ラダイト&ブラスターSS

 日曜休日、晴天の昼。
 大通りのスクランブル交差点。
 その中央で、人が死んだ。

「―――え?」
 誰もが、声を漏らした。
 何が起こったのか。
 どうしてこんなことになったのか。
 誰にも分からなかった。

 アスファルトに少しずつ広がっていく血溜まり。
 その血の流出元には、人のスクラップとしか言えない物体があった。
 死体だった。
 両足とも完全に折れている。
 背骨が折れ、腰がありえない角度に曲がっていた。
 両腕も酷い有様。
 骨が粉砕したのか、だらんとひものような柔軟な動きをした。
 もう一つ、死体には特徴があった。
 捻じれていた。
 綺麗に捻りが加えられ、足から頭までが180度以上回転している。
 腕を考慮に入れると、それは一つの身体で360度の回転を表していた。
 原因はなんなのか。
 四方から車に押し潰されているからだ。
 見事に手裏剣の十字に四台の自動車が一人の人間を押し潰した。
 その結果。
 人が一人死ぬ。

 いち早く事態に気づいた女性が悲鳴を上げた。
 悲鳴が悲鳴を呼び、集団パニックの状態になる。
 周囲の人間が混乱している中、一人の人間を四台で協力して押し潰した車の運転手は呆然としていた。
 さっぱり、わけがわからない。
 そんな顔をして、現実を認めることが出来なかった。
 彼らの中で、最も早く現実を直視した者は、フロントガラスにこびり付いた血と脳漿を見た。
 そして混乱した。思わずバックにギアを入れ、この場を離れようとアクセルを踏んだ。
 その車の後ろには当然、後続車が停まっていた。
 後続車も前方車両の急発進に反応し、バックしようとした。
 人通りが激しく、慢性的に渋滞だった大通りに、連鎖的な接触事故が起きた。
 再び、悲鳴。
 もはや収拾がつかなくなっていた。
 警官が応援を要請した機動隊が到着するまで、交差点は混沌の渦と化していた。


「―――え?」
 統和機構の単式戦闘型合成人間ラダイトは、思わず呟いていた。
 そうしているうちに悲鳴が上がり、スクランブル交差点の中央を起点として玉突き事故が発生し始めた。
(な、なんなんだ……!?)
 パニックから逃れるように交差点を離れ、路地裏に逃げ込む。
 彼には何がなんだかさっぱりわからなかった。
(ちょっと待て……。白昼夢みたいにいきなり―――)
 人が捻じれていた。
 ど忘れのように、前後関係が完全に途切れていた。
 調整された合成人間の脳は一度覚えたことを忘れないし、短期記憶力も素晴らしい。
 だというのにラダイトには、なぜ、いつ、どうやって、あんな風な事故が起きたのか分からなかった。いや、
 ―――覚えていなかった。
「…………」
 冷や汗が背中をつたった。
「――――っ」
 彼はいきなり路地裏に転がっていた週刊誌を拾うと、凄い勢いでページをめくっていった。
 表紙から全てのページをめくり終え、裏表紙まで辿り着くと、ライターを取り出して燃やした。
「…………」
 目をつぶり、何かを考えているようなそぶりを見せる。
(問題無い。僕の記憶力は問題無い……はずだ)
 一抹の不安を打ち消しながら、考える。
(どういうことだ。強力な記憶操作……集団催眠……? 合成人間である僕を欺けるほどの暗示が、その仕掛けがあったか?)
 例えばサブリミナルによる暗示。
 映像の中の一コマに暗示を入れ、無意識に刷り込ませるという有名なものだ。
 確かにあの大通りの交差点には広告を流す巨大ディスプレイがある。全員を一度に影響を与えることが、サブリミナルでできるとは思えない。
 例えば超低周波による暗示。
 人には感知できないほどの、純粋な空気の振動に近い音。
 超低周波に声を乗せれば、脳に直接暗示をかけることができるという。
 街には音を出すスピーカーはたくさんある。しかし超低周波を発することが出来るかと言うとそうではない。
 しかし隠されて設置されている可能性も無いわけではない。
「調査が……必要だな」
 もう一つ、考えられる可能性がある。
 ラダイトが用も無いのに街をうろついていた理由。
 人類の先を行く者、MPLSが引き起こしたという可能性。
 一瞬の逡巡の後、彼は携帯電話を取り出し素早い手つきで番号を押し、コールした。
 繋がるとほぼ同時に、早口のハンガリー語で一息に喋った。
「―――RC73684よりAD00713へ。ポイントBKHJ589にて、事態APFF56発生。至急判断を請う」
 そして電話を切った。1秒と待たずに呼び出しがかかる。
「AD00713よりRC73684へ。F地点にてC状態で待機せよ」
 彼と同じように、かろうじて女性かと思わせる無機質な声が早口のハンガリー語でそれだけ言って、切れた。
 ラダイトは溜め息をつき、汗を拭う動作をすると、静かに速やかに移動を開始した。



