茜、建物とか興味ある?」
 唐突に別の話題が振られた。いぶかしみながらわたしは、
「まあ、ある方といったら、ある方かもね」
 そう言うと、彼女はポケットから二枚のチケットを取り出して、わたしに渡した。
「?」
 見ると、とある建物の入場前売り券だった。大企業が建設していたビルで、最近その出資していた会社の社長が急死したとかで、企業は半ば潰れてしまったらしい。残されたビルは複雑な事情があって解体するしかなく、せっかく建てたので、入場料を取ってイベントを催して利益を上げようという話だ。
「ふーん……」
 じろじろとチケットを見て、裏をめくったりする。
「ん? 何? 開催日、バレンタインなの?」
 正確にはバレンタインを初日として、その後一ヶ月が開催期間だ。しかし、この学校の生徒なら、今度の週末ぐらいしか空いた休日は無い。模試が入ったりしているのだ。
「そーなのよ。それでさ、あたしは別口で用事があって行けそうにないし。あんま興味もないしね。ちなみに、そのチケットはお父さんが仕事で貰ったものだから、お気遣い無くー」
 別口で用事、とはおそらくデートだな。そういえば、他校に彼氏ができたとか。
「ま、頂いとくわね。行く気が起きなかったら、他の人に回すけどオーケー?」
「おっけー、おっけー」
 ひらひらと彼女は手を振った。わたしはポケットに二枚のチケットを突っ込んだ。

