二人の話。

 夕焼け空の下、校舎屋上で、二人の男子生徒が対峙していた。
 両者が鏡合わせのように動く。そして叫んだ。
「ご主人様と呼べぇぇぇぇっ!!」
「アホかぁぁぁっ!!」
 右と左のストレートが互いに炸裂する。
 いわゆる、クロスカウンター。
 互いに炸裂しているので、相打ち。
 直前の台詞を抜きにすれば、夕陽に映える熱血青春モノのワンシーンなのだが。
 さて。
 かれこれ、彼らは小一時間ほど不毛な殴り合いをしている。
 はたしてどのような発端から、このようなことになっているのだろうか。





 屋上に入るや否や、押し倒された―――

 ―――なので、一発殴って引き剥がした。
 起き上がって、五メートルほど逃げた。押し倒してきた奴もその間に起きた。そしてそいつは言ってきた。
「なんのつもりだ」
「いや、それはこっちの台詞」
 こっちの言い分は正しいと思う。
 卒業式が無事終わり、さて帰るかと思って靴箱を開けると、いかにもラブレターチックな手紙が入っていたのである。曰く、屋上で待ってます。しかも、丸文字で、女の子が書いたとしか思えない文体。
 告白しよう。ちょっと期待した。
 あくまで、ちょっと、というのがキモである。
 自分としてはきっちり、不良グループの呼び出しの可能性を考慮しているのである。
 うちの高校に不良グループとかあったかなー、と思いながら階段を上って、胸を高鳴らせつつ屋上への扉を開けて外へ出た。
 扉脇の死角に隠れていた男が飛び掛ってきて、不意打ちに押し倒された。
 以下略――――
「なんのつもりだよ?」
 今度はこちらから訊く。
「なんのつもりもなにも……」
 眼鏡の男、といっても同じ学年ぐらいであろう男子生徒だが、はオーバーリアクションに肩をすくめた。
「キミに恋人になってもらいたいのではないか」
 ――――。
「…………は?」
「ああ、驚くのも無理はない。マイハニー」
 マイハニーって何。
「む? キミがビーサプライズトする理由はなんだろうね? オレが男で、キミも生物学上では男だということかな?」
 うん、それは大問題だと思う。
「それなら問題は無い。キミには女になってもらう」
 ――――。
「キミは元々女顔だし、声も高い。ちょっとトレーニングすれば充分女声になるだろう。あとは服装をちょいと変えれば、かなりイケる」
 何がイケるんだ。
「当然、髭や無駄毛は脱毛処理だな。まあキミは確か毛は薄いほうだから必要無いかもしれないな」
 なぜそれを知っている。密かに気にしてるのに。
「というわけで、ぜひともオレの恋人になってくれ。むしろ、なれ」
 命令形だ。
 言いながら、変態はどんどん近づいてくる。
「さあ、どうだ? ハイかイエスで答えてくれ。ヤーでもウィでもいいぞ」
 全部、肯定だ。
 ていうか……
「さあ、さあ、さあ!」
 肩を掴んで、揺さぶってきた。
 触んな、変態。
「――アホか、貴様」
 ゴン、と良い感じにショートアッパーが決まった。
 変態野郎が言うように、自分は確かに女っぽい。だがそのせいで苛められないように、またたとえ苛められそうになっても平気なように、護身術を学んだ。良くある話だ。
 ちなみに、喧嘩は得意。
「おおおお!?」
 仰け反りながらたたらを踏み、一気に四、五歩下がった。
 ちっ、倒れなかったか。割りと頑丈だな。
「今のは、愛情表現かい? マイハニー」
「黙れ、変態」
「変態か。それは最高の誉め言葉だな」
「…………」
 マジかこいつ。ていうか、怖い。
 ―――逃げよう。
「逃がしはしないぞ。マイハニー、後藤 のぞみ」
 屋上を出るドアの前に立ちふさがられる。
「のぞむだ。望」
「読みしか変わらん」
 苗字はあっている。だが下の名前の読みが違う。後藤望と書いて、ごとうのぞむだ。