 ラダイトが指定されたポイント――ファーストフード店に入った。
 適当に注文をすると、奥側の目立たないテーブルについた。
 しばらくすると店員に偽装した構成員が書類を持ってきた。
「…………」
 書面に目を通す。書類の内容は“中枢”の判断と指令だ。
(“中枢”はMPLSが引き起こした現象と判断。現状では情報が足りないので、そのまま調査を命令。この時点でこの任務をAランクとする。なお応援として、合成人間ブラスターを派遣……)
 煙草に火をつけ、もう一度内容を確かめると紙をくしゃくしゃと丸めて灰皿に入れ、煙草を押し付けた。
 ぶすぶすと煙をたてながら燃えやすい紙に火がつく。
(ブラスター、か……)
 知っている合成人間だ。同期、とも呼べる。共同して任務を行ったこともある。結構、いや、かなり凄腕の合成人間だ。
 そして、ラダイトより階級が上である。
「はは……、僕には役不足って思われたかな……?」
 乾いた笑いを浮かべて、ラダイトは呟いた。
 がたん、と灰皿が音をたてた。
 力が加えられた煙草が潰れていた。



 おかわり自由のコーヒーを飲みながら、手持ちの本を読んで時間を潰していると正面の席に女性が座った。
「お久しぶり、かな、ブラスター」
「お久しぶりね、ラダイト」
 本を閉じて顔を上げると、予想していた顔がそこにあった。
 真っ黒でまっすぐ腰まで届く髪に、大人びた風貌。
 確か社会的設定では20歳ということだったが、これでは25、6と言ったほうが自然かもしれない。
「最後に会ったのは……そうね、モ・マーダーと三人で組んだときだったかしら」
「……そう、かな」
 ラダイトの表情が翳る。
 それは、モ・マーダーが一年前に既に死んでいるから、という理由からではなかった。
 ―――モ・マーダーには敵わない。
 それは、ラダイトが常に心に持っている劣等感であり、統和機構の評価であった。
 持たされた能力は同じ、両手の発する振動波。主な任務、暗殺。
 しかし、モ・マーダーの評価はラダイトよりも高い。そしてそれは不当な評価ではない。
 モ・マーダーは任務の成功はもちろん、その他の処理まで完璧にこなす。いや、こなしていた。
 ラダイトもそのことはちゃんと評価しているし、尊敬もしている。
 しかし、死んだ人間に比べられるというのは堪らない。その比較の評価が絶対化してしまって、動かせない。
(どうにかならないかな……)
 ラダイトはいつもそのことを考えている。
「さて、それじゃあ行きましょうか」
「ええ」
 簡単な情報交換をして(と言っても、まだ微々たる情報しか手に入っていないのだが)、ファーストフード店を後にした。



 ラダイトとブラスターは、事故のあった交差点に戻ってきた。一度現場を見たい、とブラスターが言ったのだ。
 機動隊は撤収し、事故車も処理されていた。今は警察が現場検証を行っている最中だ。
 もちろん警察には統和機構の構成員が紛れているのだろう。検証された結果はこちらに流れてくるはずだ。
「…………」
「…………」
 二人は黙って、周辺を探る。
 特殊な装置の存在は確認できないが、調査にはそれ専用の、建物管理会社といった人員を派遣することになるだろう。
 ブラスターは、現場を見て感じることが大事、と言う。
 ラダイト自身、情報や技巧よりも直感や力勝負と言う手段に頼ってしまうのだが、この単純なところは自分の弱点と認識している。
 しかし、モ・マーダーと並ぶほど、と言われるブラスターがそれを行うのには意外だと感じた。
 そう言うことを考えてブラスターのほうを見ていると、彼女はラダイトの視線を感じて、二人の眼が合った。
「? なに?」
「いや、なんでもないかな」
 訊いてきたブラスターに短く答えて、ラダイトは眼を逸らした。
 そして、逸らした先にいた人物と眼が合った。
(――……?)
 二十歳ぐらいの青年がこちらを見ている。
 務めている大学の生徒がちょうどあれぐらいの雰囲気だ。
(どこかで見た……かな?)
 見覚えがある、ような気がした。
「…………」
 ふい、と男の視線がずれた。今度はブラスターのほうを見ているようだ。
(もしかしたら、最初からブラスターのほうをみていて、たまたま目があったのかもしれないな)
 ブラスターは美人の範疇に充分入る。整った顔立ちに常に笑みを浮かべて、少女のような大人のような微妙な魅力を持っている。服装と化粧を工夫すれば、驚くような変化を見せることが出来るだろう。
「……おっけ。あとは警察の見解を待ちましょうか」
 ブラスターはそう言って、引き上げることを提案した。



「あんまり気を張り詰めてもしょうがないわ。明日また打ち合わせましょう。その頃にはまた別の情報が入っているでしょうから」
 昨日、ブラスターが言った台詞だった。
 確かにその通りだろう。
 戦闘型である僕たちが探索するよりも、専門の探索型や情報収集を常日頃行っている合成人間や構成員の結果を待ったほうがよっぽど早く、多くの情報を集めることができる。
(意外だと思ってばっかりだな……)
 前に一緒に仕事をしたときは単純な戦闘任務だったので、情報収集と探索という“手前”の段階の手際を見たのは初めてだった。
 状況、情報を重視しつつの、直感、フィーリングによる行動。
「優秀な合成人間というのは、こういうものなのかな……」
 ラダイトは背もたれに寄りかかった。
 低い天井がラダイトの視界を埋め、大学の備品の椅子がぎしぎしと軋んだ。
 普段通りの生活、ということで偽装して非常勤している大学へとやってきていた。
 非常勤であるし、あくまで偽装であるので、受け持っている授業は少ない。今日も講義は入っていなかった。
 あてがわれている教官室に入り、情報端末を繋げる。
 昨日はまだ判明していなかった死亡者や、事故に巻き込まれて事情聴取できた人物などの情報が入ってきていた。
 一つずつ丁寧に覚えていく。
 事件の証言はどれも似たり寄ったりだった。
「なんか日射病にやられたみたいに、一瞬、目の前というか、頭の中というか……真っ白になった、ような気がする。それで気が付いた時には、もう交差点で人が轢かれてた」
 ほとんどラダイトが感じたことと同じだ。
 記憶が跳んだ。
 人が捻じれていた。
 ぷっつりと、時間が切られ、いきなり結果を与えられた。そんな唐突さ。
「…………」
 何故、覚えていないのか。