 その日の放課後、わたしは家に帰るとすぐに駅に向かい、そのイベントが開かれるビルというのを見に行った。
「うーん……」
 チケットは二枚。はたしてどうするべきか……。
 いや、誘いたい人は決まってるけど、誘う度胸が。
「うーん……」
 うんうん唸りながら歩くわたし。周りは高層ビルが立ち並ぶビル街で、通行人は居なかったのは幸いだと思う。
 ちなみにイベントがあるビルは、なんともいえない奇妙なもので。正直、自分の感性とは真っ向から対立している。
(うーん……、行きたい、と思うようなものでもなかったなぁ……)
 むしろ、行く気が削げた。いっそ、チケットは回すか、と考える。
「うーん……」
 そんな風にして、駅に向かっていると裏手のゲームセンターが目に入った。気分転換に寄ろう。滅多にこういうとこには来ないし。
 三十分ほど、隅の方にある古いパズルゲームを楽しんだ。パズル系のゲームだけは得意なのだ。
 澱んだ空気で息苦しいゲームセンターを出ると、二三回深呼吸をして、改めて駅に向かった。と、
「――――」
 やや裏路地のような道だと思っていたが、溜まっていたか。
 進路に立ちふさがるように流行り物の服を着た男が三人、そのうちの一人がわたしの後ろに回りこむ。男といっても高校生か大学生かといった若者だ。
 内心溜め息を吐きながら、僅かな可能性に賭けて「すみません」と言いながら脇を避けようとした。
「まてよ」
 案の定、男の一人がわたしの肩を掴んできた。
 カツアゲ、では無いだろう。となると、凌辱(レイプ)か。
 周囲を簡単にサーチしてみる。周囲に人は居ない上、この路地からさらに狭い道に入れるところがある。
 成る程、常習なのかもしれない。こうやって不注意に裏路地に入り込む人を狙ってるのだろう。
「嫌です」
 わたしは簡潔に言い、それほど力がこめられていなかった腕を振りほどいた。
 男達はニヤニヤと笑いながら再びわたしの前に立ちふさがる。
 駅までは二百メートル程度だろうか、遠くは無い。
 ――先手必勝。
 思いっきり脚を振り上げた。狙い違わず男の股に命中した。男は不意打ちに悶絶してしゃがみ込んだ。まずは一人。
「なっ……手前ぇ!」
 一瞬反応が遅れてその隣がわたしに拳を振り上げた。
 力はあるが素人だ。奥の手を使うまでも無く、躱す。そのまま懐に入り込んで、顎一点狙いのアッパーカット。完璧に決まった。あと一人。
 後ろにいた最後の一人が襲い掛かってきているのは感じているので、前ステップを踏んで距離を取った。
 ――思ったよりも反応が速い。しょうがない……
 わたしは意識を後方の運動物体に対して集中した。
「――――!」
 世界が――豹変する。
 時間が文字通りコマ送りで流れる。男はナイフなど持っている。あと一歩踏み込めばその攻撃範囲。
「――ハ・ア・ァ・ッ……!」
 コマ送りになるのはわたしも同じだ。耳を打つ自分の声が引き伸ばされて奇妙。
 ナイフを持つ手に回し蹴りが炸裂。ナイフが弾け飛ぶ。間をおかずに、そのまま水月に肘。
 正確に入った。
 白目を剥いて気絶し、崩れ落ちる様子がじっくりと見られた。嬉しくないが。
 落ち着いている場合でもなかった。初撃でしゃがみ込んでいた男が復活の兆しを見せている。
 わたしはきびすを返し、大通りへ走った。
 奥の手というのは、わたしの空間認知能力の延長にある技、だ。
 わたしは能力によって物体の位置、形を感知することができるが、それは運動している物体も例外ではない。集中の度合いによってセンサーの感度が良くなる。運動している物体に集中すると、何故か時間の流れが遅くなる。おそらく、わたしの脳の神経伝達速度が増大しているのだろう。普通人は集中しただけじゃそんなことはできないから、能力の産物だと考えている。
 ともかく、運動している物に集中すると脳の処理速度が劇的に増加するのがわたしの奥の手、というわけだ。
 それにしても、制服じゃなくてよかった。学校を覚えられたら後々面倒なことになりそうだ。
 能力を最大発揮したせいで、軽い頭痛がする。もうチケットのことは忘れてとっとと帰って寝てしまおう、とかどうでもいいことを考えながら走った。
「――――!」
 あとちょっとで抜ける、というところで一人の男が立っていた。あの男達の仲間らしかった。
 やばい。奥の手は連続では使えない。不意もつけそうに無い。
 いちかばちか、駆け抜けてしまうしかないか、ぐっ、と力を込めて加速する。
 男が蹴りを放った。しまった。加速したのが仇になった。転ぶようにキックを避けて、体勢を……立て直すよりも早く男が詰め寄ってきて、手加減無く拳を振り下ろそうと――
 ――ガンッ!
「え?」
 いきなり缶コーヒーが飛んできて、男の後頭部にとんでもない速度で激突した。と、わかったのは数秒経過したあとで、わたしは呆然としていた。
 ごろごろとコーヒーの缶が転がっている。音の低さから言って、中身が入ったままの未開封物だ。
(鈍い音だったなぁ。……あのスピードだったら死んじゃったりしないかな)
 中身の入ったスチール缶がへこんでしまっている。相当なスピードだ。
「ん、何だ、観空かよ」
 ―――!
「え、え!? 三崎君?」
 突然かけられた声に、というよりも声の持ち主に驚いて、わたしは頭が真っ白になった。
 見ると、男子にしてはやや小柄で痩身の男子――わたしが密かに想っている――三崎進一君が立っていた。
 彼はてくてくと無造作に歩いてくると、まず缶コーヒーを拾って、次にわたしを起こそうと手をさし伸ばしてきた。
「ほら、立てるか?」
「あ、うん……」
 どぎまぎして、差し出された手を握った。
 わたしはまた驚いた。彼の手がとても冷たかったのだ。
「ん……」
 三崎君はちょっと気にしたように、手をポケットに突っ込んだ。
 わたしはしまった、と思う。彼を不快にさせたかと、気が気でない。
「あ、えっと……ありがとう、ね。助けてくれて」
 ハッとして遅まきながらお礼をいう。
「ん」
 と、三崎君は軽く頷いてくれた。