「変態ストーカーか、貴様」
「ストーキングしたことは一度しかないな」
「あるのかよ」
「もちろん」
 いや、力一杯肯定されても。反応に困る。
「ふふ……。いいねその表情。嫌そうで、困った顔が実にいい」
 そう言うと本気で恍惚とした表情を浮かべる。
「うん、やっぱりいいな、キミは。スカートがとても似合いそうだ。化粧もすれば、そこらの女子に負けまい。胸を張っていい。ああ……そうだ、胸はどうしたものかな。知ってるかい? 男性がブラジャーをするとなると相当大きいサイズのものを選ばないといけないんだ。男はカップは無いが胸囲だけはあるからな。キミの場合はそうだな、八十五センチぐらいなら丁度いいんじゃないだろうか。もしかしたらもっと小さくて済むかもしれないな。生で見たことはないが、キミは細身だろう?」
 もはや理解不能。
「……貴様、名前は?」
「ん? そう言えば言ってなかったな。西 清一だ」
 変態、西清一。よし覚えた。いや、覚えてどうする。むしろ事後は忘れ去るべきだ。存在ごと。
 しかし、変態西清一は、さらに余計な一言を追加する。
「まあ、キミが呼ぶなら、ぜひともご主人様と呼んでくれたまえ。もしくはダーリン」
「殺す」
 ―――キレた。
 もう、完っ璧に。これ以上ないほど。
 人生に於いて、今後ここまでキレることがあるだろうかと思えるほど。
 頭の中が真っ白になり、目の前が赤く見えた。
 構えも予備動作も着地も全て投げ打って、地面を蹴った。
 もはや触れるも忌々しい西清一の胸板に、渾身の跳び蹴りが見事に突き刺さった。
「!?」
 突き刺さった、だけだった。受け止められた。
「ふふ、甘いぞマイハニー。キミの過激な愛情表現を受け止められないと思っているのか!」
 高らかに叫ぶと、足を掴んだ。
「くっ……」
 無様に片足で着地する。
「は、放せっ!」
 しかし、聞き入れるはずもない。変態西清一は、にやりと笑うと、屈みこみ、もう一方の足も取った。
「なっ」
 体重を支えるものが無くなり、屋上の地面に倒される。そして、ずりずりと回転が始まり……
「とおおぉぉぉりゃぁぁぁぁ!!」
 ジャイアントスイング。
 遠心力がかかる。頭に血が上る。
 咄嗟に両手を頭にやって、耐えようとして――としたところで、放られた。
「……ぉぉぉおおあああっ!!」
 貴様も殺す気か、そうなんだなっ!?
 勢いそのままに、地面に叩きつけられた。
「っ……はっ」
 衝撃で、息が詰まる。それでも、じたばたともがいて、なんとか四つんばいになって起きようとして、顔を上げると、見下ろすように立っていた西清一と目があった。
「…………」
「…………ふむ」
 呟きをもらすと奴は膝をついた。
「!?」
 顎を引っ張られた。
 ―――キスしようとしている。
「させるか、この変態がぁっ!」
 顎を引いて、頭突きした。
「うぬぅ!?」
 鼻っ柱に炸裂して、眼鏡のフレームが曲がったようだった。
「……惜しい」
 まだ言うか。
 転がるように距離を取って、今度こそ立ち上がった。
「いいから、そこをどけ。変態西清一」
「いや、どかないね。意地でも恋人になって、ご主人様と呼ばせてやる。マイハニー後藤のぞみ」
「…………」
 のぞむ、だ。
 どこかまだ頭に冷静な所があるらしく、律義に内心で突っ込みを入れていた。
「……そういえば、最初に押し倒してきたな? あれはどういう意図だ」
 単なる喧嘩の不意打ちだと思ったが、奴の言い分だと違和感がある。
「ああ、あれは単に、押し倒してしまえば、どうとにでもなると思っただけだ」
「なるほど」
 いかにも変態らしい考えだ。
 腰を落として、拳を固める。奴は自然体に構えている。
「くたばれ、変態」
「愛を確かめ合おうじゃないか、マイハニー」