 ―――恐怖と苛立ちと。

 ふと、右手がぎりぎりと音をたてた。
「――――?」
 なんだ。自分で気づかずに力を込めていただけだった。



 1時限目の授業が終了した時間に、コンコン、とノックがして、
「先生ー、おはようございます〜」
 そんな台詞と共にブラスターが現れた。
「おはようございます、ブラスター」
 ブラスターは地味めな格好をしていた。長髪も束ね、伊達眼鏡などかけていた。
 目立ちすぎないよう配慮した格好なのだろう。
「ノリが悪いわねぇ。一応ここは大学で、私は生徒で、貴方は先生なんだから人間名で呼んで欲しいわ」
 笑いながら言う。言いながら、備え付けのソファーに荷物と共に腰を降ろした。
「人間名、知らなかったっけ? 長谷川 響っていう名前なんだけど」
「いえ、知っています。……もしかして、1時限目の授業、受けてきたのかな?」
「うん」
 頷く。
「どうして?」
「面白そうな講義があったんですよ。大都先生」
 からかう口調で、先生、と呼ぶ。
 傍から見ると、30代の男性を20代の女性がからかうという構図であり、奇妙な絵であった。
(意外だな……)
 まったく、この人は理解しがたい。
 ラダイトはそう思った。



「それで、事件現場にいたあなたは、どんなだったの?」
「他の証言と同じですね。気が付いたらもう事後でした」
 ブラスターはラダイトと同じように、今日上がってきた情報を見たらしい。
 予想だが、授業中にPDAを利用したのではないだろうか。あれなら電子辞書サイズであるから他の生徒が居ても問題無い。
「ふむ……。被害者には特にこれといったものもなかったし。たまたま巻き込まれたのかしら」
「標的にしたわけではなく? 怨恨ではないのかな」
「犯人が確定してないから、なんともいえないんだけど。でも、その線は薄いと思う。回りくどすぎるわ」
「確かに。あんな異常な交通事故にする必要はないですね」
「それじゃ、実際の映像を見てみましょうか」
「え?」
「あんな大きな交差点に、カメラの一つや二つ、無いと思ってるの?」
 苦笑気味にブラスターは言うと、荷物入れから出したノートパソコンを操作し、動画ファイルを開いた。
「これは?」
「街頭にあるカメラからの映像を切り取ったもの。普段は交通状況とかを調べるためにあるみたい」
「ああ、なるほど」
 白黒の粗い映像が画面に、ごく普通の街の風景が映っているように見える。
 スクランブル交差点の信号が、色は分からないが青、赤と替わるごとに大勢の人と車が行き来している。
「そういえば、街中で何をしてたの?」
 思いついたようにブラスターが言った。
「特に何も。待機任務の探索をしながら買い物などを」
 暗殺任務を請け負う合成人間は、待機任務として指定区域のMPLSの探索を命じられる。任務といっても、実際に発見できることはまず無く、結果、暇潰しの散歩になる。
「ふーん……」
 何か思うところがあるのだろうか。彼女は考える表情になって画面に集中し始めた。
 ディスプレイの中では、信号の明滅と、人の流れと車の流れが幾度か交差する。――そしてその時が来た。
「――――っ!?」
 一瞬、視界がホワイトアウトした。
 驚いて、強く瞬きをする。コンマ1秒もかからなかっただろう、すぐ視覚は元に戻った。
「な……?」
 はっ、として画面を見る。
 そして、再び驚く。

 ありえない事象が起こっていた。
 訓練されたパレードのように、車両も人も、ただ同じように動いていた。
 それはまるで渦のように。
 ぐるりぐるり、と螺旋を描き。
 選ばれし一人がその中心へと歩む。
 奇跡的な偶然で、それまで人と車の接触は無い。
 一人が中心につくと同時に、その周りを囲うように車が近づいていく。
 同じ距離を同じ速度で、車同士はぎりぎり接触しないよう、ずれた十の字に。
 そして、その中には人が一人納まるスペースは無い。
 すり潰される、とは言えない。
 ひねられる。ねじられる。
 綺麗に同じ分ずつ加えられた力が、芸術的に身体を破壊した。