 三崎君も電車で家まで帰るところで、一緒に帰ることになった。
「どうしてあの場にいたの?」
 会話は少なかったが、答えてくれるのが嬉しくて(そりゃあ、当然なのだが)、ぽつぽつと話し掛けていた。
 だからわたしのぶしつけとも取れる問いに、簡単に答えてくれた。
「あの辺にさ、変なビルが建ってんだよ。それの見物。ほんとは開催されるって言うイベントに行きたいんだけどさ、チケット取れなくて」
 それで外から眺めるだけでも、と彼は言った。そして逆に訊いてきた。
「…………」
「観空は? 何であんなとこにいたんだ?」
「――……え? あ、わたしは……も、そのビルを見に来たの」
 ちょっと詰まりながら、「は」を、「も」に替えた。焦ってさらに付け加える。
「路地に居たのは、駅裏のゲームセンターに寄ってて」
 だから襲われたの、と口走りそうになった。そんなこと口が裂けても言ってはいけない。
「へー、観空ってゲーセン行くんだな」
 少し意外そうに三崎君は言った。
 あまり変化しない彼の表情に気を取られながらも、わたしは意を決した。
「その……」
 体温、脈拍、血圧上昇、発汗を確認。つまり緊張しまくり。
 この時初めてわたしは彼のことが好きなんだと、実感として確信した。
(ええい、しっかりしろっ、観空茜!)
 自分を奮い立たせて、一世一代大勝負。
「そのイベントのチケット、二枚あるから一緒に行かない?」
 事実上、デートのお誘い、だ。



 俺、三崎進一には人には言えない秘密がある。まあ言っただけなら誰も信じはしないだろうが。
 簡単に言うと、「エネルギーを変換する能力」と「運動のベクトルを定める能力」というものを持っている。
 エネルギーを変換すると言っても、体感しやすい熱と運動エネルギーの二つだけだ。
 例を挙げると、飛んできたボールに能力を使うと運動エネルギーが熱エネルギーに変換され、ボールは停止、そして発熱、といった現象を起こすことができる。
 その逆として、ホットの缶コーヒーなどを吹っ飛ばして、冷ますなんてこともできる。
 もう一つの、ベクトルを定めるというのは、単に熱エネルギーを運動エネルギーに変換するときのためのモノみたいで、別の能力というよりはその付加的なモノだと考えている。
 そして、俺は自分の能力が嫌いだ。
 球技を主として、スポーツをするにあたって無意識に能力を使ってしまうので、それがイカサマのようで嫌なのだ。
 昔はそこまでスポーツを嫌っていなかったと思う。それなりに折り合いをつけて球技も楽しめていた。
 いつからだっただろうか? と思い返してみる。
 去年は既に嫌っていた。球技大会でも積極的に参加しなかったし、体育の時間で球技の時はあからさまに手を抜いた。手抜きも嫌いだったが、能力使って活躍する方がもっと嫌だった。
 そういえば球技大会がある。来週らしい。
(面倒だ……)
 確か野球にエントリーされていたと思う。
(嫌だ……)
 球技は嫌だ。野球は特に。
 そう思うなら別のにすれば良かったのだが、このクラスは他の二つ、バスケとバレーに力を入れていて経験者と現役の部活生を総動員させている。必然的に、表向き運動が苦手になっている俺は野球に回された、と言うわけだ。
「…………」
 内心溜め息を吐いた。そして、もう一度昔を思い出そうとして、
「三崎君」
 クラスメートの観空茜によって遮られた。
「ん?」
「日曜日、何時にどこで待ち合わせすればいいかな?」
 彼女と日曜日、とある建築物のイベントに行く約束をしている。
 彼女が言うには、
「友達から、チケット二枚貰って、他に行く人が居なくて……。わたし一人で行くのもなんだし、三崎君興味ある見たいだし。……どうかな?」
 と、こうらしい。
 俺はチケットが欲しくても手に入れられなかった口なので、その申し出を受けた。