 ―――そうして、殴り合いが始まった。



「くっそ、この変態……いい加減にしろっ!」
「諦めは悪い方なんでね」
 望、右のローキック。清一は左足でガード、反撃に逆の足でミドルキックを返す。
「しかし、マイハニー。変態変態と、他に言う言葉はないのかい?」
「貴様に使ってやる言葉なぞ無い」
 清一の蹴りの内側に潜り込みながら腕で受ける。至近距離で望がボディーブローを決める。決まったが、清一のフックを貰う。怯まず追い討ちでエルボー。しかしこれはバックステップで躱された。
「メイド服を着て、ご主人様と言いたまえ」
「アホか」
 望のジャブ、ジャブ、ジャブ。ワンステップから、ストレート。スウェーで避ける清一。
「おっと、逃がさないぞ。のぞみ」
「のぞむ、だ」
 隙を見て、出入り口のドアへと走ろうとする望を牽制することを忘れない。舌打ちをして、訂正する望。
 激しい攻防が続く。
 望は日々コンプレックスをばねに鍛えていたし、清一も強かった。
 それゆえ戦いは白熱し、長期化し、疲労した。
 やがて、殴り合いも終焉を迎える。




 陽が落ちかかっていた。
「…………」
「…………」
 もう悪態をつく体力も無かった。
 それは向こうも同じなのか、もう随分と「のぞみ」やら「ご主人様と呼べ」やら「犬耳メイド服しっぽ付き」やら、電波な台詞を聞いてない。
「……ぶつぶつ……ゴスロリ……」にやり。
「…………」
 前言撤回。大声を出せないだけで、口は減っていないようだ。
 身体が重い。足に力が入らない。痛みは自体はもうぼんやりしたものになってしまっている。
 握る拳も頼りない。腕を振る動作も億劫だ。
 それでも殴りかかる。西清一が立ちふさがるかぎり。
 向こうもかなり疲れている。つたない攻撃も、防がない。しかし退かない。
 反撃が来る。体力のある頃は長身を生かした蹴り主体だったが、足を上げることがきついのか、または片足になることに耐えられないのか、こちら同様に殴ってくる。
 むかつくことに、顔、特に折れやすい鼻を狙ってこない。
 こっちは容赦無く顔面を狙っているにも関わらず、だ。奴の眼鏡は既にがたがたになっている。
「ぐ……」
 奴の拳が迫る。
 意地でも回避したかった。
 スウェーだ。背を逸らして避けろ。
 ぎりぎりと背筋が絞る、と、
「―――あ」
 ついに、かくん、と力なく膝が折れた。
 とっさに手をついて、尻餅をつく。
 手をついたおかげで痛みは無い。が、もう疲労困憊で休憩を決め込んだ下半身は動いてくれない。
(くそ……っ)
 動きを止めたが最後、身体の重さが二倍になった。鉛に変化したかのようだ。ずしりと重い。
 負けだった。何を基準に考えるかわからなかったが、ともかく負けだった。
 少なくとも屋上から逃げることはできなかった。
 何度も隙を見て逃亡を図った。失敗した。
 顔を狙われなかった。手加減された。
 意味不明なことを言われた。不快だった。
「オレの勝ちだな」
 その通りだ。まったくもってその通りだと思った。
 勝ち誇るように言われて、頷いた。そして言った。
「ぼくの負けだ」
 悔しいが、全力は出した。不満が無いわけじゃないが、多少の不満は溜まった疲労に埋まってしまって、どうでもいい。そう思えた。
「…………………………」
「…………?」
 妙な間が開いた。何か驚いたように、眼を見開いている。
「良いなっ! 流石だ、オレが見込んだだけのことはあるぜ!!」
 感極まったように叫びだした。ついさっきまで自分同様にばてばてだったとは思えないハッスルぶりだ。
「ああ、格闘技習ってるし、喧嘩慣れしてるしで、てっきりオレみたく、一人称は『俺』だと思ってたぜ。落としたあとから、せめて『わたし』にするように教育しないといけないかと思っていたのに。しかし、『ぼく』か。いいなっ、『ぼく』。ご飯三杯いけるな、これは!!」
 嗚呼、理解不能だ。
 仕方ないじゃないか。自分だって、俺、とか言ったほうがいいと考えているのに、親が汚い感じがするから駄目だと、しつこいのだから。
「なあ、もう一回言ってくれ」
「嫌だ」
「じゃあ、ご主人様と呼べ」
「嫌」
「それじゃあ……」
「嫌だと言っ……――!?」

 ―――キスされた。

「………………」
「よし」
 なにが、「よし」なんだ、貴様。
「…………」
「それじゃ、行くか。のぞみ」
 のぞむ、だって。ていうか、さ……
「なんで?」
「む? その問いにはかなり最初の方で答えたと思うが」
「いや、さ」
 だから……
「まあいい。もう日が暮れる。帰ろう、マイハニー」
「……この変態……」
 呟きなど耳に入らなかったのだろう。
 ずるずる、と、どこに残っていたんだと聞きたくなるような力で引っ張られた。
 さっきまで、なんとしても辿り着きたかった屋上の出入り口が、陽の落ちた夕闇の中で悪魔の口のように見える。
 悪魔の口に入った。開いたドア以外を囲まれた階段は暗い。
 ああ、誰か助けて。
 そして、西清一がドアを閉めようとノブを掴み、引いた。と、
「美しいものが好きなだけだ」
 奴は言った。
 ドアが閉まった。階段は闇に落ちた。
 闇に、堕ちた。