「…………」
 言葉がでない。
 まさかここまで異様であるとは思ってもいなかった。
 ありえない。
 こんな、単なる事故という可能性を完全に否定するような。
 空白の記憶。
 あの状景を構成する一人として居た自分。
「…………っ」
 吐き気がする。吐いてしまおうか。吐いてしまえば楽になれるかもしれない。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない……かな」
「しっかりしなさい。一発殴るわよ?」
「それじゃあ殴ってください」
「わかった」
 ―――ごん。
「…………っ。まさか本当に殴るかな」
「殴るって言ったからね」
 はぁ、と曖昧に頷きながら苦笑する。
「それで、何かわかりますか?」
「考え中。あなたは?」
「へ?」
「あなたは何かわからなかったの?」
「あ、ああー……」
 直前のホワイトアウトと、事故のインパクトで思考が止まっていた。
「さっぱりかな」
「……ちゃんと考えるようにしないと馬鹿になるわよ」
 淡々と言われてしまった。確かにその通りなのだが。
 ブラスターは何度も数十秒の動画を何度も繰り返して見ている。
 ホワイトアウトした感覚が尾を引いていたため、それを見るのは躊躇われた。
 とは言え、分かることなどあるのだろうか。
 見た限りでは、ただ“異常”であることしか判断つかないと思うのだが。
「…………うーん」
 目が疲れたのか(この程度で疲れるような身体はしてないだろうが)、ブラスターは大きく背伸びした。
 ぎしぎし、と安っぽい革張りソファーが音を立てる。
 なんとなく目を逸らす。いや、別に胸が強調されてたとかそういうわけじゃなくて。
「……コーヒーでも煎れましょうか?」
「んー……、お願い。砂糖は多めで。……あれ? 大都先生って、非常勤よね。非常勤講師って部屋貰えるっけ?」
「ああ、そこらへんは、融通を利かせてもらったようです。非常勤講師用の共同の部屋はありますけど、そこじゃ落ち着けませんし」
「なるほど。通りで、贅沢な部屋になってるわけね」
「ええ」
 コーヒーメイカーをセットして、スイッチを入れた。あまりこだわらないので手軽に済ませる。
 背後から眺めているブラスターも特に気にした様子は無く、言ってきた。
「ちょっと電話するわね」
「構いませんよ」
「ありがと。……もしもし?」
 そこから先は聞き取れないぐらい小さな声で話し出したので、聞こえなくなった。
 マグカップを取り出しながら、考える。
 先ほどのホワイトアウト。あれは一体なんだったのか。
 事件の映像で、フラッシュバックした、というのが一番ありえそうだ。
 実際に、記憶が跳んだ時はあんな感じだった。
 肌着が、冷や汗で張り付いている。
「いやな感じだな……」
 はたして、この任務。達成できるのだろうか。






 結論から言うと、ラダイトの心配とは裏腹に、あっさりと任務は完了した。
 わざわざ目標の方から近づいてきたのだ。






 進展が無いまま数日が過ぎた。
 ブラスターは情報待ち、と言って気楽そうにキャンパスライフを楽しんでいるように見えた。
 しかし手詰まりの感は否めず、すっきりしない気分でラダイトは偽装している大学講師としての役目、授業を行っていた。
「……以上で、僕が担当する講義は終わりです。僕の講義には試験はありません。したがって、単位の認定はこれまで出席と、今から課題を出すレポートで行います」
 黒板に課題を書く。これまで授業でやったことのまとめと感想。さらに文字数と追加する。
「用紙や手書き、ワープロ書きは問いません。期限は大学の規定通りに」
 そこまで言うと、講義のために用意したレジュメをしまった。それを合図に受講生も筆記具がノート類を片付け、教室を出て行く。
 ラダイト――大都雅司非常勤講師の講義で単位を貰うのは容易である、と学生の間で囁かれている。
 授業中に生徒を指名することもなく、テストも無い。出席と最後に一度のレポートで単位を取れるのだから、楽をしたがる生徒が多い。
(……まあ、楽はさせてるかな)
 だからといって、いい加減な講義をしているわけでもなく、授業の内容はきっちり抑えてあり、コンパクトながら身の詰まった授業となっている。興味の無い者が興味を持つようになったという感想が提出されることもあり、いろんな意味で学生の人気は高い。
「……ん?」
 荷物を携帯用の鞄に入れ終え顔を上げると、教室には一人の男子学生が残っていた。受講生の一人だろうか。彼の講義には教室一杯に生徒を入れるので、実の所顔を知らない生徒も多い。
(……どこかで、見た顔だな……)
 その顔に見覚えがあった。名前は思い出せない。
 出席は授業の最初に出席カードを配り、最後に提出させるというやりかたなので、リストの名前は覚えていても、顔と名前が一致しない。あくまで講師は偽装であり、潜伏捜査任務ではないため学生の顔と名前など覚えていないのだ。
「大都先生」
 男子学生が話し掛けてくる。
「何かな?」
 どこで見た顔なのか、どうしてか気になる。それを思い出そうとしながら答えた。
「ああ、私の名前はご存知無いですか? 先生の授業を受けている、大波止泰人です」
 オオハト ヤスヒト……確かに受講生名簿に名前があった。
「うん。えっと、それで……?」
「この間、街で美人な女の人と一緒でしたよね」
「え」
 予想外の質問に外見は僅かに、内心は大いに慌てた。ブラスターのことだろうか。
「恋人なんですか?」
 あの時のブラスターは確かに大人な印象を与えていたから、設定年齢よりも年齢差が小さく見えたと考えられる。
「……いや、違うかな」
 恋人なわけがない。彼女とは階級も離れているし、そもそも合成人間にそんなものは必要無い。
「へぇ、そうなんですか」
 大波止泰人は軽い調子で笑う。そこでようやくラダイトは気づいた。
(……あの時、交差点で僕たちを見ていた……)
 あの時の男だった。ここの生徒だったのだ。
「ところで……」
 泰人は笑いを引っ込めて、じっ、とラダイトを見た。
「…………?」
「――あなたは、とても変わった“渦”をしてますね」
「――――」
 ラダイトは驚き、何か言おうとして、――何も出来なかった。
(なっ!?)
 身体が動かない。動かそうとしても、見えない鎖でがんじがらめにされたように、ぎしぎしするだけだ。
(こいつが先の事件を引き起こした犯人……っ)
 必死になって身体に力を込める。しかし、指一本動かせない。脂汗がにじむ。
「無駄ですよ。逆回転の渦で、肉体活動を相殺させています。物理的な力じゃありませんよ」
「…………っ」
 余裕ありげに大波止泰人は笑顔で言う。実際にその通りだった。理屈はわからないが、力を込めてもその分だけ押さえつけられている感覚があった。
(これが、MPLS……!)
 今の世の人ならざるもの。奇跡使い。
「さらに、“渦”を操れば……」
「…………!」
 意識が闇に落ちる。強い流れに押し流されるようにラダイトは気を失った。