(うあー、どきどきしてるよ……)
 外には出さないようにしているが、内心緊張しまくりである。
(あー、これが恋って感覚なのかな)
 今まで三崎君と話す機会は無かったわけではないが、先日の一件以来、この調子だ。
(なんだっけ。危機的状況にあると、人間は恋に落ちやすいとかなんとか……)
 つり橋の上などという状況だと、相手に好意を抱きやすい。恐怖による興奮が恋愛感覚にすりかわるという話だったか。
(ついに明後日かぁ……)
 明後日、今日を入れてあと二日だというのにこの浮かれ様はなんだろう。友人からも、
「茜、どうかしたの? えらく楽しそうだけど」
 とか、
「おやおや、風邪でもひいたかー?」
 などなど。真ながらも、失礼な言い草である。
 いくら緊張していようと、動悸が激しかろうと、待ち合わせはしなくてはならない。
「三崎君」
 声が上ずりそうになるのを抑え、努めて平静を保って声をかけた。
「ん?」
 三崎君は考え事をしていたのか、わたしの接近には気づかなかったようだ。
 考え事の邪魔をしたかな、と少し不安になったが三崎君は気にした風はなかったので、わたしは意を決して切り出した。
「日曜日、何時にどこで待ち合わせすればいいかな?」
 まるで、どころじゃなくデートの打ち合わせだ、と思って頬が紅潮しそうになった。
(あわわ……、落ち着け観空茜っ。変なことを考えるなっ!)
 幸い三崎君は気づかず、目線を宙に漂わせて考えていた。
「開場は……十時だったか。それなりに混むだろうし、早めに行ったほうがいいかな」
「そうだね……」
 一時間前の九時に待ち合わせかな。となると、八時半までには準備を済ませないと……
「で、何時にする?」
「ああ、えっと、八時半までには……」
 え?
 今、わたしはなんと言った。
(うわあああ!? 何勘違いしてるんだ、わたし!)
 しかし訂正する間もなく、三崎君はちょっとだけ(本当に少しだけ)驚いた顔をして、
「そうか、わかった」
 と了解してしまった。
「場所は……会場近くにデパート前広場があったよな。そこでいいか?」
「う……うん」
 わたしはぎくしゃくと頷くと、三崎君の席を離れ、自分の席についた。
「あはは……」
 乾いた笑いを浮かべ、次の瞬間わたしは机に突っ伏した。









 am 8:30

 本当は早く来ようと思ったのだが、元々の待ち合わせ時刻が早すぎて準備やらなんやらに手間取ったせいで丁度に着いてしまった。
 待ち合わせた場所に到着する前に、ムーンテンプルの脇を通ったが、思ったよりも人が多かった。
(直接、会場前で待ち合わせなくて良かったなぁ)
 と思ったのだが、多少の人ごみでもわたしは三崎君を見つけ出せるな、とも思い、何馬鹿なことをと、一人でにやけた顔を叩いたりした。
(もう着てるかな……)
 待ち合わせ場所の広場を見渡した限り、三崎君はまだのようだ。
 わたしが見渡す、ということをする場合、能力でサーチすることとほぼ同義だ。人間の感覚、集中力というのは視覚に偏っているからだろうと、テレビでみた知識からそう考えている。
 かといって目を瞑れば能力が効かないかというとそうではなく、“満遍なく”効くようになるのだ。
 時々、鬱陶しくなる―――
(あ……)
 後方より人が接近。わたしは振り返った。
「おはよう、観空」
 片手を挙げて挨拶をしてくる。予想通りに三崎君が居た。
「お、おはよう、三崎君」
 一瞬、意識がバッグに行くが、初っ端からまずい印象を与えてはいけないと思い、笑顔で挨拶を返した。
 早速、わたしたちは既に行列が作られている会場へ向かった。
 無言で歩くのも何なので、わたしはあたりさわりの無い話題を振った。
「思ったより、人が多いね。来る途中に見て、驚いたよ」
「そうだな。俺もちょっと意外だった。そこそこ人は来ると思ってたけど、開場一時間以上前から待つ奴が居るとは……」
「寒いのに凄いねぇ……」
 わたしのどうでもいいような呟きに、三崎君は、ああ、と頷いた。
 ちょっと嬉しくなって、声が弾む。
「今日はいい天気だからいいけどね」
「ん……」
 二人して、空を見上げる。
 今日はいい天気になりそうで、朝の空は澄み渡っていた。
 ところが三崎君は、
「……雨、降るかも……」
 ぼそりと呟いた。
「え?」
 わたしは驚いて、もう一度空を見た。
 確かに少しずつ雲が増えてきているようではあった。