 ブラスターは、ラダイトと最初に待ち合わせたファーストフード店に入っていった。
 店内の一角のテーブルにいる若い15・6頃の少年を見つけると、手袋をした手を片方振りながら同じ席についた。
「こんにちは。悪いわね、手伝わせちゃって」
「いや……別に。暇だからな」
「どう、ピート君? 最近は」
「大したことはねーよ。いつもの雑用任務ばっかりだ」
 ピートと呼ばれた少年は、ふてくされたようにぼやき、不自然ではないように買ったセットメニューのポテトを摘まんだ。
「ふぅん。……学校には行ってるの?」
「行ってない」
「あら、どうして?」
「つまんないだよ、あそこ。……というか、窮屈に感じる」
「ふふん。君の設定年齢だと中学かな? そうね、この国の中学、高校はテンプレートが決まっちゃってるから、それに馴染めなければ窮屈なだけだものね」
「テンプレート?」
「レール、と言い換えたらわかりやすいかな。よく言うでしょ」
「あー……うん、あれか。親の敷いたレール、とか。……俺にはあれもよくわからんのだが。せっかく準備してもらってるのに、それを踏みにじるのはどうなのか、と。いや、確かに自分の選択のほうを優先したいというのはわかるんだが……」
「ふむ……」
 ブラスターはしばらく黙って考える素振りをした。
「私達には、自分でレールを敷く、ということができないし、レールそのものも存在してないのかもしれない。だから、普通人のそういう葛藤は私達にはイマイチ理解しきれないところなのかもね」
「…………」
「……さて、前置きはこれぐらいにして、調べてもらえたかしら?」
「ああ……」
 ピートと呼ばれた少年、彼もまた統和機構の合成人間だ。ブラスターとは違い偵察型で合成人間名をピート・ビートという。
「アンタの依頼は大変だったよ。あんな人通りの多いところで人のチェックなんて」
 愚痴るように言って、ビートは調査結果をまとめた書類の入った封筒をブラスターに渡した。
「まあ、だからこそ貴方に頼んだんだけどね」
 早速、封を切り、書類に目を通し始めたブラスター。
 書類には、事件後、現場の交差点に訪れた人物とその頻度、それと隠し撮りしたであろう顔写真がレポートされていた。
 合成人間とはいえ、一人でこれを全て調べるのは不可能であるから、端末の構成員などを動員したのだろう。
 訪れた頻度の高い人物には注釈が加えられていた。会社が近くであるなどの理由である場合はどんどんと切り捨てていく。
「…………ん?」
 ブラスターの手が止まる。
 止まったのはラダイトが務めており、ブラスターも一時的に編入している大学の生徒だ。
 やけに頻度が高く、理由も不自然で、何でこんなにも訪れているのか分からない。
「ピート君、この人に見覚えは?」
 真剣な顔でブラスターは訊く。
「? ……ああ、ある。やけに見る顔だったし、時々、こっちをずっと見てくる時もあった」
 そう、と頷いて、
「―――コイツだわ」
 彼女は断言した。
「コイツって、犯人が?」
「ええ。灯台下暗しとは言ったものね。ありがと、ピート君。感謝するわ!」
 その一枚の紙だけを手にし、ブラスターは店を走り出た。
(大波止泰人……。コイツが犯人だとするとラダイトが危ない……っ)
 走りながら携帯電話を取り出して、ラダイトの携帯電話をコールしようとする、と
「…………」
 それを止め、ラダイトの研究室の方へ電話をかけた。
「…………」
 呼び出し音だけが、虚しく耳に響いた。







 真っ暗な闇の中、ラダイトは目を覚ました。
(……ここは……?)
 体は頑丈に縛られ、床に転がされていた。なんとか身を起こして、見回そうとする。
 しかし、窓も無くまったく明かりになるものが無く、本当の闇だ。
「……捕まったかな?」
 呟いてみる。反響具合から言って、狭い。
 空気も埃っぽく、ビルの地下倉庫のような印象がある。
(……どうしたものかな)
 感触から言って、武器のナイフも携帯電話も統和機構製の通信端末も奪われているし、後ろ手に縛られており見えないが、腕時計すら無い。
 縛っているロープはデイリーショップの市販品の物のようだが、かなり硬い。見えないので分からないが、鋼線交じりの物かもしれない。ラダイトが本気で力を込めれば抜けられるだろうか。
 ふう、とため息を吐いた。
(奴、――大波止君の目的はなにかな……。“渦”がどうとか、言っていたが……)
 ラダイトが他の人間とは違う、と大波止泰人は気づいていたのか。
 おそらく、MPLSたる能力で。そしてその能力を使いあの不可解な事件を引き起こし、こうしてラダイトを捕らえた。
(こんなに近くに犯人がいたとはね……)
 自嘲して苦笑する。灯台下暗しも甚だしい。
(それはともかくとして……目的かな……)
 奴が統和機構の存在に気づいている、とは考えにくい。あのシステムを知るものはあのような大事件を起こすことを忌避している。反統和機構組織の大半は実は統和機構に気づかれており、潰す潰さないは目につくかつかないか、という状況なのだ。迂闊に手出しを出来ない、ではなく、手出しするコストが惜しいのだ。
(となると……?)
 単純に身近に存在した合成人間に興味があって接触してきたのか。
「――――む」
 人が近づいてくる気配。僅かに響く足音。
 音のする方へ身を擦って近づく。どうやらこっちがドアの方向のようだ。
 足音は複数……三人、とラダイトは断定した。
 やがて、足音はラダイトのすぐ近く、壁を挟んだ向こうで止まった。
 ガチャリ、と鍵が開けられ、慎重にドアが開かれた。
「…………」
 真っ暗な闇に光が差し込む。光度の変化にラダイトは目を細めた。
「飛び出して襲い掛かってくるかと思いましたが、意外と大人しいですね。大都先生」
「そちらが複数で来ることがわかったからね。下手に動いて殺されるよりはマシかな」
 声がして、扉の脇から大波止泰人が姿を見せた。扉を開けたのは大柄な男性だった。その後ろにも屈強そうな男が見えた。
(…………?)
 奇妙な面持ちで二人を見、大波止泰人を見上げた。
 この二人の男と大波止との接点が分からない。大学の生徒という感じでもなく、街をうろついているゴロツキ、という感じがするのだ。服装からは。しかし表情からは、
(催眠状態のような……無表情だな……)
 何の感情も読み取らせない。そんな顔だった。
「彼らですか? ちょっといじったら、こんな風になったんですよ。とても便利です」
 大波止泰人は無邪気に笑って言った。笑ったまま、
「あなたの渦はとても珍しい。そしてあなたと共にいたあの女の人もね。その特異性をきっちり調べたら、“ああ”してあげますよ」
 恐ろしい内容のことを平然と言った。
(能力で人の精神と肉体を操作できるのか? スプーキー・Eのように。しかも物理的な干渉なしに……)
 ラダイトは戦慄する。
(くそっ、こんなことなら、多少の犠牲を無視して拘束を解くんだった。なにをこんなのんきに構えていたんだ……っ)
 武器がなくとも、両手の振動波攻撃は健在だ。例え片手でも使えれば充分なのだ。しかし拘束されたままでは、これを解くまでにまた奴の能力を使われてしまう。
(打つ手無し……じゃなく、自分で打つ手を潰してしまった……っ!)
 このままでは、自分も目の前の人形のようにさせらてしまうだろう。そうなってしまえば、もはやラダイトはいずれここに辿り着くであろうブラスターの敵になってしまう。
(それを防ぐには……)
 ラダイトは必死で考える。この状況を抜け出す手段を。どうすればいち早く拘束を解けるか。拘束有りでどうやって二人を組み伏せるか。能力を使われる前にそれができるか。
(最後には……)
 ラダイトは必死で考える。
(―――自決か)