「あーあ、来たくなかったなぁ」
「おやおや、無理に連れられてきたのかい?」
 …………。
「じいさん、誰?」
「じいさんはないだろう? 私はまだ若い」
「でも、俺より年寄りだろ」
「まあ、そう見えるだろうな……でも本当のところ、私は生まれたばかりなのだよ」
「バカみたい。んなはずねーじゃん」
「ふふ……しかし世界に、“確実に正しいこと”などないんだよ、坊や。すべては歪んで、どこかしらねじ曲がっているのさ……」
 ……。
「…………?」



 am 8:40


 俺達はムーンテンプルを一周する行列に並んだ。さらに列は一周するだけに飽きたらず、二週半まで達していて、どんどんと人を加えていっている。
 俺は観空に簡単な概要を説明し時間を潰していた。
「ムーンテンプルって名前、もしかしてそのまんま寺月恭一郎の苗字から、月(ムーン)寺(テンプル)なの?」
「ああ、おそらくな。……寺月氏は芸術関係にもいくらか手を出してて、前衛的な造形をやってたらしいが、センスは微妙だな」
「ぷっ……。確かに、こんなひん曲がった建物作るようなセンスじゃね」
「これはこれで凄いんだけどな……」
「そうだけど、わたしはセンス疑うなぁ……。何か利点とかあるの?」
「無いな。曲がった建物が建てられる、そういう意味しかない」
「実験だったのかな」
「そうかもな。寺月氏は酔狂好きで有名だったし。ほら、スフィアってあるだろ。あれも寺月氏がメインで設計した建物だ」
「ああ、あっちは好きなんだけど。割かし普通の球形で、卵みたいだし」
「あと、潰れたけど、どっかの県立だったか市立だったかの総合病院もだったかな……?」
「へぇー……」
 などと話していると、少し列が乱れたように動いた。
 開場にはまだ1時間以上ある。誰かが列を出入りしたのだ。
 前のほうの奴が少し下がってきた。
 片腕で観空をカバーするようにし、押される衝撃を和らげつつ、一歩下がった。
 前の奴が顔をしかめていた。どうやらその一つ前の奴が割り込んだらしい。
「久しぶりだなぁ! 中学以来だな」
 と言っている背の高い奴か。
 知り合いが列の内側に居て、好機と見て入り込んできたとかそういうことらしい。
(まあ、そう怒ることでもないか……)
 遊園地アトラクション順番待ちというわけでもない。
 背の高い奴は列に並んでいた奴と話を始めた。周りの喧騒であまり聞こえないのだが、さっきまでの俺達と同じようにムーンテンプルについて話しているようだった。
 俺は観空のほうを向いた。観空はバッグを注視していた。押されたので中身が無事かどうか気になったのだろう。急な衝撃は伝わらないようにしたから大丈夫だろうが。
「なんか、入ってるのか? 大事な物とか」
 ふと気になって訊いてみる。
「えっ!? あ、うん。ちょっとね……。大丈夫だから」
 観空はちょっと慌てた感じで答えた。
 そうか、と頷いて俺は空を見上げた。
「やっぱ、雨降りそうだな……」
 雲が増えてきた。空気も、僅かだが湿度を増している。
(しまったな、傘持ってない……)
 空が急に暗くなっていく。

 am9:02

 ついに雨が降り出してきた。
 喧騒が一際大きくなる。イベントスタッフの方も慌しく動き、相談をしている。
 観空茜は自分よりもバッグの中身が大切なのか、背を丸めて雨から守っていた。
 三崎進一はコートのフードを被って、バッグからタオルを出した。
「気休め」
 彼は一言言って、タオルを観空茜の頭にかけた。
『急に雨が降ってきたので、開場を早めます!』
 多くの人が待っていた宣言。それと共に、列が動き出した。
 とはいえ、一周二周する人の列はすぐには消化されない。
 徐々にムーンテンプルへと吸い込まれていく人の列。その時、
(―――やや高い運動エネルギー接近中)
(―――高速移動物体接近中)
 二人は同時に足を止めた。



 三崎進一は足を止め、高速移動している存在(おそらく全力で走っている人)のほうを向いた。
「…………?」
 てっきり、何かしらの混雑が起きると予想していた。この人ごみに全力疾走で突っ込んできて何も起きるはずがない。
 気のせいだろうか。元々、感知系ではない能力であるし。
(いや―――)
 人と人の隙間に、ほんの僅かに、それが見えた。
 目に入ったのは黒帽子と黒外套(マント)。それと、アーモンド形の眼。
 目が合った。そしてソイツは僅かに視線を揺らした後、なんともいえない表情をした。
(…………)
 それはほんの僅かな時間。一秒足らずの瞬間。次の瞬間にはもう人ごみをすり抜けて視界から消えた。
 疾走している速度はともかくとして、格好は黒帽子に黒外套と、なんかコスプレのようで、イベント関係者かとも思った。
 俺は、なんだか観空と二人でいることを笑われたような気がしていた。
 奇妙な組み合わせだな、と。



 観空茜は足を止め、高速接近中の物体(人間大なのでおそらく人)のほうを向いた。
「…………!」
 凄いスピードで移動しているにも関わらず、その人はすいすいと人と人の隙間を抜けていった。
 体格は小さいようで、自分とほとんど同じ、のはず。
 感知できるそれを意識と視線で追う。
 一平方メートルあたり2.5人の密度の人垣をものともせず駆け抜けていくモノはなんなのか。
(凄い……)
 わたしは驚きと共に、尊敬を感じていた。
 特殊な空間認識能力を持つわたしでも、あそこまで無駄なく走り抜けることはできない。集中状態なら真似することはできる、が、良くて三十秒が限界だ。それもその後はへとへとになって動けなくなるだろう。三十秒という時間は、集中状態の体感時間では何倍にも引き伸ばされる。それだけの間、集中を保つことは流石に難度が高い。
(いや、一瞬だけ、コンセントレーションしてルートを確保するというやりかたなら……)
 む、これならいけそうか、と思うがしかし、
(動いている人の列を計算、予測しても身体のほうがついていかないか)
 集中状態であれば、思考速度の向上によって、割りと運動行動に余裕をもって行えるが、それ以外でのわたしは人並の運動しかできない。
(どうにしても、頭痛がする話ね……)
 集中状態の後には疲労と頭痛がくるのだ。
 同じように走破しようとすれば、限界を超えることを要求される。
(誰なんだろう? 何のためにムーンテンプルに?)
 もうそれは、探知範囲を外れようとしている。わたしは名残惜しげに知覚限界まで追った。
 正面入り口ではなく、おそらく関係者用入り口からムーンテンプルに入っていった、ところで完全にロストした。
 そしてわたしはその関係者用入り口が、奇妙なほど見事に周りの壁に擬態していることに気づいた。
(うわぁ、凝り性……)
 壁の向こう側じゃないと判別できない。
 ここでようやくわたしは、ムーンテンプルが面白い建物であると思ったのだ。



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