 そのとき、低く鈍い音とわずかな衝撃が届いた。
「む……」
 大波止泰人は顔をこわばらせ、ラダイトを一瞥すると踵を返した。
 人形の一人が、またドアを閉める。
「…………」
 ラダイトは何もせず、ドアが閉まるまで耳を済ませた。
 がちゃり、と重たく分厚いドアが閉まり、鍵がかけられた。
 そして足音が一人分だけ、離れていく。一人は残ったということだ。見張りだろう。
「…………」
 ラダイトは、もう、慌てなかった。
 間一髪のところで、ブラスターが最大の危機、ラダイトが人形にされてしまうのを防いだのだ。
 よく間にあった、と言えるだろう。
 最初の衝撃と音は、おそらく陽動と威嚇だろう。一回だけであり、戦闘が始まったわけではない。
(僕がやるべきことは……ブラスターに敵わないと見て、また奴が僕のところへ来る前に、拘束を解くことだ……)
 大波止泰人は統和機構はおろか、合成人間の実力も知らないだろう。特異性がわかっているのなら、肉体的な違いも分かっているのだろうが、まだ甘い。特にブラスターは力ではなく技術でもって戦うプロだ。奴の想像の範疇にブラスターの実力が収まるとは思えない。
 何しろ、ブラスターの実力がどれほどなのか、ラダイトにだってわからないのだ。
(洗脳された、人形の表情……。確かに楽にいけるわけじゃないかな)
 スプーキー・Eが洗脳し、端末化した人間はいざと言う時、普通の人間のリミッターをカットして敵となる存在を攻撃する。合成人間が負けるということは無いが、数でものを言わせると話は別だ。
 大波止泰人の自信は、それと同じことができるからに違いあるまい。
 だが、ブラスターの実力を目の当たりにすれば、その自信は崩れる。対抗しようとするなら、ラダイトを傀儡にしようとするだろう。
「くっ……」
 腕に力を込めて、無理矢理拘束を解こうとしてみた。
 ぎりぎり、と肉がロープと擦れる。
(……やはり硬いかな)
 腕に込める力を変えずに、別の手を考える。
(何か……カッターか……定規のようなものでもいい……)
 それなりに接地面積が小さくなる棒があれば、能力で切断力を与えることができる。
(思い出せ。さっき、ドアが開けられたとき、この部屋の中にあったものを……)
 瞬間記憶。合成人間ならずとも、統和機構の人間では求められる能力。
 それができないはずはない。
(……倉庫だったが……小物はほとんど置いてなかった。それなりに警戒しているのかな……)
 在った物……ポリバケツ、丸められたカレンダー、金属製のラック、事務用デスク……。
(―――ラック!)
 バネを使って、跳ねるように立ち上がり、そしてラックがあると思われる方へジャンプで移動する。
「上手くいってくれるかな……?」
 後ろ手に縛られた背中をラックに向け、片手がラックの端、L字の支柱を掴む。
 身をずらし、感覚だけでポイントを定めた。
「…………ふんっ!」
 無理な体勢だったが、ラダイトは後ろ手の状態で、片手で金属製のラックを持ち上げた。そして、
「――――っ」
 金属が擦れる、ぎぃん、という音がし、そして弾ける音と衝撃と共に、ラダイトの手を拘束していたロープは切れた。
「ふぅ……」
 持ち上げたラックを降ろし、ため息をついた。手首が摩擦熱で熱いが、その程度は痛いとも思わない。
 再び腕に力を込めると、あっさり拘束は解けた。
「よし……!」
 続いて、ドアへと向かった。
 ドアノブを回すも、もちろん鍵が掛かっている。
 少し下がり、勢いをつけてドアに体当りをする。
 どん、と音がしてドアが揺れる。頑丈な扉は簡単には壊れそうにない。
 振動波で壊せないかと思ったが、どうも機密性が高くなるような、ぴっちりと壁と接しているようだ。
 隙間があれば、振動の負荷がドアと壁との接合部に掛かり、破壊できそうだったのだが、隙間がなければ振動がそのまま壁へと伝わり負荷が分散してしまう。
 なので、ラダイトはただひたすらにドアへの突撃を繰り返した。
 ドアの外では、見張りが突破を試みようとするラダイトに気づいただろう。だが、見張りが何をしたところでラダイトのやる事は変わらない。
 拘束を解き、障害を突破し、任務を遂行する。
 危機的状況からはブラスターが救ってくれた。あとは、自分でやることだ。
「……ふっ!」
 呼気と共にドアへの体当り。ただ今することはそれだけ。
 合成人間の力を甘く見ないで欲しい。それにラダイトはパワー派なのだ。力だけならモ・マーダーに勝ると考えている。
 何回、ドアへの突撃を繰り返しただろうか、重く分厚く頑丈なドアが、ようやく軋み始めた。
(思ったよりも、時間がかかるな……)
 だが文句も言ってられない。他に方法が無いのだから、唯一の方法に全力を注ぐしかない。
(そろそろ状況が変わり始めてもおかしくないかな……)
 ちょうどラダイトがそう思ったとき、ドアの外で人が倒れる音がした。しかしそのときもラダイトは体当りを繰り返しており、ラダイトの耳には届かなかった。
「―――ラダイト? 中にいるのはラダイトよね?」
 だから、外から声を掛けられたとき、足が浮き上がるほど驚いた。
「ブ、ブラスター!? 奴は、大波止泰人はどうしたんですか!?」
「まだ、どうも。陽動に引っ掛けて、こっそりここまで下って来たところよ」
「えっと……じゃあ鍵は? 見張りが持っていないかな?」
「持ってないみたい。大波止泰人が持ってるんでしょうね」
「そうかな」
「まあ、面倒だから……。ラダイト、ちょっとドアから離れて」
 言われ、ラダイトは三歩下がる。
「ついでに耳も塞いだ方がいいかもね―――」
 瞬間的に金属が擦れ切断される、弾けるような音が響いた。
 鍵が破壊され、ゆっくりとドアが開く。光が差し込む。
「またせたわね、ラダイト」
 真っ直ぐで長い艶やかな黒髪。両手に手袋。
 その手袋をした左手にナイフを持ったブラスターが女神のような微笑みをたたえて、現れた。



 部屋の外に出る。
 ドアのすぐ脇には、見張りをやっていたのだろう、さっき見た男が倒れていた。特に外傷が見られないため、気絶させたのだろう。
 ラダイトが突進していたせいで聞き逃したのかもしれないが、大した物音はしなかった。大した手並みだ。
「そいつ? ああ、あなたがドアを突破するのを警戒して後ろ向いてたから楽にやれたわ」
 手をヒラヒラさせながらブラスターは言ってのけた。
「で、閉じ込められてたってことは、まだ無事よね。一応確認のつもりだけど」
「あ? ……ああ、ええ」
「よろしい」
 頷いて、持っていたナイフをラダイトに放る。
「それ一本でなんとかしてちょうだい」
「あなたは?」
「ナイフならもう一本あるわ。銃はスペアが無いから渡せないけど」
「充分です」
 受け取ったナイフを手の中で転がし、感触を確かめる。
「それじゃ、行くわよ」
 そして、二人はほぼ無音で走り出した。
 廊下はたいした広さも長さもなく、ほどなくつきあたりにぶつかった。
「小さいビル、かな?」
「そうね」
 つきあたりには階段とエレベーターが並んでいる。上に向かうものしかなく、ここは地下であることがうかがえた。
 エレベーターのドアは開きっぱなしだった。見ると、ドアの閉開部にダンボールが置かれており、一定の間隔をおいて閉まろうとするのだが、ダンボールを挟み込みまた開くという、安全装置を利用して動作を停止させていた。
「どうしますか?」
「二手に別れましょう。私はエレベーター。あなたは階段」
 そう言うや否やエレベーターに乗り込んで、ダンボールを蹴飛ばした。
 ちょうどドアが閉まり、そしてすぐに上階へ動き出した。
 あらかじめ行き先の階を指定していたのか、それとも上階で呼出ボタンを押されていたのか。
(考える時間はないな)
 ラダイトは薄暗く、小さな土地をめいっぱい使った建物特有の狭い急な階段を駆け上がる。
 踊り場にてターン、すぐに地下一階に辿り着く。
 さらに上階を目指そうとして、ラダイトはとっさに後ろに跳んだ。一歩遅れて、唸りを上げる拳が空を切った。
 膝を曲げ着地し、腰を落とした体勢から突進する。
(ナイフを使うまでもない)
 すれ違いに鳩尾に打ち込み、そのまま階段を駆け上がる。
 洗脳されているとはいえ、基本的には自律活動をした人間だ。通常のリミッターを外されても、その上を行く限界に至れば気も失う。
 気を失っても動くのならそれは洗脳ではなく操作だ。
(まあ、そうでなくてもダメージを与えて足を止められれば上等、かな?)
 一撃を加えた相手に目もくれず、階段を駆け上がる。
 見上げた先の踊り場にはまた一人、感情の無い“人形”が立ちふさがる。
 先ほどは階段の入り口付近だったのですり抜けられたが、立ちふさがれると無理そうだ。
(どうするかな)
 人形が上ってくるラダイトを踏みつけるように蹴りを繰り出した。
 ラダイトは階段のステップを踏みしめ、跳んだ。
 身を屈めた体勢の低い天井すれすれで、キックした体勢の人間の頭を越える、絶妙の跳躍。
「――――ふっ!」
 両太腿で頭を挟み、捻った。
 ぐきっ、と音がした。
 人形の力が抜け、崩れ落ちる。
(よし。――っと、あぶなっ!?)
 高さには気をつけたものの、勢いがありすぎて踊り場の壁に激突しそうになり、慌てて両手を突き出した。
 肘を曲げ、勢いを殺して、着地する。
 背後に気配。反射的に屈み、足払い。
 振り返り、人形の一人であることを確認と同時に腹を踏み込み沈黙させた。
 上を向く。
「――シャァァァッ!!」
 奇声をあげて、階段の上方から飛び掛ってくる人形。
(初めて声を聞いたが……、まるっきり洗脳処理した端末と同じだな)
 落下の加速度を利用した強烈な貫手を、左手に構えたナイフの腹で捌き、しっかりと足を踏み込み右肩を突き出す。
 どん、と空気が震えた。崩れ落ちる人形がまた一人追加された。
「痛ぅ……」
 ショルダータックルを決めてから、さっき監禁された倉庫を抜け出そうとタックルを繰り返して肩を痛めたことを思い出した。
 顔をしかめて、階段を上る。
(見張りを含めて五人……まだ残ってるかな)
 これで奴の手駒が無くなったわけではないだろう。何人かは奴自身の護衛をしているだろうし、各階と移動経路である階段にそれぞれ配置するのが普通だ。となると、ブラスターのほうに向かったのか?
(そういえば、なぜブラスターはエレベーターを使った?)
 一階まで階段を上りきったとき、はっ、としてエレベーターの方に振り返った。
 エレベーターは最上階の一つ下、六階で止まっていた。





 大波止泰人は、これまでの人生に於いて、特にこれといった出来事は起きていなかった。
 田舎の港町、生徒数も少ない学校を小中高と育ってきて、娯楽もなく何かにのめりこんだということもなく、流されるように生きてきた。
 大きな波乱もなく、悩みも少なく、生きている実感というものに欠けていた。
 彼はよく、一人で防波堤に座って海を眺めていた。
 潮汐、潮の流れ、波。
 海は大きい、と、彼は感じていた。
 人生は、海に似ている、と考えていた。
 運命は潮流であり、高波は障害であり、魚たちは人間だ。
 弱肉強食。流される。
 悟ったような気分になるには充分なほど、海は広すぎた。
 大学に進学して、人が集まる都会へと出てきた。
 人は魚ではなく、人の流れが潮の流れそのものだったのだと彼は識った。
 彼には、潮の流れが見えた。
 そして、それに影響を与えることができた。
 それに気づいた彼は、少しずつ、少しずつ確かめていった。
 確かめていくにしたがって、彼は出来ることが解った。
 最初はわからなかったが、人の個性というものは渦として感知できた。渦の速さ、大きさ、形が個性として現れる。それに手を加えることは、彼の操り人形になるということだった。
 そのうち彼はもっと大きなことができるのではと考え出した。
 巨大な流れ、大勢の人が流れる交差点に彼は立ち、それを行った。
 そして彼は実験の成功を確信する。
 彼は自身の特殊性に歓喜した。
 自我は肥大し、世界の流れすらも、感知できようかと思っていた。

 しかし、彼は、世界におけるシステムを知らなかった。